電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2000年12月27日 水曜日

ヨイトマケの唄の余韻

『ヨイトマケの唄』に一緒にウルウルした妻が妙なことを言う。

間奏のなかで

「おとちゃんのためなら えーんやこーら」
「おかちゃんのためなら えーんやこーら」

という歌詞があったと思うが、あの意味が釈然とせず、「おとちゃん、おかちゃん」のために働く子どもたちの歌かと思っていた頃があるのだという。

働く「おとちゃん、おかちゃん」が唄う歌なら

「むすこのためなら えーんやこーら」
「むすめのためなら えーんやこーら」

ではないかと思ったというのだ。

私はそんな風に思ったことは無かったけれど、考えながら次のように説明してみた。

ヨイトマケというのは組んだ櫓の真ん中に太い円柱(鎚)をロープで吊り下げ、大勢の男女が滑車を介してロープで巻き上げては地面に落として行なう地固め作業のことだ。このとき、

「よーいと巻けー」
「よーいと巻いたー」

とかけ声をかけあうので「ヨイトマケ」と呼ばれるようになったという。

かつて民謡が近代的に形式化される以前、テープレコーダがまだ紙テープだった時代に、民謡の原形を取材して歩いた方の、音源とお話しをうかがったことがある。民謡の原形には驚くほど性的な内容が含まれ、いわゆる春歌にあたるものが多いという。労働歌だから辛い仕事を忘れるための慰めになるものが求められた。特に漁師などは漁が無ければ小舟で幾晩も夜明かしすることが多く、居眠りはすなわち命を失うことに直結していたからだという。

「おとちゃん…おかちゃん…」の一節は、円柱を地面に突きたてる行為を男女の性行為に見立てた「辛さを忘れるための楽しい労働歌」だったのではないかと言って見たら、妻もひとまず得心したようだった。

真実のほどはわからない。

2000年12月26日 火曜日

ヨイトマケの唄

NHK総合テレビ『そして歌は誕生した』で美輪明宏が歌う姿を久しぶりに見た。

『ヨイトマケの唄』は我が国最高の傑作であるとは、なかにし礼氏の談。円熟した美輪明宏の唄いっぷりで聞き直すと、なおさらその感が強いことは確か。

東京オリンピック直後の発表当時、あの美青年姿で唄われる『ヨイトマケの唄』はどんなだったのだろうか。美輪明宏もすっかり年輪を重ねたが、『ヨイトマケの唄』も振り返れば私のなかで同じように心の襞の年輪を刻んできた気がする。

意味もわからず、気の進まない仕事を与えられたとき「えーんやこーらぃ」とふざけて歌っていた小学生時代、「ヨイトマケの子供きたない子供といじめ」られることに憤懣を覚え胸を熱くした中学生時代。「泣いて帰った道すがら母ちゃんの働くとこを見た」で素直に泣いた青年時代。そして今、「高校も出たし大学も出た今じゃ機械の世の中でおまけに僕はエンジニア」のくだりの出てくる5番以降に複雑な思いを感じる中年時代。

この中年男がやっぱり涙腺が緩んでしまったのは意外にも3番だった。

姉さんかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き
天にむかって声あげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

「ヨイトマケの唄/作詞・作曲:丸山明宏/編曲:川上栄一 」より

2000年12月24日 日曜日

しょんばいシャケが教えるもの

「シャケはしょっぱくなきゃダメヨ」

友人のカメラマンKさんの持論である。塩辛いシャケ“超激辛”などという真空パックの塩ジャケをくれたりするのだが工業精製塩の塊のように苦辛いだけ、焼くと塩を噴いて全体真っ白、口が曲がりそうで血圧は上昇し泌尿器科のお世話になること必至の逸品なのだ。

郷里、静岡県清水市の次郎長通りというオールドタウンに「魚初」という小さな魚屋がある。100年以上も続く老舗なのだが実質店を切り回すのは私より10歳も年下の青年である。インターネットを通じてひょんなことで知り合い、親しくお付き合いさせていただいているのだが、友人Kさんと訪問した際、店頭に“昔ながらのしょんばい(しょっぱい)シャケ”というのを見つけた。Kさんは何枚か切り身を買い込んで帰京したのだが、それがとてつもなく旨いのだと言う。

その後、帰郷の度に土産にするのだが、試しに食べてみると懐かしくて旨い。そうだ、昔のシャケはこうだったよなぁという味なのだ。塩辛いけれど身に馴染んだ塩分が決してシャケの風味を損ねていない。

酒のつまみに焼いてみるのだが、妻にはいまいち不評。そうだ、日本海側の塩ジャケというのは確かに薄塩だった。太平洋側で育った私は、子供時代、大人の飲み会のご相伴にあずかって上品な鮭茶漬けなどをいただくと、こんな薄味なのはシャケじゃないと心のなかで思ったものだった。

前日食べ残したシャケを妻がおにぎりにして仕事場の昼食に持ってきた。旨い! コンビニのシャケのおにぎりなどを食べるから忘れていたのだが、ちゃんとした塩ジャケを、ちゃんと焼いて、ちゃんとほぐして、ちゃんと握りしめた「シャケのおにぎり」というのはこういう味だったのだ。外側にうっすらと噴いた塩はご飯粒と馴染み、うっすらシャケの色に染まって何とも言えない。妻もシャケのおにぎりがこんなに美味しかったのかと感激しきり。

そうだったなぁ。中学校の弁当で、でっかい弁当箱いっぱいに飯を盛り、その上に塩ジャケの焼いた奴をどーんと乗せ、フタでぎゅーっと圧縮したものを持ってくる友人が、「このシャケに触ってた部分の飯がまーたうめーだよ」などと自慢してたっけ。

そうだった、そうだった、子どもの頃はご飯をたくさんおかわりすると誉められたっけ。「あーら、まさひこちゃんはご飯三膳もおかわりしてエライねー」なんて言われたものだった。だから、ちびっとの塩ジャケを工面してご飯をたくさん食べたものだった。それが、東京オリンピックの後ぐらいから、「ご飯ばかりでなくおかずを食べなさい」などとご飯の大食が怒られるようになったのだった。味噌汁や漬物や塩辛いシャケなどはもってのほか、食文化の後進性の証拠で恥ずかしいなどと馬鹿なことを言う輩が跋扈したのもこの頃だ。

私が子どもの頃、近所の三河屋にはまだ冷蔵庫が無かった。塩ジャケなどは木枠にガラスをはめた箱に入れられて冷やさずに売られていたものだ。一枚、経木にくるんでもらって買って帰り、焼いて母親と半分ずつでご飯を食べた。韓国に旅行したりすると、朝食に小さな器に入れられた各種キムチがズラーッと並び、そいつでご飯をばくばく食べると何とも懐かしい。 塩ジャケ、梅干し、古漬け、たくあん、金山寺味噌、ゆかり、カツオの塩辛なんていう常備菜は、さあさご飯をたーんと食べなよと言っているみたいだった。

米というのはとてつもなく栄養バランスが良いのだけれど、含まれる栄養素が微量なので大量に食べなくてはいけないのだ。カレーだってご飯を馬鹿食いするのに好都合にできているのだ。

ご飯ばかりじゃなくておかずをたくさん食べなさいと言っといて、そのおかずが栄養偏向食品だったり、添加物てんこ盛りだったり、工場製異物混入食品だったり、愛のかけらもない無機質な味だったり、「食の失敗」のざまを、一個の「シャケのおにぎり」が笑っているのだ。

魚初のサイトはこちら
■■■ インターネットで見つける、“新しい食生活” ■■■
◆あじ節? ◆さば節? ◆いわし節?
◆ひらき? ◆たれ? ◆黒はんぺん?
◆まぐろ? ◆切り身? ◆醤油干し?
◆すり身? ◆しらす?  ◆桜海老?

ぜーんぶOK!きっと毎日が楽しくなる!

http://www.app.ne.jp/~hassan/Eigyou.html

ここの各種魚の醤油干しは飛び切り旨い。ミリンを使わず醤油だけだが、新鮮な素材をまじめに天日干ししてるから自然の甘みがある。ご飯がたーんと食べられる逸品ぞろいなのだ。

2000年12月23日 土曜日

サークルゲーム

今の時代、「豊かさとは何か」「本当の貧しさとは」などという問い直しが盛んだ。不況ゆえの痩せ我慢とも言えなくもないのだろう。万が一好況に転ずれば泡にまみれて再び踊り出すのが人間の本性かもしれない。いや、そんなことはないはずだと言いたい私なのだが。

金、金、金で踊りまくったところで「本当に豊か」ではないし「金では購えない貧しさ」というものがあると、つい口にしてしまうのだが、必ず反駁に会う言い回しが有る。

「金では購えない貧しさなんて金持ちにしか言えない言葉、金を掴んでかつ貧しいなんて思うのは金持ち失格、私なら幸せになれる」

はは、人間ってそういうものかなぁ。そういえばあの党も、あの国も、あの町も、あの人も。夢破れたものの後追いして椅子取りゲーム。

「私なら幸せになれる、幸せにしてみせます」

郷里、清水市の方言で言えば、

「ばかっさんがぁ」

ということになるんだが、廻る、廻る、廻る、サークルゲーム。

2000年12月22日 金曜日

「母の荷物」

『忠義、野菜をたーんととらなきゃ、ダメじゃにゃあきゃあ』という静岡弁丸出しのカゴメのコマーシャルが放映されてからもう25年にもなるのだそうな。友人から教えていただいた。

富士山をバックに農作業に励むお母さんが都会で暮らす息子を思って呼びかけるこのコマーシャルは大ヒットし、我が母も東京で大学生活をしている私にトマトジュースを送ってきたりしたものだ。

あのお母さんが友人の近所に住むおばさんで、息子の忠義さんは地元の静岡県三島市でお弁当屋さんを営んでおられるという。

母親の送ってよこす荷物というのは何故か切ない。送る間際になって思い付いたのか珍妙なものが入っていたりするし、隙間を埋めるために突っ込まれた郷土の地方新聞までが懐かしく胸に込み上げるものがあった。

あれから25年、私は中年になったし、母親は老人になった。そして、隣にいる妻はあの時の母親の年齢なのである。

2000年12月1日 金曜日

「さくら、故郷って奴はよう…」(「男はつらいよ」より)

『夫と妻の別居介護』という本を出されて話題になった松井省吾・幸江さんご夫妻の忘年パーティにご招待いただいた。この本の中に登場する幸江さんの実姉・カリスマ介護人にもお会いすることができた。松井さん、どうも有り難うございました。

月が改まり、とうとう二十世紀最後の師走となった。12月2日は郷里清水の「蔵談義」なので、仕事のスケジュール調整が大変だ。何としても出席したいからだ。 家内が「すっかり“地域の人”してるわね」などと茶かすので、ふと我が身を省みたりするのだが、松井ご夫妻の省吾さんは岐阜の実家に介護帰省するようになったのをきっかけに地域の介護ネットワークづくりを画策しておられるし、幸江さんは実家のある千住の地域の人々との交流を記録した『横丁サロン』を手づくりで発行してマスコミの話題になっている。

老親を地域で看取ることは、地域との繋がり無しでは叶わない。そう説明できる介護真っ只中の方たちと違い、我が母は今年七十の大台に乗るものの心身とも元気で「介護する・される」という関係に我が親子はまだいたっていない。そんな私の故郷への入れ込みは一体何処から来るのかという疑問が家内の口を突いて出たのだろう。

思うに、人間、母親と臍の緒を分かった時点で肉体の繋がりは切れているのだが、親が郷里にいることで「生まれた土地との臍の緒」は繋がったままでいることってないだろうか。だから心置きなく故郷を出奔したし、盆暮れの気ままな帰省を楽しんでいられたような気がするのだ。私の場合。

で、そろそろ親との永遠の別れのタイムリミットが見え隠れしだすと、生まれ故郷との臍の緒も親とともに消えてしまいそうな気がして、何とも心寂しいのだ。親がいない故郷への帰省は墓参り程度のものでしかないだろう。親を愛しどんなに手厚く介護しても、親はやがて消えて行く。その上、帰る故郷を失うことはさらに悲しいことに思えるのだ。物言わぬ冷たい墓石よりも、暖かい血の流れる人間に会いに帰省したい。「よっ、元気か」と、郷里の友人に会いに行きたいのだ。

多分、私のなかで「自分の“老後”への介護」が、親のそれより一足先に始まっているのだろう。


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