電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年 12月 15日土曜日
「顔文字の宇宙……その1」

我が家に初めてやって来たパソコンは Macintosh II vx で1992年のことだった。

ワープロがヒット商品になり、各社差別化の一環として印字品質の良いものが出て来て、カタログを見ていたらいずれデザイン分野ではパソコンの使用が主流になるのではないかと思えて来たのだ。漢字Talk7という OS が発表された年だ。
一通り揃えたら300万を越えてしまい、やってみたけどダメでしたと言えない立場に追い詰められたわけで、何としても使いこなそうと頑張ったのだがひどいエラーに泣かされる毎日だった。ことに、印刷におけるポストスクリプト・エラーに泣かされ、専門的な分野なので頼れる人もなく、当時全盛だったパソコン通信の会議室に助けを求める事にした。

モデムを買って来て繋ぎ、通信ソフト、ログ・カッター(通信ソフトで読み込んだ巨大テキストファイルを発言ごとに切り分けるソフト)、ログ・ブラウザ(各発言を見やすく閲覧するためのソフト)、そしてそれらのソフトを連携させる制御ソフトを DOS パソコンユーザーにダウンロードして貰ってのセットアップだった。膨大な文字情報を電話線を介してやり取りするためにかなりの労力を要する時代だった。ピ〜〜ガラガラ〜〜という通信音に続いてログインに成功し、パソコン画面に現れた文字の海は目くるめくものだった。その情報量と次々に発信されてくる無数の発言の濃度はインターネットの比では無いと思う。私の、ほとんどのMacintoshに関する知識はパソコン通信からいただいたもので、退会してしまった現在でも感謝してもしきれないほどである。

   ***

顔文字と言うものに出逢ったのはパソコン通信だった。「顔文字」(たとえば (^^) こんなやつ)「スマイリー(米国ではこう呼び :-) こんなふうに横向きになる)」、「エモティコン(エモーショナル・アイコンか?)」などという呼び方もあったと思う。日本の「顔文字」は、パソコン通信の環境が整う以前、小さなネットワークで使われ始めたのが最初だと聞く。当時は漢字・カナ混じりの文字が使えずカタカナと英数記号だけの通信だったらしい。そんな中で、いかに情緒的なニュアンスを伝えるかという工夫の中で産み出されたわけで、例えばこんな感じで使われていたのだろう。

ホンキニシチャイマスヨ(^^)
>> カッテニシロヨ(^^;
>> >> ハーイ(^o^)

漢字というのは図形としての情報伝達力も兼ね備えているので、顔文字など使わなくてもニュアンスは伝達可能だがカタカナだけではなかなか難しい。
さらに当時は通信環境も悪く、OS自体がフロッピー1枚に収まってしまうような可愛らしいものだったので、通信文も簡潔に要件を伝えられるものでなくてはならなかった。パソコン通信が一般化し、回線速度も向上しても、長い文章を送信する時は「長文注意」などと件名に記述すると言うマナーもあり、現在でも低速な通信環境にある方を考慮して、そういう心配りを忘れない方も多い。

   ***
   
実際の会話の場合、簡潔に要領良く伝達するのなら標準語が便利だ。
かつて日日抄にも書いたのだが気仙沼市の居酒屋で地元の青年団員と酒を飲んだら「ポキポキ喋ってるからすぐ東京者だとわかった」と笑われたことがある。彼等の方言丸出しの会話を聞いていると要件の伝わる速度はまどろっこしいのだが、それ以外の雑味のある付随情報の量が圧倒的に多いのに気づく。そういう会話には、都会人の失ってしまった「会話の潤いと楽しみ」というものがある。難しい言葉で言えば「冗長性」のある会話の方が伝わるものが多く、伝わる「要件の数」などを情報伝達の尺度にしているような効率重視主義ではわからない事かもしれない。

パソコン通信の会議室で起こる揉め事などに比べたら、インターネット掲示板での揉め事など子どもの砂場での喧嘩に過ぎない。パソコン通信の平板な画面に延々と発信されてくる怨嗟の声は、言葉の地獄はかくあろうと思わせるものがあった。揉め事を恐れず潔く簡潔な物言いをする人ほどトラブルに巻き込まれることが多かったように思う。簡潔な表現は時として刺々しい。簡潔でありながらも情緒を付け加える手段として用いられる絵文字は伝達効率と情緒性を共存させるおもしろい手段だとは思うが、反面言葉による豊かな表現を減衰させる両刃の剣であることも知って置かなければならないと、高速な通信環境が整いつつある今こそ思う。(つづく)

2001年 12月 14日金曜日
Dog Who's Who 【ヒトイヌニアウ】のコーナーに雑誌Bricolage編集者、
七七舎の川上京さんより投稿がありました。
兵庫県尼崎市「尼崎グループハウス」の「さくら」です。

2001年 12月 14日金曜日
「親子尺……その後」

二十歳代の若者と仕事をする機会が増えて来て、そろそろ「親子ほど年の離れた」という譬えができる年代に近づいて来たことを実感する。歳月の足取りは悪夢のように早い。

名刺にホームページのアドレスを刷り込んであるので、「ホームページ見ました」などとメールをいただくことが多い。そして、その感想が人それぞれで面白い。女性だと、
「文字ばっかりで、どうしちゃったんですか〜?」
などというのがある。視覚伝達を仕事にしている人が、どうして文字ばかり綴っているのかという素朴な疑問なのだろう。その反面、
「文字がいっぱいあって、とても得した気持ちになりました」
などというのもある。得になるかどうかはわからないけれど、なんとなく有り難い。
そして男性になると、
「毎日、文章を書くのって大変でしょう。体を壊さないでくださいね」
と、健康を気づかってくださる方もいれば、
「凄い自己顕示欲ですねぇ」
などという辛辣なメールもある。自己顕示欲というのは私のような職業のものにはかけがえのない資質の一つであるのは確かなのだが、私のサイト作成の動機とはちょっと違う気もする。

たくさんの個人サイトを拝見して思うのは、自己拡大の願望があらわであるかどうかによらず、多かれ少なかれ自分探しの一つの旅であるように思えてならない。私は自分の書いたものを何度も読み返すし、そこで自分のはった虚勢、ついた虚言、空しい虚飾を見つけては、自分とは何なのかを探す手がかりにしている。今の楽しみの一つは父親との“親子尺”である二十四年後に、自分の書いた文章を読むことだったりして、何としても二十四年後まで書き続けて息子のような自分の日記を読んでみたいのだ。そして、四十歳まで生きられなかった父親が、父親の年齢を追い越して老いて行く私の日記を読んだらどう思うだろうなぁなどと考えながら書くこともある。

   ***

『親子尺』について何通かお便りをいただいた。どうしても書けなかった裏話を個人メールさせていただいた先輩からは、

裏話の亡きお父上のことは初めて聞く話で,時代性と伝記性の片鱗を感じます。
そうか…,貴兄は父親というか父性を知らずに育ったんだね。う〜ん,そうだったか…
まだ健在な父との長〜い葛藤を振りかえって感無量のはまボーズ 拝。

というお便りもいただいた。

   ***

私は父親に捨てられたという思い込みをすることで母親から受けた愛を絶対的なものとしたかったのであり、実は両親が離婚するということはたとえその片方が無上の愛を注いでくれたとしても、家庭という愛からは捨てられたという思いが、子どもの中に残っているものなのだという事を確かめるために日記の中で旅して来た。

昨日も丁寧なお便りをいただいた。
お母様はその方が十歳の時、自ら命を絶たれている。三十六歳だったそうだ。親の年齢引く子の年齢を求めても母親は既に居ない。そして長い間、母親から捨てられたという思いを断ち切ることができずに苦しまれたという。母親の年齢に近付き、並び、追い越した今でも、母親の気持ちを推し量ることはできず、自分を見守って居てくれるはずの母親の分、自分がその人生を生きるのだと考えることにしているという。

   ***

私の母の最近の口癖は「時間がない」。あれもしたい、これもしたいと思うのだけれど、残された時間が足りないのだそうだ。馬鹿息子は「時間というのは無いと思う人に無いだけで、今できることに打ち込む人にはあるものなんだから、頑張れ」などと聞いた風な口をきくことしかできないが、七十二歳になる母親に人生の黄昏がどのように見えているのか、どうしても知りたいので母の生きられた歳までは頑張りたい。それを楽しみに、母親にさよならしてからの親子尺分は大切に生きようと思っている。

おじいちゃん
谷川俊太郎

おじいちゃんはとてもゆっくりうごく
はこをたなにおきおえたあとも
りょうてがはこのよこにのこっている
しばらくしてそのてがおりてきて
からだのわきにたれる
そのままじっとたっているおじいちゃんは
きゅうになにかをさけびだしそうにみえる
にわのかしのきがまどから
おじいちゃんをのぞきこんでいる
かしのきがいっていることが
おじいちゃんにはきこえているのに
きこえないふりをしているみたい
きのうおふろばでおじいちゃんをみた
ちぢこまったおちんちんがみえた
おじいちゃんおじいちゃんおしえて
むかしのことじゃなくていまのきもち
いまいちばんなにがほしいの
いまいちばんだれがすきなの

            『はだか』筑摩書房より

2001年 12月 13日 木曜日
「蝙蝠の夜」

『手をつなぐ』という雑誌の表紙を手がけるようになったのが1993年からだから丸九年になる。金儲けのことを考えたらできるような仕事ではないが、関係者の人柄と、毎月知的障害を持つ方々の絵に接するのが何よりの楽しみで今日まで続いて来ている。

“手をつなぐ”という言葉を見る度に思うのだが、この言葉の中に常に自分がいる人は羨ましい。まず自分がいて、“自分が恋人と手をつなぐ”、“自分が友人と手をつなぐ”というように考え、実行できる人が。私は、まず自分がいることはいるのだけれど、誰某と誰某の“手をつなぐ”という仲介者としての自分を思い浮かべてしまう癖が抜けない。

毎日日記を書くということを続けて来て感じる効用の一つに、自分が忘れていたことに気づく、もしくは忘れようとしていた自分に気づく、ということがある。ここ数日、両親のことを考え続けてきたのだけれど、私は父親が“妻の扶養を拒絶し、息子の養育を放棄した”、要するに母親と私は父親に捨てられたのだ、と考えたがっている節がある。縺れた糸を解くように記憶を辿って行くと、ちょっと違うんじゃないかなぁと思うこともあり、実は真相に触れないように生きて来た自分に気づく。母親に直接問いただしてみれば良いのだがどうしてもそれができないし、母親との永遠の別れが来るまでにもできそうにない。すべきでないことも確かで、育てて貰ったことにただただ感謝するしかないのだが。

北区王子という街は軍需産業の町でJRや都電(昔は市電)からの引き込み線があちこちにあり、工場からの貨物輸送に使われていたという。そんな街だから、第二次世界大戦末期の空爆もとりわけ激しく、私が通った王子小学校の校庭も空襲で亡くなった方々の遺体で足の踏み場もないほどに埋め尽くされたことがあったと聞く。昭和三十年代中ごろ、東京オリンピックで急激なボロ隠しが行われるまでは、町の各所に当時の面影が残っていた。王子四丁目から五丁目にかけては巨大な木材倉庫があって私たちの遊び場所になっており、無数の蝙蝠たちの格好のねぐらにもなっていた。

夫婦喧嘩で父親が飛び出す分にはさ程不便は感じなかったけれど、母親が飛び出して何日か帰らない日は悲惨で、私は下校後、父親が置いて行く小銭を集めて買った菓子パンを夕食にしていた。今思うと、懐かしいなぁ、あのコッペパンに切れ目を入れて一斗缶からB級マーガリンを竹べらでグイッと塗り、追加でイチゴジャムを塗ってもらった奴を、もう一度食べたいなぁ、などと思うのだけれど、子どもにとっては情けなくも心細い食事だったように思う。

母親は私の担任と親しく、そのきっかけとなったのは、父親が授業中に私を連れ出しに来ても決して渡さないでくれと頼んだことであり、実際に何度かそんなことがあった。私を連れ出したいなら、下校後家に来ればよいと思うのだが、なぜわざわざ学校に来たのかがわからない。父は心を病みつつあったのかとも思うけれど、どうもそんな風な兆しを感じたことはない。母親は私に、下校後は外に出ず、部屋に鍵をかけて、父親が来ても留守を装って部屋に入れてはいけないと言っていた時期もある。そのせいかもしれない。私は下校後は母親が戻るまで、鍵をかけた部屋で本を読んで過ごし、小学校高学年になるまで友人と外で遊ぶことはめったになかった。

喧嘩して飛び出した母親が戻り、迎えに出た父親が私を間に挟んで珍しく手をつなぎ、引き込み線沿いを歩いたことがある。両親の間に妙に和やかな落ち着きがあり、不思議だなぁと思っていたのだが、
「お前はお父さんとお母さんのどちらが好き?どちらについて行きたい?」
と、いきなり尋ねられ、私はぽつりと
「両方」
と、答えた。両親は顔を見合わせて笑ったけれど、その笑いが心持ち乾いた響きだったのを今も忘れない。あの時、私が「お父さん」と言ったら母親は私を捨てて去って行ったのだろうか。そんな衝動が一瞬でも存在したのか、実は、それが長年の私の悲しみであり、自分で触れたくなかった最大の疑問だったのかもしれない。今となってはどうでもよいことなのだけれど。

藍色の町に檸檬色の街灯が灯り、空には無数の蝙蝠が飛び交う、奇妙に美しい夕暮れだった。

2001年 12月 12日 水曜日
「廃墟の鳩」

「こやま」変換「小山」、「き」変換「記」、「く」変換「久」、「じ」変換「二」。

消息のしれない友人のことを思い出すとインターネットで検索してみる。人名の海をかき分けて、この人に違いない、と特定できると嬉しい。そして随分活躍されているのだなぁと知ると、我が事のように幸せな気分になる。思い切ってメールしてみると、数十年ぶりの再会を喜び合うメールの交換になってそれもまた楽しい。

私は音楽を聞くのが子どもの頃から好きで、歌うのも好き、ハモニカは学校に上がる前から三輪車と同じくらい得意だった。だから音楽の授業は大好きだったのだが、中学校に上がってピアノとスペリオパイプ(縦笛)の特訓を受けるようになってからは、憂鬱でたまらない時間になった。家にピアノやオルガンのある者は良いけれど、教科書の付録の運指表でどうやって予習すれば良いのだ、と情けなく思うことも多かった。

音楽の教師は熱血型でブラスバンド部や合唱部を率いて全国大会で賞を総嘗めにしていた。不思議な先生で、歌の好きな私には「お前はしっかり腹から声が出てる、いいぞ」と褒めてくれるが、スペリオパイプの苦手な私にはとりわけ厳しく、皆の前で怒鳴られると益々指が動かなくなり、震えが止まらないほどだった。

   ***

放課後、木造校舎の二階窓際でスペリオパイプの練習をしていたら、声をかけてくれたのが小山記久二さんだ。彼はブラスバンド部でトランペットを担当し、天才と呼んで良いほどに上手かった。二年生で既にソロパートを受け持ち、市民会館での演奏会で『黒い瞳』の独奏をしたりすると、鳥肌が立つほどに美しかった。高校時代には一年生ですでにマーチングバンドの先頭に立っていた。

「教科書の曲じゃなくて、自分の好きな曲を吹けばいいんだよ」と、彼が言うので、私は当時流行っていたグループサウンズ、ザ・タイガースの『廃墟の鳩』を吹きたいと答えた。隣に座って私の動かない指を、この指でこの穴を押さえて、と教えてくれる記久ちゃんはとても優しい先生だった。一通り吹けるようになると彼は高いパートを吹いてハーモニーを付けてくれた。西日のさし込む窓際で天才トランペッターと合奏した『廃墟の鳩』は涙が出るほど美しく思えた。

「小山記久二」と入力して検索してみるが、記久ちゃんのことを書いてあるページは無い。私のような恥知らずは自分のサイトに自分の名前を書き込んだり、他人の掲示板に実名で書き込んだりするので掃いて捨てるほどヒットするのだが、記久ちゃんにはそれができない。二十歳まで生きられなかったし、こうして二十一世紀を見ることもできなかったのだ。

大学一年の夏休み、日本史のゼミで郷土の義民のレポートを書く事になり、中学校社会科教師であり、後に私たち夫婦の仲人となり、かつて記久ちゃんと私の担任だった恩師を訪ねたら、
「おい、記久二が事故で亡くなったぞ」
と、聞かされた。その後、恩師と何を話したのかその時の事は余り覚えていない。お暇乞いをして、静鉄バスに乗り、万世町で降りて記久ちゃんの実家に駆けつけると、彼は真新しい位牌になっていた。壁にはブラスバンドの演奏会で着ていたユニフォームがかけてあり、小柄で子猿のように人なつこい笑顔だった記久ちゃんがトランペットを持って立っているようで、お母さんの自慢の息子だったんだろうなぁと思うと切なかった。

子どもを亡くした母親というのはどうしてあんなに小さく見えるのだろう。今ここで『廃墟の鳩』を吹いたら指が動くかなぁ、記久ちゃんに笑われちゃうかなぁと思うと涙が止まらなかった。

そして今、妻が金子みすゞ関係の編集者たちと熱中しているリコーダーを、手にとって吹いて見ようかなぁと思ったりするけれど、もうすぐ五十に手の届くオヤジになった私のぎこちない指さばきに、記久ちゃんは大笑いするだろうなと思っただけで涙が止まらず、まだ試せずにいる。

2001年 12月 11日 火曜日
「暴力の人」

朧げな記憶の中に両親が揃っているので小学校一年生から二年生にかけてのことだろう。ベニヤ板一枚の壁を隔てた三畳一間に暮らす若い夫婦が隣人で、夫は暴力団員だった。

なにしろ各々の家庭を隔てるものがベニヤ板一枚だからプライバシーなどという洒落たものはなく、互いの夫婦喧嘩の仲裁をしたりしているうちに両親も親しく付き合っていたようだ。
夏休みも近い週末のある日、隣の“暴力の人”から「暑いから明日は海水浴に行こう」と誘われたことがある。「江ノ島は混むから鎌倉にしよう」ということになり、私も前夜から浮袋を膨らませたりしてかなりはしゃいでいたものだ。

今もあるのかもしれないが、当時はかなりおおっぴらに白タクというものがあって、行き交う車を見て親たちは「あれは普通のタクシー、あれは白タク」などと話していたものだ。暴力の人は白タクをつかまえて来て一日丸抱えで東京・鎌倉を往復させたのだ。マイ・カーなどという言葉も聞いた事の無い時代だから、贅沢な海水浴だったんだなぁと思う。どんな値段でどんな交渉をしたのかは暴力の人だから推して知るべしという気がしないでもないが、道路もがら空きだし、まだ物価も安かった時代だから、白タクの運ちゃんもそれなりに楽しんで折り合いをつけたのかもしれない。

そんな豪遊をする余裕があるなら妻に与える幸せもたやすく見つかるのに、と今では思うけれど、美しい暴力の人の妻は健気に貧しい暮らしに耐えていた。ガラスケースに入った日本人形などを風呂敷で包んで質屋通いする姿も見かけたものだ。羞恥心というものに耐えなければ金を借りられない時代だった。私も父が質入れした扇風機を請け出すのに同行した記憶があり、母は恥ずかしいと泣いていた。そういう時代だったのだ。

何故か小学生時代を皮切りに高校を卒業するまで、私の隣人には必ず暴力団員がいた。そして常に不思議に思ったのは、この人たちは何故人の道に外れた生き方を選んだのかという事ではなくて、どうして私にはこんなによい人に見えるのだろう、という事だった。住民総出のドブ掃除にも進んで参加するし、朝夕の挨拶は礼儀正しいし、雨樋など壊れた家の修繕もしてくれるし、子どもが一人でいると遊んでくれるのも彼らだった。思うに、近所の人に礼を尽くしておくことで、自分が豚箱に入れられ臭い飯を食わなければならない事態に至った時、残された妻子が辛い目に会わないようにとの、せめてもの思いやりだったのかもしれないし、実際、亭主不在の期間が長く続くと近所の者は何かと妻子の世話を焼いていた。ご近所を離れれば極悪非道な人となるわけでそれはそれで間違った生き方には違いないが、高度成長の掛け声の元、次第に堅気の人々が忘れて行った仁義を最後まで持ち続けようとしたのは意外にもあの人たちかもしれないし、小地域の同胞意識の強い、愛すべき大人像であったようにも思えてならない。

   ***

三畳一間で暮らしていた夫婦が晴れて高台にある新築アパートに引越すことになり、家族全員で引っ越しの手伝いをした。他人の幸せを我が事のように喜べる両親だった。三畳一間分の引っ越しなど夕方までに片づいてしまい、夕食を兼ねた宴会になった。私は「綺麗な部屋だなぁ、広いなぁ、部屋に台所があるのは羨ましいなぁ」などとぼんやりと考え事に耽っていたのだが、その時、思いがけない事が起こった。

引越し荷物から食器類など当座の荷物を取り出そうとしていた奥さんの目の前に、包まれていたタオルがはだけて黒くて重いものが畳の上に転がり出た。私はあまりに驚いて呆然としていたのだけれど、今でもその瞬間の映像は鮮明に思い出す。それは本物の拳銃だった。

「まだこんなことを……!」と言ってわっと泣き伏した奥さんの黒髪がはらりと畳に落ちる様はスローモーションのように記憶している。元警察官だった父と、後に女次郎長と酔客に恐れられた母が諭すように説教し、泣きじゃくる若妻の横で首をうなだれたままの暴力の人がいて、その上でボッと灯っていた裸電球の黄ばんだ光を、今でもスチール写真のように思い出す。

もう四十年以上も昔の話なので書いて見る気になった。あのご夫婦が今でも仲睦まじく暮らしていたらもう七十歳に近いはずだ。幸せに人生を全うされつつある事を祈らずにはいられない。

※一部母親への聞き書きによる。写真は当時と変わらない王子四丁目の引き込み線。

12月11日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 10日 月曜日
「山を見る」

東京で西向きの窓のある中高層マンションで暮らすと富士山が見えることが多いようだ。結婚後、文京区内を向丘、千駄木、本駒込と移り住んだがどこでも富士山が見えた。

仕事場から六義園越しに富士山が見え、故郷を偲ぶランド・マークとして有り難いのだが、少し前まではちょっと辛かった。北風の吹く夕暮れ時など、飲食店を営む母親が店に出掛ける刻限だなぁと思うと切なかったのだ。

「年老いてきた親に“してやれる”ことは無いか」などと思いを巡らして、ろくな事を思い付いたためしがない。郷里を引き払って上京して一緒に暮らさないか、などと母に提案したこともある。どんなに人情に厚い暮らしやすい田舎町でも、陋弊に塗れた世間の目が有ったりして、「親を故郷に一人暮らしさせていつまで働かせておく気だ」などと馬鹿な意見をされることも多く、いささかうんざりしていた気分から逃れたいという利己的な思惑も私にはあった。

「死ぬまでこの町で好きな事をして暮らしたい」と最後まで頑張ったのは母だ。確かに、あの町で好きな事をして暮らしていなかったら母の寿命はもっと短かったに違いない。とはいうものの、夜の仕事だけはやめて欲しいなぁという思いだけは強く、二十五年間続けた店をたたみたいと言い出した時には内心ホッとするものがあった。

店を閉じた後、歳をとった母親が新しい暮らしに着地しやすいように、子どもが“してやれる”ことは無いかなどとまた愚考を巡らす前に、私にはインターネットを通じてたくさんの郷里の友人が出来ていた。そして美濃輪町の魚屋「魚初」に、清水蔵談義という地域を愛する人びとの集会があることを聞かされ、誘われて隔月で定期的に帰省するようになった。

初めての蔵談義の夜、妻とともに母を伴おうとしたら、最初は嫌がった。渋々参加したものの、どん底の経済状況の中で底抜けの明るさで頑張る人たちに出逢い、母も隔月の楽しい大宴会を心待ちにするようになっていった。そして今では嬉々として「来月は蔵談義だからね」と私の仕事に発破をかけてくれ、蔵仲間である地域の商店主さんたちとも友達になり、私にとっての貴重な郷里のアンテナ役を果たしてくれている。遠くの肉親より近くの他人、事あるごとに母の暮らしを気づかってくれる地域の蔵仲間の存在は何よりもあり難い。

朝夕の安否確認電話も最初のうちは大儀だったし、母も「電話代がもったいないし死ぬ時は死ぬんだからもういいよ」などと言っていたのに、最近では新聞・テレビで仕込んだローカル情報を用意して待ち構えてくれ、いつの間にか私たち夫婦の大切な暮らしのリズムの一部になっている。
またサイト作成の参考とするために、母親に昔ばなしの聞き取りをするのも苦にならなくなって来た。年寄りにとって古い話ならお手の物だし、息子への優越感を味わえる良い機会になっているらしい。そして母の脳味噌の片隅から意外な話を発掘するのが何よりの楽しみになりつつある。

思うに“してやれる”ことを探すより“一緒にできる”ことを見つける事こそ「孝」の第一歩であり、実は親子の関係というのは最後までギブ・アンド・テイクなのかもしれないなぁと本気で思い始めている。介護が始まったら、それでも“一緒にできる”ことを探そうという気持ちだけは持ち続けたいと思っている。

今日も夕暮れ時、西の方角に富士山が見え、あの向こうで次郎長通り魚初はイカの丸焼きの香ばしい臭いを団扇で商店街に送り出している頃だなぁ、などと故郷に思いを馳せる。好きでたまらない土地と今も繋がっていることを確認するランド・マークに、富士山がなっていることに感謝したい。それは「死ぬまでこの町で好きな事をして暮らしたい」と言ってくれた母親の最高の贈り物かもしれないのだ。

12月10日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 9日 日曜日
「おやすみなさい」

母親が一時期ひどく眠れない事の辛さを訴えた時期がある。

何か病気かもしれないと人間ドックに入ったりして検査したけれど、悪いところは無いと言われたという。医者にも自分の具合の悪さが理解して貰えないと知ると、息子夫婦にその辛さを訴えるわけで、若くて人間のできていない息子は、本当に眠らなければ人間は生きていられないわけで、本当に睡眠が必要になれば自然に眠りは訪れるから気にしないほうがいい、などと実はひどい応対をしたこともあった。
また、女性には必ずそういう時期が訪れるわけで、辛いのはお母さんだけじゃないんだからね、と語気を荒げた事も有ったような気がする。語気を荒げなければ不調の訴えは果てしなく続くように思えたし、医者が健康体だというのに、息子に何がしてやれるのだ、そんな苛立ちと厄介な事から逃避したい気分も実はあった。

母も高齢になり、それなりにのんびりした日々を送るようになり、今では眠くて眠くてたまらないし、寝過ぎて朝の犬の散歩を忘れたなどという、ほのぼのとした電話もかかってくるようになった。「あんたの言う通りだったのかもしれないねぇ」などと話したりもするけれど、実のところ原因が何だったのかはわからなくて、「眠れないこと」の苦しみを全く理解してやれなかった馬鹿息子だったことだけが今でも確かな事なのである。

眠ろうとしてもなかなか寝つけない症状を「入眠困難」といい、「精神性理性不眠」「うつ病」「神経症」などでもそのような症状が現れる。私の場合はひどく寝つきが良く、布団に入ったら二、三分以内に入眠してしまう。妻が呆れるほどで、ある意味で良い亭主かどうかはわからない。で、入眠後の眠りが深くて、母はこの子は眠ったら火事になっても起きないからね、と妻に笑いながら話していたほどである。だから「眠れないこと」の苦しみというのが理解しにくく、他人の痛みを我が事のように感じる事が苦手なのだ。

奇妙な夢は良く見るけれど、その奇妙さがシンプルであるほど実は恐ろしい。こんな夢を見た。目を閉じたまま布団に入っていて眠くてたまらない、早く眠ろうと思うのだが、今ここで目を開けたらもう朝になっていたりしたら辛いだろうなぁと冗談に目を開けたら本当に朝だった。「目を開けたら本当に朝だった」の部分は夢ではなくて現実だったのである。全く意識としては眠った記憶が無いわけで、その日一日眠くてたまらず辛かった。

眠ったのに眠った気がしない症状を「熟眠障害」という。母に「眠った」という意識があれば馬鹿息子は「眠ったんだからそれでいいじゃないか」などと突き放してしまったのだろうが、母は実は眠りに落ちていたのに「眠れなかった」という感覚に苦しんでいたとしたら気の毒な事である。

一度だけの夢だったけれど、あれは辛い。一人暮らしの母に、心臓が止まらない程度の安らかな眠りが毎晩訪れるように祈りながら、御機嫌伺い兼安否確認の電話を入れる毎日である。

12月 9日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 8日 土曜日
「お早うの朝」

『九八歳の妊娠』宅老所よりあい物語
下村恵美子┼谷川俊太郎[詩]
雲母書房
【装丁】石原雅彦、【写真】川上哲也

『おしっこの放物線』老いと折り合う居場所づくり
文・絵 村瀬孝生
雲母書房
【装丁】石原雅彦、【絵】村瀬孝生

上記二冊の合同出版パーティが電通生協会館で開催されたので出掛ける。呼びかけ人、池田茂(NTT-ME社長)、泉田照雄(『痴呆性老人研究』編集長)、筒井眞六(筒井書房社長)、谷川俊太郎(詩人)、三好春樹(生活とリハビリ研究所代表)という錚々たる面々なのでやや緊張気味。現代詩を歌うグループ"DiVa"のベーシスト大坪寛彦さんに会えるのも楽しみ。


当夜は谷川俊太郎さんによる自作朗読もお願い出来るとの事なので是非「おじいちゃん」を聞かせていただきたいと思ったのだがリクエストし忘れた。だが、皆考える事は同じなようで、ちゃんと候補に挙がっていて安心。
おじいちゃんに、昔ばなしでなく今の気持ちを教えて、と語りかける子どもの詩なのだが、七十歳になって自ら「おじいちゃん」になられた谷川さんがどのように聞かせていただけるか楽しみだったのだ。結果は正直に言って期待はずれ。だって、谷川さんは七十歳とは思えないほど若々しいのだ。容姿ではなく、発散する「生気」というか、「エロス」の立ちこめる詩人としてのかけがえの無い資質が未だ横溢されている方なのだ。「おじいちゃん、おじいちゃん」と語りかける言葉は老人のものではない。

スピーチの順番が回って来たら学生時代に好きだった谷川さん作詞、小室等作曲の歌を歌おうと決めていたのだけれど、歌詞の覚え違いがあったら大変と物置から古いレコードを探し出して確認したらさぁ困った。なんと二番と三番の歌詞をごっちゃにして勝手に作詞していたのだ。これはいかんと、文字入力してプリントし持参する事にした。

司会の三好春樹さんが「はいスピーチをされる方」とふられたので「ハイッ!」と一番で手を挙げる。これは清水蔵談義の建築家、もう一人の谷川さんから教わった礼儀だ。スピーチのマイクの隣に谷川俊太郎自身が座られているので緊張で声が上ずったがどうにか歌い終わると、谷川さんが立ち上がって握手してくださったので何とか体裁は保てた。「谷川さん、覚えてますか?」と尋ねると、「覚えてますとも、これはテレビドラマの主題歌で、亡くなられた田宮二郎さん主演……」と適切な解説までつけていただいた。たいしたものだ。

谷川さんには「私の大好きだった歌で…」と申し上げたのだが、実は学生時代はそれほど好きでは無かったのだが、次第にボディブローが効き出すように好きになり、人の世の無常と、生きて「おはよう」の朝が来る事の有り難みがわかるようになって、いつも口ずさむようになっていたのだ。そんな時期に、まさかご本人の横で歌う事になるなんて、縁というのは不思議なものだ。

後に川上京さん、勝藤郁子さんの両編集者が「横で谷川さんも一緒に唄ってたんだよ」と聞いてさらに感激。しかし、司会の三好春樹さんの「作曲者が聞いたら嫌がるような名調子、ありがとうございました」は許せんなぁ。あやつ、どうしてくれようか(笑)。
歌唱後、自作歌詞カードにしていただいたサインを掲載しておきます。

12月 8日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 7日 金曜日
「親子尺」

親の年齢引く子の年齢イコール親子の歳の差、これを親子尺と言う。今、私がそう決めた。

親子尺を自分の年齢に足してやれば「お母さまは何歳におなりですか?」と聞かれても咄嗟に答えられるのが第一の効用。そして親子尺を加算した自分の年齢には、皮膚が弛み、背が縮み、背中が丸くなり、がに股になって親と同じ姿になる自分の未来が隠されている。かつて天と地ほどの隔たりもあるように感じられた親子の歳の差が、このちっぽけな親子尺程度のものであったことに今さらながら唖然とする。親子尺分生きたら私も爺さんなのだ。

母は午年生まれで、二度目の年女の午年に私を生んだから、私も当然午年生まれ、十二支二周遅れで親子尺は「24」ということになる。その私が二度目の年男の午年に郷里に帰省した時のこと。日暮れて、母が営む飲み屋の暖簾がかけられるのを見届けてから、清水駅発東京行きの在来線に乗って故郷を後にする習慣にしていたのだが、ふと思い立って「好きな人がいて結婚したいと話し合っている」と言ってみた。母は驚き、やがて怒り出し、「どうしてそういう大切な事を帰る間際に言う、次回の帰省にはその娘さんを連れておいで」と私に言い含めた。娘を嫁に出す父親は、他の男に愛する人を奪われる心境になるというが、愛する男を奪われる心境だったと母は笑いながら後に述懐していた。
そして再来年、妻はその時の母と同い年になる。一歳年下だから親子尺は+1なのだ。母は若い母親だったのだなぁと妻の横顔を見てつくづく思う。
妻は妻で、私の親子尺を利用して、母が東京を引き払い清水で飲食店を開いた歳、親子尺+12イコール三十六歳に驚嘆し、「お母さん、頑張ったねぇ。三十六歳で自分の人生を大転換したんだね。凄いなぁ」と事あるごとに話題にし、母も「無我夢中だったんだねぇ、よく借金する勇気があったもんだと感心するよ」などと語り合っている。

精神看護関係の書籍の仕事で新宿の職安通りへ。ファックスで送られて来た地図には、JR新大久保駅から線路づたいの道を辿ると近道とある。懐かしい、四十数年前と何も変わっていない風景がそこにはあった。新大久保近くの和菓子店で職人をしていた父、そこで住み込み職人のまかないをしていた母と三人でよく通った道なのだ。

その頃から父母の間には喧嘩が絶えなかった。喧嘩の末、家を飛び出す母は「何かあったらこれをお金に替えなさい」と結婚指輪を指から抜いて私に握らせたものだ。何度母の指と私の手のひらを往復したかわからない思い出の結婚指輪である。
そんな両親でも、週末の夜、新宿コマ劇場界隈に深夜興業の映画を見に行く時だけは仲が良く、夜更けの線路ぎわをを歩いて帰る時、両親と手を繋いで宙に持ち上げて貰うのが大好きで、「高い高いして!」と、よくねだったものである。やがて和菓子店は渋谷に移り、両親の引っ越しに伴い、私も渋谷の幼稚園に通うようになった。その頃にはもう「高い高い」してもらった記憶は無く、私が間に入ってもすでに修復不能なほどに、両親の仲は冷え切っていたのだと思う。

バブル経済と呼ばれた時代、東京中オフィスビルとマンションで埋め尽くされてしまうのかとも思われたものだが、今こうして歩いてみると何も変わっていない。更地には雑草が生え、コンクリートの階段はあちこち欠けても昔のまま、新宿西口を体よく追い払われたホームレスたちが寒風に身を丸くしてうずくまっている。遠いあの日、三、四歳だった私に親子尺を足してみると二十七、八歳の両親ができ上がる。二人とも若かったんだなぁと思う。喧嘩に明け暮れる日々にポッカリ空いたしばしの安らぎの夜、私の手を引いた両親はどんな思いでこの道を歩いていたのだろう。

親の年齢引く子の年齢、親子の物差しで時代を計測し噛み締めるように線路づたいを歩く。

12月 7日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 6日 木曜日
「Mac OS 9.2.2 アップデート」

アップルコンピュータ株式会社からMac OS 9.2.2 アップデートがダウンロード可能になっています。

動作内容:Mac OS 9.2.2 アップデートは、Mac OS 9.2.1を対象として、最新のMacintoshオペレーティング・システムにアップデートします。
システム条件:Mac OS 9.2.1

アップデートするためにはMac OS 9.2.1にしておく必要があります。コントロールパネルの「ソフトウェア・アップデート」から自動アップデート出来ます。

12月 6日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 5日 水曜日
「愛するものの捨て方」

ものを捨てる時に、燃える・燃えない、普通・粗大、無料・有料などと、多少の常識とモラルさえあれば容易に捨てられる時代になったけれど、昔の人の捨て方にはもう少し痛みがあった気もする。仏壇や神棚、位牌や人形までゴミ収集所に打ち捨てられている昨今の光景には目を被いたくなる。

昔の人はよく手紙を焼いていた。
火に葉書や封書をくべていた年寄りの横顔を、自身のそれと近しいものとして思い出す年頃になってきた。冬の日の夕暮れ時、庭に小さな火をおこし手紙をくべている自分を想像するとちょっといいなぁなどと思ったりするのだが、私にはくべるべき手紙が無い。燃えて消えて行く思い出を慈しみたい手紙も全く無いわけではないが、それは皆パソコンの中にあり、捨て方はゴミ箱に放り込んで空にするだけだから昨今のゴミ処理と変わりが無い。
「今日は思うところあって日がな一日メールを燃やしておりました」などという人間らしい風情はデジタルの世界には用意されていない。

私は成人するまでかなりの奥手で、それを証言して貰えるのは妻と僅かな友人だけなのだが、それでも大学を卒業しアパートを引き払う直前、手紙を焼いたことがある。恋文をやり取りしたことすらないのに何の手紙を焼いたものやら不可解なのだが、焼いた事自体は鮮烈に記憶している。引越し直前のがらんとした部屋の真ん中でそれをやったのだ。
輸入コーヒー豆の入っていた空き缶の中で一枚一枚燃やしていたら缶が手に持てないくらい熱くなった。しばらく放置し、持ち上げたら何と焼けた絨毯がホットケーキのように円形にポッカリ取れて、下の畳にまで缶の縁の茶色い筋が残っていた。さすがに引っ越しの時体裁が悪く、掃除した後古新聞を束ねたもので隠しておいたら、人のいい大家の老夫婦が「そのゴミは捨てときますよ」というのを幸い、そのまま失礼してしまった。今思えば申し訳ないと思うとともに、自分の愚行に恥じ入る。

小学生時代、近所に良く手紙を燃やす老人がいて、木賃アパート二階の窓から「ああ、今日も手紙を燃やしてるな」と頬杖ついてぼんやり眺めていた頃がある。なぜ燃やしていた物が手紙と知っているかというと、その家に二歳年下の友達がいて「爺ちゃんはいつも手紙燃やしてる」と聞いていたのである。余程多くの手紙をやり取りした人生だったのか、はたまた丹念に読み返して少しずつ燃やしていたのか、今となってはわからない。その老人、手紙を焼く以外に思いがけない物を思いがけない捨て方で処分していた。

「爺ちゃんが庭にお金をたくさん埋めた」と友達から聞いていたので、老人が外出して一日帰らない日を見はからい二人で掘ってみた。大きな穴を掘り、少しずつ埋め戻しながらお金を捨てたらしく、潮干狩りのように一枚また一枚とたくさんのお金が出て来る。明治以降、戦前までの頃のお金だろう。新円に切り替わった時に換金し忘れたのかとも思うのだが、亡妻が暮らしの中でこつこつ箪笥貯金したへそくりが出て来たのではないかと今では思っている。なぜなら我々が一円、五円、十円などという小銭を引き出しに溜め込んでいるのとは違い、ドロを拭うとピカピカ光りずっしりと持ち重りのする立派な硬貨ばかりだったのである。妻の遺品から出て来た「家計への備え」を、換金出来ずに思い出とともに晩年まで持っていた、そう思えてならないし、そうしておきたい気もする。

老人は、庭の片隅の塀際に茗荷を一列植え、リンゴ箱に入っていた籾殻を敷いて丹念に世話していた。夏になると採れたてをいただくことがあり、母が胡瓜と一緒に小口切りにし塩で揉んでキュッと絞り、食卓にのせたのを記憶している。手紙を燃やし、お金を埋めた場所は更地になりコンクリートの駐車場になってしまったけれど、その庭から生えた茗荷のほろ苦くも爽やかな味は今でもしっかりと思い出す。

12月 5日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 4日 火曜日
「Bricolage#103 表紙の言葉――間違い探し」

毎月Bricolageの今月の表紙はどうしようかと編集者の川上京さんと打ち合わせ。私は女性と差し向かいで打ち合わせをしていると夫婦で卓袱台を囲んでつましい食事をしているような気分になってしまう。ご主人には申し訳ないが、一日妻を迎えたような気分。

「今月は写真で行く?」と私、「内海さんとこの写真がいいと思うの」と彼女。「じゃあ目次ページは?」「これでどう?」「同じじゃない」「あら、少し違うでしょ」
たまご焼きのおかずに続いて目玉焼きが出て来たような気分だけど優しい夫は「じゃあ間違い探しでもして貰うか」「あら、いいんじゃない?」。あまり良い妻ではない。

本気で間違い探しの“表紙の言葉”を書こうと思ったら気が滅入って来た。写真の間違い探しが好きではないのだ。結婚(本物の)を機に家族写真を撮る事が増えたのだがその残酷な事、2001年宇宙の旅のラストシーンみたいだ。親たちがしぼんで小さくなっていく事の加速度的な事に驚く。写真なんて撮らずに今この時をしっかり見とかなくちゃという心境になってきた。今この数時間後に一人欠けてもおかしくないと思えるほど我が家の年寄りたちは儚げなのだ。

躁鬱病などという洒落た病気を持つほど高級な人間ではないのだけれど、私は年に数回塞ぎの虫が頭をもたげて調子が悪い時期がある。注意力散漫で今日も仕事の催促の電話が鳴りっぱなし。悪い時には悪い事が重なるものだ。

こんな時の特効薬は向田邦子。『父の詫び状』という短編集が好きで、調子が悪くなるたびに買うので我が家には『父の詫び状』が何冊もあるはずだ。「大変だ! 和子が目をやられたぞ!」。そうかそうか、目をやられたのは邦子じゃなかったんだなぁ、と読むたびに記憶違いに気づくのが楽しく、何故か心が落ち着いて来る。思い出の“間違い探し”は何故か私には優しく心地よい。

※『父の詫び状』向田邦子 文春文庫 「身体髪膚」より一部引用

12月 4日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 3日 月曜日
「朝顔日記」

東海道江尻宿(現在の清水)を過ぎ巴川にかかる稚児橋を渡り150m程進むと、東海道と久能道の別れ道。久能道に入って数軒目に有った八百屋がちびまる子ちゃん作者さくらももこの家。私が生まれた家はその先150m程の場所にある。この二股の角にあたる部分に紫雲山法岸寺という古い寺があり敷地はかなり広い。どれくらい広いかというと、150m離れた私の生家の玄関を入り、ずずずいっと奥まで突き進み、汲み取り式時代にトイレがあった場所の小窓を開けると法岸寺の墓地だったりするくらい広いし、かつては寺の敷地内に法岸寺湯という銭湯があったくらいに広いのだ。
夏には御本尊のおわす本堂前に白い布を張って近所の子どもたちのために映画大会を催したりし、銭湯とも合わせて地域との繋がりの深い不思議な寺だったが、申し訳ないことに映画大会以降四十年近く境内に足を踏み入れたことも無かったりする。

私はヘビースモーカーなのだけれど生家に帰省すると喫煙はしない。母親が少女時代に患った結核のため片肺であるせいもあるが、パソコンの前を離れ、インターネットの見えない線を断ち切るとストレスフリーになるせいかあまり煙草も吸いたくなくなるのだ。転地療養みたいなものでタバコをやめられそうな気もするし下が高すぎる血圧も下がるかもしれないのだが、収入も比例して下がってしまうのでそれもかなわない。命を取るか金を取るか、祖母の口癖みたいだ。
11月30日からの清水帰省、12月1日はちょっと思うところあって喫煙したくてたまらなくなり、ぶらっと早朝の法岸寺を歩いてみた。

入江まちづくり推進協議会が立てた案内板があって、この寺には浄瑠璃『朝顔日記』のモデルとなった深雪の墓があるという。若い頃数奇な運命を辿った深雪……という解説が気になって仕方ない。メール友達によれば私はフェミニスト=「女に甘い男」だし、回文師匠の坊さんによれば「女のみならず自分に甘い男」だそうで、ことのほか数奇な人生を歩む女性に弱かったりするのだ。

『朝顔日記』というのは通称、山田案山子(近松徳三の別号)遺稿、翠松園主人校補による五段続きの時代物で1832(天保三)年 、大坂竹本木々太夫座初演。江戸時代に大人気を博した演目だという。
深雪の数奇な運命を、淡々と箇条書きにしてみよう。

■宮城阿曽次郎、憎の月心と宇治川にて蛍狩り。
●秋月弓之助の娘深雪、同じく蛍狩りに宇治川へ。
▼狼藉をはたらかれそうになった深雪を宮城阿曽次郎が助ける。いいぞっ!
○これがきっかけで芽生える恋心!
■宮城阿曽次郎、深雪に請われて扇にすらすらとふみをしたためる。
 「露のひぬ間の朝顔を照らす日影のつれなきに、あわれひと村雨のはらはらと降れかし」
▼ふたり、再会を約し別れる。
▼宮城阿曽次郎と深雪、船にて帰国途中風待ちの明石にて再開するも嵐に見舞われ別れ別れに。
●国許では主君の命で深雪と駒沢次郎左衛門の縁談がすすむ。駒沢次郎左衛門が改名した宮城阿曽次郎と知らない深雪は家出する。
●その後、恋を貫くための苦労と悲しみから、深雪は失明。
■東海道島田宿に逗留中の駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、悪者に毒殺されかかるも宿主の機転に救われ、その宿の衝立に書かれた朝顔の歌を見て深雪の手になるものと確信する。
■駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、持ち主の瞽酎女(ごぜ)を招くと、朝顔と改名した深雪。
■駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、名乗ることもできず扇に目薬と金を添えて宿の亭主徳右衛門に言づける。
●声で駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)だったと悟った深雪、後を追うが大井川の増水で川止めとなり、「しらなんだ、しらなんだ、しらなんだー」と号泣し悲嘆のあまり入水自殺を計る。
▼追いついた宿の亭主徳右衛門が制止し、自ら切腹しその血で目薬を飲ませると深雪の視力が戻る。
○駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、深雪は祝言をあげハッピーエンド。

いわば「君の名は」みたいなすれ違いメロドラマ。最後の「宿の亭主徳右衛門切腹」のくだりが、迫力はあるけれど唐突だなぁと思われるかもしれないが、実は宿の亭主徳右衛門にも深い事情があって話に奥行きがあるのだがここでは省略。

以下、入江まちづくり推進協議会の案内より。
「当法岸寺本堂左奥に浄瑠璃「朝顔日記」深雪のモデルと云われる人の墓があります。正廣院殿永安種慶大姉の銘があり、日向国(宮崎県)財部(現在の児湯郡高鍋町)三万石の城主、秋月長門守種長公の娘で四代目清水船手奉行となった旗本一七〇〇石山下弥蔵周勝の夫人で寛永十八年(1642)四月十八日に没し当寺に葬られました。夫人の青少年期は数奇な運命を辿って居り、この事が物語の筋になったと思われます。」

1642年没というから、312年後その墓の裏手で私が生まれ、墓に面して設置された朝顔に向かって毎朝小用を済ませるという罰当たりな事をしていたわけで、これも深雪さんをめぐる運命の神のお引き合わせのような気もする……んなわけないか。
朝のまばゆい光の中で深雪さんに合掌。好きだなぁ、深雪さん。

12月 3日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 2日 日曜日
「記憶の井戸を掘る」

清水の十二月、駅前銀座から清水銀座へ向かう道をぶらぶら歩くと、高校時代の写真帖ページ「清水しみずShimizu」で繰り返し執拗に撮影していた「清水橋」の、架け替えに伴う解体作業が始まっていた。

ふと「清水っ子のためのメーリングリスト“オダマメ通信”」で建築家の谷川さんという方が話された「エコ・ミュゼ」のことを思い出した。

Fri, 25 May 2001 08:52:11 +0900頃、T設計室 さんwrote:
||牛込の箪笥公民館の建築の講演でしたが、その中ででた言葉で
||【エコ・ミュゼ】という言葉がオダマメにピッタリ!と思って聞いてきました。
||エコミュージアムと言うそうですがフランスで作られたとか・・
||1971年ヨーロッパあたりでは言われている事で
||
||建物はもう新しい物を作る時代ではない再生をするべきだ
||
||歴史と文化を見せながら
||新しい文化をつくる
||古い家で展示したり・集まり・イベントをする。
||町の中で行うから町の人が勝手に入り込くる。
||その中で新しい産業をつくる。
||
||町は自分の一つ一つの家だけの話しでなく
||地域として楽しい道があったり
||ビオトープがあったりする。それを作り
||再生していく
||自分のあり方を過去を回帰することで
||自分の将来を想像していく事なんだそうです。

「エコ・ミュゼ」という言葉を聞いたことがなかったので調べ、その中で京エコミュージアム研究会第1回研究例会吉兼秀夫氏の講演内容に「地域すべてのものの「記憶の井戸を掘ること」がエコミュージアムであります」とあったのが印象深い。そして「足もとを掘れ、そこに泉涌く」というニーチェの詩文も思い出した。

エコミュージアム自体が心の眼で見ようと努力しなければ見えて来ない物なので、「記憶の井戸掘り」も「足元発掘」もなかなかに難しい。商店街が次々に店を閉じ、文字通り「仕舞た屋(しもうたや)」となり、やがてパワーショベルで解体され更地化し、高校生が好きで好きでたまらなかった跨線橋下の飲食店も消えて行く(中学生の私が生まれて初めて、一人で作業服の人々に混じり「一膳飯屋=大衆食堂」でご飯をいただいたのもこの橋の下だった)。

この光景を、良き時代の終焉、破局の惨状と見るのも良し、おそらく生きて再び見ることの無い彗星の回帰に遭遇した得難い一瞬と見るも良し、それは人それぞれの裁量に任せるしかない。だが更地に巨大マンションが建ち、街の中心に首都高のような灰色の異物が設置されてしまった後では「自分の将来を想像」するには遅すぎる。自ら掘らずとも小さな「歴史と文化」の一片が、誰にでも比較的容易に見えるのは今この時を置いてもう無いかもしれないのだ。


橋の架け替えに反対する運動を展開して来られた家具屋さんが、
「こうして筒抜けになった橋を見るとそれはそれとして、こういう景観もいいなぁと思ったりする」
こと、商店街が欠け櫛状態になっていくのを嘆いていた魚屋さんが、無残な更地の出来たおかげで、
「一歩退いた視点から見ると、さらに古い通りの良さが見えて来た」
と感慨を語ること、それこそが大切なことなのだろう。

「基本的には行政から補助金をだしてもらって何か利便を得るというものではなく、自分達が一番大切にしていきたいものを他の人々に理解してもらう工夫をしていく必要」(吉兼秀夫氏の講演より)、「住民自らの感触をもって、守るべき価値ある地域資源は何なのかを、見詰め直す段階に、引き返してみる必要」(『エコミュージアム』小松光一編著  家の光協会 より)のチャンスが今なのかもしれないし、将来を創造する出発点は常に「今」しか無いのだ。

12月 2日 歩数未計測(^^;

2001年 12月 1日 土曜日
「人が話すということ」

第三十回清水蔵談義のため清水へ。前日の11月30日夜は世話人をつとめる「清水っ子のためのメーリングリスト“オダマメ通信”」のオフ会を兼ねた清水「裏」談義ということになった。

清水蔵談義といいメーリングリストといい、人と人とが繋がり合い、語り合うために集うのだが、その話し方は一様ではない。自身を飾らず率先して話の口火を切るように元気に挙手して言葉を投ずる人、熟考して意を決したように訥々と語る人、軽妙な合いの手を入れることにに徹する人、隣り合わせた人を相手に分科会を始める人、エトセトラ、エトセトラ。そして忘れてはいけないのは、自ら語らずとも聞き役に徹して頷いたり、微笑んだり、首をかしげたり、眉間に皺を寄せたりすることで遠慮がちに参加する人もそれなりの「話し手」であるということだ。そういうことが許される「談義」が好きだったりする。

人と人とが顔と顔とを合わせて語り合える場合は良いのだけれど、メーリングリストなど目に見える形で一人一人が立ち現れない架空の談義では、すべての人が聞き役に回ってしまうと何もメールが配信されないわけで、メーリングリスト自体が存在しないことになってしまうのが悩ましい所だ。率先して語り手となって発言を投稿することに疲れ果て苛立ったりしたこともあるのだけれど、最近はそれでも良いと思えるし、そういう役回りを楽しんでしまえるようにもなってきた。それよりも、電子の繋がりを辿って実際の出会いを楽しみたい。すべてパソコンの前に座ってキーボードを叩くことで構築する世界から飛び出し、自らの体を運ぶことはしんどいけれど、話の生まれる場を求めて駆け回ることに適した年頃になったこと、そんな暮らし振りができていることを、有り難く思わなければいけないような気もするからだ。

インターネットが無ければ決して知り合うことも出来なかったはずの仲間が郷里に集い、不況の底で薄暗くなった街に小さな明かりを灯していくような人と人との繋がりがほのぼのとして温かい。
「いつも発言しなくてすみません。でも、ちゃんと読んでますよ」
「いいんです、読んでくれているだけで充分です。退会する人がいないだけで有り難いと思っていますから」
蔵談義の場でそんな会話をしながら、そうだ、この人とこの人は面識が無いけれど、ちゃんと同じメーリングリストに参加しているんだっけと思い出し、互いを紹介してみるとちゃんと素敵な話の花が咲く。

人と人とが出会い「話が生まれる瞬間」にこそときめきがあり、その瞬間に立ち会うことが何よりも嬉しく感じたりするのも、歳のせいかもしれないなぁ。

12月1日、人通りまばらな午後の次郎長通りのあちこちに国旗が掲げられ、菊の文様の星の下、元気な女の赤ちゃんが誕生されました。

※生家近く、静岡鉄道入江岡跨線橋から見た富士山 12/2 7:45am

12月 1日 歩数未計測(^^;


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