電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年2月26日 月曜日

絵を選ぶ

知的な障害を持つ方々のための月刊広報誌のデザインを担当するようになってもうずいぶん長い年月が経った。
表紙は本人たちの描いた絵をということで公募。毎年この時期に今年度分の絵12枚を選ぶ作業がある。編集者数名と私が投票と話し合いで決定している。賞金や賞状があったりするわけではなく、優秀作を選ぶというわけでもなく、なるべく多くの方々の個性ある絵を採用したいという理念で選考しているので気楽といえば気楽なのだが、毎回考えさせられることも多い。
あくまでもオブザーバーでという心構えで参加させていただいているので、最終決定のキャスティング・ボートを握らないようにと心がけているのだが、結果的に行使してしまうことも多い。
私が気にかけているのは「模写」のことである。絵や写真には当然著作権があり、「知的な障害を持つ方々」だからといって免除されるべきものではないだろう。応募者が本人ではなく、親や教職員である場合は尚更だ。
あまりに精密な写生であったりすると思わず警戒してしまうのだが、応募者のコメントに「想像で一気に描きました」などと記されていると思わず唸ってしまう。だとしたら天才的だなぁなどと思わずにいられないのだ。
もうひとつ自分の至らない点に気づくのは、具象絵画に比べて抽象絵画に対して寛容であり過ぎる点である。抽象絵画の模写に気づくというのは並み大抵の眼力でないとかなわない。
結果的に調査を行なってから決定などという手間はかけられないので、「本誌の主旨を考慮していただいて至らない点は…」などといういいわけを考えながらの選考になってしまう。
また模写に対する芸術的価値の問題などもチラホラ脳裏をかすめたりするので悩ましい。他人の描いた絵の選考は苦しいといえば嘘になるが、楽しいと言うにはあまりに奥が深い。

2001年2月25日 日曜日

日野啓三さんのこと

本の装丁という仕事は楽しい。
自分の装丁した本が出版社から寄贈されるのもその喜びの一つだ。日野啓三さんの対談集『創造する心』の装丁をさせていただいたのだが、完成した本が届いてビックリ。見返しに日野さん直筆でサインがあり、私宛ての短信が添えられていた。しかも印が押してあるという念の入れ方で。
編集にあたられた田村さんの心づかいもあってのことなのだが、こういう贈り物は本当にありがたい。このような著名な方が、私のような凡庸な人間が飛び上がって喜んでしまうような心遣いを忘れないでいてくださるというのには頭が下がる思いである。
出先の出版社でそのことを話したら「あの日野啓三さんが!?」と感激してくださったので鼻高々。日野さん、茂木さん、田村さん、どうもありがとう!

2001年2月24日 土曜日

文字と歩けば……5

パソコンソフトの機能向上競争が進むとソフト自体の大きさも比例して増大するのだが、どうもそのグラフが直線的でなく複利計算のように異様なカーブを描いて上昇しているように思えてならない。
類推だけれど、ソフト開発者はパソコンソフトを高機能でありながら小さく作るという努力を放棄してしまっているのではないだろうか。Macintosh を使い始めた頃のソフトはフロッピーディスクにバックアップできてしまうほど小さく、当時のハードディスクの容量が小さかったこともあり、たまにしか使わないソフトはフロッピーディスクから起動して使用するなどということもよくやった記憶がある。
WindowsCE ノート「モバイル・ギア」を使い始めて気づくのは、機能の割にソフトが小さいことだ。それもそのはずで、私の使用している機種が搭載しているメモリーは 32MB で、その限られたメモリーの中にデータ保存用とファイルを実行する領域を分け合っているのだ。当然ソフトは小さくなくてはならない。
メール送受信などは PocketWZ というソフトを購入し WZMail というのを使用しているのだが、その高機能なこと、デスクトップパソコンで使用したいほどの出来映えなのだ。インターネットで公開されているソフトウェアにも、よくまぁこんなものをと感心するほど小さくて便利なものが多い。こういう小石の中をくりぬいて大伽藍を彫刻するような作業は携帯情報ツールのソフト開発者が内外を問わず工夫を重ねているところなのだろう。
それにひきかえ、デスクトップパソコン用ソフトと来たらますます巨大になり、今度導入する Macintosh 用ソフトなど推奨割り当てメモリーを 200MB 近く要求するらしい。まったく、どうなっちゃってるんだろうなぁ。

2001年2月24日 土曜日

文字と歩けば……5

初めて買ったコンピュータが Macintosh だったのだが、その前に短期間ワープロを使ったことがある。SHARP の書院というワープロで、印字がたいそう美しかったのだ。所詮ビットマップの印字なのだが、これをさらに推し進めれば私のような職種の仕事を革新するのではないかと思うに至った。そんなとき「待てよ、最近 DTP という言葉を耳にするなぁ」と思い出し、近所の書店で買った MacWorld という雑誌が Macintosh との出会いだった。漢字TALK6.0.7の時代である。
あっと言う間に Macintosh を使うようになったわけだが、それ以前、パソコンなんて一生さわるもんかと思わせるシンボルが NEC の機械だった。あのグレー(通称ドブネズミ色)の塊はパソコンアレルギーを助長する醜悪な物体でしか無かった。
ところが最近、この NEC の機械が気に入ってしまい、認識を新たにしつつある。WindowsCE という Windows のミニチュア版のような OS が発売され、小型のキーボード付きコンピュータが出てきたので何台か使ってみた。各社工夫を凝らしたコンパクトな製品をそろえる中、NEC のは中途半端に大きくて、私にとっては全く商品選びの範囲外にあった。しかし、コンパクトで携帯に便利なはずの WindowsCE が何とも使いにくい。年相応に眼の焦点調節がままならず、小さければ万事よしというわけではないことが、身にしみてわかってきたのだ。
新潟に住む友人が、この NEC の WindowsCE ノート「モバイル・ギア」にご執心なので店頭で触ってみると、なんとも使い心地がよい。間抜けた大きさに感じていたキーボードが絶妙なサイズに設定されていることにも驚いた。しかもカタログを調べてみると、出先でバッテリーが切れた場合に備えて単3乾電池が使用できるときている。もう、欲しくて欲しくてたまらなくなったのだが、インターネットで歴代機種を検索してみると、最近のはインターネットの普及で激増した女性ユーザーをあて込んでか、ライトなカラーになってしまっていることに気づいた。ライトなカラーのキーボードは疲れるし、汚れは目立つし、なによりもそんな色合いが似合う年頃ではないのだ。どうも MC-R520 くらいの昔の機種が良さそうだと目星をつけ、中古パソコン販売店を回ると、あるわあるわ、しかも激安で。ありがたいものである。
使い始めて一ヶ月ほどになるがもう手放せない。さすが「国民機」を作っていた会社の製品だなぁと感心してしまう。いや、待てよ、「ドブネズミ色の秘密」がわかる年頃になったということかなぁ。

2001年2月24日 土曜日

文字と歩けば……4

人間、割り切るというのは大切なことだ。「コンピュータの無いところに行ったらコンピュータが無ければできない仕事は諦める」というのは、なんてかっこいい生き方だろうか。私の好きな写真家に「旅には広角レンズ一本しか持って行かない」という方がいて「望遠レンズが無ければ写せない風景に出会ったら諦める」のだそうだ。この潔い旅人の写真は、見ていて心地よい。森山大道さんだ。
先日、編集者のMさんが来社し「持ち歩くコンピュータ」の話になった。現在私が常時携帯している機械を手に取りながらお話ししていると、メールの送受信さえできればとおっしゃっていたのに、「インターネットのサイトも見られますか」と言うので「ええ、これが私のサイトです」とお見せした。すると、サイト作成はできますか、デジカメの写真を取り込んで……と、話は飛躍する。自分の欲求に素直な方で、こういう方が先進的製品開発を目指す企業の良きパトロンになるのだ。使用者の理想に答える製品を開発できるまで、出来損ないに投資して「銭失い」をしてくれるイノベーターを企業は必要としているからだ。
私のようにすれっからしになると、机に座ってコンセントから電源をいただいて使用するパソコンでできるようなことを、 「持ち歩くコンピュータ」でやろうなんていうことは、とうに諦めてしまっている。私が生きているうちに、万能であることと持ち歩けることの相反する欲求を叶えることは不可能だと確信してしまったのだ。私も本当は苦手な「潔い割り切り」をするしかないなぁと、銭失いの末に気づいたのだ。
諦めの末に割り切って考えた理想の「持ち歩くコンピュータ」は、
●起きていて原稿が書き続けられる限界の時間程度に電池が保つこと。
●電池が無くなったとき、どこでも買える乾電池で動くこと。
●コートのポケットに入る大きさで、なおかつ打ちやすいキーボードが付いていること。
●メールの送受信ができること。
ということになる……と、決めた。
そして、そんなコンピュータでこの日記を書いている。

2001年2月22日 木曜日

文字と歩けば……3

移動中にコンピュータで文字が読めるとなると書きたくなる。携帯電話のボタンを親指で小器用に押してメールを書くなどというのではなく、ある程度まとまった文章が書けたらというのはWEBサイトやメーリングリストを運営していたりする者の限られたニーズかもしれないが。「文字を読むためのミニ・コンピュータ」選びにくらべて「文字を書くためのミニ・コンピュータ」選びというのはそう簡単ではない。パソコンを使うようになった中年男の眼の都合というのがまことに厄介なのだ。
眼と文字の距離、そして文字の大きささえ調節すれば文字読みはできるのに対して、文字が楽に読める距離が文字入力に相応しい姿勢になるかがとてもデリケートなのだ。ミニ・コンピュータは小さくて携帯には誠に便利なのだが、キーボードが小さいと覗き込むような姿勢になって書くことが苦痛になってくる。
コンピュータは小さく、キーボードは大きくというのが理想のように思えた時、コロンブスの卵のような発想の Palm 用キーボードを発見してしまった。コンピュータ本体とさほど大きさの変わらない手の平サイズの箱がパタパタと開くとフルサイズのキーボードになってしまう。さらに ATOK という文字変換ソフトつきなのである。これは便利と買い込んで持ち歩き、使用してみたのだが何とも文章書きに身が入らない。私は「かな入力」なのにそのキーボードは「ローマ字入力」用なのだ。「かな入力」者は「ローマ字入力」も出来てしまうのでしばらくトライしてみたのだが、「バレンタインにはチョコレートを」と入力するのに「BALENTAINNIHACYOKOLEETOWO」などと入力するのが堪えられない苦痛で作文どころではないのだ。ValentineやChocolateのスペルすら忘れてしまいそうで恐ろしい。かくして Palm はリード・オンリーの手帳として使われることになった。

2001年2月20日 火曜日

文字と歩けば……2

移動中(モバイルと言うらしい)にコンピュータで文字を読むというのは意外と快適なのだ。Palm の場合、読みかけのまま電源をオフにしても、再度電源を入れれば閉じた箇所の画面が即表示されるし、ページめくり(画面スクロール)も片手で済んでしまう。また画面表示がかなり粗いビットマップフォントなのだが、却って視認性が良い。電子ブックが紙の書籍を凌駕してしまうのではないかと言われた時代、液晶画面で文字を読むなど少なくとも文学作品の鑑賞などに堪えるものではなかろうと思っていたのだが、考えを改めなければと思い始めている。
青空文庫などから、文学作品のテキストデータをダウンロードして持ち歩いてみるのだが、なかなか楽しく読書できるのだ。おそらく電子の読書で究極として問われるのは「作品の質」なのだと思う。作品の質が高ければ、それが粘土板に刻まれたものでも、縄の結び目を連ねて書かれたものでも、人間は物語の世界に没入して夢の世界に遊ぶことができるのだと思う。次に問われるのは快適に読書するためのインターフェイスであり、文字の品質や縦組み表示などの組み体裁は、電子の読書においてはさほど重要でない気がして意外なのだ。これは、自分が体験してみなければわからないことだ。

2001年2月19日 月曜日

文字と歩けば……1

電車やバスなどで移動中に本を読むなどということは、私の少年時代には親から固く禁じられていたことの一つだった。目が悪くなるというのだ。だから決して乗り物の中で本などを読むことはしなかったが、それでも中学を出る頃には人並みに近視になった。
子どもの頃は、親に禁じられたりしなくても、車窓の景色を眺めているだけで飽きることなく、本など読む気にならなかったのものだ。しかし、成人して単調な通勤時間を車内で過ごすようになると、新書判や文庫判の書籍が手放せなくなった。退屈しのぎだけでなく、通勤時くらいしか読書の時間が見つからない慌ただしい大人の仲間入りをしたのだろう。
本以外に文字を持ち歩くものの一つとしての住所録などは電子文具の方が便利に思えるもののひとつだ。あれこれ遍歴したあげくに Palm という、その名の通り手のひらサイズの小型コンピュータを持ち歩いているのだが、最近、パソコンでインターネットの新聞社サイトや各種情報サイトを自動巡回して Palm に書き込んでくれるソフトがあることを知った。これがなかなか便利で、車内でその日の朝日新聞や郷里の地方紙を読むことなどができるし、気になった記事はコピーしてメモに残しておけるなどというのもコンピュータならではのメリットだと思う。
新聞をこのような方法で読んでいると面白いことに気づく。紙の新聞用のデータを流用してインターネットで公開しているのだろうが、紙の新聞に比べて明らかに誤字・脱字が多いのだ。テレビなどで紹介される新聞社の仕事ぶりを見ていると、ベテラン校正者がいて厳しくチェックし、印刷直前まで赤字を入れている姿を目にする。無料のインターネットサイトに、その最後の電子化された原稿を公開するなどという手間をかけているわけではないのだろうから、誤字・脱字の多さは、いたしかたのないことだろう。そうは思っても、その誤字・脱字発生プロセスを類推すると、記者もしくはオペレータが入力する際、どうしてこんな誤入力をしたのか不思議に思うことがある。
先日掲載された医療機関の診療報酬に関する記事にこんなのがあった。某病院院長の名前「ゆうじ」を入力ミスしているのだが、おそらく「雄二」と入力するところを、なんと「雄2」と入力・出力しているのだ。どうしてこんなことが起こるのだろう。どんなパソコンの入力ソフトでも「ゆうじ」と打てば「雄二」は候補に出てくる。「ゆう」と「じ」を分けて変換したとして「ゆう」は「雄」と変換できるが、「じ」を「2」と変換するソフトなどにお目にかかったことがない。化学でモノ、ジ、トリ、テトラというように「ジ」は確かに「2」なのだが、「じ」と打って「2」などと変換されるように辞書登録する人などいるのだろうか。
もうひとつの可能性はOCR(光学的な自動読み取り)ソフトの可能性だ。「二」を流暢な書きぶりで書いたら「2」と誤って判断するなんてことも可能性としては有りそうな気もする。
そして、さらに考えつく可能性として、この院長がロック好きで「U-2」をもじって「雄二」を「雄2」と書いてペンネームにしている可能性はあるのだろうか。もしくは本当に「雄2」が本名の可能性はないだろうか。算用数字の命名って許されるとしたらの話だが。
そんな事をぼうっと考えていると車中の文字読みはなかなか楽しいのだ。


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