電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年 8月 14日 火曜日
【おたより紹介】

『夫と妻の別居介護』を書かれた風人社の松井夫妻、そのご主人が介護帰省中の岐阜県恵那市から暑中見舞いメールをくださいましたのでご紹介します

クーラーのない恵那の夏はすこぶる暑く、
仕事どころではありません。

グランドに人影もなし蝉の声

写真・俳句:松井省吾(恵那・風人社)
風人社のホームページ
風のたより
http://www.fujinsya.co.jp/

まだまだこれから色々と頑張って行かねばならない松井さん、人生の運試しにこの夏富士登山を決行されたそうです。無事ご来光を拝まれたそうですから、だいじょうぶ、まだまだ行けますね。松井さん「元気の素」をありがとうございました。

2001年 8月 13日 月曜日
【ぱちんこ】

パチンコなんてもう随分やっていない。5年?10年?いや、ひょっとすると「パチンコらしいパチンコ」なんて、子どもの頃親に連れられて入ったパチンコ屋で、拾った玉をこっそり弾いたあの時以来やっていないのかもしれないなぁ。
万単位の金のやりとりが当たり前なのだそうだが、今でも貸し玉の最小単位は100円なのだろうか?昭和三十年代中頃には確か10円玉で5個買える貸し玉機も見たことがあるような気がする。玉の一発一発が尊くて、みんな真剣な顔でバネを引き絞って打っていた。そして、すっからかんになったおじさんがポケットの内側を引っ張り出して「ちえっ!」と舌打ちしている姿をよく見たものだ。1961(昭和36)年の景品上限額は300円だったという。
私はパチンコよりスマートボールやラッキーボールが好きだった。ガラス板の上を15個から20個くらいの白いガラスだまがおちて来てゲーム開始、一個ずつ狙いを定めて発射し、釘に弾かれながら見事穴に入るとバシャンと玉がガラス板の上におちてくる仕掛け。そのガラスがぶつかり合う騒々しさが好きだった。ラッキーボールは穴に入ってもすぐには落ちず●―●―●の様な連珠形式の組み合わせにならないとダメだったような気がする。何かビリヤードの点数カウンターみたいなものがついていたような気がするが良く覚えていない。
東十条の駅から斉藤酒場のある十条駅前まで父親に連れられて歩いた道すがらにも何軒か有ったような気がするのだが、あの頃のような夜の闇の深さがあればこそ、ガラス板の響きも魅惑的だったのかもしれない。今のパチンコ屋の大騒音と店員の絶叫は隔世の感がある。

2001年 8月 13日 月曜日
【電脳六義園通信所・更新情報】「ヒトイヌニアウ」のコーナーを更新。

東京日野市・チエさんちの「ボブ」

チエさん、どうもありがとう!

2001年 8月 12日 日曜日
【てんぷら】

ガイジンに会うと決まって出る質問。
「日本料理で何がお好きですか?」
「アハ、スゥシー、テンプーラー、スッキヤーキー、アンドシャッブシャブゥ!」
冗談じゃない、そんなもんガイジンでなくても日本人はみんな好きだ。日本料理に寿司と天麩羅とすき焼としゃぶしゃぶしか無かったらどんなにいいだろう、毎日でも食べられたらいいなぁと思いながら、スーパーパックずしとか、立ち食いイカ天そばとか、吉野家の牛丼「並」とかを我慢して食べているのだ。フランスに行って、
「どんなフランス料理が好きですか?」
と、聞かれたら(無名人だから聞かれないけど)私なら、
「オッテルスクリブノ ソバニ ムカシ アッタ モツニコミリョウリノミセノ コブクロニコミガ スキデース」
くらい、フランスの庶民感情に配慮した受け答えをするけどなぁ。少なくとも、
「アハ、フォアグラー、キャビアー、トリュフー…」
なんて心で思っても、口に出して語尾上げ口調で答えたりする無礼なことはしない思う。
写真は銀座赤坂六本木あたりでガイジンを招待したら喜ばれそうな天麩羅屋。別にガイジンウケを狙ったものではなく、南蛮情緒を表現しただけかもしれない。入って見たいなぁ、おいしいのかなぁ、高いのかなぁ、金持ちのガイジンの友だちができないかなぁなどと思いながら、いつも横目で通り過ぎる赤坂「天一」さん。入ったことのあるリッチな方、どうでした?話だけでも聞きたいなぁ。


2001年 8月 11日 土曜日
【渇水】

床に落とした一つまみのご飯を、ベランダの手すりに置いておくとすかさず雀がやってくる。どうして白い手摺りに置いた白い米粒を見つけられるのか不思議だが、夢中で啄ばむ姿態は愛らしい。愛らしさが嵩じると餌台を作って本格的に給餌したくなるのが動物好きのサガなのだが、気紛れでやったりやらなかったりするのはいけないらしい。厳しい都市の自然の中での営みに人為で手を下すにはそれなりの自覚が必要なのだろう。複雑系で物事を考えれば人の気紛れが生き物の暮らしに及ぼす影響ははかり知れない。
東京・青山通りに面した旧高橋是清邸跡は公園になっていて中央には小さな泉水もある。雀や烏が水浴びして羽繕いをする光景が見られて心和むのだが、水の管理に一貫性がなくてジャバジャバと溢れ返らせている時もあるかと思えば、取水制限のニュースが流れたりするとパッタリと止めてしまう。チョロチョロ程度でも流しておくくらいの思いやりが有ってもいいと思うのだが、管理者はいかにもお役所的で融通がきかないようだ。
干上がった水場で呆然と佇む烏。カメラのレンズのように光る丸物に敏感で、いつもなら慌てて樹上に避難するのだが今日は元気がない。熱暑と渇水で疲労困憊しているのだろうか。

【 BIRD ON A WIRE 電線の鳥……2】
大衆酒場「たなべ」

東京というまちの活力を奪った元凶の一つは「地上鉄道」であり、もう一つは都市計画?で作られた「新街道」だと思う。道というものは長い歳月をかけて風土に見合った条理を形作っているのだけれど、それを分断するように「地上鉄道」「新街道」が走る地域は、奇妙な台形や三角形の区割りが生じ、「自然な方眼」に沿っていないので駅や街道から歩き出すと方角を見失いすぐに迷子になってしまう。そのような地域は駅からの道、街道の枝道が直行していないのですぐわかる。この都市計画?が単なる好みの問題を超えて失敗だったということは、それらの沿線に「地域に根を降ろしそうな商業施設」がほとんど見当たらないことでも明らかだ。

友人夫婦が板橋区の川越街道沿いで良い大衆酒場を紹介するというのでてくてくと歩いたのだが、こんな殺伐とした「新街道」沿いにそんな名店があるのだろうかと訝しんでいた。東上線大山駅近くから歩き中板橋駅付近に来て左折するというので内心ホッとした。排気ガスとアスファルトの照り返しから逃れ、かつての武蔵野が原を辿るような脇道に入ってすぐのところに、はたはたと暖簾をたなびかせてその店は有った。時の流れが止まったような店内にはやはり明るいうちから飲む高齢者の常連が多い。大きな煮込み鍋のたてる湯気が美しく、店員の無駄の無い仕事ぶりと応対が嬉しい。(写真撮影:川上哲也

2001年 8月 9日 金曜日
【乳母車】

清水市美濃輪町の次郎長通り裏手を歩いていて見つけた乳母車。昭和三十年代初頭、この型の乳母車を押して歩くおばあちゃんをよく見かけたものだ。乳母車というだけあって、押して歩くおじいちゃんを見かけなかったのは、老いたとはいえ照れ臭かったのか、その時代の老いた男は出歩くほどの元気が無かったのか定かではない。

私が三歳くらいの頃の事、祖父母の家近くの土手で乳母車の車輪が壊れ難渋しているおばあちゃんがいたので、叔父を呼び、
「オバアサン オバアサン ボクノ サンリンシヤノ シヤリンヲ アゲマセウ」
と申し出て愛車の車輪を提供したことがある。何と良い子どもだったのだろう、などと思ってはいけない。私は幼年時代から現在に至るまで、いたって調子のよい男なのである。これを清水弁でオダックイという。後に山ほど農作物のお礼を貰い家族は大喜びしたらしい。
それに味を占め、田畑で農作業する老婆を見つけると、
「オバアサン オバアサン ボクノウチハ ビンボウデ ナスモ キユウリモ カエナイノデス」
などと言って、よく野菜をせしめて帰ることがあり、母親は近所の人々に体裁の悪い思いをしたという。オダックイとはそういうものだ。

 

2001年 8月 8日 木曜日
【ホームラン】

私が学んだ静岡県清水市立第二中学校。卒業時にほぼ完成していた新校舎の何と古びて見えることか。かつて、私はこの打席からホームランを放ったことがある。クラス対抗野球大会でのことだ。

当時既に身長170センチ以上あったので大型扇風機と呼ばれ、ホームランは確実、ただし球がバットに当たれば…と旧友に冷やかされていたのだが、起死回生の正面衝突でチーム8点目の逆転ホームランだった。

校舎の窓ガラスを破るほどの大飛球だったように記憶しているのだが、こうしてグラウンドの広さを見ると、おそらく球が野手の間をコロコロ転がって行く間のランニングホームランだったのかもしれない。そういえばクラスメートの堀場さんという色白の女性が「走ってぇ、走ってぇ!」と叫んでいた声を今でも思い出す。釣り人が損ねた魚と、想い出のホームランはいつも大きい。
三階右端が音楽室、卒業謝恩会で私はギターを弾きながら加山雄三の『旅人よ』を唄って友と別れた。もう三十数年前の話だ。

2001年 8月 7日 火曜日
【清水みなと祭り】

↓清水みなと祭り道中記はこちらへ

2001年 8月 7日 火曜日
【電脳六義園通信所・更新情報】「ヒトイヌニアウ」のコーナーを更新。

東京・佐野家の「Windy」

【 BIRD ON A WIRE 電線の鳥……1】
とんかつの「丸五」

秋葉原電気街、数少ない止り木の一つ。石丸電気本店の裏手にある。営業時間11:30〜15:00、17:00〜20:30、月曜・第3火曜定休。千代田区外神田1-8-14。店舗は古い民家を改築したものだそうだ。この建物に連なるビル群を木造家屋で埋め尽くした様を想像するとため息が出る。幼い頃、東京の至る所にそんな風景があったのだ。この古い建物に価値が有るとしたら、それは「見える人にしか見えない」もので、このような商才ある人の熱意によって、資本主義的な仕組みの中で保全するしかないのかもしれない。空いていたら、建物トラストに協力は惜しまないのだけれど、有り難いことに大繁盛のようでランチタイムは順番待ちも。二階席を取り仕切る女性の、下町的な大雑把さがかえってこざっぱりした感じを与える応対が楽しい。夕方、酒を飲むと楽しそうなメニューも充実。

2001年 8月 4日 土曜日
【人類月に立つ】

仕事の打ち合わせ中“アポロ11号月面着陸”の思い出話になった。白黒テレビから映し出される宇宙飛行士の緩慢な一挙手一投足を固唾を呑んで見守ったのだが、その生中継が日本に放映された時間帯について編集者たちと意見がわかれた。もう30年以上昔のことなのだ。
アームストロング船長が左足から「この1歩は小さいが、人類にとっては偉大な躍進だ」と第一歩を印した瞬間が日本時間の何時だったかということなのだが、実はこの時刻を私は鮮烈に記憶しているのだ。
屈辱のクリクリ坊主頭で、静岡県清水市立第二中学校の生徒だった私は、職員室で悪友と正座をさせられながら、“二十世紀最大のイベントの一つ”を見ていたのだ。それ故に、記念すべき第一歩を踏み出す瞬間を、シビレの切れた足で正座という情け無くもあり、考えようによっては礼儀正しい姿勢で迎えたのは“土曜日の昼ごろ”だったと“身にしみて”記憶していたのだ。「絶対に土曜日の昼ごろだ」と言い張る私に、当時北海道在住だった女性編集者Kは「真夜中だった、全米中継が昼だっただろうから」と反駁して、皆で首をかしげたりした。
ちょっと気になったので調べてみると、アームストロング船長とオルドリン飛行士が乗り組んだ月着陸宇宙船アポロ11号が“静かの海”に着陸したのが1969年(昭和44年)7月20日(日本時間21日午前5時17分40秒)。アームストロング船長が左足から月の大地を踏みしめたのが日本時間21日午前11時56分20秒、その18分後オルドリン飛行士も月面に立っている。では1969年(昭和44年)7月21日が何曜日だったのか調べてみると、これが何と月曜日。土曜日ではないではないか。おかしいなぁとちょっと考えたら、氷の壁が崩れるように当時のことが思い出されて来た。7月21日は中学校の終業式で半ドン。夏休み入りした嬉しさのあまり私は悪友のTと一緒に何かイタズラをやらかし、担任の原川先生に職員室正座を命じられたのだった。弁当を食いながら職員室のテレビに夢中で見入る教師たちの後ろで、早く正座の刑から放免して貰えないかとモゾモゾと体を揺すっていたのが私だったのだ。
外ではアブラゼミが喧しいほどの大合唱を繰り広げていた。

2001年 8月 3日 金曜日
【穴に思う】

赤坂方面で仕事があると、旧高橋是清邸跡の公園を歩くのが好きだ。公園と言っても児童公園に毛の生えたような広さしかないのだが、木立の間を抜ける僅かな細道が都会のど真ん中にいることを忘れさせてくれる。こんな小さなオアシスでも続々と蝉が羽化しているようで、樹上の大合唱を聞きながら足下を見ると、蝉が羽化するために地中から脱出した穴がたくさん開いている。


木々の根元の柔らかい土から顔を出せば良いものを、人間の足で踏み固められた硬い道の真ん中から地上に到達した「蝉穴」が多いのに驚く。彼らは地上をめざす時、行き当りばったりで、顔を出す場所を選ぶことができないのだろうか。もっと柔らかい土を辿ってトンネル掘りをした方が楽なように思うのだが、よくもまあこんな硬い表土を突破したものだと感心して写真を撮ったりしてしまう。行き当りばったりで、一目散に上昇した揚げ句、アスファルトの皮膜に突き当たって、ついに太陽を拝むことのできない蝉も無数にいるのだろうか?だとしたらまことに罰当たりな文明に生きているわけで、これもまた一つの“鎮魂の夏”かもしれない。

2001年 8月 2日 木曜日
【深まる秋に】

ぎこちない男女の会話のようで、気恥ずかしいけれど「春夏秋冬、どの季節が一番好き?」と聞かれたら「夏」と答えると思う。子どもの頃から一貫して「好きな季節は夏」と答えていたような気がするのだが、「夏」が一年三百六十五日のどの期間を指しているかというと、思えば少年時代と今とでは随分違いがあるようなのだ。
朝型人間なので、夜は九時ごろに就寝し、未明に起き出して仕事をすることが多いのだけれど、まだ午前三時台だというのに八階の仕事場から見る六義園上空の空が白み始める六月後半、ちょうど夏至の前後あたりは、「ああ、夏だなぁ」と嬉しくなる。その裏返しで、気分はすっかり朝なのに空は漆黒の闇の今日この頃は「日が短くなって、もう秋だなぁ」と感じずにはいられない。


学校の“夏休み”が七月後半から八月一杯までと決められていた地域で過ごしたせいか、その期間が夏真っ盛りという気がしてしまうことが多かったのだけれど、考えてみれば陰暦では七月から九月は秋なのだ。海水浴、花火遊び、“夏の”高校野球、オバケ屋敷……遊び惚けている時代にはわからなかったけれど、もっとも日照時間が長く日の出から日没まで田畑で働ける季節を、昔人は夏と名付けたのだろう。
八月に入り、広島・長崎鎮魂の日、そして甲子園の夏がやってきて、かつては夏本番を感じたはずなのに、深まりゆく秋をひしひしと感じてしまうのは歳のせいだろうか。

2001年 8月 1日 水曜日
【電脳六義園通信所・更新情報】「ヒトイヌニアウ」のコーナーを更新。

●静岡・清水市の「ハッピー」
東京・本駒込の「ジョイ」
●東京・上富士の「ムサシ」

2001年 8月 1日 水曜日
【電脳六義園通信所・更新情報】広島のあせちゃんより「ヒトイヌニアウ」のコーナーに投稿がありました。
●「一平」と「ちゃあ」

2001年 8月 1日 水曜日
【おばこ】

広辞苑第五版だと
【おばこ】
おばこ
(東北地方で)
(1)未婚の娘。少女。
(2)妹娘。
(3)次男以下の妻。
(4)下女。
(5)稚児(ちご)。
とある「おばこ」だが、新辞林だと
【おばこ】
(1)(東北地方で)跡取り娘以外の娘。また,未婚女性や妹をさす地方もある。
と、あり「おばこ」という言葉はなかなか意味が深い。

“銀座で飲む”などということは久しく縁遠いが、二十代の頃は自前の金で飲む喜びを知ったばかりなので、分不相応な暴挙とも言うべきものを何度かやったことがある。妻と二人、財布の中身を心配しながらの飲んだ気のしない一夜だったのに却って良い想い出になっているのは、帰らない青春への追慕か。
そんな想い出の店の一つが「おばこ」。左隣はバブル経済の荒波で抉り取られたように更地になっているが、木造三階建(風)の佇まいがそのままなのが嬉しい。妻と二人、意を決して入って見たもののお品書きに「価格」が書かれていない。今の若者ならカードという飛び道具を持っているのでさ程ビビることも無いのだろうが、安月給の私たちを怖じ気づかせるにはそれで充分だった。
恐る恐る飲み始めたものの、おかみさんの説明を聞きながら秋田の珍味を味わううちに心地よく杯を重ねてしまったが、時々「また行きたいなぁ」などという話になるので、良心的価格の店だったのだと思う。もう二十年近く前の話だ。
猛暑の昼下がり、ふと見ると昼の定食もやっているらしい。“銀座のランチタイム”が終わり、黒板のお品書き(やはり価格は書いてない)を消しているのは、遠いあの日のおばこだろうか。


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