電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2000年3月31日 金曜日

桜が咲いた

都内でもようやく桜が咲き始めた。

想い出深い「桜の木」として「校庭の隅に植わっていた桜」を上げる友人が多いが、私は「校庭の桜」というのをどうしても覚えていない。小学校は江戸時代桜の名所として名高かった「飛鳥山」の近くにあり、校歌にも、

「飛鳥の山に咲き匂う 桜とともに日に映えて 緑耀ふ学び舎は…」

と、あったのだが校庭や飛鳥山で「咲き匂う」桜を見た記憶が無いのだ。思うに、桜が咲く頃はいつも春休みで、静岡県清水市の祖父母の家に預けられていたからかもしれない。そんな訳で、少年時代心に残る桜の木は「清水の桜」ということになる。

下り新幹線が静岡駅に近付き左手車窓に清水港が見える頃、右手の小高い山の中腹に藁葺の大きな屋根があるのが見える。室町時代創建といわれる霊山寺仁王門(地元では大内の観音さんと呼ぶ)である。この寺に登ると、かつては眼下に広がる水田とゆったりと流れる巴川を見霽かす事が出来た。その川辺に立つ瓦工場が祖父母の家だったのだ。

春になり祖父が「桜が咲いたぞ」というので「観音さん」のある山に目を凝らすと、中腹に一本だけ植えられた桜の木が、緑の山腹にポツンと満開の花を咲かせているのが見えた。あんな農家の人しか登らない蜜柑山の中腹に誰が桜などを植えたのか不思議に思っていたものだ。

桜の開花時期ではないが、その桜の木のある場所に行ってみたくて従弟達と登ってみたことがあるのだが、とうとう見つけることができなかった。くたびれて、たわわに実った蜜柑をもいで食べていると突然籠を背負った老人が現れてびっくりした。私たちが食べているものを見て、
「うまいか」
と、聞くので
「うん」
と、頷くと
「ここで食べるだけにしておけよ」
と言って、蜜柑の木の間に消えていった。あのおじいさんが、この蜜柑山の持ち主で、桜を植えたのもあの人だろうと子供心に思ったものだ。

山の桜というのはいいものだ。地元の人なら誰でも何処からでも見ることができる。あのおじいさん、山仕事ができなくなってからも麓から花見を楽しんだに違いない。今でもあの桜の木は健在で、山の中腹ではらはらと花びらを散らせているのだろうか。


2000年3月31日午前9:00【六義園のシダレザクラ】
2000年3月30日 木曜日

正正堂堂 fair and square

関脇武双山、大関推挙受諾の返礼は恒例の四文字熟語だった。やっぱり引きや去なしが多いもんね。大賛成。今場所の相撲でも、誰との取り組みだったか忘れたけど、左前褌を掴んだらグッと引きつけて右から押っつけて寄りたてる千代の富士を髣髴させるような良い一番が有った。ああいう相撲を取っていれば怪我をすることも少ないと思う。

武双山といえば「山」だが有珠山が噴火しそうだ。活動を始めたのが1万3千年も昔の話だったというから壮大な話だ。そんなニュースを見ていて昭和新山が出来たのはいつごろだっけ…という話になった。昭和30年代だったぞ…などと強弁してしまったのだが、昭和18年12月から地震と爆発を繰り返し、昭和19年には17回の爆発とともに11月頃より溶岩円頂丘を形成、翌昭和20年が昭和新山の誕生年ということになっているらしい。う〜ん、少しボケてきたのかなぁ。

2000年3月29日 水曜日

甘いんじゃないの?

ようやく春らしいポカポカとした陽気になって来た。

突然だが、私は「カレー南蛮(そば)」が大好きだ。「カレー丼」も同じくらい好きである。しかし最近、都内の蕎麦屋の「カレー南蛮」「カレー丼」がヘンだと思う。なんだか、どんどん甘くなっているのだ。今日の昼食に「○○庵」で「カレー丼」を食べたが強烈に砂糖甘かった。出来合いで売られている食品の甘さが増しているのは気になっていたのだが、いかにも自家製らしい「カレー丼」がビンビンに砂糖が効いているのである。どうしてこうなっちゃうのだろう? 「ショウヒシャノニーズ」が甘みを求めているとでも言うのだろうか? 近所のラーメンチェーン店「○○」の料理も凄く砂糖甘い。バスに乗っていたらおばあさんが二人「あの店、何を食べてもすごく甘いんだってさ」と噂話をしていたので私だけがそう感じているわけではないようだ。

「カレー南蛮」のことを調べていて気になった情報2点。

情報1……「カレー南蛮」の「南蛮」は「なんば(大阪ではねぎをこう呼ぶ)」に由来している。故に正しくは「鴨なんば」「カレーなんば」なのだそうだ。真偽のほどは不明。

情報2……「カレー南蛮」の発案者は三朝庵 (サンチョウアン) という江戸時代から続く老舗蕎麦屋だそうだ。こちらは「カレーなんば」じゃなくて「カレー南蛮」なのだろう。住所は新宿区馬場下町62/03-3203-6218 /11:00〜17:00/木休/地下鉄東西線早稲田駅より徒歩2分早稲田大学文学部前

時間ができたら元祖の味の「今」を確かめてみたい。

2000年3月28日 火曜日

まこもって何だ?

口が卑しいだけで食通でも博識でもない私なのでちっとも恥ずかしくはないのだが、「まこも」という食品を見るのは初めてで八百屋の店頭で手にとって、しばし首をかしげてしまった。

細いタケノコのようでもあるのだが、買っても使いみちがわからない。5本で150円だった。雲母書房という出版社の仕事をしていて、本社が新宿区百人町なので、JR大久保駅と新大久保駅をつなぐ通りを歩くことになるのだが、この辺は外国人(主にアジア系)が多く働いたり居住したりしており、八百屋などを覗くと珍しい食材が並んでいるので楽しみなのだ。

静岡リビング新聞社の姉貴に聞くとイネ科の植物で、「マコモダケ」「マコモソウ」「シナチク」とも言うそうだ。この「まこも」に「マコモ黒穂菌」が寄生し成長が阻害されると、肥大化した茎が売り物の「マコモダケ」になるらしい。日本の「まこも」に「マコモ黒穂菌」を接種しても「マコモダケ」化しないことが多いらしいので輸入野菜なのかもしれない。

2000年3月27日 月曜日

おめでとう、「栃清水」!

仕事の洪水の波間を漂っている間に大相撲も終わってしまった。今場所の三大ニュース「横綱若乃花引退」「関脇武双山大関当確」「貴闘力涙の初優勝」に混じって、嬉しいニュースがあった。春日野部屋の「栃清水」が序の口で七戦全勝の成績で優勝したことだ。「栃清水」は静岡県出身のふるさと力士で心密かに応援していたのだ。確か幕下まで上がったことがあり、「相撲通」の方が将来有望な力士として挙げられたりしていたのだが、怪我のため序の口まで落ちて再起をはかっていたのである。

ということで「栃清水」にとっては、平成5年5月場所で同じく七戦全勝の成績で優勝して以来二度目の序の口優勝ということになる。まだまだ若いので今後の活躍に期待したい。

2000年3月20日 月曜日

珍看板紹介2

屋号が回文というのは辛子明太子の「やまや」を知っていたが、5文字というのは珍しい。日本最長だろうか?
「安永茄子屋」とか「焼き芋の最粋屋」みたいにもっと長い屋号の店ってあるのだろうか。

2000年3月19日 日曜日

珍看板紹介1

「夜露」と書いて「よぎり」と読む、してその心は?

2000年3月18日 土曜日

眠れない夜に日本人は何を数える?

ガイジンの子どもがベッドの中で、寝つかれずにモゾモゾしていると、ブロンドの美しいママが入って来て(ゲゲッ、こいつ個室で寝てやんの)、

「Count the number of sheeps」

と言いながらほっぺにキスして髪を優しく撫でる……なぁ〜んてシーンを子どもの頃良くテレビで見て羨ましい思いをしたものだ。

ところでこの“羊の数を数える”というおまじないには、どんな由来があるのだろう。毎日毎日、一日中羊の数を数えて過ごす羊飼いの少年の、気の遠くなるほど単調な営為を思い浮かべると眠くなる、ということなのだろうか。それとも聖書の、羊が一頭足りない事に気づき群れを置き去りにして迷子の一頭を探しに行く、途方もなく誠実な羊飼いの話に由来しているのだろうか。はたまた、sheepとsleep(a sheepとasleep)をかけた単なる駄洒落なのだろうか。ビジネスホテルによっては若い女性が「羊が一匹、羊が二匹……」と数える声を聞けるサービスがあるそうだが、いずれにせよ日本人が羊を数えたって、どうにも眠くなりそうな気がしないのだ。

昨夜、寝つかれないので何を数えたら眠くなるかなぁと考えた。私は子どもの頃から「しらす」が大好きだ。特に、浜で取れたてを釜茹でにしたものを、炊きたての白いご飯の上にのせて食べるのが大好物なのだ。そこで「しらす」の数を数えてみた。真っ白な「しらす」を数えるのは大変なのでルールを作った。箸で一匹ずつつまみ上げ「しらすが一匹、しらすが二匹……」と数えながら掌に並べ、十匹になったら食べて良い。そしてまた「しらすが一匹、しらすが二匹……」と繰り返すのだ。すぐ寝入ってしまったようなのでこれは効くかもしれない。

「Count the number of "young of sardines"」

2000年3月17日 金曜日

発明の時代

テレビのニュースを聞くともなしに聞いていたら、20世紀最後の年でもあることから、今世紀の大発明は何かというアンケートの結果が実施されたらしく、その結果が発表されていた。

トップの方に「携帯電話」や「インターネット」が入ったりしている。若者を重視したアンケートだったのだろうか。「携帯電話」や「インターネット」がそれほどの発明だったとはどうしても思えない。「身近なモノ」で社会を大きく変えたモノを一つ上げるとしたら、私なら「電気冷蔵庫」を是非推挙したい。たかが電気製品だが、「風が吹けば桶屋が儲かる」式に考えていくと、これほど良くも悪くも社会の有り様を変えた発明は思いつかないのだ。生活必需品の頭に「電気」とつけたら、何でも新発明になった時代に、これほど社会構造を変えた画期的な発明が有っただろうか。

日本で初めて電気冷蔵庫が輸入されたのは1922(大正11)年、東芝が日本初の電気冷蔵庫を発売したのが1930(昭和5)年だ。恐らく相当高価な商品だったのだろう。我が家に「夢の家庭用電気冷蔵庫」がやって来たのは、それから30年も後のこと。それをきっかけに母は家庭の人から会社の人に心置きなく転進していったのだ。

電気や化石燃料を使っても「モノを熱することはできても冷やすことはできない」というのが避けられない自然の摂理として公認されている世界だったとしたらどうだろう。当然電気冷蔵庫なんてモノはない。その結果としての社会をいま生きているとしたら、そんなに悪い社会じゃないと思えて仕方ないのだがどうだろう。

2000年3月16日 木曜日

此岸から彼岸へ

地下鉄車内の中吊り広告にど〜んと「ぼた餅」の写真が乗っていたので何故かと思ったら明日は彼岸の入りだ。

文京区白山の白山神社近くにちょっといいジャズ喫茶が有り、凝り性のマスターの趣味のおかげで飛び切り音の良い管球式アンプによる演奏が楽しめる。店を手伝っている高齢のお母さんが、なかなかユニークな人で商業書道では名の知れた方らしい。酒のほうも行ける口のようで焼酎の講釈をさせたらちょっとじゃ終わらない。

随分前のことだが、年長の友人で工業デザイナーのHさんと飲んでいたら、お母さんが

「はい、お彼岸だから」

と、テーブルにぼた餅を二つ皿にのせて持って来た。もちろんサービスだ。いかにも手作りのでっかいやつで、上に白砂糖がのせてある。白砂糖がとびきりの贅沢品だった時代を知っている人ならではだろうか。Hさんが

「もう、お酒を飲み始めちゃったからいらない」

と、言うとひどく不機嫌になって

「甘いもので飲む酒も美味いと思わないようじゃ、本当の酒飲みじゃない」

と、お母さん。私が

「ま、ま、折角だから有り難くいただきます」

と、言ってその場はおさめたのだが、実は私、甘いもので飲むのが嫌いではない。特においしい日本酒においしい和菓子を当てにして飲むのは結構好きなのだ。なかなかおいしいぼた餅だった。

しかし、彼岸の客にぼた餅を振る舞うのは結構良い趣味だと思う。正月などに使う祝い箸の両端が細くなっているのは、片方で私が、片方で神さん(女房じゃないぞ)が召し上がるのだと教えられたが、この「神人共食」の考えが「共食信仰」として広まり、その風習の一つとして、彼岸に「ぼた餅・おはぎ」を作り、仏前に供え、近隣に振る舞い、来客をもてなしたわけだから、なかなか理に適っていると思うのだ。

さて、ぼた餅について調べていたらユニークな風習に関する記録にぶつかった。三重県紀勢町ではお祭りの日に安産を祈願してぼた餅を作り「雌犬」に振る舞うのだそうだ。う〜ん、なかなかほのぼのとしてくるではないか。涅槃の彼岸に至る願いに「ぼた餅」は良く似合うと思う。

2000年3月15日 水曜日

てんとう虫の頃

なにげなくNHKのニュースを見ていたら懐かしのスバル360の原寸大試作が見つかったというようなニュースをやっていた。3/15の朝夕刊、3/16の朝刊を見たが朝日では見つけられなかった。どうしてこんな時期に「発見」されたのだろう。富士重工のGM資本受け入れ、日産の富士重工株売却などの事情と何処かで繋がっているのかもしれない。

スバル360の発売は1958(昭和33)年、当時の価格で425,000円だから物凄く高かったんだなぁ。後にトヨタのパブリカが発売された時の「1000ドルカ〜〜〜パ・ブ・リ・カ!」(当時1ドルは360円)というTV-CMを記憶しているのでスバル360以降、車の価格はどんどん下落して庶民のマイカーの夢は現実の物になっていったのだろう。

我が家は子供時代には、ついにマイカーの夢は到来しなかったが、親戚の家は軽自動車の登場によって次々にマイカー・ファミリーになっていった。製造業の者は「ダイハツミゼット」、若者は「スバル360」、家族ドライブ重視型は「マツダキャロル」という棲み分けになり、次々に乗せてもらった。ミゼットは楽しかった。二人乗りなので子どもたちは荷台に乗せられ、鬱蒼と茅の生い茂る土手道を走って買い物に出かけたのは懐かしい思い出として忘れられない。

で、スバル360なのだが「変な車だなぁ」というのが正直な感想だった。まずドアが前方に向かって開くのが「変」だった。常識的な自動車とは逆なのだ。このオーナーの従兄(母の兄弟は13人もいたので叔父より年上だったりする)は、このドアをえらく気に入っていて後に同方式の「日野ルノー」に乗り換えた。次に「変」だと思ったのはRR車なので当然前部ボンネット内は空っぽでトランクルームになっているのだが、トランクどころではない、前部乗員の足が入っているのである。ただしこの従兄は改造好きなので居住性を良くするために手を入れたのかは定かではない。要するにボンネットを開けると運転席の足が丸見えなのだ。リアウインドがプラスチック(実はアクリル)なのも「変」だと思った。

マツダキャロルは好きな車だった。親戚のやつはなんと軽自動車なのに4ドアだったのだ。シートも快適で、本当かどうか知らないけど、フランスのベッドメーカーが工場見学に来たらしいなどと大人たちがまことしやかに噂していた。リアウインドウが常識外の切り立った角度になっていて後ろ座席でも快適、しかもレースのカーテンなどがオプションで用意されていたのでマイカー・ムードも満点だった。

ところがこのキャロル、坂道に滅法弱いのだ。同じ360ccのエンジンで、スバル360が重量385kgなのに対して、キャロルは重量が525kgもあった。箱根は一気に越えることができなかったし、都内の急坂道では立ち往生しているのをよく見かけたものだ(意外に思われるかもしれないが東京は坂の多い町だ)。

そんな脆弱な軽自動車でも大ヒットした理由の一つに、当時の交通事情があったと思う。当時、父親は渋谷で和菓子職人、母親はその店の住み込み従業員のまかないをしていた。そんな訳で私は若い従業員に可愛がられ、運転するライトバンに乗せられて、日本橋や銀座のデパートへの菓子卸しに連れていかれる事が多かった。渋谷からだと国道246号線(青山通り!)だと思うのだが、若い従業員は赤信号待ちにひっかかることをひどく喜んだ。今とは逆だ。何故かと言うと、信号待ちをしている間に見渡すかぎり前方に車が1台も見えなくなってしまうのだ。青信号に変わると同時にアクセルを目一杯踏みこんでダッシュし、「坊主、見ろトップだぞ!」と叫び、私も助手席でキャッキャッと喜んでいた。それほど都心でも走っている車が少なかった時代なのだ。配達の帰りが夜になるとカーラジオから流れるフランク永井『夜霧の第二国道』『夜霧に消えたチャコ』が子どもながらに切なく聞こえる静かな東京の街だった。今から40年ちょっと前のお話し。

2000年3月14日 火曜日

Pollen & Virus

昨日の日記にある、「鼻」方面で苦労されている大先輩からのメールを友人に転送したところ添付文書(参考資料)が、新種のウイルスに感染しているとのメールをいただいた。以下転載。

お送りいただいた添付文書はWindowsパソコンで最近発見された新種のウイルスに感染していました。このウイルスは添付文書を開くと同時に自己解凍し、パソコン内をスキャンし、データのアロケーションなどが冗長な状態で使用している(いわゆるいいかげんな性格の)ユーザーのデータを破壊します。花粉の様にネット上に飛散すると大変危険ですので、発信元の Z-Obamah M さんにも注意を促しておいてください。

Dr.桶戸 M. Okedo

いやはや恐ろしい世の中になったものだ。

2000年3月13日 月曜日

花粉が目にしみる

複数の方から花粉症見舞いのメールをいただいたことを感謝。どうもありがとう。

「鼻」方面で苦労されている大先輩からのメールで、興味深い記述があったのでご紹介する。

最新の知見によれば、花粉症はストレス性や神経症的に症状が増強あるいは減退されることが指摘されており、それゆえに、「いいかげんな性格の人間は花粉症になりにくく、また治りやすい」とのこと。

参考文献もご紹介いただいたが、なるほどと思い当たる節がある。コンピュータを仕事に導入して7年程になるが、過去の記録を調べてみると2月から3月は私が年間で最も忙しい時期であり、その時期に何度か体調を崩しているのだ。1年ほど順天堂に通院していたこともある。これがテクノ・ストレスってやつかと思ったものだ。

しかし、まいったなあ。これじゃあ花粉症が治ったなんて書いたら「それ見た事か、やっぱりあいつはいいかげんな性格だった」などと笑われかねない(まずいことに今日はくしゃみも鼻水も止まりつつあるのだ)。nonchalantなのは確かだからいいけど。

Now laughing friends deride,
Tears I cannot hide,
So I smile and say,
"When a lovely flame dies,
Pollen Gets in Your Eyes"

2000年3月12日 日曜日

Hello?

日本人の英語力というのはアジアの国々では下から数えた方が早いレベルなのだそうだ。私の世代は中学生から、今の若者は小学校や幼稚園時代から英語教育を受けているようだが、島国の為かちっとも実際の英会話に役立つ実力というのが身につかないらしい。

かつて友人と6人でソウルに滞在した時のことだ。韓国料理店で私たちの注文がちっとも店員に通じず四苦八苦していると、隣の席の韓国人ビジネスマンが助け船を出してくれた。
May I help you? Can you speak English?
と、話しかけられ6人全員が咄嗟に、

No!

と、答えてしまったのだ。ああ、恥ずかしい。日本人ってこんなもんだ。結局彼等のアドバイスは、
Your order is too small.
ということだった。確かに、鍋3種類1人前ずつは無いよね。

実は、自宅の電話番号は親と限られた友人にしか教えていないのだが、夜間頻繁に電話がかかって来る。間違い電話、様々な勧誘電話だ。最近良い撃退方法を思いついた。効果覿面なので教えちゃおう。受話器をとったら思いっきりアブラギッシュに、

Hello?

と言ってやると、たいがい
「す、すみません。ま、まちがいました」
とほうほうの体で退散してその日は二度とかかってこなくなる。日本人の英語コンプレックスを利用したうまいやり方だと気に入って使っている。お試しあれ。

2000年3月11日 土曜日

他人(ひと)の痛み

子どもの頃「他人(ひと)の痛み」のわかる人間になれと耳にタコができるほど言われ続けたけれど、他人の痛みを我が事のように感じるというのは余程優れた能力の持ち主でなければできることではない。私のように凡庸な人間には、わかったようなフリをすることはできても、本当はな〜んにもわかっちゃいなかったりするのだ。

毎年、今の季節になるとくしゃみが止まらなくなり、ああ、これが花粉症かと薄々感じてはいたのだが、医者にかかって注射を打ってもらったり、薬をあれこれ服用したり、防毒マスクの簡易版の様なものを着用したりする人を見て、ちょっとおおげさ過ぎるんじゃあないの?などと、思っていたのだ。

しかし、今年の凄まじい花粉を浴びて皆様の苦しみがやっとわかりました。申し訳ありません、ホントこりゃつらいわ。

飛散の少なかった昨年の7〜8倍、平年の2倍程の花粉が飛散しているのだそうだ。鼻の奥から喉にかけてヒリヒリ痛いし、くしゃみ100連発。夜中に目が覚めると眠れないので事務所に行って仕事をしたりしているのだが、仕事をしていても1日でティッシュ1箱を消費してしまう。正岡子規は「痰一斗」と言ったが、私の場合「鼻水一斗」といった状況だ。

子どもの頃、母親の買い物につき合って布地屋に行くと、染料の匂いだろうか、鼻や目にキリキリと痛みが走って涙とくしゃみが止まらなくなったものだ。たまりかねて母親に直訴してから、布地屋の外で待つのが習慣になったが、その時感じたつらさに瓜二つだ。外で待てない分、花粉飛び交う町は地獄だ。医者にかかる人の苦しみがやっとわかった。慈恵医大の花粉症関連サイトが充実していると聞いたので覗いてみた。あと1週間様子を見て改善されなければ順天堂の耳鼻咽喉科行きだなぁ。

西暦2040年には地球温暖化に伴い、今の1.5倍ものヒノキ・スギの花粉が飛散するようになるらしい。こりゃ大変だ。

2000年3月10日 金曜日

1900円問題

取引先の出版社で面白いことを教えて貰った。内税方式の書籍の価格には「1900円」という値づけが許されないのだそうだ。この値段を表記すると下記のようになる。

定価 1900円(本体1810円)

5%の税を付加して1900円になる価格を計算してみると1810円になるのだが、1810円に5%の税を乗っけるとどうしても1901円になってしまうのだ。四捨五入で1円以下を切り上げ・切り捨てすることから矛盾が生じてしまうらしい。大手取り次ぎでは取り扱って貰えなくなってしまうのだ。なんだかなぁ。

2000年3月9日 木曜日

秋葉原伝奇祭り

インターネットで調べ物をしていて面白い記述を見つけた。

あきばヶ原をあきはばら、壱岐殿坂がいき坂、いもあらひ坂がひとくち坂と改められて、文句一つ言はぬ市民は、改惡する當局とともに日本語を愛撫し、味到し、尊重する資格がない。

『河童隨筆』辰野隆 昭和22年12月10日發行・酣燈社

私は以前から「あきはばら」というのは変だなと思っていたのだが、その経緯が知れて面白かった。

あきはばら【秋葉原】
東京都千代田区と台東区にまたがる地区名。明治初年創建の秋葉神社の火除け空地に因む名。電気器具の問屋・小売店が集中。

[広辞苑第五版]

あきば‐じんじゃ【秋葉神社】
静岡県周智郡春野町の秋葉山にある元県社。祭神は火之迦具土ひのかぐつち神。火難よけ(火伏せ)の信仰と12月15・16日の火祭で有名。

[広辞苑第五版]

静岡県出身の私は「秋葉神社」はとても馴染み深いのだが、静岡では私の出会った人たちすべて(私の知るかぎりではの意)が、「秋葉神社」のことを「アキワサン」と呼ぶのだ。「秋葉神社」と書かれていれば「アキバジンジャ」ではなく「アキワジンジャ」と読んでいた。清水弁ならこうだ(清水にも「秋葉神社」があるので)。
「やい、今夜アキワサンで火祭りがあるんて、行かざあ」
だから「アキワバラ」と発音する人(中高年に結構多い)は「アキバ」などと言う人よりしっくり来たりするのだ。

あきわヶ原→あきばヶ原→あきはばらという変遷ならかなり納得度が高かったりするのだが(善し悪しは別にして)。さてさて。

2000年3月6日 月曜日

雨音はトタンの調べ

と言ったって、トタン屋根が奏でる調べはト短調なんていう寒いオヤジギャグが言いたいのではないのです、ほんとうは。

談話室で、匂いや音が喚起する「言葉にしがたい想い出」について話していて、身体のどこかで忘れがたい音の記憶について考えていたら、聞かなくなって久しい「トタン屋根を叩く雨の音」を思い出したのだ。

【トタン】亜鉛めっき鋼板。薄鋼板(厚さ0.198〜2.38mm)に亜鉛をめっきしたもの。トタンの語源としては,ポルトガル語のtutanaga(亜鉛と銅の合金を意味する)またはtctan(白い金属の一種の意)に由来するとの説がある。耐食性がよく,屋根板その他建築に多用。平板,波付板の別があり,後者は生子板(なまこいた)とも呼ばれる。

『マイペディア』日立デジタル平凡社 より

「平板」のトタン屋根は下に板でしっかり裏打ちしてあるらしく、さほど雨音が響かないのだが、「波付板」のトタン屋根というのは簡素な作りの屋根が多い様で「バラバラバラッ」と雨音が太鼓の様に響くのだ。

友人の家で夕飯をご馳走になっていて、この「バラバラバラッ」に遭遇したときは本当にびっくりした。雹(ひょう)でも降って来たかと思われるほどだった。おじさんは「今日はうちに泊まってくしかないぞ」などと豪快に笑い、私は雨音の下で、ご飯を食べながら、まるで野営しているような自然との一体感を感じていたのが懐かしい。

マンション暮らしになってしまったので雨音を聴いて、あわてて洗濯物を取り込むなどということもなくなった。雨の日に洗濯物、時には布団まで干しっぱなしの家庭が何と多いことか。

マンション暮らしで失われたのは「音」だけではない。冬の朝、ぼんやり目覚めると奇妙な静けさに、がばっと飛び起きて窓を開けると一面の銀世界。そんな「静寂」を聞くという得難い風情も失われてしまったのに気づく。

2000年3月4日 土曜日

6.4GBをとり返せ!

「ハードを持ってきました」

こう言ってMさんが大きな段ボールを抱えて仕事場にやってきたのが今週半ばである。Mさんご夫婦は本郷で小さな出版社を営んでいる私の友人である。月曜日にお邪魔した際に奥さん愛用の最新型Macintoshの調子が悪く起動すらできないと聞き、保証期間中でもあり、高価なロジック・ボード不良の可能性もあるので修理業者での早急なチェックをお薦めしておいた。

それがなんと私のところへ持って来るとは…と暗澹たる気持ちになっていたら、段ボールから取り出したのは小さな「ハードディスク」だった。もしハードディスク交換ということになったら、奥さんの大切なデータが収められていることを知っていたので、私がデータ復旧を手伝うからディスクだけ返して貰うよう忠告しておいたのだ。

高くて高性能の物より、安くて低性能の商品が時代を牽引(市場破壊とも言う)するのが今の世の中だそうで、ハードディスクも高価なSCSIから安価なIDEに移行してしまい、「早い・安い・使い捨て」が主流になってしまった。裸のIDEディスクの修復というのは厄介なのだ。私のマシンに内蔵してしまえば良いのはわかっているが、仕事に使っているものに壊れたハードディスクを内蔵するのは嫌なので、なんとか外付けドライブとして接続して、データ回収を試みることにした。

【データ・サルベージ】

最近の大容量・低価格ハードディスクはIDEにSCSI変換器を付加してSCSI接続できる様にしているものが多い。私が使っている8.3GBのハードディスクも「Apple システム・プロフィール」で確認すると「MELCO」などという聞き慣れない名前が出て来るので、分解してみると富士通のIDEにSCSI変換器の下駄を履かせたものだった。早速富士通を取り外しMさんのIBM(何とハンガリー製)を取りつける。富士通が「master」のジャンパー設定になっているのでMacintoshに内蔵していたIBMはそのままの設定で取りつけることにした。

Macintoshに接続し起動するとデスクトップにマウントしない。マウンタで強制マウントし OS 9 の「Disk First Aid」で検証しようとするが読み込み不能、「ディスクウォーリア」も歯が立たず、あまり使いたくないが「Norton Disk Doctor」のお世話になることに。しかし、6.4GBをスキャンするために時間のかかること、何と3時間である。プログレス・バーが左から右端へ到達するまで、この医院には何のサービスもない。アサヒグラフでなければ、聖教グラフでもいい、学生時代通った氷川下セツルメント病院は赤旗だったが、何か診断待ちの時間潰しが欲しい。「かなり回復の見込みがあります」とか「症状は予断を許しません」とか、何か情報を表示してくれても良さそうなものだ。結局3時間待たされた揚げ句修復不能のメッセージが出て診断おしまいである。「UnErase」で202個のファイルを回収してみたが「カス」ばかり。

かくなる上は「data-rescue-211-j」のお世話になろうと思ったのだが、試用モードでは1回1ファイルの回収しかできず、1ファイル回収に30分もかかるので現実的ではない。結局インターネットでVISAカードを切って39ドル送金。24時間でシリアルナンバーが届くというのでデータ・サルベージは明日以降に持ち越し。

【2日目】

「data-rescue-211-j」のシリアルナンバーが到着。このソフトはハードディスクの回転系に異常が有りスムーズに回転しなくなったようなディスクでも、コツコツと少しずつ回しながら一晩中かけてデータを拾い上げてくれるという強力なソフトなのだが、「Norton Disk Doctor」で修復できないような「パーティションマップ」「アロケーション・ブロック」に異常が有る様なディスクからは、やはり救出できるファイル数に限界がある様だ。やはり、1MBあたり数万円の仕事をしている「データ・サルベージ会社」は、それなりの知識と技術と装置を使ってそれなりの仕事をしてくれるのだろうと思う。

結局、再利用価値のありそうな200MBほどのファイルを拾いあげて作業終了。おしまい。


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