電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年5月29日 火曜日

【巡視船「いず」との再会

5月27日、第三管区海上保安本部勤務の友人を訪ねて観閲式を見せていただいたのだが、その友人からメールが届いた。


そう言えば、石原さんが、むかし清水で撮った「いず」の写真と対比すると、船もだいぶ変わりましたね。
でも、あの時清水で「いず」の写真を撮った石原さんが、ひょんなことから私と知り合って、なんの因果かまた「巡視船いず」と再会した。代替わりしたことがよけいになんか意味があるような感じがしました。

そうかぁ。友人より一学年上の私は写真部に在籍し、清水港に寄港していた海上保安庁所属の巡視船「いず」の写真を岸壁まで撮りに行ったのである。そして30年余り後、私はその「艦上の人」になっていたことにメールをいただくまで気づかなかったのだ。しかも海保の友人、カメラマンの友人夫妻、当時はまだ小学生でサッカーに熱中していたはずの清水の魚屋さんとその一家と共に。

30年後の未来に、気の合う仲間や生涯の伴侶とともにあること、当時の高校生が想像だにしなかった人生を生きていること、そしてそのことだけで豊かな人生であるような気がすること。すべてを引っくるめて、それはなんとも有り難いことだと感慨無量。

高校生時代私が写した「いず」。

2001年5月28日 月曜日

【ホモ社会とアジア食堂

「ホモ社会」をキーワードにインターネット検索してみると、男性同性愛者のページばかりがヒットする。私は「均質化された社会」(Homogenized Society)という意味で使ってみたのだが、こういう術語は無いのだろうか?
私の学生時代、国立大学の授業料というのはとてつもなく安かった。うろ覚えだが前後期合わせても一万円ちょっとだったのではないだろうか。だからといって貧乏人ばかりが入学していたわけではなく、豊かな家庭に育った者もいれば、授業料免除、奨学金多数、寮生活、バイト代は故郷に仕送りなどという苦学生もいたのだ。そんな大学のボロ食堂は昼食に「A・B・C」の選択肢があってもメニューのバリエーションでは無く、「安い・かなり安い・とてつもなく安い」という思いやり溢れるものだった。ボロボロの綿入れを着て毎日「とてつもなく安い」昼食をいただく友人を見るにつけ、己の境遇を有り難く思ったものだ。
六義園近くに「アジア文化会館」という蔦に覆われた年代物の建物があり、その地下の食堂が一般人も利用できると知ったので、時々昼食に出掛けるようになった。カレーと中華料理の定食で550円くらい。メニューは5種類程度と少ない。だが懐かしい学生時代に戻ったようで嬉しい。利用している人々は、ほとんど日本人と変わらない風貌だが、話し出すと各国語が飛び交ってアジア食堂化する。お国言葉は違っても皆箸の使い方が上手なのが同胞意識をくすぐる。皆、お箸の国の人なのだ。
よく見ていると、定食ではなく弁当持参の人、袋菓子で昼食の人、皿だけを持参し、無言で立ち上がっては自分のオカズを分け与えてくれる仲間たちに深く合掌していただいている人。様々な国から、様々な事情を背負って日本で学ぶ人たちがここには集っているのだ。
「ホモ社会」で均質化したメニュー、均質化した価格、均質化した味で飼い馴らされた日常の表層を離れ、決して味覚だけではない味わいを楽しめる方なら是非お薦めしたい。すべてのメニューに「ワカメの味噌汁」が付くのだが、味噌汁の食べ方一つ取って見ても、それぞれのお国の習慣がうかがえて楽しいこと請け合い。
********************
(財)アジア学生文化協会は故穂積五一氏(初代理事長)によって1957年に設立されました。日本とアジア諸国の青年学生が共同生活を通じて、人間的和合と学術、文化および経済の交流を図ること、そしてそれによってアジアの相互理解と世界の平和に貢献することを目的としています。1960年、アジア文化会館(ABK)が開館し、以来ここにアジア各国の留学生や研究者が生活を共にし、意見を交わし、互いに学び合ってきました。(「アジア文化会館」サイトより)
http://kbic.ardour.co.jp/~newgenji/abk/index-j.html

2001年5月27日 日曜日

【観閲式に想う

第三管区海上保安本部勤務の友人の晴れ舞台、平成13年度観閲式を見に横浜まで出掛けた。
あいにくの雨模様だったけれど、靄に煙ったレインボーブリッジを潜り、巡視船「いず」が東京湾沖に出るにつれ、曇り空の沈鬱さと反比例するように、心が浮き立ってくるから不思議だ。一列縦隊になって、灰色の水平線から忽然と現れた全国各地の海上保安部所属艦船が次々に海上行進してくるのだが、すれ違いざまに甲板で直立不動で礼の姿勢をとる乗組員の姿が美しい。巨大な艦船に小さな鉛の人形を規則正しく配置したような非日常性溢れる光景なのだ。久しぶりに心の昂ぶりを覚えた。
そんな話をすると、軍靴の響きが聞こえてきそうでイヤだと眉をひそめる人もいれば、来年は是非参加したいという「予想外の海洋ファン」もいて面白い。仲間と話しながらも、実のところ私は海洋ファンでもなければ、軍国少年でもなかったので、「こういう光景をかつて何度も見た記憶があるのは何故だろう」と、ぼんやり別の思いに耽っていたりするわけで、それも人の話を聞いていない一人っ子の悪癖かもしれない。心の昂ぶりの理由が気になって仕方ないのだ。
で、突然思い出したりするのだが、私が子どもだった頃の大人たちは、何の機会を捕らえてかは判然としないが、よく記念写真を写していたらしい。私が祖父母の家で過ごした時代のアルバムにも大家族の記念写真が何枚も残されている。
祖父母の家は瓦工場で、使用人などは居らず家族総出の人海戦術で、土を捏ねるところから焼き上げて出荷するまでの作業をこなしていた。薄汚れたランニングシャツと長いのをちょん切った半ズボン姿の祖父や叔父たちの顔は日焼けして逞しく笑顔に屈託がない。背後の窯小屋の煙突はもうもうと黒煙を揚げ、写真は長い力仕事の総仕上げ“窯入れ”直後の記念撮影である事を教えている。仕事場は家族を乗せた船であり、働き手たちは船乗りの様な誇りと気概を持って生きていたのだろう。
自分の仕事に誇りを持って生きている人たちの姿というのは、いつの時代も美しく見るものの胸を打つのだろうと、観閲式帰り、夜の街をふらふらと風に舞うような人波に揉まれながら、私はぼんやりと甘酸っぱい思いに耽っていた。

2001年5月26日 土曜日

【ウグイス

六義園では早朝四時ごろから鴬が鳴いているのだが、今年の鴬は美声だ。しかも、例年の鴬は街に喧騒が戻って来て、園内で開園前の準備が始まる頃には鳴き止んでしまうのだが、今年のは十時くらいまで鳴いている事もある。求愛の歌と決めつけて、「燃える鴬」「パッション鴬」などとわが家では名前が付いてしまっている。
仕事でモノクロの鴬のイラストを貰い、こちらで着彩という話になってハタと困ってしまった。試しに編集者に尋ねてみる。
「鴬は何色に塗りましょうか?」
「ウグイス色」
「ウグイス色って?」
「緑色」
中学生の時だったか、国語の教科書にあった話を思い出す。日本放送協会のラジオで「ブッポウソウ」の鳴き声を収録することになり、鳴き声の主を求めて鳳来寺山中で取材するうちに「ブッポウソウ」と鳴くのは ブッポウソウ目ブッポウソウ科の鳥「仏法僧」ではなく、フクロウ目フクロウ科の鳥「木の葉木菟(このはずく)」であることをつきとめるのだ。通称「ブッポウソウ」には「姿のブッポウソウ」と「声のブッポウソウ」がいたという話にワクワクした記憶がある。
で、編集者が言う「ウグイス色の鴬」というのはメジロであって、「声の鴬」は茶色い鳥で木々の下をひっそり渡り歩く弱い小鳥なのだそうだ。当然人前に姿を見せることは希有だという。
はてさて、いかに着彩したものか。本の表紙を飾る鴬のイラスト、あなたなら何色に塗るだろう。

イラストレーション:中里 仁

2001年5月23日 水曜日

【奇妙な譲り合い

私が子どもの頃は、電車に乗った際、余程のがら空きでない限り座席に座ることは許されなかったものだ。最近は先を争って自分の子供を座らせる母親が多いのに驚く。
子供をめぐる奇妙な席の譲り合いを見てしまった。あまり変なので日記に書いておこう。
JR の通勤車両には多くの人間をつめ込むのに特化していて、ラッシュ時は座席が跳ね上げられていて客全員立ったまま護送されるという車両システムがある。ラッシュ時を過ぎて座席を降ろすと大人三人がやっと腰かけられる堅いシートが現れる仕組み。入ったことはないが本で見た監獄のベッドのようだ。
その三人がけ席の端に座っているご婦人が頻りに子供に席を譲ろうとしており、その反対端に腰かけている母親が、
「いいんです、子どもは立たせておいてください」
と、執拗に断っている。これだけなら、今時珍しいしっかりしたお母さんだなぁと感心してお終いなのだが、珍妙なのは「譲ろう・断ろう」としている二人の間は、なんと空席なのだ。空席に子どもを座らせればいいようなものなのに、何故ご婦人が更にもう一つ席を譲ろうとしているかというと、断ろうとしている母親の膝に老人が腰かけているのだ。要するにこの一家、祖母・母親・孫の三世代連れなのだ。
ご婦人は、「多分この三世代家族は三人並んで三人がけ席に座りたいのだ」、それができないので子どもは立ったまま、おばあさんは「膝に座るなどという不自然な状況」になっているのだろうと類推しているらしい。
で、「今時珍しいしっかりしたお母さん」の方は「子どもは座らせるべきではない」、大人は座りたいけれど「二人で一つの席を共有すれば誰かもう一人座れるではないか」と、さらに「高貴な譲り合い精神を実践して子どもに見せる」事で、周りの人に思わぬ心の負担を与えてしまっていたわけなのだ。親亀の膝に祖母亀を乗せて、いつかこけても孫亀が美しい日本人の心を受け継いでくれる事にかけた壮大な構想があってのことなのだろう。よくわからないが頭が下がる思いである。

2001年5月22日 火曜日

【上手回しをめぐる攻防

友人夫婦が「愛らしい」を通り越して「とびきりふぁんしー」な iMac を買ったのだが、インターネット接続速度に満足できないと言うので、高速回線での常時接続をお薦めした。
私が機器を買い込んで、出張って設定をすれば割安になるのはわかっているのだが、忙しいこともあって「金で解決するだけの予算がある?」と聞くと「ある」というので、機器導入・接続・設定まで、すべて電話会社でやってもらうことになった。
数日後、見事開通のメールが届いた。聞くところによるとその電話会社のサービスマン氏曰く、
「私が設定すると高額のお金をいただかなくてはなりません。横で指示しますからご自分でおやりになったら?」
と、言うのだそうだ。結局横でマニュアル片手に指示し、接続設定を完了して帰っていったのだそうな。
「親切なサービスマンもいるんだねぇ」
と、言うので頷いて聞いておいたのだが、実のところはどうなのだろう。
電話会社にすれば、パソコンの設定まで込みで引き受けてしまわないことで、後日不調になった際発生するアフターサービスの義務逃れ、リスク回避の目論見もあるのではないだろうか。機器の不調ならそっくり取り替えれば済むのだから。パソコン内部は、ユーザーが勝手にいじって不調になるケースもままあるわけで、それでいちいち呼び出されていたらサービスマン氏も身が持たないし電話会社も採算が合わないのだろう。
電話会社が一枚上手かもしれないなぁと思ったのだが、友人夫婦もさらに上手で、そのサービスマン氏が帰った後、早速別の安い電話会社に乗り換えてしまったのだそうだ。なかなか見応えのある攻防に「座布団をお投げになりたい」気分だ。

2001年5月21日 月曜日

【権藤野球を極めれば……

横浜ベイスターズ前監督の権藤博氏がテレビで立川談志と対談していた。
監督など居なくても勝てるチームは勝てる。しかし、出来うるならもう一度ユニホームを着て監督をやりたいそうだ。この人の言っている事を無理やり纏め上げて具現化するとなかなか面白い。
こんなのはどうだろう。監督・コーチがベンチ入りメンバーを決める。ベンチ入り後は選手全員の合議で「とにかく勝つ野球」をする。球団はベンチ入りした選手全員を評価する。監督はユニホーム姿で(本人の自由)スタンドで観戦するだけ。なかなかいいなぁ。ラグビーみたい。
子どもの頃、私の所属した少年野球チームはとても強かったけれど、チーム全員で話し合って守備位置、打順、先発投手、投手交代などを行っていた。勝つことだけを真剣に考えると意外に意見の集約はできるものなのだ。監督は練習時に技術指導してくれるだけ。楽しかったし、勝った時みんなでわかち合う達成感はスポーツ精神そのものだったような気もする。そんな、選手自主管理によるプロ野球チーム同士の試合って、結構面白いんじゃないかなぁ。

2001年5月19日 土曜日

【永遠の息子

天井の高い倉庫のような場所、漆黒の闇の一角に裸電球で照らされた場所があり、数人の男がモツ煮の大鍋を囲んで酒を飲んでいる。セピア色の世界だ。
そんな夢をよく見るのは、古くて汚い飲み屋好きの友人のせいばかりではなく、小学校一年生頃まで父親に連れられて行った大衆酒場や簡易宿泊所などを思い出しているようなのだ。昭和三十年代初頭、なぜ小学校一年頃までと限定するかというと、それ以降父は風の便りで死んだと聞かされるまで家に帰らなかったのである。
父は幼い私を連れてよく外出した。私を連れて外出すれば、私の食事代などを酒代に充てるのに好都合だったからである。菓子パンを一個買い与えられ、父について場末の酒場や立ち飲み屋を渡り歩き、時には酔いつぶれた父と簡易宿泊所の棚で眠ったこともあった。
菓子パンで済ます夕食はそれなりに嬉しかったし、酒場の酔っぱらいにちやほやされるのも楽しかったので、「僕は菓子パン、お父さんはお米のジュース」などと正直に母親に報告してしまい、我が家では両親の掴み合いの喧嘩が絶えなかった。
すでに父が死んだくらいの年齢まで生き延びたので、朧気な父の面影に語りかけて、いくら好きだからといって、妻を泣かせ家庭を打ち捨てて、のたれ死にするほどの酒好きには育たなかったぜ、と言ってみたりするが、実のところはわからない。私はとうとう父親にならなかったし、今生きている社会の表層は、夢に現れるあの時代より脳天気に明るいのだ。

2001年5月18日 金曜日

【太股の屈辱

JRの自動検札機を通り抜ける際、規定の運賃に満たない切符を放り込むと、左右の扉が勢い良く閉まって、太股あたりを叩かれる仕掛けになっている。大の男がそんな部位を叩かれるのは何とも情けない話だが、たとえ故意ではなかったとしてもルール違反を犯したのだから仕方がないと諦めるより仕方ない。
許し難いのはその馬鹿機械が誤動作することがあるのだ。今日だって池袋駅の改札を出ようとしたら不意に太股を叩かれた。腹立たしいので有人の改札口にいって、
「駒込・池袋間って150円じゃなかったですか?」
と尋ねてやったら、駅員が気怠そうに切符を手に取って一瞥し、
「どぅおぅぞー」
と、顎をしゃくり上げて通っていいよの合図をしてお終い。確かに切符を瞬時に読みとる仕掛けはそこそこ優れているかもしれないが、客扱いに関しては出来損ないなシステムのように思えてならない。
以前同じ池袋駅で、見るからに丸暴風のおっさんが同じように太股を叩かれるシーンに遭遇した。夏用ゴルフズボンの出で立ちだったので、叩かれた拍子にパンツ!と妙に安手の音がしたのが、たまらなくおかしかったが、さすが丸暴だけあって無理矢理バキッと音を立てて突破してしまったのが凄い。更にそれだけでは怒りが収まらないらしく、振り向いて
「ぬぁんだぁ、こんのやろぅ!」
と捨て台詞を吐いたので後ろに続いた人々は恐怖で凍り付いていた。
丸暴と平和市民の決定的違いは“ぬぁんだぁ、こんのやろぅ!”と咄嗟に言えるか言えないか。そこに、不条理な客扱いをされた事の溜飲が下がるか下がらないかの、損得の分かれ目があるようにも思えるが、冷静になって考えれば、出来損ない機械で不正乗車を取り締まろうという鉄道側も、その出来損ない機械に凄んでみせる丸暴も、どちらも間抜けているという、ただそれだけの話だ。

2001年5月17日 木曜日

【溜め込みの諌め

何事によらず溜め込むというのは良くないと思う。
「装丁者の本棚」の更新を怠っていたら「編集バカ」※の敬称を捧げたいほどの辣腕編集者に叱咤激励メールをいただき、張り切って更新したけれど実際大変だった。溜め込んだつけが我が身に回ってくるのは宿便も同じだ。溜め込んだ方が良いものなどこの世にあるのだろうか。
二宮尊徳先生は、金や富を「溜め込む」ことをキツく戒めておられた。金は常に動かしていなければいけないというのだ。本当かどうか、唯一溜め込んだことがないので謎だ。
   ※「編集バカとバカ編集者」
    坂崎靖司/著、二玄社、1,400円+税
    という本があるそうです。

2001年5月14日 月曜日

【もう一度深瀬昌久さん

冷静に考えて一字一句言葉を選びながら文章を書くと「惜別の辞を読むような気分」(はまボーズ氏)を醸してしまうのも年をとったということだろうか。
深瀬昌久さんの消息に関するメールをいただき、様々な思いを胸にぶらりと夫婦で飲みに出ると午後六時半を回っても初夏の東京はまだ明るい。中里一丁目で開店22年という、初めて暖簾をくぐった小料理屋は、秋田出身口ひげのご主人と、栃木出身美貌の奥様が営む店だった。
他に客も居ないので、ご主人の話に相槌を打ちビールを注いでやったりしながら、隣の妻を相手にどうして高校時代、深瀬さんの写真が嫌いだったのかをぼんやり考えてみたりした。
記憶の中の氏の写真には、繰り返し繰り返し「家族」と「故郷」が登場し、それは時には「生」と「死」に姿を変えて立ち現れることも多かった。今にして思えば高校生の私にとって氏が執拗に投射する「家族」と「故郷」の幻燈は、口にこそ出さないものの親元を離れて「近代的な都会人になりたい」と思う心に冷水を浴びせかけられるような気がしたのかもしれない。東京に住んで錚々たる若手写真家群に名を連ねている氏が、どうして「家族」と「故郷」に執着し続けるのかが、当時の私には理解できなかった。功成り名遂げた「近代的な都会人」が「家族」と「故郷」に執着していてはいけないと、馬鹿な高校生は思っていたのだ。
1973年版『アサヒカメラ』のページを繰ると、「近代的な都会人」の鍍金が剥げて薄っぺらな表層しか残っていない凡百な写真たちに混じって、深瀬昌久氏が灯した十六頁の「家族」と「故郷」、「生」と「死」の走馬灯は今も揺らめきながら回り続けている。切なくも懐かしいこの世とあの世の影絵芝居だ。

2001年5月12日 土曜日

【カレーうどんを食べるまで

何年か前、郷里の母親が上京した際、近所に旨い「カレーうどん」を食べさせる店を見つけたと大喜びで帰ってきた。おいしいから行って見ろと頻りに勧めるのだが、もたもたしているうちに人気店になってしまい、マスコミの宣伝もあって毎日行列ができているという。そうなると、行列してまで「カレーうどん」を食べる気もしないのでうっちゃっておいた。
妻と二人近所まで出かける用事があり偶然思いだしたので、意を決して入ってみることにした。正午まで三十分もあるというのに長蛇の列。二十名も入れない小さな店なのでなかなか順番が回ってこない。
ガラス越しに背中が見える店内手前のカウンターに座っている常連風の若いデブが、カレーうどんをすすりながら隣の女性に頻りに話しかけているのを見ていたら腹が立ってきた。大体、麺類というのは急いで食べないと延びて味が損なわれるので、黙々と手際よくドンブリ→口→胃袋、ドンブリ→口→胃袋と送り込んでやるべきものなのに、そのデブは女にちょっかい出すのに夢中でうどんが延びているのか、いくらすすり込んでもドンブリからうどんが出てくる。もしかするとドンブリ→口→ドンブリ、ドンブリ→口→ドンブリと外の順番待ちの人々を焦らせるために、うどんのピストン運動をしているだけじゃないかとも思えてきた。
順番待ちの人々が苛ついているのを見て、隣の中華料理店のおばちゃんが出てきて「そっちより、こっちのほうが栄養があって旨いよ!」と盛んに客の引き抜きを仕掛けてくるのがせめてもの退屈しのぎ。
四十分ほど待ってようやくカウンターに座らされ「カレーうどん」を注文。カレーうどん一杯1200円也。エビ天入りのやつは1800円。これだから商売というのは面白い。もし、順番待ちしなくて済む席数と、一般的な蕎麦屋の「カレー南蛮」の価格と、不快なピストン・デブが常連に居なかったら、この店はもっと繁盛するかというとそうでもない。疲労と散財と不快が豪華三点セットになっているからこそこの店の特異性は高まり、こうして毎日「上客」が行列するのだ。

2001年5月11日 金曜日

【星を繋ぐ

夜空を見上げて星を繋いでみるように、小さな出来事をいくつか結びつけて、平板な日常を満天の星座で描き変えることすらできるような幻想を抱かせるのも、インターネットの魔法の一つだろう。
ハウゼンさん提供の雑誌で思いがけない再会を果たした深瀬昌久さんのことを書いたら、同じく当サイト寄稿者のはまボーズ氏からメールをいただき、なんと新宿ゴールデン街の某店で常連同士であったことを教えていただいた。差し障りの無い部分を転載させていただく。
「開店以来の常連で,何度かカウンターのとまり木で隣り合わせて,とりとめもない話しをしたりした。温厚で穏やかな風貌だけど,時々ギラリと光る目にある種の凄みがあって,プロのカメラマンの矜持を漂わせているような気がしたものだ。」
その後深瀬さんを襲われた不幸な出来事には触れないかわりに、はまボーズ氏と深瀬さんの奇妙な因縁と思えなくもない撮影ノートを一部引用してもう一つ星を繋いでみたい。
「否応なしに年月がたち、老人、若者、子供、私、いつか必ず死んでしまうこの世とやらは、私にとって、一冊の古びた「あるばむ」にはられた記念写真のようにも思えてきます。今この原稿を団地のわが家の食卓で、ビールを飲みながら書いてますが、私の二匹の愛猫「ヘボ」と「カボ」が、オカズの子持ちガレイの煮魚がほしくて、かたわらをうろうろしてます。幸せ風景です。凄惨、陰惨、暴力、血、地獄、失墜、糞まみれ……ありとある悲惨が、幸せと背中合わせに私の中で共存し、ひどく疲れながらシラケています。」
       『アサヒカメラ』1973年9月号 撮影メモ 深瀬昌久 より

2001年5月10日 木曜日

【言葉の憂さ晴らし

デザインしている小冊子に 対人援助職トレーナー/スーパーバイザー奥川幸子さんという方が登場する。
お会いして話す機会が有ったのだが頭脳明晰で眉目秀麗な方であり、ちょっと寄り道して原稿を読ませていただいた。ノンフィクションライター沢木耕太郎さんの『プロはまず不可能な点を数え上げるが、素人は可能なことしか知ろうとしない』という言葉をひいておられ、頭脳明晰で眉目秀麗な方は 頭脳明晰な二枚目が好きなのかなぁとちょっとやっかみ。
沢木氏の引用部分なのだけれど、この部分だけではちょっと解り難い。前後の文脈無しで理解できると、名言・金言・至言ということになるのだろう。私のような凡人が 名言・金言・至言などを吐いてみたいなどと考える時は、凡そ自らの力量不足をも省みない単なる言葉の憂さ晴らしになってしまうので自省するように心がけているのだが、凡人の悲しさでそうとわかっていても憂さ晴らしをしたいときがある。今の心境では、こんなのかな。
『人が百人いれば百人百様の主張や発想を持っていると知ることは人生を楽しくさせる。人生を悲しくさせるのは、人が百人いて百様の主張や発想があっても、結局二種類の人間しか世界には居ないと知ることだ。それは実行する人と実行しない人である』

2001年5月9日 水曜日

深瀬昌久さんのこと

当サイトに玉稿を掲載させていただいているハウゼンさんこと OU さんに懐かしの銘機 TOPCON SUPER DM と TOPCOR 20mm F4、58mm F3.5、100mm F2.8、85mm F1.8、135mm F4、300mm F5.6 のセットを送っていただいた。無期限の貸与ということで、長生きすれば私のものになるという何とも複雑な心境の贈り物(OU さん、この日記を証文にしましょう)。
こんなことを書き始めたのは、大変貴重で高価な逸品を手にした自慢話をしようというのではなくて、取説がわりに添付していただいた『アサヒカメラ』誌上での懐かしい出会いの事を書いて見たいのだ。
高校時代写真部員だった私は『アサヒカメラ』と『カメラ毎日』は毎号隅から隅まで少なくとも10回は読んだものだが、あまり好きでない写真家に深瀬昌久さんという方がいた。好きな写真家がほんの一握り、どうでもいい写真家が掃いて捨てるほどという中、貴重な「嫌いな写真家」だったのだ。
ところがどうだろう、28年振りに偶然いただいた『アサヒカメラ』をめくっていたら深瀬昌久さんの作品が掲載されており、のめり込むように見入ってしまった。なんと深瀬作品が大好きになっていたのだ。飯沢耕太郎氏によれば「私写真」に分類されるのだそうだが、よくわからない。
私個人の写真鑑賞を自己分析すれば、表層を一瞥して「写真」を鑑賞すること、作者に感情移入して「物語」として読み進めること、そして「写真であること」も「物語であること」も忘れて映像化された「世界」そのものに入り込んでしまうこと、そんな三つの傾向があるように思う。
かつて表層を見ただけで毛嫌いしていた作者の世界にずるっといきなり体ごと引き込まれてしまったような感覚、それが 28年振りの深瀬昌久体験だった。ひょっとすると、今現在世界で一番好きな写真家かもしれない。いや違うな、実は作者はどうでもよくて 、今一番好きな世界がこの人の写真には写し込められているのかもしれない。

2001年5月6日 日曜日

黄金の夢

黄金週間が終わり、また始まる新たな一週間は銅製もしくはブリキ製か、はたまたアルミの打ち出しにも似ているかなぁ。
実は連休中、毎夜日替わりで奇妙な夢ばかり見て気味が悪い。何故か疎遠になってしまった友人、意識して避けている旧友、どうでもいいと忘れていた昔人が次々と現れ、顔を舐めたり、手を繋いで歩いたりする。妻に話すと「同性愛のケでも出てきたんじゃないの?」などと疑わしげな目で見られてしまった。だが、安心、学生時代は手に触れたことすらない女友達に頬ずりされて目覚めた夜もある。
思えば「記憶する」脳の仕組みとは不思議なもので、それを随時取り出せるのも不思議ならば、睡眠中に思いもかけない記憶が呼び出されて毎夜のレイトショーというのもさらに不思議だ。緩やかなパノラマ視現象のようで不吉な気もするしなぁ。共通しているのは登場人物たちと夢の中で奇妙に昵懇なことで、現実の身では思いも寄らない寛容さを示している自分に唖然、心が勝手に「許し」の遍路旅をしているようで慄然。太宰治の「黄金風景」を髣髴するような、黄金色に輝く穏やかな神々しい夢ばかりなので妙に可笑しい。
黄金週間が終わって毎夜のレイトショーが現出しなければ、連休中のリラックスした心が繰り広げた特別興業ということでひとまず幕なのだけれど。

2001年5月4日 金曜日

虫けらの時代

本当にもう、テレビのスイッチを入れて殺人事件の報道を見ない日はない。私が子どもだった頃に比べて、殺人事件というのは爆発的に増えているのではないだろうか。1963年3月31日東京都台東区入谷町で当時4歳の村越吉展ちゃんが何者かに誘拐され殺害されるいわゆる吉展ちゃん事件という幼児誘拐殺人事件が発生したときなどマスコミを通じて、国民的大事件に皆が驚愕していたもんなぁ。
マスコミといえば、過激な残酷シーンの垂れ流しが人心に及ぼす悪影響という観点から糾弾されることが多いけど、どうかなぁ。私の世代というのはテレビ黎明期に生まれ育ったのだけれど、当時テレビの中で虫けらのように殺されていく人間の数というのは現在の比では無かったと思う。米国製戦争ドラマでは、温泉場の射的の的のようにドイツ兵がコロコロと死んでいったし、日本軍ものの戦争ドラマなんてのもあり日本兵が山のように死んでいった。時代劇では血しぶきをあげ効果音で演出され人が大量にぶった切られたし、西部劇ではインディアンの死体がT型フォードみたいに大量生産されていた。
虫けらのように人が殺されると言うことに関しては、テレビの中と現実世界が逆転してしまったことに驚く。

2001年5月3日 木曜日

移動中移動

電車の車両内を歩く人というのがいて、ちょっとだけ気に入らなかったりする。混み合った車両内を人を押し分け押し分け歩かれると腹だたしいのだ。何故腹が立つかというと、人混みをかき分けてまで高々数両の電車内を歩いて、どれほど時間の節約になるのかを疑わしく思っているわけで、無駄な努力ではた迷惑をばらまいて歩いているように思えて仕方ないのだ。
たとえばホームの端から端まで三分で歩く人がいて、車両内歩行が丸々有効だったとしたら3分の節約になるのだが、実際の場面でどれほどの効果があるのだろうか。“エスカレーターとは、そもそも立ち止まったまま階段を昇るためにあるのではなく、より早く昇るためにあるのだから本来歩くのが正しい”というのが西欧人の常識である、と書かれた本を読んだような気がする。
そういえば、ロバート・A・ハインラインの小説に未来の動く歩道が出てきて、その歩道上を人が自動車ほどのスピードで移動していく場面が描かれている。そんな高速で動く歩道にどうやって人が飛び乗れるのかというと、最近よくあるエスカレーターを平面化したような歩道があり、その隣に倍速、さらに隣に三倍速と等差数列的に早くなる動く歩道が並行して走っているのだ。高速移動を求める人はどんどん隣にシフトして行くわけ。凄いことを考えるなぁと米国人に感服したものだ。
車両内を歩くことが当然だと仮定して、JR山手線みたいな環状線では車両をぐるっとひと繋がりにして、駅の間隔も均等化したらどうだろうか。10駅先まで移動する間にひと駅分車両内を歩けば他人よりひと駅分の所要時間だけ早く目的地に着けることになる。ただし「路線総延長÷総駅数−ひと駅分のホームの長さ」の通路を歩かなければならない。それじゃあ車内を歩く人もいなくなるだろうから、もっと歩く人を主体に考えて鉄道をハインライン型の動く歩道にしてしまったらどうだろう。環状線だから遠心力が働くわけで最も高速な最外周の人は45゜くらい傾いて高速で歩いていたりするわけだ。気味が悪いなあ。移動中の移動ってやっぱり気味が悪い。


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