電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2000年9月29日 金曜日

ニフティ

仕事を終える直前にメールチェックしたらニフティ株式会社からメールが届いていて、ニフティの会員だったことを思い出した。そうだ、そうだ、解約しようと思っていたのだった。

メールのURLを辿って行くとトップページのメニューに「解約」というボタンが用意されていた。契約しやすく解約しにくいなどという構造にはなっていないのだ。当然だけど有り難いことである。

解約しながらいろいろなことを思い出した。これからはDTPの時代になるという予感があってMacintoshを購入したものの仕事で運用するためのノウハウは書籍や友人に頼っていては限りがある。NIFTY-Serveのフォーラムに行けば、そこは情報の宝庫であり、様々なオンラインソフトが入手でき、電話線を通じてデータを出力サービス店に送信することができ、しかも相互に語り合うことのできるという天国のような場所があると知った。いわゆるパソコン通信である。そうすると、もう我慢できず、勢いというのは恐ろしいもので、当時売られていたPowerBookの高い方、PowerBook170のベネトンカラー・スペシャル版という奴を購入、メモリ増設、純正モデムカード増設までを妻に事後承諾で済ませてしまった。今だとちょっと腰が引けてしまいそうな買い物である。

当時のMacintoshでNIFTY-Serve接続というのはWindowsより面倒くさく、今MacintoshでISDNにルーターをかませてインターネットに接続するより難しかったように思う。「ピ〜〜〜〜〜ガラガラガラ」という音とともに自動巡回を仕掛けた“コムニフティ一族”が動いた夜のことは忘れられない。

ニフティのフォーラムに貯えられた情報というのは、玉石混淆とはいえ現時点でもインターネットの比では無いと思う。膨大な数のフォーラムで語られたログファイルはニフティが保存を怠らない限り、話し手共有の著作物として残って行くわけで、その中の紙魚程度に私のログも入っているのだ。

解約するにはユーザーIDとパスワードそれぞれ8桁の文字を入力して「解約」ボタンを押すだけで済む。不思議なことに8桁の文字二組を覚えていてすらすらと暗唱しながら入力することができてしまう。入会するために四苦八苦したのに、退会する作業のなんと呆気ないことか。しみじみとした気分になって妻に

「ニフティの料金引き落としが無くなるから」

と、言ってみた。

「あら、あれは安いのよ。もっと高い方のじゃないの?」

げげっ、それインターネットのこと?

2000年9月26日 火曜日

シドニー・オリンピック

オリンピックのことは日記に書かないようにしようと思っていたのだが、今日電車の中で読んだ司馬遼太郎の中に正岡子規が日清戦争に従軍したがる話が書かれており、その顛末をかくも無邪気な文人を生む土壌としての明治時代ということで優しくまとめておられた。

そのようなやさしい物言いに接したので素直に書いてしまうと、スポーツを見て頭に血を上らせている自分が嫌になることが多いのだ。

団体競技でニッポンがメダルに手が届きそうになると同胞の活躍より相手チームの不首尾を祈っていたりする。陸上選手の背後に他国の選手が迫ると「こけろ、こけろ!」と心の中で叫んでいたりする。演技の得点で競う競技でニッポンがかろうじてメダル獲得圏内にいたりすると、残る演技者すべてが失敗するよう念力をテレビに向かって送信したりしているのだ。

何という浅ましさと嫌になるけれど、こういう自分に気づかされるところに国際スポーツの意義があるような気もして、無邪気にテーブルの下で拳を握り締めたりしているのだ。

2000年9月25日 月曜日

朝方めっきり冷え込むようになってきた。

東京では萩の花が見ごろのようだ。マメ科ハギ属に分類されるそうだが英語で【a bush clover】と聞くとなんとなく微笑ましい。テレビでは萩で名高い公園をいくつか紹介していたが、私が最も美しい萩鑑賞の隠れスポットだと思うのは文京区にある団子坂である。

千代田線千駄木駅で下車して団子坂下交差点から団子坂を登ると、登り切ったところに小さな信号機のある交差点がある。団子坂に交差する細い道が通称籔下通り。その右手前角に宮城県の東京宿舎があり、上京した宮城県民が利用できる施設なのだが、その敷地の団子坂に面した石垣の上に植えられた萩が見事なのだ。満開になると坂道を歩く人の頭上にはらはらと花びらを散らす様は美しい。この施設、「萩風荘」という。風流なものだ。

2000年9月22日 金曜日

凸版詣で

毎月恒例、飯田橋の凸版印刷へ。地下鉄南北線で飯田橋に出て高速脇の道を歩くとモリサワの1階ロビーで装丁家平野甲賀さんの個展をやっていたのでちょっと寄り道。誰か好きな装丁家を挙げよといわれれば躊躇無く平野さんなので嬉しい。目を悪くされてからMacintoshで仕事をされていると聞くがG4キューブでのスライドショーが微笑ましい。

りはお気に入りの裏道を歩いて江戸川橋に。kawakamiさんが子どもの頃鰻の捌き方を飽きずに眺めていたという地域の学校的「鰻屋」が実家近くにあると言うので探してみたけれど見つからない。石切り橋上に立って眺めるとあった、あった、人から教えられなければ見つからないような控えめな風情のいかにも美味そうな店だった。妻に話すと私たち夫婦共通の友人(同級生)の女性が、学生時代文京区水道の川沿いにある鰻屋で子どもの家庭教師をしていたという。美味いと評判の店だったというがこの店かもしれない。

ちょっと時間がないので鰻はパスし、豆腐屋の斜め向かいの石切り橋通り・和菓子屋「美家本」に寄り道。「自家製おはぎ」の文句に惹かれて潰し餡と漉し餡二個ずつを購入。店内を観察するとかなり使い込まれた赤と黒の漆塗り菓子箱が懐かしい。幼稚園児だったころ父親が和菓子職人をしていたので和菓子工房で良く遊んだものだ。昔の店舗の写真が3枚ほど飾られていたが今とあまり変わらないみたい。写真も店も等速で古びたのだろう。おはぎの方だが見かけはごくありきたりのものだったが味の方はなかなかのもの。潰し餡の方がほんのり桜の葉の香りがするのが不思議。米の半殺し具合が妙に懐かしい。甘みは最近珍しいこってり型。包装紙の石切り橋の絵がかわいらしい。

江戸川橋方向に松坂牛を売り物にした肉屋を発見。しっかりした店構えのマンション1階の店なのだが、ビル名がその店の名になっているのでかなり古くから頑張った店なのかもしれない。「馬刺しあります」と書かれていて馬肥ゆる秋に馬刺しで一杯の図が目に浮かんだが午前中から不謹慎なので自粛。

2000年9月19日 火曜日

語尾上げ

知り合いの印刷会社社長が来て話し込んで行った。

改めて長話をしてみて気づいたのだが、その人、凄まじい“語尾上げ”言葉なのだ。テレビで若者の“語尾上げ”を聞く度にうんざりしていたのだが、同年輩の友人に“語尾上げ”君はいない。初めて生で聞く激しい“語尾上げ”だったので、あの人「“語尾上げ”で話すんだねぇ」と妻に言うと、
「あら、団塊世代って“語尾上げ”で話す人が多いわよ」
とのこと。
なるほど、あの人もあの人も軽度の“語尾上げ”君だったような気がしてきた。

ということは今“語尾上げ”で話す若者たちって団塊ジュニアなのかもしれないなぁ。

2000年9月18日 月曜日

原田泰治さんのこと

仕事で訪れた出版社の会議室に原田泰治さんの作品がたくさん展示してあって感激。かつて雑誌の表紙をお願いしていた縁で入手されたらしい。待ち時間に原画を心置きなく鑑賞できるのが有り難い。

原田さんとは一度だけ小さな会議で同席したことがあり、初対面なのに遠い昔から知り合いだったかのように気さくに話される方で好感を持った。

原画を見ながら、これは好き、これはまあまあ、これは欲しい、これはいらない、などと品定めをするのも楽しい。思うに、私が好きな原田さんの絵は田舎の細部が書き込まれたものなのだ。そうそう、こんなの有ったよなぁ、こんなの覚えている人がいるんだなぁと感心することが多いのだ。畑や田んぼをノスタルジックに描く人はいるにはいるが、古びた農作業小屋の細部を描ける人はそうそういるわけではない。人の営為を優しく愛おしむような描きかたが好きなのだ。雪の降る田舎のバス停の絵が一番気に入ってしまった。よろずやの細部が素晴らしい。

原田さんの絵の特徴の一つに描かれた人物に目・鼻・口が無いというのがある。要するに、のっぺらぼうなのだ。そして、作品を見る度に「これで良い」と私は思う。今日地下鉄に乗っていたら駅張りのポスターに原田さんの描く田舎の景色そのもののポスターを見かけた。原田さんかと思ったらなんとその絵の登場人物にはすべて目・鼻・口が描き込まれているのだ。多分原田さんでは無いよなぁ。だとしたら、ひどいことをするもんだなぁ。

原田泰治美術館 http://www.city.suwa.nagano.jp/museum/harada/

2000年9月17日 日曜日

二十世紀

子どもの頃よく食べた梨といえば「長十郎」だった。

ちょっとガリガリするけれど、良く熟れた奴にあたるととても甘いのだ。そのうち甘さはさ程でも無いけれど水分の多い品種が出まわるようになり、わが母などはヒ〜ヒ〜言って喜んでいた。二十世紀の登場である。自動販売機で缶入り飲料がホイホイ買える時代ではないし、電気冷蔵庫も無かったのだから瑞々しい果実は大歓迎されたのだろう。水道に口を付けて生水をガバガバ飲んで怒られていた私には甘い長十郎の方が良かった。

妻が仕事先で二十世紀を貰ってきたので久しぶりに食べた。本当に何年ぶりだろう。

「ああ、二十世紀の味がする」

と、妻はごきげんだった。その梨がどうしてわが家にやってきたかの由来を聞いてしみじみした後、

「これが二十世紀最後の二十世紀だなぁ」

などという寒いジョークが自然に口を突いて出てしまった。“二十世紀最後の”オリンピックも始まったわけで、ここしばらく“二十世紀最後の”ははやり文句になるのだろう。

2000年9月13日 水曜日

オート三輪に思う

鉄道の駅というのは概して街の中心地からちょっとはずれた場所にある。鉄道は外部から“ケ”を持ち込んで来ると考えられて、ちょっと気味悪がられていたようなのだ。確かに巨大な鉄の固まりが煙をはきながら、凄いスピードで余所者を連れ込み、連れ去っていくわけで明治時代の人たちの気持ちになればわからない話ではない。

私が子供時代を過ごした川沿いの祖父母の家にとって“外部”を持ち込んで来る文明の利器は「オート三輪」だった。

土手の道をガタゴトと走ってオート三輪が運んで来るのは余所者といっても様々な粘土だった。瓦製造業を営んでいたので大量の土が必要になるのだが、その辺の土をこねれば出来上がるというわけでもなく、瓦づくりに適した土を買っていたのだ。主に二種類の土があり、一つはよく見なれた赤土、もう一つは沼の底に堆積したようなグレイのやつで、祖父はそれを「ばんこ」と呼んでいた。もしかすると万古焼に使われる土だったのかもしれない。その二つの土を決まった配合で混ぜ不純物を取り除き丹念に粘土を作っていくのだ。土を慈しむような粘土づくりだったのは、日干しの途中ひび割れた瓦を修復するのに、祖父が口の中に粘土を含んで唾液で湿らせながら割れ目に擦り込んでいた光景を思い浮かべるとわかる。

幼い私にとって土の積み下ろしの最中、もっとも関心が有ったのはオート三輪につけられたエンブレムだった。何処の会社のものかわからないが、城の天守閣のレリーフが銀メッキされガラスの中に封印されたようなものだった。それがとてつもない宝物のように思えて、荷下ろしを終えたオート三輪がぶるぶるとエンジンをかけるまで飽きることなく手の平でさすっていたものだった。

「坊主、欲しいか?」

と聞かれ、貰えるはずがないのにコックリと頷いていたものだ。いつの日かこのお城のエンブレムのついたオート三輪が欲しいと本気で思っていた。

最近の自動車というのは、思わず財布の紐を緩めてしまうような好もしいデザインのものが無いなぁと道を歩きながら思ったりするのだが、車のデザインもさる事ながら、装飾で付けられている奇妙な造語の車種名銀メッキ部品のデザインが目を被いたくなるほどお粗末に思える。自動車のみならずカメラなども、そのお飾りロゴが有るがゆえに欲しく無くなってしまうものが多い。オート三輪の誇らしげなお城のエンブレムを思うとき、まさに最近の工業製品は画竜点睛を欠いているように見えてならない。

交感日記の書き込みを読んで遠い日の想い出がまた一つ浮かんできた。

2000年9月11日 月曜日

マスの祭典

仕事で銀座へ。

銀座通りの広告代理店「読広」の新社屋が落成したらしく、通りに社員が出て来賓ので迎えらしいのだが通行の邪魔になることこの上ない。ダークスーツの社員大勢が、他人の迷惑など眼中にない様子でうろうろしている様は「暴●団」みたいで気味が悪い。

山手線内回りに乗ると車内づり広告にソニーの手の平サイズコンピュータが。その機械には何の感想も無いのだが、人間の手の平の切り抜き写真がざっと数えて70個ほどあるのが気色悪い。現代美術で言えば「集合の魔術」という奴で、同一イメージを反復する事で意味の異化がおこる使い古された手法なのだが、最近はこの手の「マスイメージ」ものがとても無気味なのだ。ソニーといえばちょっと前のビデオのCFで最後に「みんな〜ハンディカ〜ム」と歌の連呼になる部分もとても気味悪かった。

人の手の平が集まっているだけで最近どうして気味悪く感じるのだろう。手の平の「切り抜き」が気味悪いわけではない。私は正月にタラバやズワイの蟹爪でちびちびやるのが大好きだし、手羽先唐揚げも好きだし、友人夫婦は皿山盛りの豚足で焼酎をやるのが大好きだそうだ。人間の手の平が大好物の動物なら、この車内づりも美味しそうなグルメ広告に見えるかもしれない。「人間の右手の平は格別に珍味である。この広告のは左手ばかりなので味がちょっと落ちる分、庶民的価格である」なんてね。

オリンピック開催間近のせいかNHK-BSではレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』をやっていた。何度か見ているのだが、二十世紀末に見るそれは、かつて見たときよりいっそう無気味さが際だって見えた。

これは、二十一世紀最初の正月は蟹爪も気味悪くて食べられないかもしれない。

2000年9月7日 木曜日

「21世紀のガリ版」へのお便り

有り難いもので、私の退屈な日記を読んでいてくださってお便りをいただくことがある。

K書房の菅原某氏より謄写版に関するメールをいただいた。以下原文のまま引用。

博物館というにはずいぶん狭いところだった。

確か秤の専門店だったように記憶している。 陳列ケースの中身は、商売の天秤などが肩身を狭くしているような配置で、ほとんどが手動印刷機のたぐい。計算機なども多くの種類が並べられていた。この計算機は、電卓が安く手に入る以前は証券会社のデスクや、計算尺よりも精度が必要な数値計算の領域では必須のもので、ジャリジャリ、カタカタ、チーン、とにぎやかな音がしていた。

おおっ、と声をあげてしまったのは、測量の処理に使うと説明がある、機械式積分器があったことだ。島などの不定形の輪郭を、いくつかの回転軸が組み合わさった棒の先についている針でなぞると、面積の目盛を別の針が指示するという代物だった。

さて、ガリ版器。「堀井謄写堂」だったかな、携帯用のはがきサイズ専用のがあって、実にモバイル、ヤスリからローラーまでコンパクトだった。ヤスリの種類も豊富で、今でいえばイラストレータのスウオッチパターンにあたる。鉄筆にも単純にとがって見えるもののほかに回転式などのバリエーションがあったように思う。先人はずいぶん工夫を重ねたことがうかがえる。コピー機やプリンター業界の今日は、生牛の目を抉るほどのおもむきだが、むかしはどうだったであろう。堀井謄写堂はこの業界ではトップで寡占状態だったと思うが、新たな機能や材料を開発するといっても「世界制覇を目指せ」というものではなく、もっと牧歌的だったかもしれない。 多色刷りの作品も展示されていた。網点であるわけはないのだが、けだるい感じの天然色の記憶が残っている。

場所は、国鉄の大津駅からこっちの方を湖に向かって下ったところ。

大津かぁ。ちょっと遠いけど行ってみたいなぁ。白山の川上さん、ご一緒しませんか?

ところで昔から「人は見かけによらぬもの」と言い、人を見かけだけで判断してはいけないという至極当然な戒めがあるのだが、インターネットの時代になって、もうちょっと複雑な側面が見えてきた気がするのだ。
見知らぬ人と気軽に手紙の交換(電子メール)などができるようになったのだが、文面がその人の全体像を表しているわけではなく、実際に会ってお話しするときの印象とのギャップに驚くことがある。

このことから「手紙から受ける印象で人を判断してはいけない」という訓戒を導き出すのはたやすいのだが、逆に、実際普段会っている人でも手紙をやりとりする中で「その人が別人格の様に立ち現れて来る」という現象が身近に起きるようになって面白いのだ。

何が言いたいかというと、このメールの主も手紙の中の方が数倍も奥深く知的興味の尽きない豊穣な人間像として浮かび上がって来るのだ。「いきうしのめをくじる」なんて言葉を軽々と走り書きしてメールをくれるような方と、いつか「馬そりが鈴を鳴らして走っていた当時の庄内の冬の夜話」でもうかがいながら美味い日本酒でも飲みたいなぁ。菅原さんありがとう。

2000年9月6日 水曜日

21世紀のガリ版

小学生の頃から本作りというのに憧れていて、シートン動物記とウォルト・ディズニーの動物エンターテイメントものを足して二で割ったような小説を書いていたりいた。原稿用紙に書いたものを背中合せ二つ折りにして綴じ、表紙を付け、まえがき、目次、奥付、既刊広告などもある本格的なものである。

年寄りというのはくだらない物をとって置くもので、郷里の母親がそれを大事にしまって置いて客に見せたりするものだから、「あんた、歳の割りに馬鹿だったんじゃないの?」などと妻に無礼なことを言われる羽目になってしまうのだ。

中学生になると一冊ものの私家版では我慢できなくなり、大量複製のできる謄写版の機械が欲しくてたまらなくなった。ワープロやパソコンなどは想像すら出来無い時代の事である。地元新聞紙上の読者交流欄に「新品同様ガリ版セット一式差し上げます」などという記事を見つけ、飛び上がって喜んで送って貰ったのだが、送られてきたのはヤスリのようなガリ版と鉄筆と原紙のセットだった。印刷機が無ければどうにもならない。

いつのまにか大人になり、仕事として本作りに携わるようになり、ふと気づくと回りに本好きの友人の数も増え、机の上にはDTP(Desktop Publishing)用のパソコンまであるのだ。これで長年の夢が叶うと勇躍して、ミニコミ雑誌創刊の企画書なんぞを筆書きで書いて友人に配ってみたりしたのだが忙しさにかまけてほったらかしのまま何年もの歳月が経ってしまった。

先日、このサイトに原稿を寄せてくれる友人の編集者を訪ねたのだが、その人がまた年寄りでもないのに物持ちの良い人で、前述の恥ずかしい企画書を後生大事に保管していたりする。時々「この企画どうなったんや〜」などと、思い出したように取り出しては私をいちびってきたのだ。

その日も、そのコピーを取り出して見せるので、「また始まった、嫌だなぁ、夜中に忍び込んで燃やしてやろうか」などと思ったりしたのだが、なんと今になって見てみるとその企画の半数近くがこのホームページの中で多少姿を変えて実現しているのに気がついた。 そうか。私のやりたかったのは“最新テクノロジーを活用した「いんたらくてぃぶ」なウェブ・サイト”なんぞではなく、気の合う仲間とガリ版を切りながらシコシコ印刷する時代遅れのミニコミづくりだったのである。

大げさだけど、これで21世紀への進む道が定まった。時代遅れのガリ版サイトで行こう。斯様に年寄りと物持ちの良い友人は有り難いものなのである。あらためて合掌。

2000年9月5日 火曜日

裏技二題

仕事で出かけた銀座にある出版社でのこと、エレベーターに一緒に乗った編集者が“4階”のボタンを押し、「あっ間違えた」と言って慌てて“5階”のボタンを押した。問題はそれからなのだが、彼が続けて“4階”の点灯しているボタンを押すと、なんと取り消しが出来てしまう。特に“取り消しが出来ます”などと書かれてはいなくとも、最近のエレベーターってみな同様のことができるのだろうか?

更なる新しい裏技に遭遇。電話がかかってきて受話器を取るとしばし無言。「もしもし」と話しかけると「ピ〜〜ッ」という音。誰かがファックスと間違えて電話してきているのだ。腹立たしいのは、最近のファックスって“再送信”機能が付いているので、受話器を置いても、何度も何度も「ピ〜〜ッ」の電話がかかって来る。相手がファックスのそばに居る事を期待して「もしも〜し、この電話ファックスじゃありませんよ〜」などと怒鳴ってみるのだが馬鹿みたいで情けない。また、こちらが加害者になってしまうこともある。ファックスを送ったつもりが受信音の代わりに先方の声が聞こえて来る事があり、「あっ、しまった」と思ってすかさず送信クリアして、番号を確かめて送り直す。そうしないと“リダイアル・再送信”が機能して先方に迷惑をかけてしまうからだ。昨日も同様のヘマをやらかして、慌ててキャンセルしようとしたら、いきなり“この原稿は送信できなかった”という“ステータスプリント”が排出された。どうも相手が拒絶の操作をしたようなのだ。「やるな〜」。通常、わが家のファックスでは私の設定した5回の“リダイアル・再送信”機能で送信できなかった場合のみ、この“ステータスプリント”が出るはずなのだ。考えてみれば電話機にそのような機能、というかプッシュボタンの操作で“ある組合わせ”を押すと間違いファックスを拒絶するという裏技があってもおかしくないのだ。知りたい。「伊藤家の食卓」あたりを熱心に見ていると知ることのできた裏技なのだろうか?

2000年9月4日 月曜日

夏の終わり

昔好きだった広告コピーで「ナイフで切ったように夏が終わる」というのがあった。9月に入っても夏さながらの猛暑が続いていたのだが、今朝は肌寒いほどの涼しさだった。このまま秋が深まってくれたらいいのだけれど、また暑さがぶり返すのかもしれない。潔い夏の終わりなど、そうそう体験できるものではない。

私にとっての高校三年生の夏は「ナイフで切ったように」終わっている。

その夏、私は受験勉強に集中するというのを口実に栂池高原の民宿で過ごした。高原を去る前夜、激しい雨が降り、翌朝は半袖シャツが心細く感じるほどに冷え込んだ。昨日まで喧しかった蝉の声がパタッと止んでしまったのが印象的だった。 毎晩、郷里の母に電話を入れていたのだが、数日前から悪い咳をしているのが気になっていた。信濃森上発の列車で新宿に着く私を、母が何故か出迎えるために上京すると言い、新宿駅東口二幸(現アルタ)前で待ち合わせしたのだが、会った瞬間顔色がひどくさえないのに気づいた。聞くと、あまり咳がひどいので病院でレントゲンをとったら、かなり進行した肺ガンの疑いがあると言われたのだそうだ。呆然として新宿の街を歩き、食事をし、何を思ったか映画でも観ようかということになったのだが、何を食べ、何を観たのかほとんど記憶にない。

清水に帰ると、母は生活用品を入れたボストンバッグを抱えて病院に入院した。やがて二学期が始まり、放課後はガン患者が集められている病棟に見舞いに立ち寄るのが私の日課になった。入院後、私は母方の伯母の家に預けられ自転車通学ということになったのだが、伯母が、母にもしものことがあれば養子として引き取るからなどと言い出し、これは大学入試どころではないなぁ、この歳で養子というのもイヤだなぁと、本気で悩んだりもした。

幸いにも、母の肺ガンは若い頃患った結核の治癒した部分(片方の肺は機能していない)を、担当医がガンと見誤ったというものだった。退院の日、晴れ晴れとした気持ちで母を迎えに行き病棟を振り返ると、同室だった患者さんたちがベランダに出て、笑顔でちぎれるほどに手を振っているのが見えた。ナイフで切り取られた夏の傷口が疼くように、この年の秋は今でも切ない。


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