電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2001年 12月 30日 日曜日
「汽笛の夜――清水みなと午前零時は今…」

長年故郷を離れて都会暮らしをしていると地方の情報に疎くなり、現実と記憶の思わぬ乖離に驚くことがある。

昨日の日日抄で、しみじみと郷里清水の汽笛にむせぶ大晦日のことを書いた。そして、翌12月30日、清水市の実家でこの日日抄を書いているのだが、なんと早朝に届いた新聞の折り込みチラシを見て驚いた。「清水港カウントダウン2002」などというイベントが近年恒例になっており、静寂の中、一斉に汽笛の鳴り渡る懐かしい港町の風情はとうに失われているらしい。

チラシのうたい文句によると、「Count down HANABI 2002 新年のカウントダウンに続いて、約400発の花火が満天の夜空を鮮やかに焦がします」さらに「市民総踊り・年越し港かっぽれ2002 恒例の年越し港かっぽれ。花火が終わるとにぎやかに新春初踊りのスタート!飛び入り参加も大歓迎です。」てなことになっているらしい。午前零時ジャストを大勢でカウントダウンし、約400発の花火が鳴り渡り、花火終了を合図にカッポレ初踊りのスタートだというのだから、汽笛などの出る幕はない。

都会暮らしをする者の悪い癖で、寂しい港町の風情こそ宝物なのに、などとついつい口走ってしまうのだけど、地元で暮らす人々にとって「寂しい港町の風情」など単に「寂しいだけ」なのかもしれない。そしてその寂しさを埋め合わせるものは花火であったり、真冬のカッポレ踊りだったりするのだろう。

いずれの日にかまた故郷に帰らん。故郷の大晦(おおつごもり)に再び汽笛にむせぶ闇のありやなしや。

   ***

今年最後の日日抄です。お読みいただいて叱咤激励のメールをいただいた方々に改めてお礼申し上げます。皆様にとって新しい年がより良い年でありますようお祈り申し上げます。

2001年 12月 29日 土曜日
「汽笛の夜――清水みなと午前零時」

港というのは奇妙な場所である。

明治時代、全国各地に鉄道が敷設されていく過程で、鉄道が通じ停車場ができることに、反対する住民も多かったと聞く。住民が最も畏怖したのは、奇妙な乗り物に乗って「外部」から「け」が流入してくることであり、魑魅魍魎が出入りする「駅」というのは当時の人にはいかがわしいものだった。そういう意味では、「港」というのも、繋がっている外部が、異国であったり、時には冥界であったりする「海」なので、十分にいかがわしい場所なのである。

港に程近い場所に住んでいたので、自転車をこいで岸壁によく出かけた。中学生ともなると、それなりの悩みや寂しさがあるわけで、夜になって一層いかがわしさを増した港を、かえって恋しく思うこともあったのだ。岸や沖合に停泊している船の灯りが美しい。大型の船舶は当然の事ながら、小さな船にも小さな灯りが点っていて、あの下にいる人は、留守番役なのかしら、深夜も仕事があるのかしら、帰っていく陸上の家が無いのかしらと、岸壁に座ってぼんやり考えるのが好きだった。

   ***

私には一歳年上の従兄がいて、同じ学校に通ったことはないのだけれど、歳格好が近いせいか幼い頃から、ことのほか仲が良かった。中学生の頃だったと思うのだが、ある夜、その従兄が自転車に乗って現れ、「ちょっと岸壁まで付き合え」と言う。珍しいことを言うな、どうして家では駄目なのかしらと考えながら、自転車の灯りで倉庫街の道を照らして、暗い岸壁まで並んで走った。

岸壁から暗い海を見つめながら、しばらく黙っていた従兄は意を決したように、
「男と女ってのはさ」と、口を開いた。
「男と女って、やっぱりあれをするんだよ」
思春期まっただ中で、ニキビ面の従兄は、当時ベストセラーだったドクトル・チエコの How to 何タラを買って最大の疑問を究明し、その興奮を持て余した挙げ句、自転車を飛ばして年下の私に教えに来たのだった。男女の体の奇妙な対応を冗談めかして考えたことはあったけれど、いざ、そうして聞いてみると悪夢が現実になったような衝撃があり、私は
「ふうん…」
と、言ったきり次の言葉を探すことができなかった。無数の船の灯りの下に、ドックンドックンと心臓の鼓動を聞きながら息を潜めている、無数の生身の人間がいることが妙にリアルに感じられて、暗い「人の海」に一人投げ込まれたようで心細く哀しかった。私に与えた衝撃の大きさに手応えを感じて満足したのか、従兄は再び自転車にまたがって帰っていった。中学生がとてつもなく純真だった時代の笑い話である。

   ***

十二月三十一日、大晦日の夜、「螢の光」を歌って「NHK紅白歌合戦」が終わり、「ゆく年くる年」に画面が切り替わる頃、表通りには初詣に向かう人々の気配がする。そして午前零時ちょうど、港に停泊中の船が一斉に汽笛を鳴らし港町の闇を埋め尽くす。あの汽笛を鳴らしている人は、留守番役なのかしら、深夜も仕事があるのかしら、帰っていく陸上の家が無いのかしらと思う気持ちが今も変わらない自分が可笑しい。ただひとつ変わっているのは、年を重ねるにつれ、無数の汽笛が描き出す暗い「人の海」が心細く哀しいものではなく、年々愛おしく思えていく自分に気づくことである。

2001年 12月 28日 金曜日
「時の器」

若い頃あこがれた豊かさが実は貧しく、貧しさと感じた事柄が実は豊かさそのものだったと思えるようになったのは四十代後半になってからだ。

長い友人としての助走が終わり、恋人と呼べるようになった人との結婚が見え始めた頃、互いが育って来た家庭の暮らし振りを突き合わせて驚いたことの一つに、日常用いる食器が全く違うということがあった。
我が家では皿も茶わんも湯呑みもすべて薄手の磁器だったのだが、彼女の家庭で用いる食器はすべて厚手の陶器なのである。食事に招かれて手料理などを振る舞われると、その食器の重いことに驚いた。なんだか縄文・弥生の時代に戻って土器で暮らせと言われたような気がしたものだ。

たかが食器のことで自分の趣味を女性に強要するような男は、余程の馬鹿か、暇な文化人くらいなものだろうと思えたので、土器での暮らしに慣れることに抵抗は無かった。異文化の民による柔らかな侵略に身を任せ、その民族に取り込まれる道を選んだといえば大笑いされそうだが。

彼女の親類縁者には民芸運動に関係したり、造詣の深い人が多かった。瓦工場で育った私は、土と火の造形を嫌いではなく、陶器の魅力に夢中になるのに、さほど時間はかからなかった。北九州で炭坑夫をしていた彼女の伯父は休日になるとリュックサックを背負って小石原(こいしわら)や小鹿田(おんた)などの陶芸の村に、日曜雑器の買い出しのため、山道を歩いて通ったものだという。

そんな伯父の影響を受けた彼女に、リュックサックを背負っての陶器の買い出しに付き合わされることも多かった。
栃木県益子町、益子焼の里にも何度か連れて行かれた。今でこそ水戸・笠間方面から自家用車で訪れる人が多く、そちらの側が正面玄関のようになってしまったが、私たちが初めて訪れた頃は真岡鉄道益子駅から歩く人が多く、駅前付近の小さな陶器店にも活気があり、名物店主のいる店などもあった。今では仰天するような値段の付いているドイツ人ゲルト・クナッパーGerd Knapperの花器などが無造作に棚に並べて在ったりして、「買っておいたら我が家の数少ない宝物になったのに、あのお金さえ私たちには無かったね」と、口惜しい思い出を二人で語り合うこともある。何年たってもくやしいし、惜しいと思えるほど、若者ですらもう少しで手の届く程度の値段の器を焼いていた頃の、クナッパーは美しかった。

   ***

安物ばかり、新婚所帯の準備に買い込んで益子駅に向かう途中、突然の雷雨に襲われたことがある。半袖シャツをびしょ濡れにし、背中の陶器を気づかいながら、私たちは雨宿りの軒先を求めて走った。その前を自家用車の若いカップルが何組も通り過ぎて行くのを見て、いつか自家用車に彼女を乗せ、重いリュックを背負ってローカル線の駅まで雨に追われて走るなどという、貧しい暮らしから救い出してやりたいなどと、当時は本気で思ったものだった。若いというのはそういうもので、しみじみと微笑ましい。

今にして思えば何のことはなく、マイカーで渋滞だらけの高速道路のゴミ溜めを行く旅の方が余程貧しく、東京駅や上野駅から窓際の席に座ってビールで乾杯し、ローカルバスやタクシーを乗り継いでのんびり旅する方が余程豊かなことを、私たちはすでに知っている。大盤振る舞いして現地で一日タクシーを借り切ったところで、車の購入・管理・維持にかかる経費に比べたら最終的には余程安上がりだという計算もできるようになった。「マイ」という呪縛を解き放てば本当の豊かさは見えてくる。親の看取りが終わったらマイカーなどいらないと今では思う。

そして、財布が空っぽになり、雨に打たれて濡れネズミになり、肩に食い込むリュックの重みですり傷を作り、くたくたになって安アパートに帰り着く旅であっても、若かったというそれだけで、その貧しさこそが、実は輝かしく豊かなものであったことが、今になってわかる。「時の器」で価値を計るというのはそういうものだ。

※写真は小石原の窯を訪ねた頃、もう二十年以上も前のことだ。

2001年 12月 27日 木曜日
「古書店の夜」

先日、朝倉義子『看護婦ほどオモロイ商売はない』 の出版記念パーティで、編集者の秋本氏が「最近の学校では音読をさせない」とおっしゃっていた。我が家では子どもができなかったので最近の学校のことは全く知らないのだが、「最近の学校では」と来たら「ろくな事をさせていないに違いない」という思いが念頭にあるので「それは良くないですねぇ」などと適当な相槌を打っておいた。

私の子ども時代、小学校では音読と黙読を教師の指示で使い分けていた。生徒全員で音読などすると不揃いな読経のように喧しいだけで、読書の本来からは程遠いように感じられたものだ。単に生徒に読んでいる振りをさせないために便利だったのかしら、その程度にしか音読の効用があるとは思えなかった。

   ***

考えることと、それを更に文字として綴ることとでは、雲泥の差があるように思う。こうして日日抄として戯けた雑文を書き散らしていても感じることだ。自分に自分をさらけ出すことによる発見は大きい。だがそれは自分自身を磨り減らす過酷な修行のように思えなくもなく、妙に鬱々として耐え難い不安を感じることが増えてきた。

クリスマスの日の午後も鬱いでいく自分に耐え難く、愛読しているメールマガジン『さすらい通信』への投稿を済ませ、あの人になら会ってもいいなと思える仕事を優先して仕上げ、本郷通り沿いにある出版社に向け外出してみた。

手紙を書いたり、実際に会ったりして心安らぐ他人が存在するのは有り難いことだ。打ち合わせを終え心持ち元気になって表通りに出ると黄昏が近い。心寂しい時、この通り沿いの古書店に立ち寄るのが好きだ。何軒か気に入りの店があり、この日もその一軒に立ち寄りたくてたまらなくなって来た。

バス停ひとつ分を足早に歩く。学術書を扱う書店の多いこの界隈、古い文芸書を扱う寂れた店だ。書棚にあるのはあらかた故人となった作家のもので、死者が残した書名の背文字を眺めていると心安らぐ癖が私にはある。

佐多稲子の古い単行本の装丁が美しい。箱から取り出して、表紙に施された、から押しの凹凸を手のひらでさすってみる。黄ばんだ灯りが心安らぐ店で、取り散らかした狭い店内も、散らかり方にそれなりの店主の拘りがあるようで心地よい。店の奥まったところに、低彩度色のブルゾンに揃いのベレー帽をかぶった老店主が、足をストーブの前に投げ出して焦点の定まらない目つきで東向きの店頭方向を向いて腰掛けている。
この店も、この主人限りで閉店かなぁと思うと切ない。そんな感慨に耽っていると奥の座敷から不思議なぬくもりのある声が聞こえてきた。店主のご婦人が、孫だろうか、幼い子に美しい声でお話の読み聞かせをしているらしい。

最近の軽薄な幼児向け童話ではなく、昔の児童文学者の手になる文章は美しい。河内桃子による向田邦子の朗読テープが好きなのだが、あらためて名もないこの老婦人の語りの美しさに驚く。目の前にいる幼い子に向かうほとばしる思いが込められているのだろう。そうか、老店主は妻の朗読に聞き惚れていたのかなぁと思うと微笑ましく、しばしそのおこぼれをいただく幸せを噛みしめた。古書店主に嫁いだ本好きで朗読上手な妻を想像してみると、こういうのも良いものだなぁと思う。音読はともかくも心のこもった朗読を聞けるというのは有り難いものだ。

「おしまい」の声を聞いたら、どうしても老店主に話しかけてみたくなった。ここ数日来、絶版になっていて古書でもいいからと探している本が店内に無いかと尋ねてみた。うっすらと微笑みを浮かべて、
「最近は、見かけなくなったねぇ。そこにある全集には収録されているはずですよ」
との答えが返ってきた。全集で金十五万円也。とても私に手の届く額ではないので背表紙をさすって、日暮れた師走の通りに出た。

2001年 12月 26日 水曜日
「凍える夜の屋台引き」

1964年の東京オリンピックを契機として始まった都市美観向上に名を借りた文化破壊のとばっちりを受けたものの一つに屋台があるだろう。私が生まれた年ころから1960年あたりが、屋台の数のピークであったらしい。

確かにオリンピック前夜の東京には屋台が多く、場末の路地裏にも様々な屋台がやってきた。中でもとりわけ思い出深いのがおでんの屋台なのだが、その売り声というのがどうしても思い出せない。焼き芋屋なら「石や〜きいも〜」だし、ラーメン屋はチャルメラだった。物売りなら金物屋は「かなっかなっ、か〜なもの〜〜い、雑貨屋でござい」、金魚屋は「きんぎょ〜え〜、きんぎょ〜〜」、竹竿屋は「た〜けや〜、さ〜おだけ〜〜」、廃品回収は「く〜ずい〜〜、おはらい」と、それぞれ固有の売り声を持っていた。

夏の風鈴売りと並んで売り声が思い出せないおでん屋だが、何故かおでん屋が来たとわかると各家庭からアルマイトの大鍋を持った主婦が次々に出てきて、おじさんと世間話をしながら夕食のおかずを仕入れていたものだった。私は、その当時の癖が抜けず、谷中銀座や田端銀座のおでん屋に買い出しに行く時も風呂敷に包んだアルマイトの大鍋を持っていくので、「あら、そういう人大好き」などとおばちゃんから煽てられてちょっと鼻が高い。豆腐なども使い捨てのプラスチック容器に入れてもらうのは、今だにちょっと抵抗がある。

食べ物売りで珍しいところでは、玄米の蒸しパン屋、わらび餅売りなどが懐かしい。
氷水に浮かべたわらび餅を掬い取って黄粉をかけ、楊枝を添えてくれるのだが、見た目に清涼感があって美しい物売りだったなぁと今でも思う。食べ物を商う屋台が自宅前までやって来ることの面白さというのは未だにその輝きを失っていないし、経済活性化の切り札の一つであるようにも思うのだが、その衰退に拍車をかけている要因の一つに行政による締め付けがある。主に衛生上の理由ということで、郷里清水市の屋台が消えて行った時代もはっきりと記憶している。一代限り、営業権譲渡不可ということで、博多名物の屋台もこのままでは早晩消え行く運命にあるらしく、痛ましい事だと思う。

更に屋台衰退の裏には、益々悪化する道路事情、生活形態の変化などの要因も働いているのだろうが、屋台を引く側の要因として、高度経済成長からバブル崩壊に至る過程で、酒飲み相手の固定型に依存し、堅気の生活者から乖離して、移動することの活力を失っていったこともあるように思えてならない。固定型の屋台もどき、屋内の屋台村などというのは行政に抗う苦肉の策であることは認めても、移動対面販売の屋台の面白さにはほど遠いような気がしてならない。

   ***

クリスマスの夜は都心でも雪になるかもしれないと聞いて、屋台のことを思い出した。
もう十年以上昔のことになるが、台東区谷中の大衆食堂で毎晩のように飲んでいたことがある。そろそろ切り上げようというタイミングを見計らったように、チャルメラを吹きながら現れるラーメンの屋台があって、毎夜、走って追いかけたものだ。

屋台を呼び止めるというのは豪勢なもので、自分の好きな場所に臨時の店開きをさせるわけだから、次々に通りすがりの客が引っかかると、新店舗開店の場所選びに一役買ったようで嬉しい。

そのお兄さんがしばらく顔を見せなくなった冬があり、久しぶりに呼び止めて「しばらく見かけませんでしたが」と尋ねると、なんと都心で雪の降った夜、凍結した雪道で屋台ごと滑り落ち、重傷を負って入院していたのだと言う。その姿を想像するとおかしくて、しばらく一緒に笑った後、「屋台を引くのも大変なんですよ」と言った寂しげな笑いが忘れられない。

今夜は冷え込んで雪になりそう、などというニュースを聞くと、煮えたぎる湯とスープの寸胴鍋を背負い、重いドンブリ鉢と具材を入れた引き出しを背負い、凍えるひと気のない坂道で長靴のかかとを立てて加速度に抗いながら、坂道を静かに滑落していく哀れな屋台引きの姿が思い出され、その惨事が再び起こらないことを祈らずにはいられないのである。

2001年 12月 25日 火曜日
「五輪祭りが残したもの……3・闇の終わり」

小学校入学を目前にして、両親が働いていた渋谷区松見坂にあった和菓子屋が倒産し、私たち親子三人は北区王子に引越す事になる。昭和三十五年の事である。

どうして渋谷からの引っ越し先に王子を選んだのか、私には長い間それが疑問だった。それは父に聞いてみなければわからない事で、今となっては叶わない事なのだけれど、例えばこんなおとぎ話はどうだろう。

左翼活動への傾斜が原因で警察官の職を失った父が、佐多稲子の本を愛読していたということはないだろうか。1932(昭和七)年に日本共産党に入党した稲子は、1946(昭和二十一)年に宮本百合子らと婦人民主クラブを創立している。『私の東京地図』を発表したのは1948(昭和二十三)年のことである。仙台でも静岡でも腰を落ち着けて暮らすことのできなかった父が、妻子を伴って上京する際、彼女の本を自分の進むべき道の道標としたという事はあり得ないだろうか。

芥川龍之介が自殺したのが昭和2年7月24日。その三日前、夫窪川鶴次郎の仲介で芥川と対面していた稲子は、その死に衝撃を受け、女給をやめ、翌三年『キャラメル工場から』で文壇に登場している。その年、稲子は水も良く、労働者も多いことで好都合だった十条に転居している。昨日の日日抄で書いた通り王子と十条は目と鼻の先だ。

王子のアパートを見つける直前、父は十条の小さな煎餅屋の二階の貸し間に住みたがった。貸し主の人柄も良いし、安いし、煎餅屋の二階なら毎日が楽しそうで良いではないかと父は固執し、母はこんな日当たりの悪い部屋で子育ては出来ないと強硬に反対した。私はぼんやり記憶しているのだが、床に半渇きの餅が並べられ、背伸びしなければ届かないような高さに小さな窓があるだけの暗い部屋だった。「なあ、煎餅も食えるしいいじゃないか」と、父は私に言い、「冗談じゃないわよ」と母が怒鳴っていた。父にとって、労働者の海にとけ込んで行くには、格好の住まいに思えたのかもしれない。

佐多稲子『私の東京地図』、王子に関してこんな記述がある。

「この駅前は、飛鳥山をめぐつておりてくる市電と、三河島の方から工場町を抜けてくる王子電車とが落合ふところなので、焼鳥屋の屋台が並んでゐる。それらの屋台から流れ出る食べものの匂ひや、脂のけむりにけむる往来は、忙しげな不機嫌な足どりや、または何かを求めて心細げな顔つきなどで雑たふしてゐる。工場街は今までかつて、のびやかに明るかつたことはない。ただ私にはこの雑たふにとけ込んでゆく同じ色合ひが身についてゐる。」

この雑たふにとけ込んでゆく同じ色合ひが身についてゐる、父もそう思いたかった時期があったのではないだろうか。

稲子が見た王子と私が幼い頃見た王子とでは三十年以上の歳月の開きがあり、その間激しく空襲で焼かれたはずなので、全く違った街並みだったのかもしれないが、昭和三十五年の王子駅前界隈には、やはり何とも知れない、ぼんやりと不安な闇が淀んでいたのを記憶している。

京浜東北線と飛鳥山に挟まれた「さくら新道」の飲食店街は、古いレンガを積み上げた不思議な建物も多く、あまりに闇が深くて小学生の私には怖かった。石神井公園に源を発した石神井川は板橋四丁目付近を過ぎ、滝の川を過ぎ、王子駅前に達する頃にはさながら峡谷のようになり「音無川」と呼ばれていた。あの下に川があると聞かされても私はのぞき込むのが怖かった。また、王子駅改札を出て山側を王子本町方面に進むと、そこはまさに焼鳥屋のけむりにけむる一角で何度父に手を引かれて歩いたか知れない。

東京という町は坂が多く、土地の高低差が激しい町である。京浜東北線沿いは下町と山の手が接する部分であり、下町にとっても山の手にとっても地の果てであり周縁部であった。さらに鉄道などという褻(ケ)の構築物があるから、いっそう淀んだ闇が生まれる。王子に限らず、都心でも高台と低地が接する「崖線」を見つけるとなるべく細い路地を探して歩いてみるが、今でもリヤカーが立てかけられ、公道は私道のようになり、洗濯物干しの柱が立っていることが多い。そういう場所には必ず稲荷信仰が根づいていて、王子稲荷のような大きなものでなくても、お狐さんの祠を見ることが多い。

四十代を過ぎ、父が生きられなかった年齢に達すると私はこういう淀んだ闇が恋しくなり、気の合う友と飲み歩く場所として好むようになった。大正から昭和初期に創業した居酒屋が「崖線」周辺には残っていて、古びた店の調度の片隅に両親が若かった頃の闇が今だに淀んでいるようで懐かしい。木のカウンターに私を挟んで腰かけ、別れ話をしている両親の丸めた背中が、思い浮かぶこともある。裸電球の下に白色の液体を入れた厚手のグラスが置かれ、
「何を飲んでるの?」
と、私が尋ねると、両親は、
「お米のジュースだよ」
と、答えていた。

岩槻街道沿いの古びた商店街を削り取り、路面電車を剥ぎ取り、暗部を背負う人々を施設に収容し、闇に現代の楔を打ち込み、淀みを排除する取り組みは一応その目的を達成しつつあるようで、今の王子駅周辺は去勢されたように明るい。音無川の川底に降りて親水公園を歩いてみたりするが、もうこの町に「死者とともに手を繋いで歩ける道」は無くなったなぁという感慨があるだけである。闇を失った街の明るさはうそ寒く、次第に遠のく足音は悲しく、人は街とともに死ぬ、という事を実感する。

2001年 12月 24日 月曜日
「五輪祭りが残したもの……2・Eveの人々」

今日はクリスマスイブ。
両親に連れられて移り住んだ北区王子の町は、当時の日本がどこでもそうであったように貧しかった。貧しい町にもクリスマスはやって来た。どうして日本人が毛唐の祭りなんぞを、と毒づいてみせる大人たちもいたが、貧しいからこそクリスマスはやって来て、“鶏”の丸焼きと、“インチキ”シャンパンと、“コテコテ”ケーキと、“馬鹿騒ぎ”アメリカンクラッカーの錯綜する、貧しさ丸出し日本のクリスマスは伝染病のように広まり、こんな場末の町まで達していたのだろう。

東京五輪祭りの狂乱前夜を思い出す時、走馬灯のように浮かんでは遠ざかる懐かしい人々と今夜は過ごしたい。

[ガンちゃん]
ガンちゃんは知恵遅れ、精薄、たらず…だった。今では口にできないような言葉で思い出しても、ガンちゃんは許してくれるに違いない。ガンちゃんは心に発達の遅れをもつ人だった。
町の中でも特に猥雑な路地裏の入り組んだ四丁目界隈は私たちの格好の遊び場だった。坊主頭で半ズボンのガンちゃんはニコニコして頭を左右に振りながらどこからともなく現れた。何歳なのか、何処に住んでいるのかわからないガンちゃんは、私たちが下校して遊び始めるのをいつも待っていたのだろう。

私たちのやる遊びには、必ず“お味噌”というのがあって、幼くてルールの理解できない子どもも遊びに取り込む仕組みががあった。ガンちゃんがやってくると「おい、ガンちゃんもお味噌で入れようぜ」と、必ず誰かが言い出し、何だか意味がわからないのに私たちと一緒に走り回るガンちゃんは、いつも涎を垂らして笑い転げるくらいに楽しそうだった。

ガンちゃんは銭湯が好きだった。私たちは下校後、銭湯の一番湯で良く遊んだ。何故か四丁目の「金星湯」に人気があって、私たちは身体に石鹸を塗りたくって腹這いになりスベスベのタイルの上を滑ったり、木製の洗い桶を湯船に浮かべてビート板のようにして泳いだり、積み上げた椅子に洗い桶を遠くから投じてボーリングモドキをしたり、浅くてぬるい湯船と深くて熱い湯船を繋ぐトンネルを潜水で通り抜けたり、手のひらで水面を打ってお湯のかけっこをしたりして遊んだ。
板の間稼ぎを裸足で「泥棒〜っ」と叫びながら追いかけて名を馳せた、いつも着物姿の「金星湯のおばちゃん」は、そんな私たちを叱ることもなく、笑って見ていてくれる優しい女性だった。

ガンちゃんは困ったことに、裸で私たちと遊んでいるうちに、楽しさが極まると湯船の中でウンチをしてしまう癖があった。「おばちゃ〜ん、ガンちゃん、ウンチしちゃったよ〜」と言うと、「あいよっ」と番台に用意してあるタモ網を片手にやってきて、ひょいっと掬い上げると何事もなかったように去って行くのだった。あのタモ網はガンちゃんのために用意してあったのかもしれない。いつもニコニコ、大人の体つきをして、私たちから離れなかった穏和なガンちゃんも、何があっても優しかった金星湯のおばちゃんも、そして必ずお味噌で弱いものを受け入れることを忘れなかった当時の私たちも、想い出の中でちょっとだけ誇らしい。

[寝たきりじじい]
町内のあちこちに、倒れて寝たきりになったおじいさんがいた。倒れたら、寝たきり、寝かせきりにするしか術を知らない時代だったのだろう。暗い座敷の奥から「おいっ!」とか「ばあさん!」とかの呼び声が聞こえるので、「ああ、この家にも寝たきりじじいがいるな」とわかったものである。

おばあさんは日中、長屋で唯一日当たりの良い玄関先に椅子を出して、ひなたぼっこをしていることが多かった。私たちが通りかかると、「ちょっと、ちょっと」と手招きし、頭に刺した櫛を抜いて髪を梳かしたり、首の手ぬぐいを取って顔を拭いたりしたがった。目やにを付けていたりすると、手ぬぐいに唾をつけて拭いたりするので、嫌だなぁと思うこともあったけれど、なぜかそうさせてやらなければいけないような気がして、なされるままにしていたものだった。

路地裏はまだ未舗装で、共同の洗濯物干し場には柿の木が植えられていることが多かった。
真っ青な秋空に朱色の柿がたわわに熟す頃、腹ぺこの私たちは見上げて一つくらい落ちて来ないかなぁと思ったものだ。「ちょっと、ちょっと」のおばあさんは、私たちを見つけると柿をもいでくれることがあった。竹ざおの先に二股になった枝を付けた物干し竿上げ下げの道具を使い、先端の二股に柿の枝を鋏んでは捻り、上手にもいでくれるのだった。「じいさんが喜ぶから上がって」と座敷に招じ入れられることもあった。暗闇に目が慣れて来ると、大きな仏壇と、天皇の肖像と、菊の模様のある賞状と、古びた軍刀みたいな飾り物があり、床が延べられて痩せこけたハゲ頭のおじいさんが寝ているのが見えた。「おいっ!」「ばあさん!」の声の主はこの人だったのかと思うと可笑しかった。

おばあさんが菜っ切り包丁で、クルクルと柿の皮を剥き、次々に私たちに、剥いては食べさせ剥いては食べさせしている間中、おじいさんは半ズボンの私たちの腿をさすったりしていたものだった。暗くて良く見えなかったけれど、あの時、おじいさんはどんな表情をしていたのかなぁと思うと今も切ない。

[ちんちん山]
私たちの遊び場の一つに“ちんちん山”という場所があった。
王子小学校の裏門を出て、隣保館、授産所、職業訓練校を過ぎると広い通りがあった。堀船方面からやって来た道が北本通りにぶつかる場所が六叉路になっていて、王子警察署(王子の特高がここだったのかな)のある交差点だった。北本通りに折れずに、この交差点を直進する道も広かったのだが侵入して来る車は少なかった。なんと、その先で行き止まりになっていたからだ。

王子というのは軍都で、軍需産業に携わる労働者が大量に流れ込んだ町だったらしい。王子から赤羽まで、北本通りを走っていた路面電車の軌道がこの広い行き止まりの道にも敷設されていて、引き込み線、東北線など数多くの線路を跨いで赤羽台地に繋がり、陸軍被服廠まで物資などの輸送に使われていたという。線路は撤去されても跨線橋の盛り土が残り、かつてちんちん電車が走っていた事に因んで、地元の人に「ちんちん山」と呼ばれていたのだ。

今では北区岸町を通って十条方面に抜ける高架道路が出来、往時を偲ぶものは何も残っていないので書かせていただくが、行き止まりになって盛り土が始まる場所から先は、たくさんのバラックが建ち並んでいた。公有地の不法占拠だったのかもしれない。何人か級友が住んでいたので、よく遊びに行った。バラックの家並みを通り過ぎると、まず引き込み線を跨ぐ短い鉄橋があり、続いて東北線などを跨ぐ鉄橋が残っていて、私たちはよくこの鉄橋で遊んだ。鉄橋といってもレールは撤去されていたので骨組みのみ、細い鉄骨を跨いで這って進まなければならないような危険な場所だった。下を列車が通るとゆらゆら揺れるので鉄骨に必至でしがみ付いていなければならなかった。私の在学中にもたくさんの事故死者が出ていて立ち入り禁止とされ、鉄条網が張られていたのだが、私たちはその命がけの探険が楽しかった。

危ないから行ってはいけないと地元の人が言う理由の一つに、ちんちん山の向こう側にはバタ屋部落があり朝鮮人がいるから、というのがあった。都内各所にあったというバタ屋部落の一つだろう。

だが、汗だくになって長い鉄橋を渡り切った先にあったのはちんちん山バラックと同じ家並みに過ぎなかった。道に洗濯物干しの柱が立てられ、柱の先に木が腐らないように空き缶が被せてあるのも同じ、黒く錆びたリヤカーが立てかけてあるのも同じ、屋根がトタン板を継ぎ合わせてコールタールのような塗料を塗ってあるのも同じ、玄関から先、靴を脱いで上がる場所が土の上に板を敷きゴザを敷いただけの「畳の無い座敷」であるのも同じ、水道が来ていないので貰って来た水を溜めて置く甕と汲み出す柄杓があるのも同じ、痩せて眼ばかりギョロギョロさせて腹ぺこで物欲しそうな目つきをした少年達も同じ。鏡に映した自分の姿そのもの、ありふれた貧しい人々が暮らす町に過ぎなかった。

   ***

東京オリンピックをきっかけに経済至上社会に驀進して行った日本。祭り前夜を思うと浮かんで来る懐かしいあの顔この顔は、祭りの興奮の中でいつしか皆消えて行った。豊かなようでいて、かつてよりも貧しく寒々しく都会が見える今日この頃、参考とさせていただいた『新編「昭和二十年」東京地図』西井一夫・平嶋彰彦(ちくま文庫刊)より、西井一夫氏の文章を引用させていただいて、クリスマス・イブの日記を終わりたい。
わが国で 先駆となった貧民ルポの功罪について言及された部分だが、私には東京五輪お祭り騒ぎの中で行われた、「外国のお客様に恥ずかしくない」町づくりのための体の良い収容政策的厄介払い、その総括としても相応しいように思えてならない。

「…押しなべて救護を訴える方向に結論づけられていることは、この無秩序の不満の巣窟を何とか片付け解体したいという権力の思惑と何とピタリ重なりあうことだろう。そこにはビンボーの楽しさ(貧困の愉快)に対する共感と、均質化への批判が欠落しているのだ」

メリークリスマス。(つづく)

2001年 12月 22日 土曜日
「五輪祭りが残したもの……1・小学校」

12月19日、友人の早期退職送別会で埼玉県戸田市に出掛けた。
戸田という地名は懐かしい。昭和三十九年、東京オリンピックでボート競技の会場となった場所だ。
東京オリンピック前の数年間、私たち子どもはしきりにこんな言葉を聞かされた。
「1964年、日本は海外からのお客様をたくさんお迎えするので恥ずかしくないようにしなければなりません」
耳にタコができるくらい聞かされたので、小学校の教師が繰り返し吹き込んだのかもしれない。

1960年のローマオリンピックに関する記憶は全く無い。幼なかったし、我が家にテレビはまだ無かったのでニュースで見た記憶も無い。かろうじて、1963年、三波晴夫が唄った『東京五輪音頭』に「あの日ローマでエー眺めた月を」とあるので、ああ前回はローマだったのかとわかった程度である。だからオリンピックというものがどういうものなのか理解出来ず、直前まで東京でオリンピックが開かれることへの感慨も無かった。

当時の公立小学校に関して未だに奇妙に感じているものの一つに、学校でおおっぴらに“イカガワシイ”ものを販売していた事がある。学研の『科学』と『学習』という学参の衣をかぶった“おまけつき雑誌”。教師が、今日は『科学』と『学習』の発売日ですよというと、親が金を持たせてくれた子どもだけが校内に設けられた臨時販売所に買いに行くのだ。
さらに、オリンピックが近づくと記念切手や記念メダル、記念下敷きなんてものも学校で販売した。クラスに何人も給食費や学級費が払えなくて肩身の狭い思いをしている子どもがいた時代にである。そういう意味で、あれは“イカガワシイ”ものだったと今でも思う。

東京に住んでいても、実際に会場に足を運んで見られた子どもは私のクラスで5人もいなかったと思う。今日は何処其処へ何々の競技を見に行くので早退しますと誇らしげに出掛けて行く奴もどうかしてると思うが、翌日、ニヤニヤ笑いながら勿体付けた観戦自慢を皆の前で話させる教師もどうかしてると思ったものだ。
とは言うものの、実際に見たいという願望は人並みにあったらしく、「ボート競技は戸田で」と聞いた時、「海外のお客様にも恥ずかしい」あの汚い荒川沿いにできた競技場なら連れて行って貰えるかと期待したりしたが、結局それすら叶わなかった思い出の場所が「戸田」なのである。

オリンピック期間中、母は一日もガソリンスタンド勤めを休むことは無かった。(つづく)

2001年 12月 21日 金曜日
「職人の食卓」

飽食三昧の料理より、働く者たちがさっさと食事を済ませるための料理、というものに心寄せることが多い。
生まれて初めて食べた深川飯は浅蜊の炊き込みご飯で拍子抜けしたけれど、これが昔ながらの深川飯だと振る舞われた、ざく切りした根深葱と浅蜊の味噌汁ぶっかけご飯には感動したし、吉行淳之介が著書の中で紹介していた中華料理人のまかない食は、今でも私の大好物だ。忙しい漁師が船上で手早く作る質素な魚のおかずこそ、鮮魚料理の神髄のように思えてならない。

   ***

瓦工場を営んでいた祖父母の家の朝飯、昼飯は素っ気ないものだった。
祖父は厳しい人で、食事しながらぺちゃくちゃ喋るのを嫌った。一日の仕事を終え、湯を使い、ほっと一息ついて晩酌がある夕餉はいくぶん和やかなものだったが、朝六時からの朝食、十一時半頃からの昼食は、無言でひたすら食べていたような記憶がある。食卓が労働と不可分であることをたたき込まれた気がする。瓦を焼く窯に火が入っている期間(窯入れから窯出しまで)は、徹夜で火の番をするし、昼時も窯の具合を気づかう張り詰めた空気が漂っていたものだ。

昼食のおかずは、塩が結晶化している昔ながらの梅干し、自家製金山寺味噌、紫蘇のゆかり、沢庵漬け、鰹の塩辛などの常備菜で、しかも塩分の強いものが多かった。朝炊いてお櫃に入れて保温して置いたご飯に、たっぷりの緑茶をかけ、お茶漬けにしてかっ込むのだ。
窯出しなどの時は、窯の入り口近くで工業用大型扇風機を回し、気絶しそうになるほど余熱の残った窯の中に祖父、叔父、叔母が汗だくになって入って焼き上がった瓦を運び出すのであり、大量の塩分が必要だったのだろう。祖父は、窯出しの時は鰹の塩辛を食べておくと汗が目に入らないと言って好んで食べていた。

   ***

大人たちが徹夜で窯の番をする窯焚きの夜が私は大好きだった。
夜更けに目を覚まし、寝ぼけ眼で窯場まで歩いて行くと、巨大な泥窯の小窓からチョロチョロと舌のような炎が見え、側面を手で触れると不思議な「重みのある熱さ」を感じたものだ。清水は木材加工が盛んだったせいか、オート三輪がひっきりなしに製材所から出る端材や木屑などを運んで来ており、それを窯焚きの燃料にしていた。樹皮の付いた端材を「ばた」、木を挽いた粉を「ぬか」と呼んでいたのを覚えている。

徹夜の窯番では夜更けに小腹が空くらしく、叔父は質素な夜食を作っていることが多かった。サツマイモを薄く小口切りにし荒塩を擦り込み、窯の高熱になる部分に貼り付けて置くと表面が真っ白くなった薄焼き芋ができ上がる。私はそれが大好きだったのだ。
最近、文京区内で見かける複数の石焼き芋屋さんが、鉄の窯の側面に同じ方法で薄焼き芋を作っているのを見かけて驚いた。窯関係者には馴染み深い「お楽しみ」なのかもしれない。

干し藁の上に叔父と並んで腰かけて、真っ赤に焼けた鉄の窯焚き口と炎を見ながら食べる薄焼き芋は、今でも叫び出したくなるほどに懐かしい。

   ***

昔は流しの瓦職人というのがいて、ふらっと現れて「働かせてくれ」といい、しばらくの労働の後、給金を受け取って、また旅立って行ったと聞く。初対面の時には、博徒や香具師のように仁義を切るものもいたらしい。
祖父は流しの職人が訪れると必ず、「こいつに飯をやれ」と祖母に命じた。飯の食べ方で雇うか雇わないかを決めるわけで、「少ししか食べない者」、「たくさん食べるが時間のかかる者」は雇わない。「さっさと大飯を食う者」しか仕事の出来るやつはいない、というのが祖父の確信するところだったらしい。

   ***

川沿いの瓦工場も、祖父が死に、叔父が死に、祖母も遠いところへ旅立ってしまったので引き継ぐ者は無かった。市への売却も済んで、川沿いの遊水池として生まれ変わると聞き、それはそれで良かったのかもしれないなと思う。瓦焼きは過酷な仕事で、並み大抵の覚悟でできるものではない。

祖父に似ていると言われる事もある私は、遺伝なのか、幼少期の躾が身についているのか、大飯食らいで飛びきり速飯食い。職人の伝統がまた一つ失われた事への哀しみが無いと言えば嘘になるが、祖父に「こいつに飯をやれ」と言われたら採用間違い無しだし、心の中はいつも窯入れ期間中のような勤勉な男が一人、あの場所から育ったわけで、思い出の中でいつも煤だらけの顔した故人たちも、喜んでいてくれるに違いないと思うことにしている。

2001年 12月 20日 木曜日
「黄昏通信」

某経済評論家によれば「若いころの体験は、無限の宝庫。特に33歳くらいまでの体験」が多いほど良いのだそうだ。何故33歳かの根拠が見えにくいところに、妙に信憑性を感じ、自分自身を省みて、そんな気もするなぁと思える。

男になら「33歳くらいまでの苦労は買ってでもしろ」などと言えるが、女性、ことに心寄せる女性にそれを言うのは辛い。
「君の仕事環境は劣悪だと思う。それでも君はそれがしたいから続けているのか、それとも金のためか。もしも……」
言いたくても言えなかった言葉を、意を決して口にしたのは二十四歳の時のことだ。
「もしも、その分のお金を僕が稼いだら、君は妻となって本当にしたい事だけを続けてくれるか?」
それが精一杯のプロポーズの言葉であり、「その分のお金」の額を聞いたら今では笑われるに違いない若さの煌めきだったのかもしれない。
それが決め手となったわけでも無いだろうが、後に彼女は妻となり、私の欲しかったものの一つ、「ただいま」「おかえり」の会話のある家庭をプレゼントしてくれた。

男というのは会社を離れると空気が抜けたようにやるべき事を見失う者も多いようだが、女性というのはつくづく凄い人生を生きるものだと思う。家庭の人となった途端、夫のお古の上着を着て、ママさん自転車を買い込み、寒風吹きすさぶ郊外を走り回り、二人分の安い食材を求め、二人分の山ほどの洗濯物を洗い、二人分の衣更えの効率を考え、二人分の不要品を整理し、二人分の世間付き合いに心を砕いて、一日終えればくたくたになるほどの仕事をこなし、二人分の食事を用意して待っていてくれるのである。女の仕事というのは伸縮自在で、苦労を背負込むために生まれて来たのかと思えることもあり、感謝にたえない。

   ***

周囲に畑の残る東京郊外の、安アパートに移っただけの妻の過酷な労働の場で、数少ない息抜きの一つが新聞を隅から隅まで読む事だったのだろう。
ある日帰宅したら、某一部上場電機メーカーがデザイナーの中途採用広告を出しているから応募してみないかと言うのだ。悪くないなと思えたので試験を受け、数日後帰宅したら、
「人事の人から電話があって是非来て欲しいって」
と妻は言った。二十七歳の春だった。

その会社には三十歳まで勤め、その後、脱サラしてフリーランスになったのだが、その三年間に得たものは今でも私の中で息づいているし、しっかりとした手応えをいまだに失っていない。
その会社のデザイン部門は不思議な集団で、社内・社外の垣根がない。歴代OBというのがいて、仕事や私用を問わず絶えず交流し、旅行や忘年会、平素の飲み会までともにしていた。内外の刺激を共有し、かてとする気風は心地よく、やがて組織を離れても失うべきでないもの、生きる事の羅針盤となるような、個人と他者が繋がる事の大切さを教えていただいたと思う。
フリーランスになって私が歩いた道は、金にならずとも志ある人たちに添って歩く姿勢を心がける事であり、それはやがて豊かな稔りとなって今の自分の支えになっている。それは三十歳まで勤めた「一面組織らしくないが故に組織らしかった組織」が教えてくれた事だった。

   ***

その組織の牽引者であった人々も次々と定年退職で去り、今年もまた二人の友人が、定年を待たずに新しい人生に踏み出される事になった。

埼玉県戸田市、社員時代に一度しか訪れた事の無かった工場の一角、そこに移ったデザインセンターへ送別会のために赴く。駅前に降り立ち、目印となる自動車教習所に向かって歩く。空が広く、早くも傾きかけた冬の日差しが眩しい。

ほんの数歳年上の友人たちが早期定年退職して行くことは感慨深い。ここしばらく、日日抄で旅する中で「人生の黄昏」を感じ始めていたので尚更である。先輩たちからは、「四十代後半で黄昏とは何事ぞ」とおしかりを受けそうだが、私が感じる黄昏はちょっと違う。

退職する二人の友人に会った途端「おめでとう」の言葉が素直に口を突いて出た。
こうして五十代半ばの早期退職者を目の前にして、その肉体の何と若々しい事、精神の何と溌剌たる事よ、と驚かざるを得ない。
思い出してもみて欲しい。私たちが物心ついた頃、身近にいる親や親戚たち、祖父母、近所の人たちがその年代で何と年老いていた事か。七十二歳で死んだ祖父の姿は、今の七十二歳のそれではないし、それでも「良く生きられましたね大往生ですね」と言われたのだ。

寿命がどれほどであるかに関らず、私たちの黄昏時は長い。それは先達たちが見ようとしても見ることのできなかった「鮮明な黄昏時の光景」を、私たちが目にするであろうことを意味する。若々しい肉体と精神で長い黄昏時を歩ける事を楽しみたいし、それがこの時代を生きられたものたちに残された贈り物かもしれないと思えてならないのだ。

2001年 12月 19日 水曜日
「朝の気配」

朝は突然ではなく、さまざまな気配とともにやってくる。
昭和三十年代の町では、牛乳配達自転車の荷台で牛乳瓶がぶつかり合う音、そして新聞配達の少年が朝刊をグイッとしごいて新聞受けに放り込む音とともに、毎日の朝はやって来た。
今でも田舎の朝はさまざまな気配に満ちていて、山小屋を所有する友人宅などにお邪魔すると、空が白み始める頃、夥しい数の小鳥の声に包まれる事に驚く。

   ***

小学生時代、母親の負担を少しでも軽くしようということか、春、夏、冬の長期休暇中は必ず郷里の親戚に引き取られた。田んぼばかりで人家の無い川沿いに建つ祖父母の家の朝は、意外にもラジオの音で始まった。
祖父は当時まだ珍しかったトランジスタ・ラジオを大切にしていてNHKの放送を聞きながら眠り、点けっぱなしにする習慣があった。午前五時ちょっと前になるとオルゴールの音が聞こえ始め、君が代、ニュースに続いて『早起き鳥』が始まる頃、私はぼんやり目を覚ますのだった。
祖父は瓦職人で裸足で働くことが多く、足の裏は硬く角質化しており、一種ツボ指圧の効能もあったのかもしれないが、寝入るまで祖母に木の棒で足裏を掻かせるのが習慣になっていた。時折、孫の私にも「掻け」ということがあり、掻くと当時大金だった大きな五十円硬貨をくれるので、嬉々として掻いたものだ。
晩年、特別養護老人ホームに訪ねると、祖母は当時としてはかなりのインテリであった事を知って驚いた。一方、目に一丁字もない祖父だったが、祖母は七十二歳で夫が他界するまで毎夜欠かさず、今にしてみれば屈辱的とも思える夫への奉仕を欠かさなかった。そうしなければ眠れない、どうしてもラジオの声が目覚めに欲しかった祖父の気持ちを、祖母は深く理解し慈しんだのだろう。幼い頃養子に出され、実の親の愛を知らない祖父だった。

   ***

『早起き鳥』で農事放送通信員の便りが放送される頃になると、炊事場から鉈で薪を割る音が聞こえてくる。当時の本家の嫁というのは大変で、水道も瓦斯もない土間で、火を熾し、湯を沸かし、飯を炊き、菜を刻む毎朝であった。私は、台所で立ち働く女性の気配が好きで、布団から抜け出し、かまどの脇にしゃがみこんで、薪をくべたりして手伝うのが好きだった。
「寒いからまだ寝てな」と言ってくれるが、チロチロ燃えるかまどの炎を眺めているのは、その温度以上に暖かく、親元を離れて暮らす私の何よりもの慰めになっていた気がする。
「コタツを入れるから待ってなよ」と叔母は炭を熾し、掘り炬燵の支度を急いでくれたものだ。だんだん温まって行く大きな掘り炬燵の中で、足をプランプランさせながら叔母の仕事振りを眺めているのが何より好きだったし、母親以上の愛をくれた叔母だった。

   ***

都会でマンション暮らしなどしていると朝の気配は乏しい。明け方、暗いうちに騒ぎ出す六義園のカラスの鳴き声はせめてもの慰めでもあるのだが、人間の一方的な都合で「駆除」などの対象とされつつあるカラスたちが痛ましい。

郷里での一人暮らしを選んだ母は、不眠や動悸に苦しんだ頃、一匹の小犬を貰った。ロングヘアーのミニチュアダックスフントで名前は「イビ」。私が幼い頃の実家の飼犬「チビ」の名を、回らない舌で「イビ」と呼んでいたのに因んだものだという。甘やかされているせいかブクブクと肥り、かなりの癖っ毛でライオンのような風貌になってしまったが、毎朝母親を「連れて」町内を散歩し、次々に悪知恵を働かせて母の仕事を増やしているイビは、姿に相応しい獅子奮迅の働きをしているようにも見える。

「たとえ犬でも自分以外の生き物の気配を感じて目覚めるのは安らぐ」

と、母はよく私に話す。気配がある事の有り難さというものは、寂しさを知らない者には見えない小さな宝物なのかもしれない。

2001年 12月 18日 火曜日
「さようなら」

車のエンジンをかけ、サイドブレーキを外し、アクセルを軽く踏む。
同乗者が手を振り、見送る人々が遠ざかる。何処にでもある日常的な軽い別れの場面なのに、思いがけない事が起こった。小学校高学年の少年が車を追って走り出したのだ。その顔は泣いていた。

   ***

日日抄に関してK・Mさんからいただいたお便りの中からの引用。

||ここのことろ、ずっとご両親のこと考えているみたいですね。
||昨日、遠藤先生が「内言語」のことを話されていました。
||正確ではありませんが、私なりに受け止めたニュアンスは・・・。
||失語症者にとって、外に出る言葉が増えることには、おのずと限界があります。
||でも、外に出ない言葉「内言語」は、どんどん活発になり得る。
||相手の考えを受け止める・理解する・考える・整理する・論理を組み立てる
||そういう内言語活動が活発になることはとても大切で、
||それが豊かになることは素晴らしいこと。

私が急に堰を切ったように両親のことを綴り、自分の心の中で四十数年間、わだかまりとなっていたものは何かを探す旅をしていたことについてK・Mさんが下さった励ましのお便りだ。やがて、「介護」という新しい親子の世界に踏み出す日も遠くないと感じ、母のことを言葉にし、文字として綴ろうとした時、どうしても避けて通れない心のしこりが何なのかを、急に見極めて置きたいと思ったのだ。自分の心の奥にあるこだわりを正直に受け止め・理解し・考え・整理し・論理を組み立てる作業をつたないながらも日記を借りてやっていたのだと思う。

   ***

私は小学生時代よく泣いた。ことに別れの場面というのが苦手で、本を読んでも泣いたし、実際の場面でも必ず泣いた。知人たちは、母に「お宅に伺うと息子さんに泣いて追いかけられるから嫌だ」と笑いながら話していたという。玄関先から、遠ざかる客のあとを泣きながら追いかけたし、JR王子駅ホームで電車を追いかけて泣いたのも一度や二度ではない。一生の別れなどという人生の一大事でもないのに、別れときたら、追いかける相手の老若男女を問わず、手当たり次第に泣いていたような気がする。

母親は私と二人で暮らして行くと決めてから、私を溺愛した。当時はまだ「親一人子一人」「母子家庭」というものは「肩身が狭い」と言われていた時代で、近所の人々も、郷里の親戚たちも、感謝してもしきれないほどの愛で私の世話をしていただいたと思う。母子家庭で一人っ子では将来「ぐれる」確率が高い、あなたは問題児を育てているのだ、などと母と私の前で真顔で忠告する人もいた時代である。

愛というのは計量出来ない。計量出来ないのに満たされていると感じる事もあれば、欠落感に苦しむこともある。父親を失う事で得た愛の量は、両親揃っていたら注がれたはずの愛の量を凌駕するものであったかもしれない。それでも満たされないのが愛という実体の無いものの不思議さで、その欠落感を埋める第三者の存在に一時の安堵感を得、それが失われる瞬間、欠落しているものが顕わになるのが恐ろしくて、哀しくて、「さようなら」が受け入れられず人のあとを追っては泣いたのだ。

   ***

冒頭で私が運転する車を追って走った少年も、父親を失っていた。母親と兄が惜しみない愛を注いでいたように見受けられたけれど、それでも「さようなら」の瞬間に彼の心に込み上げた恐怖と哀しみが何だったのか、今なら手に取るようにわかる。
今では立派に成人し、まだ兄が大学を卒業した歳くらいまでは甘えたいと、親の脛を齧っているようだが、「心の親捨て」を無事に済ます日の来る事を祈りたい。

あの日から一度も会っていないけれど、今でも映画のように思い出される、ルームミラーに映った泣きながら追いかけてくる少年の顔は、まさしく遠い日の私自身の顔だったのだ、と今は思う。

2001年 12月 17日 月曜日
「顔文字の宇宙……その3」

12月16日の日日抄より:絵文字を付加して置く事で、不要な軋轢を多少逃れることができる場合もあり、確かに情緒性を付加する有効な手段ではあると思うのだが、それは誠実で丹念な意思伝達からの逃避である一面もあるのだ。(つづく)

子どもの頃本を読むのが何より好きだったのだが、さし絵入りの本というのが嫌いで、絵が出てくると、その都度、手で隠したりして読んでいた。文章を読んで頭の中に思い描く光景をぶち壊しにされるのが嫌だったのだ。だが、友人の中にはさし絵がいっぱい入っている本が好きという人もいて、人それぞれ好みが異なっていて面白い。

団塊世代の人々は、割合しっかり文章を頭の中で構成して話される方が多いように思う。
お世話になっている印刷会社の社長もその一人なのだが、何故か仕事の愚痴になると歳に似合わず流行の語尾上げ言葉になる。例えばこんな感じ、

「不況だって言うけど我々みたいな小さな印刷屋↑?
お客さんもパソコン↑? でもってプリンタ↑?
仕事が来ないわけ、さらに追い撃ちかけて本離れ↑?
出版点数も減る↑? 潰れないのが不思議なくらいよ」

これを絵文字てんこ盛りのメールで書いたとすると、

「不況だって言うけど我々みたいな小さな印刷屋(-!-;)y-
お客さんもパソコン (--メ) でもってプリンタ(メ_メ)
仕事が来ないわけ、さらに追い撃ちかけて本離れ(; ;)
出版点数も減る(T.T) 潰れないのが不思議なくらいよ (;-_-メ;)」

「語尾上げ言葉」と「顔文字」は奇妙に似ている。上がった語尾や、顔文字に続く「こちらに委ねられた言葉」を探さないと文脈を読み解くことができない。
語尾上げで宙に浮く会話の切れ目には顔文字が打たれているような気がしてならない。

人々が文字だけでなく、視覚言語によるコミュニケーションを指向する傾向は益々加速するのかもしれない。メールによる送・受信も私の場合 HTML を使えないメーラーを使用しているけれど、HTML を使用できるメーラーで受信してみると、商用メールなどはウェブ・ページそのものが送りつけられたような高度なものであることに驚く。

誰もがこのようなメールを書くようになり、ページ記述言語が進化し、通信が超高速化し、ユニコードになって膨大な文字キャラクターが使えるようになると、文章力より視覚言語を駆使した意思伝達の技巧こそが重視される時代になるのかもしれず、そこにはとんでもない落とし穴が待っているような気がしないでもない。流れは今も加速中である。

2001年 12月 16日日曜日
「顔文字の宇宙……その2」

12月15日の日日抄より:簡潔でありながらも情緒を付け加える手段として用いられる絵文字は伝達効率と情緒性を共存させるおもしろい手段だとは思うが、反面言葉による豊かな表現を減衰させる両刃の剣であることも知って置かなければならないと、高速な通信環境が整いつつある今こそ思う。(つづく)

インターネットを通じて様々な人々と文字の塊をやり取りをしていると、顔文字を一切使わない方も多い。文章表現のみのやり取りなので、潔く爽快な気分になる半面、双方がかなりの集中力で読解力を駆使しなければならないので、かなり疲れることも事実だ。相手が発した言葉のニュアンスがつかみきれず、相手に不快な思いをさせたためにこのような表現を投げ返して来たのではないかと思う事もあれば、こちらのニュアンスをどうやったら相手を傷つけることなく伝えることができるかと、煩悶することも多い。たとえば、

「それは違うと思うのです」

と語りかけた場合、往復するメールの数が増すと、全体の文脈からの判断が希薄になり、その一行だけが、一方的な断定と否定を込めた言葉として、刺々しく立ち現れてくる場合があるからだ。複数の書簡でのやり取りの経緯を考慮して、

「以前お話ししたように、単に私の性格の問題かもしれませんが、どうしてもそれは違うように思えてならないのです」

などという婉曲な表現を心がけたいと思っている。
「それは違うと思うのです」という発言だけが屹立してしまうと、それ以前の文脈で類推可能な「あなた個人の事情でそうお考えになるように、私にも違うと感じる事情があるわけで、相互にそれを理解したうえで…」などという大人の会話をすることができない。それによって引き起こされた喧嘩の場では、「だから、あなたはそう思い“たい”し、私はこう思い“たい”と言っているだけでしょう!」などという不毛な対話になっていることが多い。さらに、パソコン通信や掲示板などのような複数名の対話になるとスレッド(関連した話題の流れとその文脈)をよく読まずに乱入してくる人も多いので始末が悪い。この場合、

「それは違うと思うのです f^_^; 」

などと絵文字を付加して置く事で、不要な軋轢を多少逃れることができる場合もあり、確かに情緒性を付加する有効な手段ではあると思うのだが、それは誠実で丹念な意思伝達からの逃避である一面もあるのだ。さらに絵文字を「絵」として理解可能か否かにニュアンス伝達の成否はかかっているわけで、簡潔過ぎる表現が危険であることもあらかじめ考慮して置かなければならない気がする。

そして、人の誠実なコミュニケーションを阻害するという意味で最も注意しなくてはいけないのは、最後に (^^) を付加する事で、侮蔑表現を隠蔽しようというあざとい使われ方も文章交換の海では横行しているということ、いわゆる「言い逃げ」だ。

   ***

時折、顔文字を一切使わないのに表情豊かなメールをいただくことがあって驚く。
何故なんだろうなぁと何度も読み返してみて気づくのは、言葉の発し方が、常に後に続く言葉で誤解を生じさせないような伏線として緻密に計算されている事、そして話し言葉を聞いているような心地よいゆらぎを感じさせる、一見無駄な表現がちりばめられていることだ。ああ、こんな手紙が書けるようになったらいいのになぁと思いながらも、顔文字の助けを借りてメールを綴る毎日なのだが。(つづく)

 


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