電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年 9月15日土曜日
【魚とデジカメ】

郷里清水にある魚屋「魚初」から魚を取り寄せるのが暮らしの楽しみの一つになっている。インターネットを通じて知り合い、朝の魚河岸の競りに同行させてもらったり、店頭での仕事ぶりを見せてもらったりしているので、東京より遥かにコストパフォーマンスの良い買物ができることがわかったのが動機の一つ。さらに清水次郎長生家に隣接した高齢化の進む旧市街で商売しているので、年寄り向けに丹念な下ごしらえをされて届くのも有り難い。

駿河湾の底引き網漁が解禁になったそうで、敬老の日に合わせて届いた「赤むつ」、さっそく煮物にしたのだが義父母も大喜び。いろいろな記録のためにデジカメで撮影していて思った。後になってこの「赤むつ」の身の丈はいかほどだったかなと思ったとして、どうやって「原寸」を調べられるだろうか。皿が写っているので、皿の寸法から割り出す。基準となる皿を割ってしまったらどうする? わざわざ皿を計らなくてもいい方法は?

デジカメの画像フォーマットは「EXIF」という形式が一般的なようなのだが、GraphicConverter4.0.7-jpというソフトでEXIF形式で記録される情報を見るとEXIFパート2に「被写体距離」「焦点距離」などの項目がある。私のデジカメでは利用されていないようだが、「被写体距離」「焦点距離」が記録されていれば、専用ビュアーソフトで画像の計測したい2点を指示することで寸法を知ることができる。計測したい2点を指示した時点でその部分の「原寸大プリント」などという機能を付加する事も可能だろう。デジカメの面目躍如的機能だと思うのだがどうだろう。

釣り人が釣り上げた魚の記録写真を撮るとき、タバコのパッケージを添えていたりするのを目にする。タバコの寸法は容易に知れるので、釣果の記録に便利だ。原寸大でプリントしなくても友人に自慢することができる。だったら画面下部に地図のような縮尺ゲージを映し込める機能というのはどうだろう。画面全体に方眼グリッドを映し込む事だって可能だ。いや、もっと進めて釣魚の横にお好みのタバコを映し込めるというのはどうだ。あらかじめ「hi-lite」とか「Marlboro Lite Menthol」とかの画像が登録されていて撮影距離に応じた寸法で画面下部に映し込まれるのだ。う〜む。

被写体をカメラに平行して置かずに奥行きをつけて撮影したい場合はどうする? デジカメに立体撮影モードというのを設けたらどうだろう? 立体撮影モードにしてシャッターを押したら画面に指示が出る。「カメラ位置を横にずらしてもう一度シャッターを押してください」。立体撮影モード中は赤外線補助光を出しておいてカメラ位置のズレを計測すれば良い。適当にずらしてシャッターを押すと「立体撮影が完了しました」。人間が両眼を持っているので立体物の奥行きを知覚できる原理だ。立体写真モードみたいなもの。再び、う〜む。

悪い癖で、一人で物事を考えていると思考がどんどん横道にそれる。止めに入る人がいないから。で、どんどん横路に分け入って行くわけだ。人間の目は左右に並んでいるので左右の視差で立体感を把握しているのだが、涅槃に入ろうとしているお釈迦様のように、常に横臥姿勢になって世界を眺めている人というのは立体感を持って知覚できているのだろうか。眼球が縦並びになった状態だ。ヒラメやカレイというのは海底に横臥して生活しているために、下になっている方の眼球は用を為さないわけで、上から来る敵に備えて横臥時の上面に両眼が移行したのだろう。人間、横になって肘枕、リモコン片手にテレビを見たりインターネットを使って商取引したりしているだけで生活が成り立つような、ズボラな社会が到来したら人類もヒラメやカレイ型に進化するのだろうか。そうだ、「魚初」にヒラメやカレイは取り寄せ可能か聞いてみよう。だけど、パソコンも画面90度回転可能型が常識にならないと横臥姿勢の商取引も楽じゃない。みたび、う〜む。

2001年 9月14日 金曜日
【「蒔く」と「播く」】

「蒔く」と「播く」の違いについてメールをいただき、う〜んと考える。プロレタリア文学運動の基礎となった雑誌に『種蒔く人』というのがあったが“種播く人”では意味合いが違うか?という問題だ、言わば。「蒔」と「播」の漢字の成り立ちを調べると何かわかるかなぁと考えていうちに、お百姓さんが“まく”別のものに思考は脱線。面倒なことからの逃避とも言うが。

私が子どもだった頃は、人の糞尿を肥料にするということは当たり前の事だったのだろう。田園地帯を歩くとあちらこちらに肥溜めがあった。臭くて汚いという意識があったので近づかなければいいようなものの、何故か気になって石を投げ込んでみたり、長い竹ざおでいじってキャッキャと騒いだものだ。子どもとはそういうものだ。肥溜めの別の言い方に野壺(のつぼ)というのがあるが、遠い日の光景が鮮やかに蘇るようで好もしい。この野壷が放つ香りは懐かしく「菜の花畑に入り日薄れ…」などと口ずさむと嗅覚的な記憶として想起される。野壷の香りを懐かしむ田園派というのは少なからず存在しそうな気もするので、「おぼろ月夜」のメロディー付きトイレ芳香剤『野壷の香り』などという商品があったら売れないだろうか。

お金にならない商品開発の話はさておき、昔は野壷の肥料を作物の育成に使用するので、野菜はよく洗わないと蟯・回虫の卵が口に入ると言われたものだ。何だかお百姓さんには蟯・回虫を体内に下宿させている人が多いような言い方で、ちょっとひどいんじゃないかと思うが、小学生時代の蟯・回虫検査では毎回結構な蟯・回虫の大家さんがいたので、日本国民のほとんどが蟯・回虫の宿主だったのだということにしておこう。

江戸時代、人の糞尿は更に貴重な肥料だったので、各家々で軒先に出して売り物にしていたのだという。本郷通り(岩槻街道)を江戸の方に進むと東大の手前、今の白山上のあたりに現在の青果市場のようなものがあったらしいのだが、板橋方向から野菜を積んで売りに来たお百姓さんは下肥用の糞尿を買って荷車を引いて帰ったものだと聞く。野壷の中身が不特定多数の生産者によるものだった時代は、蟯・回虫問題は更に深刻だったのかもしれない。

だが一つ疑問なのは、『野壷の香り』が単なる糞尿の臭いと一線を画しているのは野壷内における醗酵・熟成本仕込み大吟醸効果によるものと思うのだが、ぷくぷくと醗酵・熟成している野壷の中で蟯・回虫の卵というのは生きていられるものなのだろうか。いられるのだろうなぁ、そうで無かったら下肥を施肥することによる蟯・回虫の感染は起こり得ないのだから。凄い事だ。海底に噴出する化学物質を含んだ熱湯の周辺でも生きていられるバクテリアがいるそうで驚嘆するが、醗酵・熟成中の野壷の中で生き続ける寄生虫にも負けず劣らず驚かされる。こういう原始的な生物の逞しさがあったからこそ私たち人類が生まれ得たわけで、蟯・回虫に感謝しなければいけないのかもしれない。

で、この野壷の中の天然肥料というのは「蒔く」と「播く」のどちらが相応しいのだろうかと考えるわけだ。かつてバブル経済全盛の時代、地上げ屋が立ち退きを迫るために玄関先に糞尿をぶちまけたなどというトホホなニュースがあったような気がするのだが、この場合は「撒く」だろう。「肥蒔く人」「肥播く人」とどちらがいいかなぁと思うのだが、やっぱり「肥施す人」の方が感謝の念がこもっている感じがするわけで、結局は「蒔く」と「播く」の違い究明からの逃避に過ぎない愚考だったわけだ。こんな糞尿まみれの日記を書いていると、もうメールも来なくなるかもしれないなぁ。

【 BIRD ON A WIRE 電線の鳥……4】
「ニューキャッスル」

1946(昭和21)年開店。この店ではカレーは辛来飯。「品川(大井町の手前)」、「大井町(多い)」「大森(大盛)」「蒲田(その先)」、隠しメニューで「ツンタマ(蒲田より先につんのめった玉子付き大盛り)」と駄洒落で注文する。銀座の空を飛びながらふらっととまってみたら病みつきに。

狭い店内には文庫本を読みながら一人で食事する背広姿の中年男性がちらほらといて、混み合ってくるとツツツとズレて席を空けてくれたりするので、この店の「筋」の良さがわかる。初代ご主人柳田嘉兵衛さんの人柄が育てた店全体の雰囲気が何よりのご馳走なのだ。現在は二代目の宮田博治さんが切り回す。小さな店の「味」などというものは一貫性や永続性がなくて当たり前なのであえて触れないことにしているのだが、初代と二代目では明らかにカレーの味もご飯の炊き方も、目玉焼きの焼け具合まで違う。それがまた小さなお店の楽しさだと私は思う。店を出る時「行ってらっしゃいませ」と声をかける二代目の「味」もなかなか好もしい。
柳田嘉兵衛さんの名刺を貰うと就職運が開けると学生に人気だった時代もあるようだが、私は貰ったことが無い。「女性が一人で食事できる折り目正しく家庭的な店だから行ってごらん」と妻に教えたら、「カウンターに座ったら柳田嘉兵衛と申しますって名刺貰っちゃった」などという。うーん妬ましい。故淀川長治、佐田啓二・中井貴一親子など芸能関係の常連も多いとか。「芸能人だと思ったのかしら」「んなわけ無いだろっ!」。女というのは思い上がりが甚だしくて困る。

辛来飯とコーヒーの店
ニューキャッスル
住所:東京都中央区銀座2-3-1
電話:03-3561-2929
営業時間:月〜金11:00〜21:00・土11:00〜17:00/日・祝日休※年末年始:12/29〜1/4休

2001年 9月13日 木曜日
【たった5秒、されど5秒】

会社員時代の先輩が面白いデジカメを貸してくれた。当時撮影したファイルの日付を調べると1998年8月とあるからちょうど3年前のことだ。

そのデジカメというのは小さな音声つき動画が撮影できるというもので、今でこそ珍しくもないが当時としては画期的なものだった。一ヶ月ほど貸し出していただき持ち歩いたのだが、楽しいことこの上ない。ちっぽけなデジカメのシャッターを押し続けるだけで5秒間の映画が撮れてしまうのだ。これは面白いと友人に紹介したのだが反応が様々で、最も多かったのが「たった5秒で何が撮れるのか」というものだった。

高校生時代、母親が8mmカメラを買い込み、私はそれに熱中した。当時8mmカメラの方式は「シングル8(エイト)」と「スーパー8」というのが2大勢力で、どちらもカートリッジ式。ポンとカメラに装填して撮影後、現像に出すと小さなリールに巻かれた映画になって戻ってくるのだ。どちらも1本の撮影時間は3分と短く、しかもフィルム代、現像代とも飛び切り高かったので、その「3分」の撮影時間は高校生にとって宝石のように尊かった。高校生ならずともお金は尊いので、誰でもチビチビとシャッターを押してしまう傾向が初心者には有ったようで、当時の8mm映画のハウツー本を読むと「最低でも5秒間はシャッターを押し続けましょう」などと書かれていて笑える。スチールカメラのようにけちって撮影するとコマ割りがせわしなくて疲れるし、しかも、ちっともムービーに見えないのだ。

この「最低でも5秒間」という長さのムービーが撮影できるだけで私には充分に思えたのだ。試しにテンポの良いテレビドラマやCFを時計片手に見ていると5秒程度のカットを上手に繋いでいることが多い。それ以上長いカットを素人が多用すると例の傍迷惑なホームムービー押しつけ上映会の大あくび誘発剤となるのだ。5秒間ムービーを繋いで借り物デジカメで撮影した30分ほどの東北旅行パタパタムービーは私の宝物になっている。

↓5秒間の映像のサンプルはこちら

2001年 9月12日 水曜日
【台風クラブ】

台風15号が郷里静岡付近を通過するというので気になって台風情報を付けっぱなしにして仕事していたら、映画監督相米慎二さん死去のニュースが飛び込んで来た。享年53歳、生前「親の死んだ年を過ぎたからこれで十分」と語られていたというが早すぎた死だった。その後、台風15号は北上して神奈川県鎌倉市付近に上陸、23区内を台風の目が通過するという映画『台風クラブ』そのものを追体験しているような事態となり、何とも奇妙な気分を味わった。

その『台風クラブ』こそが、私が初めて見た相米さんの映画で、面白い絵作りをする人だなぁと感心したのだが、映画マニアの友人によれば相米作品には“長回し”という独特のスタイルか使われているという。早速『魚影の群れ』という作品を見てみると確かにカメラを回しっぱなしの長いシーンがあった。長いシーンというのは冗長であり、何が起こるかわからない現場からの中継映像を見ているようで、鑑賞者の様々な想念を呼び起こす雑音的な情報が含まれている表現が新鮮で面白かった。虚構なのに奇妙なリアリティがあるのだ。

相米さんは岩手県盛岡市に生まれたが、小学校一年のとき北海道に渡られたそうで北海道を舞台にした作品が多い。そんな事情もあって、11日深夜、北海道新聞のサイトを閲覧していたら「飛行機突入、世界貿易センター崩壊 国防総省でも爆発 同時テロか 米国」などという見出しがトップにあるのに気がついた。なんだなんだなんだとNHKテレビをつけてみると衝撃的な映像が飛び込んできた。ハイジャックされた旅客機が世界貿易センタービルに相次いで衝突しビルが崩壊し、人々が逃げまどっているのだ。

かつて映画で見たような映像なのだけれど、このような瞬時に多くの人命が失われる瞬間などというものは娯楽映画のような“リアルに見せかけた虚構”であるから、かろうじて正視に耐えるものであって、今そこで起こりつつある“虚構のような信じがたい現実”などというものは、とても鑑賞に値するものではない。大変な時代になったものだ。

暴風雨とともに相米慎二逝くのニュースが日本列島を駆け抜けて行った台風一過の夕暮れ、電脳六義園サイトのトップに美しい夕景を掲げた。虚構の中に仕掛けられた“微かなリアルさ”という掌中のマジックで楽しませてくれた異才へのお別れに。やがて地球の反対側に日が再び昇った時、そこには“リアルな虚構”“虚構のような現実”が錯綜する思いもかけない惨劇が待ち構えていた。

相米さん、そして多くの犠牲者に黙祷。

2001年 9月11日 火曜日
【台風一過】

2001年9月11日午後5時51分、台風一過の六義園越しに見える富士山。クリックで原寸表示。

2001年 9月10日 月曜日
【カッパ】

私が子どもの頃カッパというのは大層人気があったようで、10月1日の大東京祭の日は胸にカッパのバッチをつけていると都電が乗り放題だったので、仲間と随分遠くまで遠征したものだった。伏見の酒造メーカー黄桜のコマーシャルは小嶋功さんの描く妖艶なカッパだったし、11PMなどという大人向け深夜番組にも小島さんがカッパの美女を描く人気コーナーがあったりした。子どもだった私には、小島さんのカッパはあまりに妖艶で精が強すぎ、見ると鼻血が出そうだった。

それにひきかえ、年齢が一回り前後違う友人には「カッパ好き」「カッパ博士」「カッパ画伯」のようなカッパ道に熟達した人たちが多い。長年、空想上のカッパや、カッパ然とした現実の美女たちに慣れ親しんで来られた豊富な経験の賜物なのだろう。私はさ程カッパに執着があるわけではないのだが、以前日日抄にも登場した某編集者のように「カッパの箸置きをあげるからおいで」などと電話をかけて来たりする人が身近にいたり、「蛍には不思議な匂いのあること」を知っている人はいないかとインターネットで検索したらヒットしたのが小嶋功さんその人だったりしたので、最近は少しだけカッパのことが気になるようになってきた。

行きつけの飲み屋にカッパの箸置きがあるのだが、ここ数年のうちに使い込まれて丸みを帯び、まるで熟女のような色香を醸し出してきたことに気づき、自分もそんな事を感じる年になったんだなぁと感慨深かったので写真に撮っておくことにした。このカッパ姐さん、今が旬です。

2001年 9月 9日 日曜日
【「でいいんです」その後】

丹念に日日抄の拙文を読んでくださっているお友達から【「でいいんです」】に関して丁寧で心のこもったメールをいただきました。ありがとうございました。メールに励まされて、以下追加です。

小さな本屋も好きだけれど、小さな「古」本屋も大好きだ。先日バス待ちの間に、気になった新書を4冊抜き出して買って帰ったのだけれど、どうやら同じ持ち主が売り払ったものらしい。前持ち主は書籍に傍線を引きながら読む癖があるらしく、赤、黒、青のインクの違いは有っても大雑把なラインの引き方が全く同一の筆跡なのだ。個人の書棚がそっくり古本屋の書棚に移行したようなもので、道理で興味をそそる書籍が芋づる式に見つかるわけだ。東大前で買った書籍の著者がすべて東大出身者なのも楽しい。

「腔」を「クウ」、「播」を「はん」と読むことに関してメールをいただいたので、別の新書
講談社現代新書P650 『漢字の常識・非常識』 加納喜光
をめくっていたらおもしろい記述を発見。

「杉原と書いてすい原と読むのさ」
「妙ですね」
「なに妙なことがあるものか。名目読み(みょうもくよみ)と云つて昔からある事さ。(……)杉原をすぎ原などと云ふのは田舎ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑はれる」(『わが輩は猫である』夏目漱石より)


「名目読み」というのは、古来の慣習に従って漢字本来にない読み方をすることをいうらしい。で、このような新しい読みの生産は現在も続いているのだという。

「漢字本来の読みのうち 、音のレベルで、旁(つくり)にひかされたり、形に惑わされたりして、本来にない読みをするのを「百姓読み」といっている」(講談社現代新書P650 『漢字の常識・非常識』 加納喜光 より)

で、その例として書かれているものがおもしろい。
漸次 ●ざんじ(百姓読み) ○ぜんじ(正)
直截 ●ちょくさい(百姓読み) ○ちょくせつ(正)
弛緩 ●ちかん(百姓読み) ○しかん(正)
贖罪 ●とくざい(百姓読み) ○しょくざい(正)
垂涎 ●すいえん(百姓読み) ○すいぜん(正)
絢爛 ●じゅんらん(百姓読み) ○けんらん(正)
この辺ならベテラン編集者には常識なのだろう。だが、次のようなのはどうかしら。

「世間一般に通用すると 、「赤信号みんなで渡れば恐くない」と、「百姓読み」に痛痒を感じなくなり「名目読み」に昇格する」(講談社現代新書P650 『漢字の常識・非常識』 加納喜光 より)

昇格の例としてあげられているのは以下の通り。
添付 ●てんぷ(名目読み) ○ちょうふ(元)
憧憬 ●どうけい(名目読み) ○しょうけい(元)
貪欲 ●どんよく(名目読み) ○たんよく(元)
輸贏 ●ゆえい(名目読み) ○しゅえい(元)
撹拌 ●かくはん(名目読み) ○こうはん(元)
紊乱 ●びんらん(名目読み) ○ぶんらん(元)

「「情緒(じようしょ)」「緒(しょ)に就く」の「緒」は「著(ちょ)」や「猪(ちょ)」にひかされて、「チョ」とも読み、また、「損耗(そんこう)」の「耗」は「毛」にひかされて「モウ」とも読むようになった結果、常用漢字表に認定された」(講談社現代新書P650 『漢字の常識・非常識』 加納喜光 より)

どうやら「でいいんです」の仕組みというのはこういうことらしい。「赤信号を渡っていると気づいたらちょっと恐い」みんなのうちの一人の呟きとして日記に書いておこう。

※写真は9月8日早朝、上富士交差点横断歩道車止めに激突したタクシー。

2001年 9月 8日 土曜日
【特効薬】

日本人の死因のうち4分の1はガンによるものだそうだ。医療の進歩によりガンを克服され他の原因で亡くなる方もいるので、どれくらいの人がガンにかかるかというと、日本人のうち約3分の1がガンにかかる可能性があるのだという。まぁ、ガンになっても神様を恨めないなぁという数字なのだけれど、誰しもすすんでガンになりたいわけではないので、健康雑誌の新聞広告を見ると様々なガン予防法が次々に生み出されていて面白い。「紅茶キノコ」以来、ずっと民間マル秘健康食品ブームが続いているのかなぁ? また、新聞記事自体にも学会報告として発癌性のある食品の話題、抗ガン作用のある食品の話題などが頻繁に登場する。

なんか変だなぁと思うのは、
「実験用マウスを使って、片方のグループには普通の餌、片方のグループにはある食品だけを与え続けたところ、ある食品を食べ続けたグループの●●%にガンの発生が見られた」
なんて記事が載る時。そもそもストレスいっぱいの実験用ケージに入れられて不吉な気配漂う実験室で「ばっかり食い」を続けさせられたら、「どんな動物がどんな食品を食べたって」ガンになるのではないだろうか。勝手気ままな暮らしの中で、勝手な食品を食べていても人間の3分の1はガンになるのだ。人間を実験用ケージに入れて「ある食品のばっかり食い」をさせたらガンの発生率は3分の1どころでは済まないのではないだろうか。

その反対に、「ある地方」で「ある食品」を多く食べる人たちにガンの発生率が少ないという調査結果が発表された、という記事もある。その「ある食品」がセンセーショナルだったりすると、“固形「ある食品」”とか“粉末「ある食品」”とか“錠剤「ある食品」”とか“濃縮「ある食品」”とか“携帯用「ある食品」”とか“お徳用「ある食品」”なんかの広告が新聞紙面を賑わすようになり新聞社も大喜びするわけだ。

私の郷里の「ある地方」が「ある食品」によってガンでの死亡率が低いと発表されたことがある。ある食品とは「緑茶」なのだが、確かに静岡県民は「緑茶」をよく飲む。朝起きて「お〜いお茶」、朝飯前に「お〜いお茶」、仕事の合間に「お〜いお茶」、昼飯前後に「お〜いお茶」、三時のおやつに「お〜いお茶」、日暮れ前に「お〜いお茶」、夕飯前後に「お〜いお茶」、寝るまでテレビ見ながら「お〜いお茶」なのだ。富山出身の妻も、あまりに静岡で「お〜いお茶」が多いのには呆れていたものだ。
だからといって都会でストレス一杯の机仕事をして不規則な生活習慣を送りながら一日中「お〜いお茶」を実践したからといってガンの発生率・死亡率が低下するとはどうしても思えない。

朝日新聞を読んでいたら今度は豆腐などの大豆加工食品をよく食べる人にガンの発生率・死亡率が低いという調査結果が発表されていた。
「そうだよなぁ、豆腐はいかにも健康に良さそうだし、三食食卓にあってもいいなぁ。だけどインチキ豆腐じゃ効能が無さそうだし、ここは一番毎朝早起きしてお米を研ぎ、小日向にある豆腐屋“小林豆腐店”にアルマイトの鍋を下げて散歩がてら木綿を一丁買いに行くという習慣にしたらどうだろう。炊き立てご飯に冷や奴って美味しいもんなぁ。健康ウォーキングも兼ねるし。昼は本屋でものぞきながら動坂下の豆腐屋“越後屋”に行って絶品のガンモでも買って来て「ふくませ煮」にしてもらおうかな。午後涼しくなったら上野桜木の豆腐屋“藤屋”にアルマイトの鍋持って行って美味しい井戸水ごと豆腐を仕入れて湯豆腐なんていいなぁ、谷中銀座でひじきと大豆の煮物でも買って」
なんていうのんびりとゆとりある暮らしが出来たら、豆腐なんて食べなくてもガンに罹る率は下がるんじゃないかなぁ。

要するに、「緑茶」や「豆腐」を共通項とした「暮らしぶりの総体」がガンに強いのであって、「緑茶」や「豆腐」自体がガンの特効薬というのはちょっと……と言いたいだけでこんな長文になってしまった。
また自戒。

2001年 9月 7日 金曜日
【「でいいんです」】

仕事の打ち合わせで本郷通り沿いの出版社へ。東京都では次々に新たな地下鉄路線が開通しているのだけれど、駅の構造が障害を持つ人や高齢者への配慮が足りなくてけしからん、などという世間話が編集担当者から出たところで打ち合わせ終了。

地下鉄駅の構造もさることながら、東京都は地下鉄開業を理由に、地上を走るバスの本数を減らす方針だそうで本郷通りを行き交うバスがなかなか来ないのもけしからん。都心から障害を持つ人や高齢者の足を奪って排除するのも合理化策の一つに入っているのかもしれない。うん、きっとそうだ。

バスの来ない本郷通りでのせめてもの楽しみは、バス待ちの間に古本屋を覗けること。店頭の新書判書籍から気になる本を抜き出してパラパラめくっていると「口腔」の文字が目に入った。打ち合わせが医学系出版社だったのも何かの因縁か、以前から気になっていた「口腔」の読みに言及した本を見つけたのだ。

岩波新書373 柴田武著 『日本語はおもしろい』
69ページより
「言語学の音声学の分野では、口の中の空間を「口腔」というが、これをコウコウと「正しく」読んでいる。ところが医学ではこれをコウクウと読む。小学校の歯の検査でも、きょうはコウクウケンサだと言ったりする。辞書にも、コウクウも認めているものがある。
 「播」に「番」というつくりがあるから、これを「ハン」と読みたくなるのと同じ理屈で、「腔」の「空」はクウだから、腔をクウと読むようになり、それが学会の用語に定着し、一般用語にも進出してきたのである。」

やっぱり、そうなのだ。実は以前、ある出版社から「口腔」と書名につく本の装丁を依頼され、「コウコウ」と読んだら「コウクウ」と訂正された。「腔」の読みは「コウ」だから「コウコウ」ではないのかとたずねたら、コウクウ「でいいんです」と言われた。私、この「でいいんです」が胡散臭くて嫌いなのだ。どういう理由で「でいいんです」なのかの説明があれば納得もするけれど、大概、世間一般で「でいいんです」ということになっているから…それだけの説明しかもらえない場合が多いのだ。
子どもの頃、学校の「読み方」テストでどうしても読めない字があった場合、時間切れ寸前に悪あがきで「偏」を排除して「つくり」の音読みを書いておくと、「まれに正解となる」可能性に賭けていたりしたことがある。「腔」の字が読めないけど「つくりの空」はクウだから「クウでいいんです」、これならわかる。素直でいい。いや、歯学系の人はこう反論するかしら。

「歯学で「コウコウ」と言うと「咬交」もあるわけで、「口腔」も「咬交」も「コウコウ」だとまぎらわしいのだよ」

でも先生、だからといって「腔」を「クウ」と読むのは、「別問題」じゃないのかなぁ。

2001年 9月 7日 金曜日
【わたしのはれの日】

私の生まれ故郷静岡県清水市の美濃輪町、ここは清水次郎長が生まれた町なのだが、その次郎長通り商店街に魚初という創業100年余の老舗魚屋があり、渡辺謙(毒まむし三太夫説もあり)に似た私より10歳年下のオダックイ(清水弁でお調子者)若主人が腕を振るっている。この店から駿河湾の海の幸を取り寄せるのを楽しみにしているのだけれど、敬老の日が近いということで清水の食文化を垣間見られる素晴らしいページを作られていたのでご紹介。

「わたしのはれの日」

2001年 9月 7日 金曜日
【コンサートのお知らせ】

かつて当サイト掲示板にも名前を伏せていらっしゃっていた(^^)編集者近藤治夫さんからコンサートのお知らせが届きました。

すっかり涼しくなって参りました。ことしの夏前半の暑さがウソのようです。皆様お元気でお過ごしのことと存じます。
さて、ことしの秋もジョングルール・ボン・ミュジシャンの中世・ルネサンス音楽のコンサートが目白押しです。秋の夜長を、郷愁誘う古楽器の音色を楽しみながら過ごされてはいかがでしょうか。
今回は「中世・ルネサンス音楽のタピストリー」と題しまして、京浜東北線「上中里」(あるいは地下鉄南北線「西ヶ原」)にあります喫茶店「らいむぎ畑」で9月15日(土・祝)で開かれるコンサートのご案内です。今までにジョングルール・ボン・ミュジシャン(J.B.M)が開いてまいりました数々のコンサートの中でも、選りすぐりの名曲を集め、中世・ルネサンス音楽のエッセンスとも言えるようなプログラムになる予定です。一度聞いたら忘れられない美しいメロディー、一見奇妙ともいえるハーモニー、民族音楽的なリズムなど、古楽の楽しさが一杯のコンサートです。
「らいむぎ畑」は「音や金時」や「グリーンバレー」に比べると少し狭いのですが、それだけに音を身近に感じていただけると思います。店主の中川さんはリコーダー奏者で、このお店を日本初の「古楽喫茶」と位置付け、コンサートを毎月開いていらっしゃいます。なかなか雰囲気のある素敵なお店です。ただ、お店のキャパの関係上、今回は「要予約」とさせていただきました。早めの御予約をお願いいたします。

J.B.M 近藤治夫

『中世・ルネサンス音楽のタピストリー』
多彩な古楽器たちの織り成す絵物語

2001年9月15日(土・祝)
午後7:00開演
近藤治夫(バグパイプ、テイバーパイプ、ハーディ・ガーディ他)
駒澤 隆(中世フィドル、ヴァイオリン、パーカッション他)
2,000円(1ドリンク付き)
★会場の都合で今回は要予約です。
予約・問い合わせ:
らいむぎ畑 03-3940-4657

らいむぎ畑への地図はこちら

2001年 9月 6日 木曜日
【カーボン紙】

東京都豊島区にある江戸川乱歩邸から氏が知人に宛てて書いた手紙が出て来たのだそうな。生前自ら焼却したので皆無と思われていたものが出て来たわけで、貴重な資料らしい。

で、何で他人に出したはずの手紙が残っていたかというと、氏はカーボン紙を敷いて手紙を書き、控えを残しておく習慣があったのだという。コピー機など影も形もなかった時代、わが家にも片面のカーボン紙があってよく悪戯したが、手紙の控えという用途は初めて知った。ナルホド、そういう人もいるのかもしれないが、そういう習慣の人というのは現代では投函前に書き上げた手紙をコピーしたりしているのだろうか。まあ、乱歩の文通相手は横溝正史などのインテリで、中身も探偵小説論などという高尚なものであったらしいので、凡人の計り知れるところではないけれど、私のような低レベルの人間が自分の書いた手紙をコピーして、しかも投函日時まで入れて整理保存していたりするとなると、我ながらかなり変だと思う。

と、ここまで書いてはたと恐ろしいことに気がついた。電子メールでそれをやっているではないか。数年分の送信済みメールが送信済みボックスに蓄積されていることに気づいた。アナハヅカシヤ。庭先にしゃがみこんでカーボンコピーを焼く乱歩の後ろ姿を思うと、しみじみと情感豊かに秋の武蔵野が原の夕暮れが思い浮かばれるのだが、私が時の流れに手紙をくべるのはいとも呆気なく「消去」を次々にクリックするだけだ。凡人とはそういうものなのだ。

2001年 9月 5日 水曜日
【カバー考】

昔は文庫本を買うと本屋さんは躊躇なくカバーをかけてくれたように記憶しているのだが、最近はどの店も「カバーおかけしますか?」と聞くようだ。「おかけしますか?」と聞くということは「おかけしなくてもいいです」という客がいるということだろう。
片や、「おかけしなくていい」人というのは、紙を束ねて表紙を付けたものに更にジャケットを付け、しかも腰帯まで巻くという過剰包装の日本の書籍に腹を立てて、これ以上資源の無駄遣い許すまじという清冽な志に基づいて行動しているエコロジカルな方なのだろうか。
一方、「おかけしてください」という人も、本を少しでも汚さずに読んで古本屋に二束三文で売れば次々に読み回しが出来るので資源節約になるという清冽な志に基づいて行動しているエコロジカルな方なのかもしれない。

あまりエコロジカルでもない私が「おかけしてください」派なのは、自分の読んでいる本の表紙を見られるのがイヤだからだ。ハードボイルド物の文庫本などには往々にして気色悪いエロ・イラストが使われていたりして、電車内で読んでいたら変態オヤジじゃないかと思われそうでイヤなのだ。

で、カバーをおかけしてくれない店もあったりして、仕方なしにジャケットを裏返しにかけて白い表紙の本を読んでいるようにすることもあるのだが、いかにも人目が憚られる本を読んでいるようで気恥ずかしい。確か、小学館文庫だったと思うのだがジャケットを裏返すと一色刷りで包装紙のような印刷が施されているものがあった。なーるほど…と、感心したのだが、隅の方に極小文字で「してやり」と書かれていたので編集者の喜色満面な顔が浮かんで楽しかった。なかなかやるのぉ…といったところか。

東村山で「トロル」という絵本の店を経営されている練ちゃんという友人がいる。この人、なかなかセンスのいい人で好きなのだが、彼がたまたま持っていた読みかけの本を見て驚いた。近所のスーパーの売り出し用チラシをカバーに巻いてあるのだが、いかにも実用の読書、生活の読書という、つましくやる瀬ない感じが出ていて実に新鮮だったのだ。そうだ、赤と緑の二色分解製版スーパー売り出し用チラシが装丁になっている本なんてどうだろう、太書「?」マークのマジックインキで書名と著者名が黒々と大書してあるやつなんていいと思うけどなぁ。ちょっと凝るならパッチン!と輪ゴムがかかったりしていて…なんてことを考えてみたのだが、私に仕事を依頼する出版社では通りそうもないので、かくなる上は練ちゃんに本を書いてもらうしかないかも。関本練著『え?本屋繁盛記』、はたして「カバーおかけしますか?」と聞かれた人はどう答えるだろうか。

2001年 9月 4日 火曜日
【天使の歌声】

学生時代大蔵省印刷局近く、北区西ヶ原の住宅街に下宿していた。
クリスマスの夜といっても、一緒に聖夜を過ごす恋人がいるでもなし、ぼんやりと夜を迎えていたのだけれど、外で奇妙な歌声がするので二階の窓を寒空に開け放ち、身を乗り出して階下を覗くと玄関先で四、五名の女性が賛美歌を歌っていた。高齢者や病人となって教会のミサに行けないクリスチャンのために、聖歌を届けて回る事になっていたらしい。クリスチャンというのもいいものだなぁ、こういう豊かさもあるのだなぁと感心し、羨ましく思ったものだ。

かつて神奈川県川崎市に「生活リハビリクラブ」というのがあって、在宅のお年寄りのための素晴らしいデイ・サービスをしていた。フォト・ライター木村松夫さん曰く「4人の妖精」、そんな美しい娘さんがまるで天使のように軽やかな働きぶりで奮闘していたのだった。理学療法士三好春樹さんとの縁で親しくお付き合いさせていただいたのだが、もう10年近く前の9月4日、外出から帰り留守番電話の用件再生ボタンを押すと「4人の妖精」が歌う「Happy Birthday To You...」が流れて来た。それは、人生で2度目に聞いた天使の歌声だった。

留守番電話はとうに壊れてしまったけれど、その歌声の入ったマイクロ・カセットは今でも大切に保管してある。※写真は「歌声に聞き惚れる私」…ではなくて、パリの古道具屋に転がっていた変な犬の絵:為念。

2001年 9月 4日 火曜日
【号外(^^;】

メールマガジン『さすらい通信』162号誌上にて当サイトが再び紹介され過分な御誉めのことばを頂戴しました。「誕生日も 冥土の旅の一里塚」と来たら「嬉しくもあり悲しくもあり」と受けるところですが、今日は嬉しい事の方が多く、思い出深いバースデーになりました。『さすらい通信』→老いぼれ猫さん→はまボーズさんと辿ってお知り合いになった七浦草(^^)さんにもAppleComputer経由で素敵なバースデーカードをいただき感謝に堪えません。皆様どうもありがとうございました。

メールマガジン『さすらい通信』は無料で購読できます。
インターネットの世界ではタダなものの中にこそ至宝が隠されている。
「 足元を掘れそこに泉わく」至言かもね。

2001年 9月 3日 月曜日
【単純労働とは?】

装丁という仕事をしていると図版をパソコンに繋がったスキャナで100点近く延々スキャンするなどという作業がある。作業のかなりの部分が同じことの繰り返しになるので“バッチを組む”などといって、いわば自動化してしまうのだが、やはり機械の方で人間様の判断を必要とする箇所があるので、機械に張りついていなければならない。“人間”を“脳”、“機械”を“からだ”とするなら、一部自動化したということは“からだが覚えた部分”があるということで、その分暇になった“人間=脳”には別のことを考える暇が生まれる。それで次のような物語のことを考え始めるわけだ。

記憶力にいささか自信が持てなくなってきており、しかも“物語”は自分の都合で歪曲してしまう恐れが私にはあるのだが、覚えている通り書くと、こんな話だ。

昔インドのお寺に人から“馬鹿”と呼ばれるような人が預けられ、高僧から寺の掃除を仕事として命じられる。何十年も経った後、高僧がその寺を訪れると、その“馬鹿”は相変わらず熱心に寺の掃除をしていた。それを見て高僧曰く「汝は掃除にて悟りを得たり」。人から“単純作業”と蔑まれようとも一意専心に励めば悟りの境地にまで達することができるという教訓話だろう。

外国人労働者に対する報道で“知的労働”と“単純労働”という言葉を耳にする。言わんとすることはわからないでもないが、言葉が適切でないように思えて気になる。
かつて勤めていた会社に美しく利発な女性が後輩として入社して来たのだが、くる日もくる日も単調な下働きばかりさせられ、ふてくされるでもなく黙々とこなしているのが痛々しく、何かと有益と思える仕事を頼むようにして引き立ててみた。その甲斐あってか責任ある仕事を任せられるようになったら、ある日あっさり退社してしまった。単調な下働きこそ彼女が会社でやりたかったことなのだとは退社時の彼女の談。彼女の気持ちも最近になってようやくわかる気がする。

前述の「掃除にて悟りを得た」人物が死んで埋葬したところ、その場所から茗荷が生えてきたという。それが“茗荷を食べるともの忘れする”という言い伝えの語源になっているらしい。ああ、美味しい豆腐に茗荷をのせて食べたいなぁ、と思ったところでスキャン終了。

2001年 9月 2日 日曜日
【お礼とお知らせ】

9/2、頼まれていた掲示板を友人のサイトに一つ設置しました。
使用した掲示板CGIは、
http://dream.lib.net/room/
にあるTree BBS Ver.1.32 ですが、これはかなり素性の良いCGIとみえて高速で安定していてほれぼれする出来栄えです。設置場所は「次郎長翁を語る会」→次郎長何でも掲示板です。

六義園上空を吹き渡る爽やかな九月の風を感じながらサイトの不具合に手を入れました。
【お礼】
はまボーズ様……「管理人の日日抄」誤字訂正メールありがとうございました。
        「管理人の日日抄」リンク切れレポートありがとうございました。
桜うなな様………「私設六義園案内」リンク切れレポートありがとうございました。
        「清水しみずShimizu」文章校正メールありがとうございました。
小川信明様………「まる子゛と清水」リンク切れレポートありがとうございました。
        
【お知らせ】
当サイト掲示板室、六義湯縁台にてMacintosh用連番作成ソフト「Numberer」通称「南原君(^^)」(「ハウゼンの昔語り」のOUさん作)のβバージョンがダウンロード可能になっています。同ソフトへの要望や雑談にもご参加をお待ちしております。

2001年 9月 1日 土曜日
【美しかるべき九月】

私が通った東京下町の小学校の始業式は9月1日と決まっていた。
北の地域の始業式はもっともっと早いようで、8月中旬北海道・浦河べてるの家を訪問した七七舎の勝藤郁子さんによれば、浜で焚き火にあたって暖をとるほどの涼しさだったというからそれも頷ける。

私の子供時代は始業式同様、終業式の日にちも一定していて、その前日が日曜日だったりすると恐怖の通信簿授与式を土曜日に前倒しすれば楽しい夏休みが二日増えると内心期待したりもしたのだが、教師というのは融通がきかないらしく、月曜日の終業式は動くことなく火曜日から夏休みということになっていた。ことしの始業式9月1日は土曜日だったのだが、やはり動くことはなかったのだろうか?

いずれにせよ、8月31日は何とも憂鬱な日で、楽しい夏休みにどうしてこんなに宿題を出さなければいけないのかと、どれだけ教師を恨めしく思ったか知れない。

8月31日がやるせないのは今も昔も変わらないのか、深夜本郷通りを疾駆する暴走族もひときわヒステリックで、警察も奮起したのか拡声器で大声をあげながら追い回すのですっかり目が覚めてしまった。明け方テレビを付けたら耳ピアスや茶髪の少年少女がNHKのインタビューを受けている映像が飛び込んで来て、なんだなんだなんだとボリュームを上げたら深夜歌舞伎町で火災による大惨事があったらしい。亡くなられた44名の無念の思いに黙祷。

「夏休みが終わったらみんな元気で会いましょうね」
と小学校の女性教師は言った。夏休み中に仲良しだった友人とそのおばあちゃんが自動車の暴走の巻き添えになり、おばあちゃんは亡くなり、友人は片足を失っていたなどという悲しい始業式もあった。

昼近くになって買物に出ると蕎麦屋のおばちゃんまで夢中で歌舞伎町からの中継に見入っている。空には箒で掃いたような白い雲が浮かび、驚くほど九月の天は高い。

 


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