電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2000年2月27日 日曜日

ラジオの頃

「家にテレビが無かった頃」を知っているのは私の年齢ぐらいが最終世代に近いかもしれない。もう少し年下になると「皇太子御成婚」や「東京オリンピック」などテレビ購入のきっかけとなったビッグ・イベントが控えているため、「物心ついた時にはテレビがあった」世代になってしまうようだ。

ところが同年代の友人と話していると、「家に初めてテレビが来た日」を鮮明に覚えている者が意外に少ない。それまで他人の家に上がり込んで見せてもらっていたものが、「やれやれ、やっと家で見られる」ことになった程度の感慨しか無いのだ。「家に初めてテレビが来た日」を鮮明に覚えているのは1947〜49年のベビー‐ブーム時代に生れた「団塊の世代」に多いようにおもう。

同年代の友人と話していると「ラジオしかない時代も楽しかったなぁ」などと意気投合することが多い。ラジオしかない時代、夜煌々と電灯をつけているのも不経済なので、我が家では早々に布団を敷いて、部屋を暗くして連続ラジオドラマなどを聞いていた。親たちは私に早く眠ってほしかったらしく、「目を閉じて聞きなさい」などというのだが、私は目を開けて箪笥の上のラジオを見ているのが好きだった。我が家のラジオは、初代新幹線の最前部のような流線形の丸いドームがありその周りにAMラジオの周波数が刻まれていて、ダイアルを回すと指針がぐるっと回り、電源を入れると赤くボ〜ッと光るようになっていた。そこを見つめていると、時には『1丁目1番地』の家並みになったり、『うっかり夫人とちゃっかり夫人』がおしゃべりする茶の間になったり、怪人二十面相が消えて行くビル街になったり、時には『赤胴鈴之助』の赤胴そのものになったりした。

友人が何故「ラジオしかない時代も楽しかった」のかは知らないが、私にとっての「ラジオしかない時代」は、後に離婚した両親が常に向き合い、小さな丸い卓袱台を囲んで食事し、親子3人「川の字」になって眠った貧しくも懐かしい時代なのである。

2000年2月26日 土曜日

星降る夜の気仙沼

2/18〜20の東北出張後の5日間は出張の延長戦のような忙しさだった。昨夜、カメラマンの川上さんと一週間前(2/18)の夜のことを話していたら、ちょっと切なくなった。それほど気仙沼の夜は素晴らしかった。

2月18日の夜は妻と川上さんの三人で気仙沼駅前のホテルに宿泊。東北新幹線で一関まで一気に北上し大船渡線で気仙沼まで。気仙沼駅に降り立って驚いたのは港町というのに海が見えないことだ。釜石でもそうだったが三陸海岸の町はかつての大津波以来主要施設は高台に移動したようだがそのせいだろうか。港に行くにはタクシーか、気仙沼線で二駅目の南気仙沼まで出なければならない。

午後早めに到着したので時間はたっぷりあり港を散策した。女一人を挟んだ男二人が港をぶらぶらしているというのは何とも怪しくて外国映画のワン・シーンみたいだ。港のあちらこちらから視線を感じる。かつてこの三人組みで大阪の場末を流してたら、妻はキャバレーの踊り子で私はそのヒモ、そして川上さんはマネージャー(もしくは稲川潤二)に見えると言われたこともある。やっぱり怪しいのだ。

我が郷土の清水港も面白い地形だが気仙沼港も不思議な景観の場所だ。いつまでも見飽きない景色なのだが、しかし、寒いのなんのって。翌日の仙台が南の国に思えるほどだった。あまり寒いので港の大衆食堂で熱燗で生牡蛎を。やはり都会のパック入り生牡蛎とは比べ物にならないおいしさ。おばちゃんも親切だった。

外に出るとすっかり暗くなっていたので、目についた一件の居酒屋に入るとこれが大当たり。カウンターの怪しい三人組(「先生」と「写真館」ともうひとり)からさっそく声をかけられた。「東京から来たね」と言うので何でわかったか尋ねると「ポキポキしゃべるから」だって。彼等の「喋くり」の面白いのなんのって。ただし私は東北言葉のヒアリングが苦手だ。妻と川上さんに随分助けてもらった。しかし、地方に行くと地元の言葉ってどうしてこう流暢に聞こえるのだろう。標準語は用件を伝えるには便利だが話が弾まない。そんなことを話すと、妻が「最近の東京の若者が使う奇妙な造語やイントネーションもコミュニケーションを円滑するための標準語への造反、新方言運動かもしれないね」との説に妙に納得。

続いて気仙沼の沖にある大島(通称ひょうたん島)の青年団らしき若者が20人(うち女性二人)ほど遅い新年会のため来店。最年長は私たちぐらいだが、他の若者は二十歳そこそこ。それがとてつもなく純朴で良い青年たちなのだ。いつの間にか私たちも宴会の仲間入りさせてもらって飲んだ飲んだ、話した話した。地酒を冷やでグイグイすすめられて私はかなり酩酊。島の話、恋愛の話、仕事の話、不況の話、淀みなく流れるお国言葉のなんと心地よいことか。島の電気屋さんの若者がホームページを開いたというのでアドレス交換(但し泥酔していて自信無し)。その後私は前後不覚。星空の下、路上に仰向けになって笑ったりしたらしい(川上氏談)。3軒目でついにお椀を持ったまま眠ってしまい(妻談)後は記憶無し。

翌朝は早起きして7時半から魚市場の食堂で美味くて安い定食で腹ごしらえ。「先生」と「写真館」の地元グルメ情報に感謝。気仙沼大島の若者諸君。ありがとう。このページを見たらメールください。また飲もう!!

2000年2月17日 木曜日

マッチ・ポンプ

小学生時代「ハンサム君」というあだ名がついたことがある。美少年だったことは確かだが、Handsomeではない。私は子供時代からとてもおでこが広かったのだ。で、頭が半分寒いので「半寒」という、体中鳥肌が立つようなサム〜イおやじギャグである。

毛髪がだいぶ寂しくなった某出版社社長は「あなたも、もう危険領域に入ってるな〜、わっはっは」と、しきりに私の「毛髪」に難癖をつけるのだが、私にとって「毛髪」は「芸能人の陰毛写真集」と同じくらいどうでもいいものである。私は多分完全ハゲにはなりそうも無いが、万が一ハゲ始めて「夜店のステッキ(富山ではこういうのだが)」風になったら、思い切って丸坊主にしてしまうのもいかすなぁと思っている。歌手の松山千春にしてもスキンヘッドにしたとたん好きになったくらいである。こういうお洒落も有りだと思う。

「マッチ・ポンプ」という言葉をネットで連発する方がいて、どういう意味かと調べてみたら、match pump【マッチをすって火をつけた当人が、今度はポンプを持っていって消してやると言ってもうける商売】なのだそうだ。

世の中、絶対に必要で放っておいても売れる商品のCMは少ない。「CMが多いから、さぞや人類にとっての一大事なんだろう」なんて思わないほうがいい。夜の「2大毛髪企業」のCMの多さは鼻先でマッチを擦られる様で煙くてたまらないのだ。

2000年2月16日 水曜日

路上の刃

「プラットホームにドアをつけて、ホーム側も車両のようにしたらどうでしょう」と、私は言った。今から20年近く前、当時勤めていた会社の同僚と、デザインコンペに応募しようとアイデアを練っていた時の私の発言である。

結局、時間がなくてその案での応募はできなかったが、応募しても入賞できたかは心もとない。先年、営団地下鉄南北線が開業し、同様のアイデアが具現化されたが、案の定人身事故は起こっていないようだ。

人が自死を選んだ時、発作的に最短で死に致るには鉄路に飛び込むなら二三歩踏み出すだけで事足りる。もし二三歩で事足りなければ、それだけ思い直すチャンスが増えるのではないかと思ったものだ。

世相を反映してか、最近飛び込み自殺に遭遇する機会が増えた。昨日もJR山手線が正午過ぎに突然停車し新大久保駅で女性が飛び込んだとのことだった。ここ数年、同様の事例が増えているような気がして仕方ない。むき出しの刃に「発作的」に飛び込むことを防げれば、そのうち何人かは思い直してくれたのではないかと思えて仕方ないのだが。

2000年2月15日 火曜日

風を聞く

仕事で通う青山通り、小さな公園の角を直角に右折して目指す出版社へ向かう。見ているとこの角の手前から公園内を通って近道する人がある。公園と言っても鬱蒼と木々が生い茂り、小さな小さな回遊式庭園風になっているので実際には遠回りかもしれないのだが、この公園内を抜けて行く人が何故か多いのである。

帰り道、北風に誘われて公園内を歩いてみた。ザザーッ、ザザーッ、と北風が木々の間を駆け抜ける音が心地よい。

2月26日未明、この公園内にあった家の中で銃声が轟き渡ったのをこの大木たちは聞いていたのだろうか。後の空襲で焼け残っていたならの話だが。そして、運命の日を十日余り後に控えた今から64年前の今日、高橋是清は武蔵野原の雑木林を渡る風の音をこうして聞いていたのだろうか。

2000年2月14日 月曜日

雪の中の自販機

関東平野は北風が激しく吹いている。こういう日は日本海側が雪だ。静岡も同じで、南アルプスをこえて吹き降ろす風が冷たく乾燥している夜は、この山の裏側の人は、雪の中でどんな暮らしをしているのだろうと思いをめぐらせたものだ。

奇しくも、富山県の女性と結婚することになり、「お嬢さんを私にくださいッ!」という、決まり文句を言うために生まれて初めて日本海側に出掛けたのが昭和56年だ。富山ではかつて「サンパチ豪雪(昭和38年)」という大災害があり、それ以来の豪雪になった年のことである。

東海道新幹線で米原へ、そこから富山方面行きの列車に乗り換えたのだが、接続待ちのホームは冷たい北風が吹いていて、立ち食い蕎麦で体内を温めるしかなかった。福井県内に入ると空は鉛色になり見上げると黒い点となって雪が間断なく降りしきるのだった。石川、富山と進むと線路際は除雪した雪が列車の窓より高く積み上げられ、待望の日本海を見ることはついにかなわなかった。後でニュースで知ったのだが私たちの乗った列車の後続から雪で立ち往生し車内泊になったそうだ。

富山駅に着き、まず駅ビル2階でゴム長靴を買ってもらい富山市郊外の妻の実家に向かったのだが、案の定、タクシーでも途中までしか進めなくなり、激しい吹雪の田園地帯を歩くことになった。見ると、横殴りの雪の向こうに1本の街灯と飲料の自動販売機の明かりが見えた。温かい缶コーヒーというのはポケットに入れておくと懐炉代わりになるのである。かじかんだ手で小銭をつかみ出し投入しようとして唖然とした。青地に白文字で「つめた〜い」と書いてあったのだ。どうして赤地に白文字の「あったか〜い」が無いのだと妻と地団駄踏んだものである。

自動販売機というのは間抜けなものである。24時間つけっぱなし、この日本中の「物言わぬ売り子」が消費する電力の総計を聞いたことがあるが、気の遠くなるような無駄遣いだった。まず自動販売機に厳しい法の規制をかけてほしいと願ってやまない。せめて、管理者は真冬ぐらい「あったか〜い」に切り替えておいてほしい。

2000年2月13日 日曜日

犬の糞

二日酔いでボ〜ッとして歩いていたら、何十年かぶりに「犬の糞」を踏んでしまった。足が地面に着地する瞬間「ヌルッ」とした感触があったので、「やられた!」とわかった。子どもの頃の体験というのはしっかりと身について離れないものだ。

私の郷里、静岡県清水市では「望月、遠藤、犬の糞(くそ)」という言い回しがある。さほどに、清水市では望月さん、遠藤さんが多いのだ。クラスに望月さん、遠藤さんが2人ずつなどというのはごく当たり前のことだった。オリックスの鈴木一郎がイチローと名乗るように、彼らは「ミノル」「ハジメ」「オサム」(清水では第一音目にアクセント)と名前で呼ばれ、苗字で呼ばれることは少なかった。

子どもの頃は、本当に路上に犬の糞が良く落ちていた。当時は野良犬が多かったし、飼犬も鎖を解かれて自由に散歩していたからだ。下校時に路地で野良犬と鉢合わせし「ウ〜ッ」と唸られて、回り道して帰ることもあった。東京オリンピック前にはしきりに野犬狩りが行われたりして、路上の犬の糞は一時減少したが、最近のペットブームでマナーが乱れているせいか、また増えて来たように思う。「飼犬の糞は飼い主が処理してください!」などの、怒りの貼り紙もよく見られる。

何十年かぶりに「犬の糞」を踏んでしまった私だが、思ったほど腹が立たない。それどころか幼い頃を思い出して、懐かしさいっぱい、少し愉快な気分になってしまったりするのだ(家内は眉をしかめていたが)。

犬の糞は愉快な私でも、路上の空き缶は不愉快だ。路上が犬の糞でいっぱいだった昭和30年代より、今の街の方が数倍も小汚く不道徳に満ち溢れて見えるのだ。

2000年2月12日 土曜日

お坊さん

日本語の乱れについて兎角耳にする機会が多いが、私は人の事をとやかく言えるような正しい日本語使いではないし、言葉というのは変容して行くものだと思っている。ということで、「乱れ」は気にしないようにしているのだが「緩み」の方は気になってしかたがない。

こんなのはどうだろう。

教師「われわれ先生も時には生徒の気持ちになって…」

力士「われわれお相撲さんは何につけ縁起をかつぐので…」

教師や力士が自分のことを「先生」とか「お相撲さん」というのは、おかしいと思うのだ。

今朝、NHKのニュースを見ていたら僧侶がこんなことを言っていた。

僧侶「当寺の御本尊は、昔全国を漫遊していたお坊さんが…」

僧侶が僧侶を「お坊さん」というのはヘンだと思う。それに「漫遊」じゃ、黄門様御一行だ。御本尊もさぞお嘆きのことだろう。

2000年2月10日 木曜日

ポンポン

「ポンポン」をご存知だろうか?

チアガールがミニスカートで、あらわな太股を振り上げて股間で打ち降るポンポンは英語でPomPom、ダリアの花のことだ。

静岡でポンポンと言えばオートバイのこと。「東海一の自動車修理工」本田宗一郎が浜松から自転車用補助エンジンを引っさげて登場して以来、なぜか静岡県人はオートバイのことを「ポンポン」と呼ぶのだ。可愛いでしょう?

2000年2月9日 水曜日

HONDAとSONY

本田宗一郎さん、盛田昭夫さんと創業者が相次いで亡くなられたのが、つい昨日のことのようだ。最近、町工場の職人技に関するテレビ番組が面白いので、できるだけ見るようにしている。町工場から出発して世界に通用する大企業のお手本として、盛んに HONDA と SONY の名前が出て来るが、こんなにあっけらかんと HONDA と SONY が「日本の栄光の証しとして」マスコミで持ち上げられるようになったのはつい最近の事の様に思う。ちょっと前まではモヤモヤとした圧力が感じられたのだ。

私は中・高校生の頃、将来自動車を買うなら HONDA に決めていたし、電子機器なら SONY に憧れていたのだが、そのことを口にすると必ず友人の反発を受けた。

曰く「HONDA の自動車なんてハリボテに過ぎず車と呼ばない」

曰く「SONY の製品なんて松下にかないっこない」

しかし、私は東名高速道路一部開通の日、徹夜で一番乗りを果たした若者の乗る「HONDA N360」を本当にカッコイイと思った。いつか乗りたいと思った。また、電波状態の悪い我が家に電気屋が持ち込んだ各社のトランジスタラジオでちゃんと静岡放送が受信できたのは「SONY ソリッドステート11」だけだったのだ。凄い!と、思った。

成功する創業者の資質の一つは、小数でも熱狂的な信者を掴める物作りができるセンスだと思うのだ。あたりまえのことだが、「町工場」ネタを見ていると繰り返し繰り返しその思いが強まってしかたない。最初から消費者の群れの「ニーズ」や「トレンド」が念頭にあるようでは駄目だ。一人を喜ばせる物作りができなければ、100人なんて絶対無理だ。一人の従業員を幸せにできない創業者は100人を不幸にする。技術馬鹿を束ねる者は「技術大馬鹿」でなくてはならない。くどいなぁ。読んでくれた人、ごめんなさい。

2000年2月8日 火曜日

色の不思議

昨日NHKのニュースを見ていたら、従来モノクロームの世界を見ているとされてきたイヌが色を識別しているらしいという「発見」について報じていた。妻とその話題で深夜まで盛り上がってしまった(おかげで今日までの仕事ができていない)。その話題は談話室でお話し中なのでここでは深くふれないけど。

で、妻から聞いた話。彼女がかかわっている仕事で、生まれた時から視力のない著者の女性。着ているもののセンスが素晴らしいのだそうだ。衣服のセンスなどというものは見る者次第なのでよくわからないが、色彩や模様などにとても造詣が深いのだそうだ。自著の装丁についても詳しく尋ねるので、ブリジット・ライリーの様な繊細な縞模様に青みがかったグレイと黄身を帯びたグレーが…などという説明を大変良く理解されているようなのだという。色彩や模様などについて子どもの頃から言葉で説明して貰うのが好きだったらしい。

たとえば「温州ミカンはタンジェリン色で、秋口に店頭に並ぶ走りの頃の早生温州は緑が混じった物もある。濃い緑の葉の間に間にたわわに実をつけたミカン山はオレンジとグリーンのツートンで彩色された湘南電車にとても良く似合う」などと説明され、手ざわり、香り、味わい、季節の空気感、巷の喧騒などなど、有り得るかぎりの感性を駆使して色を定義し、生活の様々な場面で登場するそれらの色の関連を照合し、組合わせ、心の中の色名帖を構築されて行ったのだろう。私たちは仕事柄、色の話になると様々なカラーチャートが心の中に視覚的に浮かぶが、視覚以外のもので構築された色の地図というものは、また美しいものなのだろうなと思う。詩のようなものなのだろうか。

2000年2月2日 水曜日

机を失くした男

某出版社に編集者のAさんを訪ねた。間もなく外出から戻られるとの事なので本を読みながら待たせていただくことにした。聞き耳を立てているわけではないのだが、小声で話す同僚の会話が聞こえてしまう。

「Aさんの机、もう無いから…」

えっ、あんなに仕事を抱えて八面六臂の働きぶりの優良社員に見えたのに、リストラの憂き目にあったのだろうか。出版業界の不況は根深いらしいからなぁ。

同僚たちがAさんの机が有った場所に集まって来て言うのだ。

「これはもう机とは呼ばない」

確かに、机の上は原稿やゲラ、参考資料が乱雑に積み上げられていて触れたら崩れ落ちそうだ、葉書一枚書くためのスペースすら無い。どうやらAさんは仕事の洪水に溺れて「職」ではなく「仕事をする空間」を失っただけらしい。やれやれ。

笑い事ではない。サラリーマン生活をしていると、突然上司から、

「君の机はもう無い」

なんて言われると、ドキッとするものなのだ。私も忙しく働けば働くほど机の上が書類山積みになってしまうタイプなので、会社員時代は、

「君はいったい何処で仕事をしてるんだ、少しは片付けろ」

などと、よく上司に言われていたのだ。余計なお世話である。机の上に空きスペースが有るようでは仕事のプロとは言えないというのが私の持論なのだ。

“いつも机の上に仕事をするスペースのある奴は、その面積分の仕事しかしない”

というのはどうだろう。至言だと思うぞ。

で、脱サラ後も私の机は書類山積みだったのだが、パソコンを導入した途端すっかり片付いてしまった。これはまずいぞ。「面積分の仕事師」になってしまう。さらにまずいのは、このパソコン上の仮想デスクトップというやつは、どんなに散らかしていても次から次から真新しい仮想デスクトップが開いてしまうのである。さらに、さらにまずいのは、この仮想デスクトップは、夜になって部屋の明かりを消しても真昼のように煌々と照らされているのだ。これじゃぁ『モダンタイムス』のチャプリン、もしくは養鶏場のニワトリである。

余分な空きスペースの無い仮想デスクトップを作り出すために講じうる対策は今のところ一つしか考えられないのでとりあえず実践している。仕事の合間を埋めつくすように、ホームページなんぞを開設して、卵を間断なく産み続けるのである。このホームページ用の卵、売り物にならないのが味噌なのだ。売り物になる卵を産む合間に、売り物にならない卵も産んでしまうというわけだ。どうだ。売り物になる卵しか産めないようでは仕事のプロとは言えないのだよ。これでいいのだ。

 


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