電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2000年6月30日 金曜日

目を覚ませと呼ばわる声

最近気になって仕方ないのだが、毎朝五時になるとけたたましいベルの音が聞こえる。誰かの目覚まし時計が鳴っているのかとも思うのだが、そいつが1時間ぐらい非常ベルのような単調な音で鳴り続けるのだ。窓を開けていなければ気にならないだろうが、私は朝鳥の声を聞くのが好きなのである。耳鳴りかとも思い家内に聞いてみると、実は家内も気になっていたという。一時間も鳴り続ける目覚まし時計なんて聞いたことがないし、あの音で目覚めて止めない人間なんていないと思うのだ。不思議だなぁ。

2000年6月29日 木曜日

梅雨

じめじめと蒸し暑い日々が続く。仕事場はOA機器が発する熱が不快指数に拍車をかけているのでエアコンの除湿運転をしているが、自宅ではまだ無駄な電力を使うほどの事はない。

じっとりと湿った家で暮らすのは辛い。だが乾燥していればいいというわけではない。暗い部屋での生活というのも心塞ぐ物だが煌々と明るければ良いというわけでもない。適度な湿り気と適度な薄暗さは人間にとって大切なものだと民俗学者高取正男の著作は教えてくれる。

極貧は辛いが適度な貧しさを追求すると究極の豊かさと紙一重である。金持ちであるに越したことはないが、大金持に幸せそうな人はいない。

今の日本で生きていくために一番大切なのは「適度であること」探しなのだが殊の外そいつが難しいのだ。

2000年6月28日 水曜日

きりなし話

むかしあるところに素麺嫌いの子どもがおった。夏が近づいて蒸し暑くなるころ、朝の食卓に向かうと 素麺つゆを入れた茶碗と箸が置いてあった。するとカタンと音がして竹の樋を流れる水にのって素麺がツンツルカンツルと流れて来て子どもの茶碗にポタッと落ちた。子どもは目をつぶってツルツルっと飲み干した。するとカタンと音がして竹の樋を流れる水にのって素麺がツンツルカンツルと流れて来て子どもの茶碗にポタッと落ちた。子どもは目をつぶってツルツルっと飲み干した。するとカタンと音がして竹の樋を流れる水にのって素麺がツンツルカンツルと……。

(鹿威し式流し素麺の、きりなし話型悪夢)

2000年6月27日 火曜日

逃げ

「君の図面には逃げが無い」

電機メーカーで会社員時代の同僚に笑いながら言われた言葉だ。装丁の仕事をしていて図面を引くというのはレイアウト用紙づくりぐらいになってしまった。昔は「指定版下」等というのも作っていたけれど。で、仕事で版下外注のフォーマットを作っていたら同僚の工業デザイナーに図面を覗き込まれて、笑われてしまったのだ。

レイアウト用紙というのは天地、左右(喉と小口)から寸法、歯送り、行送りをビシッと指定して寸分違い無くというのが常道だと思っていたのだが、工業デザイナーが引く図面というのは違うらしい。最も精度を要求する各部位から理詰めに攻めて行って、何処かに誤差を許容する寸法無指定の場所を作っておく。これを「逃げ」というらしい。

「逃げ」を残して置くという思想はなかなか興味深い。「逃げが無い」と言えば昔喧嘩した教師を思い出す。硬軟取り混ぜて頭ごなしに怒鳴ったり、御為倒しの台詞で懐柔にかかったりするのだが、持って行きたい結論はたった一点寸分違い無いない場所にあるのだ。今なら言ってやるのになぁ。

「あんたの指導には逃げが無い、そんなんじゃヒトはついて行かないよ」

2000年6月26日 月曜日

転じて続投

選挙終了。

野球で投手が交替せずに、何回も何試合も投げ続けることが、いつの間にか転じて、総理大臣がその職に居座る事も「続投」ということになったらしい。変な言葉だなぁ。せめてNHKぐらいはやめて欲しいのだが。何を投げるのだろう。日本の未来だろうか。「継投のタイミングを模索する」なんていうのもある。野球好きの国民だなぁ。

一方、「人の褌で相撲を取る」とか「褌をしめてかかる」等というのは相撲好きの国民らしい。アメリカでは相撲は無いから“get a free ride at the expense of another”とか“pull up one's socks”などと言うらしい。

get a free ride at the expense of nations

2000年6月25日 日曜日

いかなご

冷蔵庫を覗いたら「いかなごのくぎ煮」があった。誰から貰ったのかとサイに尋ねるとKさん夫妻だと言う。存在自体を忘れていたし、当然礼を言うのも忘れていたのだ。やばいなぁ。

で、この「いかなごのくぎ煮」が素晴らしく美味いのだった。よく頂く事があるのだが、どれも関東の佃煮風で甘くてベタベタしたものばかりだったのだが、こいつはあっさり、パラパラしていて、酒のつまみや御飯のおかずに最適。何ともいえない苦みが底味になっていて「大人の味」なのである。

店名:「炭屋」
品名:いかなごくぎ煮
住所:兵庫県揖保(いぼ)郡御津町室津字柏500
電話:07932-4-0314

これは、かなりお薦め。「炭屋」とあるから炭火で煮ているのだろうか。炭火で煮た物って一味も二味も違うらしい。和歌山名産那智黒飴が大好きなのだが、製造にはいまだに炭火を使用しているそうだ。

因みに「いかなご」は、スズキ目の海魚で大きくなっても20cmくらい。コウナゴ、カナギ、カマスゴなどの呼び名がある。漢字で書くと魚と白を一文字にした物。この「いかなご」を百日ほど塩漬けにし、その塩汁を濾過した【玉筋魚(いかなご)醤油】というのもあるらしい。しょっつるやいしるみたいな魚醤の一種だろう。

おまけ:
兵庫出身の友人に聞いたのだが、この地方を車で走ると
「ゆっくり走ろう、揖保路」
という看板がたくさん立っているそうだ。

2000年6月24日 土曜日

志村坂上

昨日に続いて志村坂上の凸版印刷に出張校正。板橋区というのはあまり縁が無く、ちょっと散歩したいという色気を断ち切れないのだが、なぜかここに出張校正の日はどしゃぶりになってしまう。

志村という土地はカメラ好きには縁の深い場所なのだ。「シムラー」などと名前に冠した名レンズもあったし、そもそもカメラメーカーが集まっていた場所らしい。何故なのだろう。ちょっと町を散策してみたい。初めて気づいたのだが地下鉄志村坂上出口付近にある大木の密集した盛り土は一里塚の後らしい。国書刊行会もこんな場所にあったのだなぁ。

地下鉄千石駅のホームが扉開閉式の転落防止式ホームになっていた。都営三田線全駅がいずれこの方式になるのだろうか。

2000年6月23日 金曜日

水道・小日向・江戸川橋

凸版印刷が文京区水道に巨大な高層ビルの社屋を建て、商印事業部がそちらに移転したとの事で、月一回の出張校正室が秋葉原からそちらに変更になった。営業担当者から渡された地図を見ながら飯田橋より歩いてみたが、なんとも遠い事遠い事。雨の中、市ヶ谷大日本印刷への坂道を登るのも辛いが、こちらもかなり辛い。

中小印刷会社の経営が立ち行かなくなり廃業の知らせが相次ぐ中、こちらの新社屋は高層ホテルと見紛うばかりだ。

校正を終えて外に出ると雨も小振りになっている。つらつら考えるに、この場所なら江戸川橋の方が近いのではないかと思いあたり、神田川に沿って歩いてみることにした。

伝通院前から春日通りと別れ大曲を経て神田川に沿ってくねくねと江戸川橋まで続く細い道は私の大好きな道なのだ。台地と川の境界、いわゆる「崖線」に沿って発生した道というのは散歩するには極めて楽しい。神田川は今ではドブ川になってしまったが、江戸時代から明治初期までは飲料水を含めて江戸・東京の住民の大切な生活用水路だった。「水道」という地名もその名残だろう。

しばらく歩くと地名表示は水道から小日向にかわる。雨でやや勢いを増した神田川の流れで、ふと先日電機メーカー勤務時代の先輩、C社のKさんの子供時代の話を思い出した。神田川というのは大雨が降る度に良く氾濫し、川沿いのKさんの家もその都度水浸しになったそうだ。水の力というのは凄まじいもので思いもかけない物を上流から運んで来る。流域の人はそれをちょっと楽しみにしていたらしい。立派な机が流れて来るとすぐ引き上げてKさんの勉強机になるという寸法である。また、昔の子どもというのは路上のボール遊びというものが好きで、大雨になるとあちこちで子どもたちが紛失したボールが一気に流れて来るのだ。よってこの地域の子どもたちはボールに不自由したことが無いのだそうだ。

そんな事を思い出しながら阿弥陀籤を引くように気になる脇道を選んでは歩いて行くと、八百屋、肉屋、豆腐屋、花屋、蕎麦屋などが密集している路地を見つけ、暮らしやすそうな場所だなとキョロキョロしていたら、偶然Kさんの生家を発見してしまった。「ハカリ」屋と聞いていたが「衡器」というのだなぁ。表札に家を出た息子の名前が残っているのが微笑ましい。

再び崖線の道に戻ってしばらく歩くと区立五中がある。文京区教育委員会が立てた高札をメモして江戸川橋までの散歩を終えた。

黒田小学校跡地

 黒田小学校は明治11年(1878)第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。
 当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の功労による、政府賜米2000石を、東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。東京府はその篤志を永久に伝えるために、校名を黒田学校とした。(中略)
 黒田家ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、名門校として、各界に多くの卒業生を送った。卒業生の中には永井荷風(小説家)、黒沢明(映画監督)、松平恒雄(宮内大臣)などがいる。
 昭和20年(1945)空襲で校舎は全焼し、翌年3月31日をもって、黒田小学校は廃校になり、輝かしい68年間の歴史を閉じた。

月雪花と変わりゆく 都のけしき見下ろして 歴史ひさしき学校に通ふも楽し丘の上 (黒田小学校校歌第1節)

2000年6月19日 月曜日

はったいこ…3

イラストレーターのKさんが、出社してみると机の上に何と「はったいこ」が置いてあったのだそうだ。誰が置いたのか現時点では不明らしい。

商品名「麦こがし」

本品は「はったい粉」「おちらし」「麦いり粉」「麦こうせん」等、各地方によって名が違います。原料は麦を煎ってから粉にします。お子様、お年寄の方に消化が良く滋養豊富、素朴で香りが良く、大変御好評を戴いて居ります。(商品能書きより)

で、食べ方の説明がおもしろい。

麦こがしの召し上がり方
※適量の砂糖と少々の食塩を混ぜてそのままお召し上がりください。
※砂糖、バター又はチーズと少々の食塩を混ぜてお湯で練り、ジャムとしてパンにぬってお召し上がりください。
※きな粉のように御飯にふりかけてお召し上がりください。

「麦こがし」の入手先

カドヤ株式会社
東京都町田市旭町2-4-16
電話0427-23-1752(代)
2000年6月18日 日曜日

急速休息

友達というのは有り難いものだ。心が疲れ果てている時にかぎって、救世主のように現れる。しかも自転車に乗って。

午後からKさん夫妻がやってきたので、夫君が発見したと言う巣鴨の餃子屋へ。店の名前が素晴らしい。「ファイト餃子」。名前に恥じないファイト溢れる従業員の働きっぷりに感動。餃子は他に類を見ない形状のもので面白い。私はお焼きが大好きなので味も大満足。これなら30個(1人前10個)は軽いなぁ。

2軒目の店は大失敗だったと思うのだが、家内は場末の駅前居酒屋で飲んでいるようで楽しかったそうだ。食中毒にならなくて良かったと思う。

3軒目は大成功。癌研通りの裏手にある古びた中華料理店。年代物の店舗の作りがいぶし銀のような輝きだ(本当はすすけて真っ黒だけど)。ご主人も良い人だが、客筋が良い。

今朝方、茅ヶ崎沖にご主人共々キス釣りに行って来たらしい。そして、この店で見事な釣果を腹に納めてしまおうというわけだ。人なつこいKさん(図々しい)の、頻りに「調子を合わせて話しかける」という努力の甲斐合って、なんと揚げたてのキスの天麩羅のおすそ分けに預かってしまった。素晴らしい。釣り仲間に調理人が居るというのは良いものだ。ハラワタを取って開いてあるのだが、ワタ以外の道具は見事に残して有る。新鮮なキスというのは身にほんのり甘みがあって美味しい。紹興酒が進む事、進む事。

さらに北池袋方向に進と4軒目の候補発見。さすがに今回はダウンしそうなので次回のお楽しみ。ごく普通の商店風。通りに面したガラス窓は曇りガラスで貼り紙一つ無い。何の店でどんなメニューが有るのか全く情報が無いのだが、屋根の方を見上げると「焼肉」と書いてある。店内は静かだが曇りガラス越しの窓の向こうの黄色っぽい明かりの下には、なにやらとてつもない秘密の味に舌鼓を打っている客の気配が……。

2000年6月17日 土曜日

やっぱり貧乏

「出張」の名目で郷里に帰れるようになったのが、最近嬉しい事の一つだ。もちろん交通機関の発達のおかげで時間軸がぐ〜んと縮んで、遠い場所が近い場所に変貌したおかげでもある。

帰りの日曜日の新幹線は満員で、おばちゃん達の宴会のすき間に空席を探すのも嫌なので降車ドア脇に立ったまま東京まで帰ってきてしまった。1時間程度我慢すれば良いのだ。かつて鈍行列車で4時間近くかかったのが夢の様、しかも静岡駅を出たら次は終点・東京なのである。

静岡・東京間を行き来してみて毎回思うのは、「速さ」と「手軽さ」は「便利さ」をヒトにもたらしはするものの、決して「豊かさ」はもたらさないのではないかということだ。Slow Train で 4 時間も貧乏だったけど、時速二百数十キロであっという間に遠ざかって行く故郷を見るというのも、かなり貧乏臭い社会だと思うのだ。

2000年6月15日 木曜日

マグワイヤは何本ホームランを放つか?

友人の編集者を訪ねたら、『年齢と性行回数』という仰天するような題名のエッセイの切り抜きをいただいてしまった。書かれたのは八十歳台のお医者様で患者から聞いた面白い話ということになっている。

「性行回数」等と言葉に出して言うと、我々庶民は赤面してしまうが、お医者様は患者の治療に際してこのような事にまで気を配っておられるらしい。家内が胃の調子が悪いので近所の大学病院に行ったら、いきなり「性欲は有りますか?」などと聞かれて面食らったなどという話も聞いたことがある。

で、年代別の理想的「性行回数」を算出する方法が書かれていて、簡単な算数のマジックで他愛のないものの様に思えるのだが、これが意外に良く出来ていて面白い。こんな具合だ。
二十歳台は二×九= 十八… 十日に八回が最適。
三十歳台は三×九=二十七…二十日に七回が最適。
四十歳台は四×九=三十六…三十日に六回が最適。
五十歳台は五×九=四十五…四十日に五回が最適。
六十歳台は六×九=五十四…五十日に四回が最適。
七十歳台は七×九=六十三…六十日に三回が最適。
八十歳台は八×九=七十二…七十日に二回が最適。
ということだそうな。九を掛けるのが味噌なのだ。

これを読んだ家内が、「じゃあ百歳は?」
げげっ、ひ百歳になっても……もぐもぐ。
「百歳台は百×九=九〇〇…九〇回試しても当たり無し…」
などと誤魔化して置いたが、
「じゃあ十歳台は?」
十歳台 は十×九=九十 …九日に十回、う〜ん……

梅雨の晴れ間の太陽が眩しいなぁ。

2000年6月14日 水曜日

東京キッド

私は美空ひばりが嫌いだった。子供時代、彼女を初めて知った頃は身内のトラブルを巡ってバッシングの最中だったし、浜庫さんの歌に乗ってイメージチェンジしたころは「女王様」などと呼ばれていて、それも嫌みに感じていた。母が好きだった女剣劇をミュージカル仕立てにしたような「ひばりもの」の歌謡映画は珍妙さに輪をかけたようで大嫌いだった。

亡くなられたからというわけではないが、今は嫌いではない。それどころか、先日、映画の中で「東京キッド」を歌うひばりの姿を見たが、いいなぁと思えるようになっていた。

村上龍氏が配信しているメールマガジンを購読し、楽しみにしている。“もう一度生きるとしたらどの時代を選ぶか”という問いがあり、読者からのメールによる返信には“現代”という答えが多かった。“もう一度生きるとしたら”という設問が厄介で、こうして生きていると“もう二度と生きたくない”という思いがつのるからこそ“人生が一度限り”であることの諦めがつくように神様が仕組まれていると思っているので、答えに窮してしまう。

まあ、気軽に“透明人間になってぶらっと遊びに行く”ことが一度だけ許されるとしたら、私は昭和三十年代、オリンピック前夜までの東京を選びたい。戦後から昭和三十七八年あたりまでは、ひばりの歌う「東京キッド」の映像の細部から滲み出て来る「気持ちの良いヒトの生気」が街に横溢していた。「外国からお客様をお迎えするから…」という合言葉を政治家や教師やマスコミが連発し、長屋やバラック、路面電車、トロリーバス、ボロ商店街、箱型ゴミ入れを町から引っ剥がし、ドブ川を暗渠にし、周縁の人たちを施設と団地に放り込み、てんやわんやのボロ隠しをしたオリンピック前夜、そしてその隠したボロが、押し入れの襖が弾けたように異臭を放ちながら街に散乱し覆い尽くしつつある現在まで、もうここにはない「生気」溢れ「今より遥かに清冽」な暮らしが、オリンピック前夜にはあったと思うのだ。時の旅人となって気の合う友と12時の門限のぎりぎりまで涙目で笑い合いながら飲み歩いてみたい。

2000年6月13日 火曜日

独楽

見たい夢を思うように見られるものなら、毎晩楽しい夢を見たいけれど、そうそう楽しい夢が訪れるわけではない。

昨夜、夢の中に K 書房の S さんが現れてコマ回しをしようという。何処か温泉地の歓楽街の路地裏である。S さんが取り出したコマは南部鉄の鋳物で出来た輪が嵌まったごつい奴で、東北出身の S さんらしい設定である。で、S さん、コマ回しが上手いのだ。私もコマ回しは得意だが、金属の輪が嵌まった重量級のものはあまりなじみが無い。S さんに「下手だなぁ」と笑われ、果ては「紐の巻き方がなっていない」などと馬鹿にされる始末だ。「ちょっと待て、東京のコマで勝負しよう」と、土産物売り場に行ってみると、東京風の奴があるにはあったが、プラスチック製でスヌーピーの絵の入った奴だった。

楽しい夢はそこで終わってしまい、「東京のコマ」での対決は、結局お預けになった。

私が住んでいた北区王子あたりの駄菓子屋で売っていたコマは、木地細工の本体に細い鉄の軸が付いたシンプルなものだった。地方によってコマの形状は様々で、付随する遊び方も千差万別である。王子小学校のコマ遊びは、「せ〜の」で、コマをグイッと宙で回し、右手のひらに受ける。そしてあらかじめ決めておいた電信柱まで走って行って、タッチして戻って来るのだ。その間、コマが回り続け、しかも最も早く帰って来た者が勝ちである。この勝負に勝ちたいために私たちは様々な工夫をした。鉄の軸をコンクリートに打ちつけ、自分のコマに最も適した重心を探す。更に鉄の軸の接地する側をコンクリートの上で研いで針のように尖らせるのだ。掌で受けると血が出たりしたが、それでも勝ちたかったのであるる

このコマだが何処の誰が作っていたのかは知らない。しかし、たくさんの作り手が居たらしく、店によってコマの形状が微妙に違うのだ。王子小学校近辺で手に入った奴は直線的でずんぐりしているのだが、他の校区、特に荒川区方面に買い出しに行くと、曲線的でやや薄く回転性能が良い奴が手に入る。私たちはそれを「皿ゴマ」と呼んでいた。「荒川の方の駄菓子屋に皿ゴマが出た」という情報が入ると、放課後、皆で十円玉を握り締めて出かけて行ったものである。

コマというと東京下町の駄菓子屋のコマを思い出すのだが、周囲に金属の輪を嵌めた本格的な奴の「簡易版」だったのかもしれない。回りにブリキの曲げ物を嵌めて、金属風に見せかけたものもあったからだ。清水に戻って地元の子どもたちのコマを見た時は驚いた。直径10センチ近い木地細工の胴に直径1センチ近い鉄芯を通し、その周りに厚さ1センチ近いベアリング用の輪を嵌めてあるのだ。鋳物の輪で無くて、工業用のベアリングの輪を流用しているのが不思議だった。それが駄菓子屋で売られているのである。さらに、ベアリング無しの物も格安で売られており、私の従兄は会社帰りの叔父に適当なベアリングを拾ってきて貰い自分で嵌めていた。

面白いことに、この「ベアリング・ゴマ」は鉄の軸を胴の上に出さないのだ。だからかなり重心が偏っており、重いこともあって回し方が難しいのである。太い紐を巻いて、力を込めて地面に叩きつけるように回すのだが、その時、相手のコマが自分のコマの木地部分にぶつかると傷がつき、傷がつくことを「カタを入れられた」と言って屈辱的なものとしていた。すべてのコマが着地して回転すると紐で押してぶつけあいになる。この時ベアリング同士が擦れ合って 、文字通り見事な火花を散らすのが、ぞくぞくするほど奇麗だった。

王子のコマが曲芸的で第三次産業風だったのに比べ、清水のそれは高度成長期を象徴するような重工業風の勇ましいものだった。

2000年6月12日 月曜日

燕の巣立ち

ベランダの手すりをヨタヨタと歩いている小動物がいるので近寄ってみると燕だった。六義園周辺は燕の巣作りに必要な材料と、子育てのための餌の捕獲が容易なせいか、燕の巣をよく見かける。先日散歩の時にその一つを覗いたら雛が大きくなって巣からこぼれ落ちそうだったが、どうやら巣立ちが始まったらしい。

この子燕たちも巣立った直後らしく、突然神様がポンと粘土で作った羽をお与えになったかのように、自分の身体をもて余し気味で動作がぎこちない。ぽっちゃりしていて不格好で人間の中学生時代みたいだ。

まだ餌を自分で獲ることはできないようだ。巣立った直後の雀の雛だと翼を身体の脇でパタパタさせ大きな口を開けてピーピー餌をねだる姿が見られるのだが、さすがに燕は違う。こうしてボーッとしているようだが、空中に親燕を見つけるとサッと飛び立って空中で餌を貰うのだ。軍用機の空中給油みたいだ。渡り鳥だから、親の子育て法もぐっと厳しいのだろう。

ところで「若いツバメ」という言葉があるが、どんな語源なんだろう。中高生ごろ母親と歩いていると「あら、いいわね、若いツバメなんか連れちゃって」などと言われて母もまんざらでもなさそうだったが。「若いツバメ」と言ったらまさにこの写真の子燕なのだ。ぽっちゃり・不格好の意味じゃあ無いよなぁ…。

 

2000年6月10日 土曜日

東京ラジオデパート

仕事帰りに、ぶらっと「東京ラジオデパート」に寄り道してみた。秋葉原電気街、ガード沿いにある。こういうのも雑居ビルというのだろうか。古びたビルの1階は1坪ぐらいの店舗がずらっと並んでいて、ここのメモリーパーツ専門の店は良くお世話になる。腰をかける場所も無い店内(?)は宝くじ売り場みたいだ。宝くじ売り場の女性は座っていればよいが、此処のご主人は立ちっぱなし。使用するパソコンの機種を告げると即座に棚から商品を取り出す達人の技を見ていると、この人の店舗は「頭の中」に広大に広がり、しかもきちっと在庫管理が行き届いているのだろうと思う。人件費と場所代が節約できるので価格も飛び切りやすい。こういう商売人が大好きだ。

1階と、地階は良く訪れるのだが、2階以上はあまり覗いたことが無い。電機メーカーのKさんから、上の階に真空管式ラジオを展示している店があると聞いたような気がしていたので登ってみた。あるある、物凄い年代物、しかも皆完動品と書いてある。しばらく見とれてしまった。

昭和30年代前半あたりが私が家庭用ラジオに夢中になった時代なのだが、あの当時のNHKラジオ放送の録音されたもの(紙テープ式のレコーダーは既にあったのだろうか)をかき集めて、当時の1日の放送内容を再構築することは可能だろうか。記憶をさかのぼると、朝五時ちょっと前になるとオルゴールの音がエンドレスに流れる。五時のニュースが終わると、「早起き鳥」という番組が始まる。『今朝も呼んでるよ、早起き鳥が〜ランラララン〜』というテーマ曲が大好きだった。各地の農事通信員からの便りを聞くのも大好きだった。

朝はそんな調子で始まるのだが、夜の放送終了は何時だったのだろうか。夜更けに目を覚ますと(当時の子どもは八時就寝なんて当たり前だった)放送終了間際に「夢のハーモニー」という番組があって、私はその音声タイトルが嫌いだった。『夢のハーモニ〜、ハーモニ〜、ハーモニ〜…』とエコーがかかるのだが、何とも無気味で怖かったのだ。ラジオ放送が終わってしまえば物音一つしない、漆黒の闇があった時代だ。

せいぜい朝五時から夜十一時として一日十八時間、何処か田舎の一軒家で「東京ラジオデパート」から借り出した真空管式ラジオで当時の放送を一日聞いて過ごすなどという豪華な休日を想像すると胸がわくわくする。もちろん「巡回ラジオ体操」も庭先に出て参加するし、丸い卓袱台で「昼の憩い」を聞きながら昼食もとるのだ。もう会えなくなった人たちも喜んでくれそうなのでお盆にピッタリな気もする。NHK秘蔵の音源を提供してくれないかなぁとも思うが、そんな企画を喜ぶのは私ぐらいだろうか。

2000年6月9日 金曜日

星の王子さま

月曜日から木曜日まで連夜BS2で楽しい思いをした余勢を駆って、サンテグジュペリの実話物をみる。

「本当に大切なものは目に見えない」という意味の言葉が繰り返し強調されていたのが印象的だった。複葉機で空から国境を越えて自由に飛行し、世界を俯瞰しながら、そんな思索を深めていたのだろう。宇宙飛行士が地球を遠望して、帰還後、洒落た言葉を吐くのに似ている。

「本当に大切なものは目に見えない」のではなく、「目に見える事に拘泥し過ぎると本質を理解し損なう」と言った方が正しい気がする。さらにヒトは時に「本質を本質として受け入れたくないがために目に見える事だけに拘泥する」ので厄介なのだと思う。

2000年6月8日 木曜日

祝福される時2

月曜日の「ティナ・ターナー」に続き「ドナ・サマー」のコンサートを見た。なんと素敵な女性になったことか!

年をとるとウエストは太くなるし、尻は出て来るし、ガニマタになるし、乳も垂れるのだけれど、美しさの本質はそんなところには無いのだなぁ。我が家のサイ(いとし・こいしのギャグ「うちの妻(サイ)がね」「きみとこ犀飼っとんのか」)もうるうる来ていた。

1948年生まれというから、愛する「小川知子」と同い年(私が王子小学校に入学した時、6年生に小川知子と羽田健太郎がいた)。50〜60代の女性というのは、たとえ容貌が衰えても底知れぬ美しさを持ち得るのだなぁと再認識させられる好企画だったと思う。BS受信料払ってて良かった。

2000年6月8日 木曜日

「たれ」万歳

「さめのたれ」をいただいたお礼に、清水みなと「魚初」さんからいただいた「いるかのたれ」を、友人に御裾分けしたら、嬉しいメールをいただいた。名文なので原文引用。

昨夜、早速いただいた「いるかのたれ」を軽く焼いて食べました。
いや〜、コリャうまい!!!!!
伊東市のスーパーで売っている「いるかの干物」とは比べようもない。なんというか、田舎くさい素朴さと実直さがにじみ出てくるような奥深い味です。決して洗練されないけれど、また決して飾らない、芯のある民俗の味わい、というべきか。
「さめのたれ」の塩干しや、「うつぼの塩干し」などと甲乙つけがたいね。珍味というより、「憑味」(ひょうみ)ですな。(これ、今思いついた新語で、「やみついて、くせになりそうな味」の意)。
ちなみに「魔味」というのがあって、これは当然「ふぐ」のこと。
(中略)
貧しくても豊かな本物の味があった時代はもう遠い……。
「いるかのたれ」「さめのたれ」「うつぼの干物」などもいつまであることやら。
食べるなら今しかないかもね。

はまボーズさんありがとう。

味を評するのに、「まったりとした」とか、「じゅうしいな」とか、果ては「くさみがない(よっぽど臭いものを喰ってるのだろうか?)」とか、「あぶらがのってる」とか、うんざりするような貧弱な表現ばかりマスコミに聞かされているので、「憑味」「魔味」には敬服。

子どもに人気のグルテンに甘みと香りをつけた駄菓子、私も妻も大嫌いなのだが、あれはまさしく「愚味」だ。

2000年6月8日 木曜日

はったいこ…2

「はったいこ」に関してメールをいただいた。

イラストレーターのKさんより:
Kさんが聞くところによれば鳥取県出身の編集者Mさんの地元では「むぎこ」と呼んだそうです。リハ研の主任研究員Uさんの地元福井県では「おちらし」と呼んだそうです。

はまボーズさんより(原文引用):
「はったいこ(はったい粉)」の語源は「はたく粉」のなまったものでしょう。大阪でも、熊野市でも、小麦粉(おそらくは小麦粉に限らず、大麦粉・大豆粉など粉一般)を、「はったいこ」と呼んでいたように記憶しています。「はったいこまぶし」(はったいこに砂糖をまぶして湯で溶き、かき混ぜたもの)は、幼少時の大好物でした。

なんか、落雁のことを思い出した。最近食べないなぁ。
落雁の材料を調べてみると、【もち米・ソバ・豆などのいり粉】【微塵子・麦こがし・黄粉】などとある。微塵子というのは間違いだと思う。それじゃあ金魚の餌だ。【微塵粉=蒸して干した糯米をひいて粉にしたもの】だろう。

はまボーズさんのメールを読んでいて思い出したが、子供用栄養ドリンクに「麦芽飲料」というのがあり、「ミロ」とか「リトルエース」とかいう商品名で売られていた。飲んだことがあるが焦がした麦の粉の様な味がしていた。そういえば、最近は健康飲料として「黄粉ドリンク」というのがあるなぁ。牛乳に黄粉と砂糖を入れて飲むと美味いというのも聞いたことがある。「はったいこまぶし」を飲んでみたくなってきた。

子どもの頃「拳骨飴」というのが好きだったが、これも穀物の粉に甘みをつけて固めたようなものだった。懐かしいなぁ。「芋飴」も随分昔に食べたきりだ。鄙びた味が無性に恋しい。

それから、それから、カメラマンのKさんが、父上がそうしていたように「蕎麦がきは蕎麦のつけ汁より生醤油が美味い」と言っていたので思い出した。生醤油といっても最近の塩辛いだけ・大量手抜き生産の奴ではなくて、九州特有の甘みのあるフンドーキンあたりの醤油が合うのでは無かろうかと我が家のサイと意見が合った。

2000年6月7日 水曜日

はったいこ

日曜日、手打ち蕎麦の「越後屋」で「蕎麦がき」を食した時、カメラマンのKさんが、子どもの頃故郷熊本の田舎では「蕎麦切り」を食べさせるような店すら無かったので、父上は蕎麦粉を丼に入れて湯を注ぎ、固まったものに生醤油をつけて食べていたと言っていた。それを聞いた奥さん、イラストレーターのKさんが、それは「はったいこ」じゃあないのかと聞き返していた。「はったいこ」とは何かとインターネットで検索してみると、中国地方では小麦粉のことを「はったいこ」と呼ぶと書いてあるページがあった。本当だとしたら、いかなる語源なのだろうか。

更にインターネットで検索していたら、山口県の方が、『子どもの頃「はったいこ」を固めて砂糖を入れたものを祖母が「チョコレート」だと言って食べさせてくれた。後に友の食べている「チョコレート」を見て悲しくなった』と書かれていた。いい話だなぁ。うるうる。

でも小麦粉でチョコレートモドキができるのだろうか? と、ここまで書いてイラストレーターのKさんが、「麦焦がし」の名前をあげていたのを思い出した。「麦焦がし」というのは煎って焦がした大麦を粉にしたものだ。で「麦焦がし」で辞書を引いてみると「はったい粉」という別名が載っていた。なるほど「麦焦がし」に砂糖を入れたものならチョコレートとは違った甘苦さで美味しいかもしれないなぁ。私も子どもの頃「こうせん煎餅」という甘いお菓子が大好きだったが、あれも「麦焦がし」で作るらしい。

で、イラストレーターのKさんがカメラマンのKさんの父上の食べていたものは「はったいこ(麦焦がし)」ではないかと言っていたということは、広島では「はったいこ(麦焦がし)」を「蕎麦がき」の様にして食す習慣があるのだろうか。

う〜ん、ややこしくなって来た。

2000年6月6日 火曜日

鳥の歌

新潟県小出市からやって来た友人が、六義園に面した窓際のソファーベッドで眠ったら、「森の中で寝ているようでした」と言っていた。

新潟でもこれほど賑やかな鳥のさえずりの中で目覚めた事は無いのだという。良い環境だと誉められても喜んでいいやら、なんとも…。

今年は例年に無く六義園は訪れた野鳥たちで大盛況なのだが、山手の方はひどく暮らしにくい環境になっているのだろうか。ともかく明け方からものすごい野鳥の声が聞こえる。今年のウグイスの歌の上手さと来たら群を抜いていると思う。さらに、今まで聞いた事の無い歌声も聞こえる。

不吉な事の前兆でなければ良いけれど。

2000年6月5日 月曜日

祝福される時

当サイトからもリンクしている清水みなとの「魚初」さん
http://www.app.ne.jp/~hassan/から、上等の「マグロ」と「自家製イルカのたれ」そして「きしゃご(ながらみ)」が届いた。すべて冷凍になっていて丁寧な解凍法が添付されていた。「魚初」さんありがとう。

まず、マグロはゆっくり丁寧に解凍し、中心部がまだ凍っていてジャリッというあたりで、築地で母に買って貰った飛び切り切れる刺身包丁で、妻が気合を入れて切り分けた。味も切り口も絶品。

Macintosh というコンピュータはフォルダを作りその中に「System」と「Finder」という二つのファイルを入れてやるとフォルダが Mac OS のアイコンに変わり「システムフォルダ」になるという、誠にチャーミングな仕掛けになっている。この仕掛けを利用すれば、同一ディスクにいくつものシステムを作って使い分けることができるのだ。この「Mac OS のアイコンに変わりシステムフォルダとして認識されたフォルダ」を「祝福されたフォルダ」と呼ぶのだ。

この「祝福された〜」という言葉を思い出してしまった。冷凍のマグロを丁寧に解凍し食して行くと、ああこの温度、舌触りが最高、という「祝福されたマグロ」に変わる一時期があるのだ。日本酒もそうだ。冷や酒をやみくもにキンキンに冷やして出したりする店があるのだが、どうかと思う。だんだん室温に近づいて来て「祝福された日本酒」に変わる直前あたりの温度の奴を陶器の徳利に入れて持って来るような店が好きだ。

じゃあ「魚初」さんが湯掻いてパックにしてくれた「きしゃご」はどうしようかと悩んでしまう。素直に自然解凍し、ひんやりした舌触りを楽しむのも良いとは思うが、私は茹でてしばらく置いたものが生暖かくなった頃が好きなので、大きめの器に盛りつけて湯煎にして温度を調節してみた。う〜ん、これまた絶品。

「イルカのたれ」は妻が面白い調理法を提案しているのでしばし冷凍保存。そのまま焙って食すのが最も好きなのだが、「イルカのたれ」普及に燃える我が家の婦人部の創作意欲に敬意を評して提供しようと思う。乞う、ご期待。

で、そんな絶品と先日新潟の友人が抱えて来た八海山で一杯やりながら、NHK・BSを見ていたらティナ・ターナーのライブをやっていた。素晴らしい。もう60歳になるとは思えない。他のミュージシャンの評によれば歳を増すにつれ良くなってきたという。彼女もまた祝福された時を迎えつつあるのだ。

2000年6月4日 日曜日

境界を歩く

写真家とイラストレーターのKさん夫妻が、仕事の用事で午後、自転車に乗って来社。早速、家内と四人で連れ立って王子の越後屋へ繰り出す。

やはり、この蕎麦屋の蕎麦は好もしい。家族的な接待が心地よく、すっかり酩酊して店を出たのが3時半頃。その後、飛鳥山とJR京浜東北線の間にある小径を延々田端銀座商店街まで歩いてしまった。

本郷台地と下町の境界に沿って歩くこの道(飛鳥の小道)は、周縁性の横溢した面白い散歩道なのだ。その後、「ヒトの面白味」を満喫できる不思議な店二軒をハシゴして八時半頃解散。

2000年6月3日 土曜日

闇の恐怖

午後六時ちょっと前、関東地方で地震があった。ちょうど義父母宅を訪れていたためマンションの9階にいたので震度3でもかなりの揺れと感じた。室内の照明や調度が揺れる様を見ながら、窓や廊下側のドアを開けようかと狼狽える義母を見ながら、まぁ縦揺れは無かったから大したことは無いだろうと、落ちついていて、それより震源が何処だろうかと地震速報を見ようとテレビ画面を注視していたりする私だった。

視覚的な情報があるだけで、恐怖というのはかなり和らぐものだと思う。その夜、大地震に遭遇する夢を見たのだが、暗闇で突き上げるような縦揺れを感じ、轟々たる地響きを聞いた時は正直言って怖かった。

実は私、小学校低学年で、「ヒトが必ず死ぬ」ということをぼんやりと意識するようになった頃から、夜中に悪夢にうなされて寝ぼけるようになった。夜一人で、布団に入っても寝つかれず、ふと「死」の事を考えたりするともういけない。気も狂わんばかりになって、飛び起きて明かりをともしたり、テレビのスイッチを付けたりしたものだ。

その時思ったのだが、ヒトは「視覚的な情報」に心を寄せながら、心の闇の中にある恐怖を同時に想起するという事が難しいのだ。悲しい事、苦しい事、恐ろしい事を忘れるためには、蛾のように一晩中消える事の無い街灯に群がっていれば良い。「見える」ということは有り難い。そしてそれを失うということは麻薬を絶たれた中毒者の苦しみと同様の感覚を味わうことになる。

元ブルーコメッツの井上忠夫さんが亡くなられた。井上さんの心中を察すると言葉を失う。黙祷。

2000年6月1日 木曜日

夫婦の哀歓

5月31日は私たち夫婦の19回目の結婚記念日。今日からいよいよ20年目に突入だ。

思えば、生みの親と暮らした年月より、夫婦で生きて来た歳月の方が上まわってしまった。とはいうものの、親がいつまでも子どもと過ごす事ができないのと同様に、夫婦も決して血縁・肉縁になることはできない。

だが歳月を共にする期間が長くなればなるほど、互いが無くてはならぬものに思えて来る。「肉親以上・肉親未満」の関係こそが夫婦の面白さなのかもしれない。


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