電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年 11月 30日 金曜日
「看護婦ほどオモロイ商売はない」

『看護婦ほどオモロイ商売はない―現代医療の矛盾と老人ケアの世界―』という本の出版記念パーティで池袋まで。著者は朝倉義子さん。出版元は雲母書房、装丁石原雅彦、イラスト川上京。人となりと本の内容は帯のキャッチコピーが見事に表現しているので引用。

さすらいの看護婦アサクラ、老人ケアの荒野を行く!
自ら始めた民間デイ「ヤモリクラブ」で出会った老・病・死とは?

突然だが朝倉義子さんは独身なのだろうか(爆)
おどけた仕草で人を笑わす術に長けているのは関係者の熟知するところだが、眼差しの鋭さはさぞ凄い集中力を発揮する看護婦なのだろうなぁと思わせる。こういう女性に捕まった、もとい、ハートを射止めた男性は蜘蛛の巣にかかったような、もとい、限りない安寧な家庭生活を得られるに違いない。

豊橋出身だそうで、友人はまボーズ氏が編集長をつとめる雑誌が休刊になった時、慰労パーティで衣を引き裂くような、もとい、皆を陶然とさせるような美声でアメージング・グレースを熱唱したことでも知られている。そんなわけで、話される声に集中していたらやはり「ら」抜き言葉、「見れる」「出れる」「食べれる」などの表現が頻出し、我が郷土の清水弁に近いのが心地よい。

パーティの締めくくりにスピーチということになったのだが、また長い話を聞かされるのも、もとい、スピーチはオープニングで充分聞かせていただいていたので、自著の朗読をリクエストしてみた。やはり美声であることもさることながら、処女出版の自著朗読は日本酒の初絞り、もしくはボジョレ・ヌーボーといった味わい。自分で選んだお気に入りの章なので、やや吟醸ならではの香りが立ち過ぎている気もしたが、朗読を終えた時は酔眼が充血、もとい、目元を潤ませている方も多かったので感動はなかなかのものであったと思う。

最近の学校というのは生徒に音読をさせないそうだ。音読というのは良いものだ。私が出版社社長なら是非とも著者の音読 CD 付きの本を企画したいんだけどなぁ。年老いて目が役に立たなくなっても「読める」し、文字で読むのとはまた違う味わいのあるものなのだ。

※街はもうクリスマスムード 11/29 7:00pm

11月 29日 歩数4,821

2001年 11月 29日 木曜日
「貧乏爆発」

友人からいただいたメールによれば、全世界を100人の村に縮小すると、80人は標準以下の居住環境に住み、70人は文字が読めず、50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあることになるのだそうだ。グローバルなことをビレッジに引き写して考えるわけで、昔流行った「地球村」的な思考法なのだろう。

私の子ども時代の日本はいまよりずっと貧しかったと繰り返し書いてきたけれど、視点を変えてグローバルに眺めれば、今も当時も変わらずに日本は豊かだし、別の視点でマクロに見れば物質文明を極めた現代がかつて暗黒の時代といわれた中世にくらべて本当に豊かだとも思えない今日この頃なわけで、貧乏だ、金持ちだ、なんて、この時代、この歳になったおっさんが拘泥したりするテーマでは無い気もするのだが、ある時突然貧乏・金持ち問題の細部がチクリと刺激され、ズンズンと疼いたりするのは、やっぱり子ども時代にうけた貧乏人のトラウマがどんなに大人になろうと消えないものだからかもしれない。

日日抄で懐かしい給食の献立、鯨肉竜田揚げの話を書いたら面白いメールをいただいた。なんと私立の小学校では鯨肉の献立が無く、生まれてから一度も鯨を食べた事すら無いのだそうだ。
わははと笑ってはみたものの、驚きの程度を形容すれば、夜更けに妻の頭にツノが生えているのを偶然見つけたような衝撃(今はもう無い)と言ったらわかるだろうか。子ども時代、鯨肉と魚肉ソーセージが無かったら栄養が足りなかったんだろうなぁと感謝することの多い私の衝撃は大きい。貧乏爆発である。

そうかあ、私立だもんなあ、と私立小学校のことを思い出す。私は小学校卒業間際まで学校に公立と私立があることすら知らなかった。卒業後私立中学に進学するという友が三人いることを初めて知って驚いたし、入学して卒業するまでにかかる費用にも驚いたし、親が自営業の三人が六年生になって急に放課後のつき合いが悪くなった理由もわかったし、何と小学校や幼稚園まで私立があると知ってさらに驚いた。貧乏と金持ちの別れ道って幼い頃からあったのだ。

貧乏・金持ち問題究明のためにメールを発信。それでは私立小学校で「肝油(【タラやサメなどの新鮮な肝臓から得た脂肪油。黄色で透明。ビタミンA・Dを多量に含む。夜盲症や発育期などの栄養補給に用いる。】広辞苑第五版より※注:1)は出ましたか?と尋ねると「そこでは肝油は出なかったです。多分、私は肝油を飲んだ経験はないと思います」。え〜〜ん、貧乏大爆発!

私の子ども時代の工場地帯を100人の村に縮小すると、5人は学級費と給食費が払えず、10人は青っ鼻を垂らしていて、30人は唇カサカサで両端に傷があり、50人は手の甲にアカギレがありそのうち30人はひび割れていて、80人は冬の日にふくらはぎを掻くと白くなった。最近の子どもに青っ鼻やアカギレひび割れを見ないのは栄養が良くなったからで、その意味では日本はかつて貧乏で今は金持ちになったということだろう。
そーかー、私立にいく子は「肝油」の必要が無かったのかなぁと思うと、ゼリーに砂糖をまぶしたような小さな肝油を給食後ちびちび齧っていた自分が哀れだし、白い硬いドロップで回りに黄色いビタミン臭のする肝油になってからは脱脂粉乳を飲み終わったカップにお湯を貰い肝油ドロップを入れてスプーンでかき混ぜ「ジュースだ」なんて言って飲んでいた自分がいじましいし、終業式の日に貰った肝油をその日に全部食べてしまった自分を意地汚いと思う。そして任意購入だった休み中の肝油が買えなかった友人たちを思うと胸が痛む。※注:2

小学校時代、私の担任は皆の前で家庭の事情を聞くのが好きで、「学級費と給食費を払っていない人」とか「お父さんお母さんのどちらか、または両方がいない人」とか尋ねて手をあげさせる事をよくやった。思えば人前で自分の境遇を恥ずかしがらない人間になって欲しいという思いやりからだったのかもしれない。私は母子家庭だったので「お父さんお母さんのどちらか、または両方がいない人」という質問と「お父さんの職業は何ですか?」という質問が嫌いだった。私が嫌いな質問にも嬉々として進んで手を挙げる級友もいて、「私のお父さんは飛行機の部品を作る工場の社長です!」とか「僕のお父さんは商事会社の専務です!」とか答えていたものだ。

懐かしい「貧乏村」を歩いてみると社長のいた工場も、専務のいた棟割り長屋も今はなく、当時の路地があった場所すらわからない。「貧乏村」の貧富の差なんて取るに足りないものであったし、鯨肉や肝油の体験の有無を嘆くなんて今も栄養失調に苦しむ50人の「地球村」の住民に恥ずかしいことなのだが、グローバルな視点とローカルな怨念の間で絶えず小規模爆発を繰り返す貧富問題は何とも厄介者なのである。

※注:1
私の小学生時代は南氷洋捕鯨の全盛期。年間6000〜7000頭を捕獲し(シロナガス換算)、鯨肉竜田揚、パン用マーガリン、肝油ドロップに用いられ給食の花形だったという。捕鯨削減・禁止後の肝油は広辞苑にある通り。

※注:2
1951年ガリオア援助(占領地救済政府基金。第二次大戦後、旧敵国の日本とドイツに対してアメリカの軍事予算から支出された援助資金。食糧や医薬品などの生活必要物資の緊急輸入に当てられた。広辞苑第五版より)が打ち切られ、1953年には政府援助が減額されたので1人1日2円20銭の値上げ負担に耐えられない貧困家庭が続出した。

11月 28日 歩数8,585

2001年 11月 28日 水曜日
「六義園ライトアップ」

東京都の庭園『六義園(りくぎえん)』の夜間ライトアップが12/2(日)までとなったので急遽回遊してみた。

さぞかし妖艶だったのだろうなぁと思える春のしだれ桜ライトアップは実際に見ていないのに、紅葉をライトアップしたら風情が台無しじゃないかなぁと思える冬のライトアップに出掛けて行くというのもへそ曲がりな性格ゆえだろうか。


特定の「見所」だけをライトアップしているのかと思ったら、主要周遊路を回遊できるようになっているのに驚いた。回遊型庭園だから妥当な配慮だと思う。面白いのは、ライトアップされた「見所」は単なる暗い夜道に過ぎず、回遊禁止区域に迷いこむ人の無いよう要所に配備されている警備員が懐中電灯を持っている姿(警備員さん、ご苦労様)。懐中電灯で顔を下から照らしたらさぞ恐ろしく、「六義園冬の肝試し大会」みたいだ。連日大変な人出で、庭園協会の入場料収入もさることながら、地元の商店に及ぼす経済波及効果もありそうなので結構なことかもしれない。

泉心亭を開放して和菓子と抹茶をいただけるのは有り難い。ただし対岸の茶屋付近での飲酒はやめたほうがいいのではないかと思うのだが、「祭り」なのだから大目に見るべきだろうか。入場者は夜間ということもあってか老若を問わずカップルが多く、野郎が連れ立って見に来るようなイベントでは無い気もする。若いアベックを見ていると極めて堅実そうな男女も多く、このカップルなら末長く仲睦まじく暮らせそうに見えるのも、地味なデートスポットならではか。


六義園の夜間ライトアップ、入場は午後8:00まで。他の写真も見る

11月 27日 歩数10,583

2001年 11月 27日 火曜日
「万歩計」

まんぽ‐けい【万歩計】
(1日に1万歩ほど歩くことが健康に良いとすることから) 腰に付けて、歩いた歩数を数える計器。商標名。 広辞苑第五版より

成人病予備軍の徴候も見えて来たので、10キロくらい痩せたいなと思う。『かならず10キロやせる』という本の装丁を担当している最中であることも好都合。大学生時代と身長は変わらないのに体重が20キロ増えているので、20キロ減を目指したいところだが、今の生活の中で20キロ痩せたら別な意味で危ない気もするのだ。

Palm OS という Macintosh と親戚のような生い立ちの携帯情報ツールがある。その OS を採用したHandSpring Visor というのが気に入っている。で、そいつに取り付ける万歩計があってびっくり。STEP KEEPER というのだが、6cm四方弱の板状のもので万歩計に付き物のアナログやデジタルの歩数表示は一切無い。Visor に取り付けると数分で充電完了、STEP KEEPER のみを腰につけて一日を過ごし、帰宅して再び Visor に取り付けると、歩数を含めて様々な情報が表示されるのだ。設定画面で身長、体重、歩幅を登録しておく。目標歩数を聞かれるので、ここはドーンと10,000歩にしておく。アドバイザーとして「いぬ」「ねこ」「ペンギン」「たま」「くま」「Visor」が選べるので迷わず「いぬ」を選択。

『かならず10キロやせる』の打ち合わせで銀座に行って来た11月26日の結果は6,645歩、目標達成率66.4%、歩行距離4,319メートル、消費カロリー272.4kcal、「いぬ」君のアドバイスは「少し足りなかったね」「おなたはやや太りぎみでした」とのこと。ちなみに「いぬ」君によると私は12キロほど痩せた方が良いそうだ。この結果は週単位、月単位のグラフとして表示することもでき、過去の記録として登録される。

「ヒトイヌニアウ」のコーナーに登場する「ハッピー」という犬、優しい飼い主に巡り逢い、生後すぐに終わっていたはずの命を拾われ、今年の春、天寿を全うしたのだが、晩年は身体もこわばり、眼も白濁し、飼い主に抱かれて散歩する毎日だった。その飼い主(通称ハッピーのお母さん)が万歩計を購入し、一日の歩数を調べたら仰天するようなとんでもない数字が出て来たという。犬の散歩と侮るなかれ、実はとてつもない距離を歩いているものなのだ、と結論づけたいところなのだがオチは可笑しくも感慨深い。

お母さんがハッピーを愛おしみながら散歩する様は孫の守りをするおばあちゃんのよう、あれこれ話しかけながら町内を散歩するのだが、「よしよし」とハッピーの身体を小刻みに揺すって「あやす仕草」を万歩計は丹念にカウントし、膨大な歩数として表示していたのである。ハッピーは眠るように幸せな生涯を終えたと聞く。

2001年 11月 26日 月曜日
「海ゆき」

母が静岡県清水市で飲食店を開いたのは私が中学に入学した年だ。
地元の事情通には、ちょっと遅すぎると言われたという。好景気のピークは終わったよ、ということだったらしい。それでも、当時の繁華街の活況は東京下町で小学生時代を過ごした私を驚かすには充分で、今にして思えば新宿歌舞伎町のようだった。

息子を「早く一人前にしたかったら鮪船に乗せろ」「鮪船に三年乗れば家が建つ」、清水ではそんな話をよく耳にした。実際、中学の先輩が鮪船に乗り込み、数年後自宅を持ち、陸に上がって店を持ったから、確かにそんな時代だったのかもしれない。年月を区切って陸での生活資金を溜めるものもいれば、入港する度に飲み屋の空き部屋を泊まり歩き毎夜豪遊して金を使い果たす船乗り達も多かった。飲食店にとっては極上の客であるから、○月○日、○○丸が入港すると聞けば迎えに行くし、出港時にはテープを投げて見送りに行く。「来年もまた来てちょうだいね」というわけだ。

“おにぎり・お茶漬け・家庭料理”などという看板を掲げていても常連の船乗りが出来たりするわけで、母は私を連れてよく出港時の見送りに行った。それが嫌で嫌で仕方なく、「嫌だ」と言うと「誰のおかげでご飯を食べてる」と来る。「お母さんのおかげだけど、毎晩キャバレーの女を連れて来て下品な笑い声を上げ、深夜まで大騒ぎしているやつらのおかげじゃない」と言い返すことができず、渋々ついて行くことが多かった。

母は、長い遠洋航海にはこれが一番、と缶入りの煎餅を餞別にするのが好きだった。

岸壁に駆けつけると船が舫いを解いて岸を離れる場面だったことがある。
母は目当ての船乗りの姿を見つけると、煎餅の缶を頭上にさしあげて大声で名前を呼んだ。船乗りは手にしていたタバコを口に咥えると、足元にあったロープを放ってよこしたが、岸まで届かず、岸壁にいた関係者が竹ざおで手繰り寄せてくれた。母と私は煎餅の缶をロープの端に結び付けて手を振り、煎餅はポトンと海に落ち、スルスルと船尾に手繰り寄せられて行った。「元気で帰っておいでよーっ」と母の金切り声に、煎餅の缶を抱えた船乗りがちぎれるほどに手を振る。毎晩キャバレーの女を連れて来て下品な笑い声を上げていたあの船乗りではなく、一人の人恋しい青年の笑顔だった。私はこみ上げるものがあって、泣いてたまるかとウッウッと嗚咽が漏れないよう両拳を握りしめていた。
五色のテープが舞い、何故か「螢の光」が流れる岸壁では、派手な衣装で厚化粧のキャバレーの女達にもハンカチで目元を押さえる者が多かった。命を乗せた船が岸辺を離れる光景は切なく、その一瞬胸に迫るものこそ大切にしたいという思いは今も変わらない。

海上自衛艦三隻がインド洋に向け出港した。日の丸がうち降られる場面に飽いてチャンネルを変えていくと、泣き崩れる親族の姿を追っている局もある。「ただ無事に帰って来て欲しいと…」、家族の偽らざる気持ちだろう。画面が日の丸で埋め尽くされ、“泣くな、国のために立派に死ねと言え、と万歳連呼を強要する”輩にも再び途を開いたように思えてならない。

2001年 11月 25日 日曜日
「落ち葉のカウントダウン」

色づいた木の葉が絶え間なく降りしきる様は、砂時計が時を刻むようで、今こうして生きている時が刻々と過去になり世界が冬へ向かっていることを実感させる。この瞬間にも地平線の遥か向こうで大勢の人々が死にゆく夕暮れ。
個人メールで、メーリングリストで、掲示板で、今この時を伝える友人の便りが次々に飛び込んでくる。たくさんの人たちとリアルタイムで繋がっている恍惚と不安(どっかで聞いた言い回しだな)が錯綜する夕暮れ時。今日の駒込界隈の写真を日日抄がわりに掲示。

2001年 11月 24日 土曜日
「はっぴいえんど」

「太宰って結局人生の敗北者なのよ」

大学時代のコンパでこんな事を言う女が居て、嫌な女だなぁと思ったものだ。胸も薄いけれど、頭の中身も薄っぺらなんだな、二十歳にもなって口に出来る考えじゃ無いぞ、と呆れたけれど、そんな女でも男子にはなかなか人気があったので、当時の友人の太宰の評価に似たり寄ったりが多かったのもなんとなく理解できる。
人生に敗北も勝利もあるものか。

その頃「はっぴいえんど」というグループが好きでよく聞いていた。

鈴木茂(1951年12月20日生まれ)、大瀧詠一(1948年7月28日生まれ)、細野晴臣(1947年7月9日生まれ)、松本隆(1949年7月16日生まれ)の四人組で、デビューアルバムは『はっぴいえんど』(1970年8月URCレコード)。私が聞き始めた頃には既に解散した後で、大瀧詠一はソロ活動、松本隆は人気作詞家に、鈴木茂、細野晴臣は松任谷正隆、林立夫とキャラメルママ(後にティンパンアレー)というグループを結成してバックミュージシャンとして活躍中だった。そもそもはっぴいえんど時代から様々な歌手のバックをつとめており、列挙するだけで懐かしいので書き出してみる。

NIYAGO-遠藤賢司 1970.4 (細野・松本・鈴木)
愛する人へ/ラブゼネレーション 岡林信康 1970.5 (細野・松本・鈴木・大瀧)
見るまえに跳べ 岡林信康 1970.6 (細野・松本・鈴木・大瀧)
だからここに来た/コペルニクス的転回のすすめ 岡林信康 1970.10 (細野・松本・鈴木・大瀧)
溶けだしたガラス箱 西岡たかし・木田高介・斉藤哲夫 1970.11 (細野)
家は出たけれど/君を待っている 岡林信康 1971.2 (細野・松本・鈴木・大瀧)
岡林信康コンサート 1971.2 (細野・松本・鈴木・大瀧)
自転車にのって/コーヒーブルース 高田渡 1971.5 (細野・松本・鈴木)
自由への長い旅/君を待っている 岡林信康 1971.6 (細野・松本・鈴木・大瀧)
教訓 加川良 1971.6 (細野・松本・鈴木・大瀧)
ごあいさつ 高田渡 1971.6 (細野・松本・鈴木)
回帰線 南正人 1971.8 (細野)
満足できるかな 遠藤賢司 1971.11 (細野・松本・鈴木)
ありがとう 小坂忠 1971.11 (細野・松本・鈴木)
大阪へやって来た 友部正人 1972.1 (細野・松本)
カレーライス 遠藤賢司 1972.3 (細野・松本)
アンブレラ 笠井紀美子 1972.3 (細野・鈴木)
一本道/町は裸ですわりこんでいる 友部正人 1972.4 (細野・松本)
系図/高田渡 1972.4 (細野)
ガロ2 ガロ 1972.6 (細野)
親愛なるQに捧ぐ 加川良 1972.6 (細野・松本)
もっともっと 小坂忠とフォージョーハーフ 1972.8 (細野・鈴木)
あしたはきっと/かたつむり いとうたかお 1972.8 (細野)
み空 金延幸子 1972.9 (細野・鈴木)
乙女の儚夢 あがた森魚 1972.9 (鈴木)
私ってこんな 中山ラビ 1972.12 (細野)

松本隆というのは奇妙な詩を書く人で、細野や大瀧がよく曲を付けられるものだと感心したものだ。そのせいか、いつまでも忘れられない言葉、好きな言葉が多い。
『はっぴぃえんど』という曲の歌詞にこんな一節がある。

「でもしあわせなんてどう終わるかじゃない どう始めるかだぜ」

1970年発売だから、この詩を書いたのは二十歳頃だろう。このくらいのところを二十歳の原点として、人生を始められなければおかしいのだ。

2001年 11月 23日 金曜日
「思ひ出」

高校時代、現代国語の教科書で『新樹の言葉』を読んで太宰治を知り、手当たり次第に文庫本を読みまくった。

私が通った大学は毎年七〜八名の専攻生を採り、その同期生が一つのクラスとなって四年間共通の専門課程を受講する。七人中、女子は二人だけで、そのうちの一人が太宰ファンだった。作品の好みが似ていたこともあり、感想を打ち明けあったりすることに夢中になり、未読の作品を競うように読んだ。

もう全作品を読破したかなぁと思い始めた頃、彼女が太宰治全集を買ったことを聞かされた。学生生協で売られていた赤い布貼り上製本の全集で筑摩書房から発売されたものだ。全集をポンと買えるくらいのアルバイトはしていたものの、もっぱら好きなレコードと遊ぶ金に使い果たしていた私には、とても出来ない潔い金の使い方で、ちょっと参ったし、何より文庫未収録の書簡等が収録されているのが羨ましくもあった。太宰を巡るライバルでもあり、好きな歌手を巡るライバルでもあり、学業のライバルでもあった彼女を愛するようになるのに、さして時間はかからなかった。ライバル意識も恋愛感情もすべてこちらからの一方的なものであり、結局、四年間手を握ることもできなかった。

二人でよく話した作品の一つに『思ひ出』がある。昭和八年四、六、七月「海豹」に発表されたもので、男女をつなぐ見えない赤い糸の一節で有名だったりする。その中で、「どこが印象に残った?」と聞くと、弟が、未来のワイフは今頃、庭あるいてる、という部分だと言う。

 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に眼をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
                        『思ひ出』太宰治 より

私も何故かこの部分が印象的で、「庭“を”歩いてる」の“を”を省いた表現がとても気になったのだ。文章中では会話の中の表現であるし、私だって「ビール飲んでる」「パジャマ着てる」「テレビ見てる」(おやじ的だなぁ)なんて“を”抜き表現で言ったりするわけで格別気にする事もないのだが、『思ひ出』の中のこの部分が妙に引っかかっていたのだ。

先日、日日抄で『黄金風景』について触れた際、再読してみるとわずか四百字詰め原稿用紙八枚ほどにすぎないこの作品の中で“を”抜き表現が頻出するのに驚いた。すべて抽出してみると、「無精髯のばし放題」「ステッキ持って」「浴衣着た」「洋服着た」「絵看板見あげ」、五箇所もある。しかもこちらは会話の中では無いのだ。一段落に“を”抜きと“を”付きとが混在しており、助詞の連続により文章の勢いが殺がれることに敏感だったのだろう。『思ひ出』では気になったのに『黄金風景』では気づかなかったことも、なんだか不思議ではある。

「へぇー、そうだったのかぁ」と赤い表紙の上製本を閉じて本棚に戻す。
赤い糸によって結ばれていたかどうかはわからないが、妻のものは夫のもの同然になってしまうわけで、男と女の運命もまた思えば不思議なものではある。

2001年 11月 22日 木曜日
「投げ飛ばし介助術」

高校時代の格技は柔道。県立高校は2年間だけだったらしいのだが、私立だったせいか3年間みっちりしごかれた。

1・2年は基本の「型」の習得と基礎体力づくり、3年生になると毎時間試合形式授業。身長150cm台から180cm台まで、体重無差別の総当たりなのだが、試合形式になったら俄然面白くなってきた。私は身長180cm近いので体力的に有利でそこそこの戦績だったのだが、勝ち負け以外の面白さに目覚めてしまい夢中になったのだ。

畳の中央で礼をして組み手争い、襟と袖を取り合ってはっきり感じるのは、私の重心、相手の重心、そして縺れ合った時の二人で作る一つの重心、その重心をいかに自分の味方につけるか、その重心操作の主導権争いこそが勝負の決め手のように思えてきた。女子の創作ダンスじゃあるまいし、こんな踊りもどきの「型」なんかを何で2年間もやらせるんだろうと思っていたのだが、人と人との物理的関係の原理を学びつつあったのかもしれない。

高校生の「授業柔道」くらいでは体格差など大した問題ではない。相手を投げ飛ばした時の爽快感もさることながら、自分より小さい相手の腰に乗せられ、投げ飛ばされたときの感触は今でも忘れられない。見事に重心をコントロールされると、自分の体が羽になったように感じられて奇妙な快感があるのだ。

仕事の打ち合わせで、しりとり掲示板ご常連の会社へ。要介助者の移動に関するマニュアル本づくりなのだが、その実践シーンのムービーが素晴らしい。著者の実演は見る人に合気道や太極拳を彷彿とさせるそうだが、私は柔道の「型」を思い出した。授業中柔道部員が行う模範演技に惚れ惚れしたのに似ている。車椅子からベッドへ、ベッドから車椅子へ、見事に移動させる身のこなしは、羽のように軽くなった要介助者を投げ飛ばしているようだ。誤解されると困るのだが「投げ飛ばす」と言っても本当に投げて飛ばしているわけではない。スムーズで理にかなった真にやさしい移動介助の中には「正しい投げ飛ばしの原理」という気合いが内在するように思えるということだ。柔道を体験したことのある介護者はこの映像を見ると、あまりに共通点があることに驚くに違いない。

介護職を目指す人はぜひ柔道を学ぶべきだと思う。要介護者を投げ飛ばすなんてとんでもないという頭の固い管理職も一緒に。しっかりと原理を理解した上での投げ飛ばしは、やさしさを体現しようとするぎこちない介助より実は人にやさしい。投げ飛ばされる人間には、羽になったような快感すらある。そして是非、最近の力士にも見て貰いたい。「正しい投げ飛ばし」は自分にも相手にも怪我をさせることなく、限りなくやさしく、限りなく強い。

2001年 11月 21日 水曜日
「鯨肉世代の夜」

子どもというのは肉が好きなものなのだろうか、というか、人間自由に好きなものが食べられる環境に暮らすと肉食に向かうものなのだろうか。フライドチキンやハンバーグにむしゃぶりついている子どもを見る度にそう思う。そうしたかったけどできなかった子ども時代を懐かしくも甘酸っぱく思い出すこともある。

私が少年だった昭和三十年代前半というのは肉が尊かった。少年は皆、肉に飢えていた。何と言っても電気冷蔵庫が家庭に無かったので、生肉の保存が家庭では難しかった。しかもわが家のように母子家庭で一人っ子となると、小口に肉を買うとコストパフォーマンスが悪い。さらに、当時は今と逆で魚より肉のほうが高かったのだ。そして、皆とても貧しく、学級費や給食費が払えない者も各クラスに何人かいて、勉強は嫌いだけど学校は好き、だって給食が食べられるから、などと言う打ち明け話も良く聞いた。

給食で花形の肉といえば鯨肉で、「今日は鯨の竜田揚げです」、などと聞くと教室中で歓声が上がったものだった。一学年下で富山出身の家内も給食の鯨肉竜田揚げが好きで、家に帰って母親にねだり同じものを作ってもらったが、両親には堅い・臭い・不味いと不評だったそうだ。私の方は家庭でも鯨が大好物で、今では貴重品になってしまった鯨ベーコンを良く食べた。回りが赤く着色してある奴が短冊切りにされ白ごまが振られ経木の舟に乗せたられた状態で、魚屋に格安で並んでいたのだ。それに味の素と醤油をかけ、炊きたてご飯に乗せて掻き込むと涙溢れんばかりに美味しく……感じたのだ。

捕鯨をめぐる外圧の高まりとともに鯨肉は食卓から消えた。家庭には肉皿付きの電気冷蔵庫もやって来たし、凄まじい数の牛・豚・ニワトリが凄まじい環境での短い命を毎日落とすおかげで、昔からは信じられない凄まじい価格で提供されるようになったからだ。鯨は好きだったけど食べなくても死ぬわけじゃないからもういいや、と思ったのは高校生の頃だったと思う。

狂牛病事件以来全く牛肉を食べていない。政府や生産者への憤りでもなく、命が惜しいわけでもなくて、まあ牛肉は好きだったけど食べなくても死ぬわけじゃないからもういいや、と鯨にお別れしたのと同じような感慨があるのだ。

「豚肉も鶏肉も食べなくても死ぬわけじゃないからもういいや」、と言うと家内は「豚肉はともかく鶏肉が無くなると料理の幅が狭まるので困る」のだそうだ。「じゃあ牛乳と鶏卵が無くなったらどう?」と聞くと、もっと困るという。食べること専門の私とは違う悩みが主婦にはあるのだ。

お金持ちのオジサンが竹皮にくるんだ牛肉を手土産にくれて家族で大歓声をあげた時代、店頭のモミ殻の中から鶏卵を一つ一つ取り出しては裸電球に透かして品定めして買った時代、病気のお見舞いに「これで精をつけてください」と篭に入った鶏卵をいただいた時代、だしを吸い取られてかすかすになった薄っぺらなチャーシューをラーメンどんぶりの奥に沈めて暖めておいてちびちび食べた時代。あれくらいなら肉食もバチが当たらないよね、高くて月に一度くらいしか食べられなくて有り難みをしみじみ噛み締めた、貧乏時代に戻っても死ぬわけじゃないからもういいよね、と一応、食べ手と作り手の意見の一致を見て鯨肉世代の夜は更ける。

2001年 11月 20日 火曜日
「二度死ぬものたち」

新聞を読んでいて、芸能人の訃報を目にする時、その驚きは一様ではない。
「○○さんって役者がいただろ。あの人、亡くなったんだってさ」
「あ、いたいた!亡くなったのかぁ、というよりまだ生きてたんだねぇ!」
亡くなった方には申し訳ないが、一般人の前から消えた時、そしてマスコミを通じて訃報が伝えられる時と、二度死んで見せなければならないのは芸能人の宿命かもしれない。

隔週刊、共同通信社発行の雑誌『FMfan』が休刊(事実上の廃刊)という記事が朝刊に載っていた。1966年創刊、ピーク時には発行部数30万部を超える人気雑誌だったらしい。採算ベースの3万部を割り込んだことも休刊を決意する一因となったようだが、この記事を読んだ第一印象は、そうか休刊かぁ、という感慨よりまだ発行されていて、しかもついこの前まで3万部も発行されていたという事実に驚いたというのが正直なところだ。

私も学生時代、この雑誌を購読していて、追随した類似誌より垢抜けた表紙が印象的だった。当時は、毎回選ばれたレコードジャケットが表紙下部にそのまま複写されていて(クラシックが多かったような気がする)、切り抜くとオープンリールテープの箱に貼れるようになっていた。要するに芸術複製時代の流れに巧く乗った雑誌だったのだ。電波受信による芸術複製(エアチェックなどと呼ばれた)の衰退が、じり貧になる要因となった、というのが出版部長と記者の分析のようだ。

芸術複製自体は益々隆盛に向かっているようなので、FM放送を媒介した芸術複製が衰退したに過ぎない。FM放送自体は局数も増加しているらしいし、社会の高齢化に伴いラジオの存在価値も変貌しているので、映像をともなわない情報メディア自体が衰退したわけではなく、芸術複製の羅針盤的雑誌としての命脈が尽きたに過ぎない。二度死んで見せるほどの愛着ある雑誌を出されていた熱意ある関係者による、新たな「ラジオ文化に別な角度から光をあてるような雑誌」の誕生を見てみたい気もする。

※写真は団子坂下交差点で信号待ちをしている吉本隆明さん。別に深い意味はありません。

2001年 11月 19日 月曜日
「しし座流星群」

テンペル=タットル彗星を母彗星とするしし座流星群、テンペル=タットル彗星が約33年で太陽の周りを1周するのに伴い、地球の軌道を横切る時撒き散らす塵が流星となるのだそうだ。イギリスのデヴィッド・アッシャー博士の予測によると2001年11月19日午前3時過ぎの日本が最も良い条件になるという。

NHK第一放送によると午前三時十三分頃が本日第二のピークになるというので寒空の下に出てみた。なにしろ次回の出現まで生きていたとしたら…。日本人男性の平均寿命をオーバーするわけだから見納めかもしれないのだ。

マンションの屋上が鑑賞地点としては最適なのだが、物騒なご時世なのでちょっと気味が悪く、本郷通り上富士交差点に出て夜空を見上げてみる。時折流星らしきものが見える気がするのだが、通り過ぎる自動車のヘッドライトが電線を走ったりするので判別しがたい。しかも対角にある交番のお巡りさんが身を乗り出してこちらを見ていて、職務質問などされたらたまらないので退散。意を決して屋上に昇ってみる。

鍵をあけて屋上に出ると座り込んでいる人影が一つある。驚かしてはいけないので「こんばんは」と声をかけてみる。すかさず、
「あの方向がしし座の領域です。四方八方に見事に流れていますよ」
と、若者の声がした。星見る人と直感したらしい。そりゃそうだ、他にこんな寒空で何をするというのだ。「ありがとうございます」とその方向を見つめると、ひとつふたつと流星が見える。赤いもの、青いもの、見事に尾をひいて横切って行くものもある。ああ、来て良かった。大世帯が暮らすコンクリートの巣箱にも二人くらいは物好きな人間がいるのだなぁ、世代の離れた男同士、おそらく再び共有することの無い得難い一瞬を共に過ごしているのだなぁなどと、全く関係ないことを思うと心がほんのり温かい。

しばらく見とれていたら、若者が、
「今夜は見事に木星が見えて横縞もはっきり見えます。ご覧になりませんか?」
と、声をかけてきた。天体望遠鏡を設置していたのだ。何をとち狂ったか咄嗟に持って来ていた役に立たないデジカメをポケットに慌てて隠して、おじさんは接眼レンズをのぞき込む。
「ありがとうございます」
「右に一列に星が連なっているでしょう。あれが木星の四大衛星です」
「ははぁ、右に等間隔に並んでいる奴ですね」

太陽からの距離は地球の5.2026倍、公転周期11.82年、自転周期0.414日、赤道半径7万1398km、質量は地球の317.832倍、極大光度はマイナス2.8等、命名された衛星は16個、うちガリレイが発見した特に明るい4個がこれですね、なぁんて即座に答えるとカッコイイおじさんなのだが、天文には疎いし、寒いし、
「き、綺麗ですねぇ」
「はあ」
なんていう会話を交わして、間が持たないのでお礼を言って屋上を去る。

流星も見たし、木星の横縞も見たし、ガリレイ衛星も見たし、若者とも話したし、やはり「早起きは天文の得だ」。お後がよろしいようで。

2001年 11月 18日 日曜日
【 BIRD ON A WIRE 電線の鳥……5】
「三陽」

二十世紀の終わりとともに、いろいろなものの終焉があり、「無理偏に腕押し世界」の限界も見えてきた今日この頃。もう一度ゼロから再出発、一所懸命の直向きさがあれば拓けない道は無い…そんな親たちの世代が軽々と口にする人生訓も、二十世紀とともに過去の遺物になりつつあるのかもしれない。
親たちの苦労は見ていたものの、私とて進退窮まったところからの人生の再構築などというものは、未だ経験していないのだ。ましてや、親たちの、貧しい暮らしの中でのがむしゃらな人生を見ていないこれからの子どもたちは大変だろうと思う。

横浜市中区野毛、JR桜木町駅からほど近い場所にある中華料理店『三陽』。第三管区海上保安部に勤務する友人に連れられてこの店を訪れたのは今年の春。僅か五坪の店内は満員で、店頭の即席ビアガーデンで美味しい料理とビールをいただいて病みつきに。看板をご覧になればわかるように、裸一貫がむしゃらに頑張って来られたご主人のエネルギーと、苦労をものともしない陽気さが充満した小さな店である。

詳細は親孝行な娘さんが作成しているホームページで。
お父さんの歩まれた歴史は必読。笑いの影にひっそりと涙の跡があるようで、なんだかしみじみと味わい深い。
店内に入ると、まず「餃子とビールですね」と薦められるが尻込みしてはいけない。ここの餃子でビールをいただき、名物「バクダン」を平らげるともう止まらない、各種秘伝の麺類までまっしぐら。見かけほど塩分のきつくない意外な味つけもお父さんの優しさの現れかもしれない。

『三陽』のCMはこちら。必見。

孝行娘作、『三陽』のホームページはこちら

営業時間
11時30分から23時30分(日曜日、祝日のみ22時30分)
平日………11時30分〜13時  定食をランチサービスの料金で提供!
平日………17時〜19時 アルコール類もサービスの料金で!!
定休日……毎週木曜日   
住所………横浜市中区野毛町1−38
電話………045−231−0943

2001年 11月 17日 土曜日
【黄金風景】

夢に出てくる場所で、もっとも頻繁に舞台となるのは自宅ではないかと思うのだが、私はリアルな自宅の夢を見たことがない。

夢の中では「ここは自宅である」と認識しているのだが、目覚めて思い出すと、それは大抵見たこともない不思議な場所なのだ。子ども時代、頻繁に借家を転々として過ごしたせいか、記憶の断片が複雑に組み合わされた奇妙な住まいであることが多く、その場所も北から南まで錯綜している。

夢の中で目を覚ますと、時計の針が八時半を回っている。その日、私は健康診断を受けることになっていて、シャワーも浴びたいし、片づけておきたい仕事もあったので、寝坊したことに無性に腹が立ってきた。幼児性が高い男というのは、そんな時、まわりの者に当たり散らして憂さ晴らししようと試みたりするもので、その被害者となるのは「のろくさい(と日頃思いこんでいる)」女性と相場が決まっている。妥当な線なら女房がその役目を引き受けるべきなのだが、女房より私の方が「のろくさい」ので、弱い者探しの矛先は同居していないはずの郷里の親についつい向かってしまう。
「まったく、母さんと来たら、どうしてもっと早く起こしてくれないんだろう」
などと舌打ちしながら起きあがると、なんとそこは海辺に面した一軒家なのである。
家の中に母の姿が無いので窓を開け放つと、母が、六年前老人ホームで死んだはずの祖母の手を引いて海岸を散歩している。朝の心地よい風に誘われてか、裸足になって、寄せては返す穏やかな波にくるぶしを洗わせている。母娘で遠い昔を旅しているようだ。
いい風景だなぁ、そう、これこそ「黄金風景」だなぁ、と思ったところで目が覚めた。

どうして「黄金風景」などという言葉を思い出したのだろうと太宰治全集からその掌編のある巻を取り出して再読してみた。一気に懐かしさが胸にあふれる。高校時代の教科書で『新樹の言葉』という作品を読んで、私は初めて太宰治を知り夢中になった。すべての作品を読み通した後でも、私はこの『新樹の言葉』やその発表年の前後に書かれた作品群が好きなのだ。『黄金風景』もそのひとつで昭和十四年三月「国民新聞」に掲載されたものだ。

主人公(太宰)は、幼い頃女中に当たり散らす癖があって、中でも「のろくさい」お慶という女中に辛く当たり、ついには顔を蹴ってしまう。
「「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれ」
にお慶は太宰を呪う。二十年後、療養を兼ねて移り住んだ千葉の海辺の家でのこと、住民の身元調査の用事で訪ねて来た警官が、“今ではお慶は自分の妻となり太宰のことを懐かしがって会いたがっている、是非一度お邪魔したい”と告げる。驚いた太宰は取り乱して断るのだが、三日後、警官は妻子を伴って訪ねてくる。

 それから、三日たって、私が仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、うちにじっとして居れなくて、竹のステッキ持って、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
 私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。きょう、私これから用事があって出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい」
 お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしていて、うすのろらしい濁った眼でぼんやり私を見上げていた。私はかなしく、お慶がまだひとことも言い出さぬうち、逃げるように、海浜へ飛び出した。竹のステッキで、海浜の雑草を薙ぎ払い薙ぎ払い、いちどもあとを振りかえらず、一歩、一歩、地団駄踏むような荒んだ歩きかたで、とにかく海岸伝いに町の方へ、まっすぐに歩いた。私は町で何をしていたろう。ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふたたび私の家へとって返した。
 うみぎしに出て、私は立止った。見よ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い興じている。声がここまで聞えて来る。
「なかなか」お巡りは、うんと力こめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
 私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。
 負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。
              『黄金風景』太宰治 より

この一節を夢の中で思い出していたらしいのだ。

負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。母と祖母の勝利は、また私の「幼児性の高いのろくささ」を際だたせる光となったのだ。

2001年 11月 16日 金曜日
【約束】

子ども時代、親や教師から「怪我をしないように遊べ」と口煩く言われた。「遊び」の中には「闘い」や「勝負」もあるわけで、私たちは「怪我をしないように闘い」「怪我をしないように勝負」した。

友人とその友人が高校時代鎌倉の砂浜で殴り合いになり、殴り疲れて浜辺にうずくまったまま無言で過ごし、やがて日が暮れたのでそのまま別れた。そして今も親友なんだと聞かされたことがあるが、身長180センチもある高校生が疲れ果てるまで殴り合ったら、今の高校生なら救急救命士か検死官のお世話になること必至だろう。

テレビが白黒で、力道山のタイツも海老原の赤いトランクスも若乃花のまわしも、白い肉塊と墨ベタにしか見えなかった時代から格闘技が好きだった。プロレスに熱中する私を心配してか親たちは「これは約束ごとを決めてやっていて本当の喧嘩じゃないんだよ」と繰り返し言っていて、私もなんとなく納得しつつ興奮していた。ボクシングは『東洋チャンピオンスカウト』のような番組を欠かさず見ていて、叔父たちの解説付きだったのでそれなりに目が肥えたと思う。大人になってから後楽園ホールに新人王をめざす若者たちの試合も何度か見に行ったが、つくづく思うのは最近の若者も昔と変わらず夢は世界チャンピオンなのだろうけれど、こんな「肉を切らせてなんたら風」の試合を続けていたら選手寿命は短いし、引退後の人生に障害を負うこともあるだろうし、引退後の人生自体が無いことだって有り得るなぁと心配で、目を被いたくなるような試合も多い。

家人が留守で一人なのを好い事に、午後四時の放送開始からビールを片手に、一年納めの九州場所第五日目の土俵を感慨深く見た。まわし一本裸一貫すっぽんぽんで包帯や絆創膏無しの力士の何と少ないことか。そして全休場、途中休場力士の多いことにも呆れるし、控え室には特大の車いすまで用意されている。

やるせなくも面白くない。「怪我をするほどの闘い」が強い者の証しではなく、格闘技では「お約束」の中で「身体髪膚敢えて毀傷せざる闘いと勝負」こそ強い「プロ」の証しなのだ。亡くなった方には申し訳ないが、お約束と薄々知りつつも興奮してテレビの前で亡くなるお年寄りが出るほど白黒テレビの丸っこい画面の中で闘うレスラー達は強かったし、最後の試合で破れて「ボクは試合をした、試合をした」と泣いた藤猛は強く、その言葉の意味は重い。そして身体に包帯一つ付けず白黒の分解写真(昔はスロービデオなんて無かった)にお茶の間桟敷の人びとの眼を釘づけにした昔の力士達は美しく強かった。

マスコミで持て囃される有望若手力士が出て来る度に、こんな相撲を取っていたら必ず慢性怪我持ちになるし、将来を磨り減らしているようで痛ましいなぁと思う。俺の仕事をさっさとさせろとばかり小憎らしいほどの取り口で、「アンチ」が出るほど強かった昔の先輩力士を見習って欲しいのだが、ああいう相撲はもうウケないのかもしれない。現役相撲取りこそ被害者なのかもしれないなぁと思うと益々痛ましい。

 


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