電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 1月 15日 火曜日
【暗室】

親しく付き合っているつもりでも、その人の存在そのものを手掴みするような理解の仕方が互いに存在しない交友関係も多い。それはそれなりに都会的な他人との付き合い方なのだけれど、ほんの僅かな事柄でも、人と人が出逢い互いの確かな「実在」を、一瞬でも感じ合える経験を持つことは、有り難く、そして豊かな事だと思う。

「ひとり新聞」発行人、森田惠子さんからデジタル・カメラ購入の相談を受け、諸諸の事情を考慮してみて、ここはひとつ私が調達役をせねばなるまいという話になったのだが、そのやりとりのメールに次のような二行を見つけて、ハタと膝を打った。

||写真好きなんです。
||子供のころ、押入れを改造した父の暗室に入るの好きでした。

なるほど、丹念な文字に寄るコミュニケーションに取り組み、言葉を大切にして活動されている方が、どうして映像にも執着するのだろうというのが私が知りたい事の一つだったのだが、これで納得した。
「暗室」というものを知っている人だったのだ。

   ***

私たちの世代の親には「お座敷暗室」を知っている方が多い。昭和20年代というと、まだまだブローニー・フイルムという中版サイズを用いるカメラが一般的で、6×6cmの正方形や、6×4.5cmのセミ版のフイルム・サイズが良く見られた。古いアルバムを開いて見て、上記のサイズの可愛らしい写真があるとすれば、そのフイルムの密着焼きであることが多い。現在ポピュラーな35mmサイズのカメラで高性能なものは、当時まだまだ高価だったのである。

それにしても、当時の密着焼きをした写真店主の腕前には惚れ惚れする。美しい密着焼き(フイルムと印画紙を密着させて露光し、原寸大の印画を作る事)は、実際やってみるとなかなか難しいのだ。
やがて35mmサイズで高性能なカメラが手に入るようになると、お父さんたちは引伸ばし機と暗室用具を買い込んで家人が寝静まった後のお座敷、もしくは押し入れに潜り込んで、写真の引伸ばし作業に熱中したという。現代のお父さんが家庭用ビデオで撮影した映像を編集したり、デジカメ画像をパソコンからプリンタに拡大印刷したりするのと同じことだ。

   ***

「迫真の死んだ振り演技」でよく私を泣かせた叔父もお座敷暗室ファンで、それもそのはず、美しく気立ての良い叔母は、叔父が入院していた病院の写真売店売り子を見初めたのだと聞いている。

新婚所帯に私と母が訪ねると、「ごめんなさいね、押し入れに籠っちゃってるので」などと叔母が言い、私は大の大人がどうして押し入れなどに入っているのかが不思議でたまらなかった。やがて、叔父が「ごめんごめん、夢中になっちゃって」などと汗を吹きながら笑顔で出てくるのも不思議だった。
私の親戚には写真好きが多く、実家のアルバムに膨大な幼い頃の写真が残っているのはそのせいだ。それはみな父親ではなく叔父たちが写してくれたものだ。

高校に入ると同時に写真部に入りたかったのも叔父たちの影響かもしれず、初めてお座敷暗室を体験したのも高校一年の春だ。叔父から「もう暗室はやらないから」と道具一式を譲り受けたものの、我が家には適したお座敷も、空いている押し入れもなく、目をつけたのは母の経営する飲み屋の閉店後のカウンターだった。
暗室作業では「現像」「停止」「定着」という印画紙薬品処理の流れ作業があり、その後「水洗」「乾燥」という工程があるのだが、飲み屋の洗い場は絶好の環境だったのである。
道具一式の入った段ボール箱をあけて見ると、薬品類も印画紙も叔父が封印した当時のままだった。叔父夫婦が東京での暮しを引き払うため、荷物をまとめて乗り込んだトラックを、小学生の私が泣きながら追いかけた遠い日のまま、二度と開けられる事が無かったのだ。郷里に戻って、一から人生をやり直す叔父に暗室作業をするなどという時間のゆとりは無かったのだろう。

使用期限を何年も過ぎている印画紙なのに、安全光の下で見事に浮かび上がってくる白黒写真に私の心は震えた。時の経つのも忘れるというのはこういう事なんだなと思い、写真に灰色の「かぶり」が生じるのは何故なのだろうと首をかしげたら、外はすっかり明るくなっていたなどという事もあった。

   ***

家族の写真を焼くというのは不思議な気分になるもので、写真の中の世界は全て過去の出来事であり、そこに写っている人は今現在この時に「実在」しているとしても、もう二度と返らない過去というものの「非在」を写真の中に確認しているような、切ない感慨があるものなのである。写真が好きで、お座敷暗室で家族の写真を焼くようなお父さんというのは、きっと寂しがり屋か、寂しさに出逢うのが好きだったような気がしてならない。

「父の暗室に入るの好きでした」

この一言で、なんとなく親娘に通い合った情感と、映像にこだわりたいたい思いの源泉を教えていただいたような気がする。私の思い違いだとしたら一方的であっても、小さな「存在」確認の手応えなのである。

森田惠子さんのサイト「春の海 ひねもすのたり のたりかな」
『ひとり新聞』のバックナンバーもこちらで読むことができます。

※写真は叔父が写したブローニー・フイルムの写真。タライの中にいるのが私。昭和30年8月とメモがある。

2002年 1月 14日 月曜日
【はだか】…2

「内風呂」、この場合家庭の風呂だが、その歴史というものにちょっと興味がある。
身分の高い者は別にして、庶民が自宅に当たり前に風呂を持つようになったのはいつ頃からなのだろうか。

帰省時に清水市在住の建築家のTさんにお会いするのが楽しみで、暮れにお会いした際、関連質問をしてみたのだが、私もTさんも勝手に良く喋り、しかもしたたか飲むタイプなので、どんな会話をしたのかが全く思い出せない。もう一度聞いてみたいのだが、相手が会話の内容を記憶していたりすると体裁が悪いので同じ質問もし難い。

私がまだよちよち歩きだった頃、朧げに記憶している祖父母の家の風呂場は、厠(かわや)が母屋から隔離されていたように、母屋から離れて川岸に建っていた。やがて母屋の改築に伴い、土間と繋がった厨(くりや)の片隅に小部屋が設けられ風呂場となった。炊事はかまどに薪をくべていた時代なので、土間側に焚き口があり、引き戸を開けるとコンクリートに細かなタイルを埋め込んだ洗い場と湯船があった。電気洗濯機などはまだ無かったので、脱衣所兼洗面所兼洗濯場などというものも無かった。厨(くりや)の土間から、家族が集う居間に上がれるようになって居り、そこは囲炉裏こそ無いが大きな掘り炬燵のある大広間だった。家族は順番に居間の片隅に置かれた籠に脱衣し、土間を通って風呂場に入るのである。

   ***

私が通った東京の小学校では六年生になると交歓会と称して千葉県の学校と相互に宿泊体験を行なっていた。駅前に着くとリヤカーを装着した耕運機が出迎えに来ており、それぞれ同い年の交歓相手のいる家庭に案内される。私の宿泊先は大きな農家だったのだが、そのつくりが祖父母の家の構造に酷似していたのに驚いた。居間から厨(くりや)の土間に降り、引き戸を開けると小さな風呂場になっているのまでそっくりなのだが、一つ違っていたのは、湯船が五右衛門風呂であったこと。私はそんな風呂に入ったことがないので、裸になって湯殿に入ったもののどうして良いかわからず困り果てた。

その家には高校生のお姉さんが居り、母親を助けて交歓生の私の世話をしてくれたのだが、「入り方を教えましょうか〜」と外から声をかけられ、さすがに六年生ともなると裸を見られるのが恥ずかしいので「あ、わかりますっ!」などと思わず答えていた。跨ぐと火傷するのではないかと恐い、浮いている円形の簀の子をどうして良いやらわからない、と散々な五右衛門風呂初体験だった。

布団に入ったものの寝つかれなくて、水を飲みに居間に入っていったら、高校生のお姉さんが裸になって風呂場へ向かおうとするその時で、さすがにびっくりした。私があけすけな視線を向けているので、先方もびっくりしたようだが、後になって思うに、年頃の娘が家族の前で平気で裸になるという事に私は驚いていたのだと思う。

だが、考えて見ると江戸時代の銭湯は混浴だったというし、実家の瓦工場がそうであったように、昔の炭坑の写真を見たりしても若い女性が上半身裸、男は褌一丁で働く姿というのも、私が子どもの頃は見慣れたものだったかもしれない。「家族にも恥ずかしい裸」というものの歴史は意外と新しいものなのではないかという気がするのだ。まぁ、恥ずかしいことがいけないという気は全く無いのだが、物心が付いたときから銭湯という男女別の仕切りに遮られて脱衣し、裸は恥ずかしいものであると学習した者と、家族なら裸は恥ずかしくないのが当たり前の人々が混在する、最後の時期が私の少年時代だったのかなぁという気もするのだ。

2002年 1月 13日 日曜日
【はだか】…1

風が吹くと揺れる家で暮したことがある。六年間暮していて、ゆさゆさ揺れる嵐の日もあったし、度々地震もあったので、よく何事もなく生きていられたものだと思う。

六畳一間の入り口が怖い私は、ひとり窓際に布団を敷いて心臓を下にして横向きで眠る癖があった。そのせいか、左の耳が少し小さい。風雨が激しい夜は雨戸を閉めて布団にもぐり、微かな家の揺れに伴う軋みに耳をすませていたものだったが、穏やかな夜は、大家所有の中庭ともつかない奇妙な空き地を、少し開けた窓から眺めているのが好きだった。

この奇妙な空き地には、柿の木が一本植えて在り、右に大家の屋敷、左に廃材置き場、そして正面には小さなメッキ工場があった。ちょうど山田洋次監督「男はつらいよ」で渥美清演じるフーテンの寅が帰って行く柴又の団子屋「とらや」の裏手のようになっており、寅が二階の窓からタコ社長の印刷工場従業員に「よっ!貧しい労働者諸君っ!」と声をかけるように、私もメッキ工場の労働者諸君が残業している裸電球の灯った窓を眺めているのが好きだった。

で、そのメッキ工場脇に更に細い通路があり、小さな平屋へと続いて行き止まりになっていた。その家が、以前この日日抄「愛するものの捨て方」に書いた“お金を埋める老人”のいる家だったのである。その家は、奇妙な事に東京の場末の工場地帯にある家には珍しく「内風呂」のある家だった。昭和三十年代、銭湯は芋の子を洗うように混雑し、入湯料も驚くほど安かったので、それでなくとも住環境の悪い工場地帯では、「内風呂」などより、よっぽど銭湯の方が経済的だと考える人が多かったのだろう。だから一軒家暮らしであっても自宅に風呂の無い家庭が多く、クラスメイトのほとんどと、銭湯で顔を合わせることができたのだ。

「内風呂」と書いたが、実はその家の風呂は母屋から離れていたので「個人外風呂」と呼んだほうが正しいのかもしれない。玄関の真向かいに、風呂桶と猫の額ほどの流し場が収まるだけの極小の小屋があり、ガラスの引き戸が取り付けられていた。脱衣所などは無いので、家人は母屋内で裸になり、玄関から数メートル先の風呂小屋まで走るのである。

夜、窓から外を眺めていると、何故かその家の母親が裸で走る姿を目撃することが多かった。夕食の片付け物が終わり、母親がようやく仕舞い湯を使う時間帯と合致していたのかもしれない。友人の家でもあったので、昼間遊びに伺うことも多かったのだが、痩せて色白で着物の似合う物静かなお母さんだった。何故か昼間見たお母さんと同じ人とは思えず、闇夜に白い狐がひらりと行く手を横切るのを見てしまったような幻想的な気分になり、翌朝思い出しても夢の中の出来事のようだった。

奇妙で珍しい家だった、そう自分の思い出の中で決着をつけていた事柄が、今こうして言葉として綴り、更に読み返してみると、違う感慨とともに立ち現れてくるのが不思議だ。夏になると日の当たらない壁際にびっしりと茗荷が生え、西日の当たる庭先で老人が毎日のように手紙を焼き、夜には白い狐のような裸身で風呂場まで走った母親のいた暮し振りは、かつて、この工場地帯にあった原風景なのかもしれない。むしろ奇妙で珍しかったのは、薬品臭と蒸気をを庭先まで放出するメッキ工場や、風で揺れる木賃アパート群であったのかもしれない。

裸で走っていたお母さんが乳ガンで倒れたという話を聞いて以降、その家の記憶は私の中で掻き消えるように朧なのである。

2002年 1月 12日 土曜日
【日日抄断片】…1

日記とはいえ、拙いながらもある程度纏まりのあるものを書こうと思っているので、心の中で纏まりがつかない事柄は書けないという恨みもあり、気になった事のかけらを日日抄断片として掲載する事にした。

   ***

西岡恭三さんのこと

誰でも口ずさむ自分の応援歌というものを持っているのだろうか。
私には、楽しい時、悲しい時、不意に口を突いて出る歌がいくつかあり、心塞ぐ時にはいつの間にかこんな歌を口ずさんでいる。

♪ 船長募集の街角で 誰が歌うか 海行きの歌
  街行き 村行き
  もっと陽気に口笛を
  明日あたりは きっと海行き……


西岡恭三さんの「街行き村行き」という曲で、かつて「プカプカ」という歌を自作自演していたと人と言えば知っている人も多いと思う。
2002年 1月 11日 金曜日「山里の釣り、海の釣り」
この日の日日抄を書きながら口ずさんでいたのもこの曲だ。

1999年4月6日、50歳の時、ご自宅で自ら命を絶たれたのだが、その数年前に、この人しか女は信じない……と語られていたという最愛の奥様をガンで亡くされて居り、ネット上で今でもアクセスできる、奥様の荷物を片づけるに際しての手記などは、読み返して見ると胸に迫るものがある。

偶然見つけた追悼ページに書かれていた次の言葉が気になる。


「残された時間の量と想い出の量を比べてみて、想い出の量が残された時間の量を遥かに凌駕したとき、人は危険な精神状況に陥る。残された時間の中でどれだけの希望を持てるか、それが50歳前後の人間の乗り越えなければならない宿命なんだ」

   ***

焼酎のこと

血圧の下の方が高すぎるので「85」を目指せ、ついては酒は控えるように言われている。リハビリの世界で名高いO先生によると、「まぁ、酒飲みに断酒せよといっても無理なので焼酎のお湯割りでもお飲みになったら」とのことなので、お言葉に甘えて焼酎党に鞍替えしたのだが、これがなかなか面白い。もっぱら日本酒党だったので、焼酎というのは「いいちこ」と「二階堂」の差もわからないし、どうせ蒸留酒なのだから大した違いはあるまいと高を括っていたのだが、飲み慣れるにつれて、同じ麦焼酎でも実に奥深い味わいの差がある事に気づいてきた。

そうなると、住まいの一階が酒屋である事も幸いして?次々に異なる酒造メーカーの焼酎を飲み比べる事が楽しくて仕方ない。最近では「栗焼酎」や「昆布焼酎」にまで進出してしまう始末。不思議な事に、前後不覚になるほど酩酊しても翌日に残らない軽快さが心地よく、もしかするとアルコール摂取量は増加しているのかもしれない。これで、見事血圧低下に成功したらO先生に報告書でも書いて呆れられようと思っている。

2002年 1月 11日 金曜日
【山里の釣り、海の釣り】

渓流の中に裸足で立って竿を振っていて気づくのは夕暮れの速いこと。

五感のうちの視覚に黄昏が訪れると、他の感覚が鋭敏になって行くのがわかって面白い。今まで気付かなかった川のせせらぎが急に大きくなり、川底を転がる小石の音が聞こえてくるし、岸辺の薮で鳴く小鳥の声も聞こえてくる。川底の素足に、軽くぶつかっては離れて行くのが砂粒なのか、それとも魚がつついているのかなぁ、と心を足に集中して感じとろうとしたりする。それまで感じなかった川の匂いがフッとわかったり、手の甲が氷のように冷たかったり、自分の唇が乾いてささくれ立っている事に突然気づいたりもするのも夕暮れ時だった。渓流の釣りで、私が一番好きだった一瞬が、そこにあった。

   ***

そんな渓流の釣りからも、もう三十五年くらい遠ざかってしまった。

小学生時代、週末になると川釣りに誘ってくれる「おじさん」がいて、私はそれが嬉しくていつも心待ちにしていたものだった。魚を釣る事自体にはあまり興味が無く、生餌(いきえ)を使わない毛鉤(けばり)でウグイやヤマベを「釣っているフリ」をするのが好きだった。

川の中を歩いているうちに独りぼっちになり、川面に羽虫が飛び始め、やがて大好きな黄昏時が来るのだけが楽しみだった。一人である事があんなに心安らかに感じられる世界というものを他に知らない。今でも通りすがりに、自動車や列車の窓から、夕暮れ時の渓流で一人で竿を振る釣り人を見ると、なんともやる瀬なく羨ましい。

   ***

「いいなぁ、清水に行ったら山も川も海だってあるぞ、おじさんも一緒に行きたいよ…」
と、泣いた東京の「おじさん」と別れ、郷里清水市に帰った私は、しばらく岸壁での釣りに熱中した。清水港の岸壁の釣りは、山里の釣りとは好対照で、人と人と肩を並べ温もりを感じ合うようなほのぼのとした釣りだった。外国船や国内貨物船が停泊している岸壁から、地元では「てじ」と呼ばれる竿を使わない釣り方で小鯵を釣り上げるのだが、季節によっては、小振りの鯖、カマス、こはだなどが釣れ、ひいらぎはいつでも入れ食いだった。

「餌ん、悪いんじゃなーいー?」

などと話しかけて冷凍のシラスや桜えびなどの釣り餌を分けてくれる見知らぬおじさんもいて、のんびりとして人情に厚い、冬でも心がポカポカと芯から温まってくるような港の釣りだった。

   ***

もう少し働いて、のんびりできる年頃になって、仲間と釣りでもしたいなぁと思う日が来たら、きっと岸壁の釣りを選ぶと思う。あの人、この人、気の合う仲間同士、郷里の岸壁に肩を並べる光景は私にとっての黄金風景かもしれない。そして、釣りに誘う友もいなくなる前に死んでしまいたいという気もするが、運悪く独りぼっちになってしまうことでもあったら、もう一度あの懐かしい渓流の黄昏に会いに行くのかもしれない。

2002年 1月 10日 木曜日
【あなのぞき】

「塀の穴に目を押し合てて、覗き見をすると、目の周りに黒い丸が付くように成っている。
町じゅうの人がその模様をつけて歩いている。
自分のことを棚に上げて行き交う人を指差して笑い合っている。
最後に馬が振り返ると馬の目にも丸が書いてある、ってなのもあった。」

世話人をつとめるメーリングリスト「オダマメ通信」にSさんが投稿したメールの引用である。これだけで何に言及したものか解る人はなかなかのテレビ好きだろう。これは『ちびっこギャング』というアメリカ製子供向けテレビドラマの1シーンである。1960年代に放送され私も欠かさず見ていた。
壁に穴があって覗いて見るのだが、何も見えない。実はそれは悪戯なのだが、次々に覗いて見る人があとを絶たない人間の習性を笑いのめしたギャグなのだ。

穴というものは必ず覗き込みたくなるもので、道に穴があいていると覗きたい、壁の穴も覗きたい、工事現場の穴も覗きたいし、田舎道を歩いていて懐かしい野壷があれば鼻をつまんで覗きたい。穴があれば大概は覗きたいのだが、体の穴の中だけはあまり覗きたくない気もして、満員電車で間近に他人の耳の穴の奥まで見えてしまったりすると、ちょっと気味が悪い。
気味が悪い体の穴だけれど、家族の耳掃除だけは別で、幼い頃は母親に耳掃除をして貰ったし、その恩返しでもないが妻の耳掃除は私の役目になっている。膝枕して耳をコチョコチョして貰うのは何とも心地よいものだ。それでは今、私の耳掃除は誰がするかというと、情けないことにだれもやり手がない。妻は耳掻きが使えない人で、目薬の点眼も駄目。自ら耳掃除できない者に、自分の耳掃除を頼むほど危険なことはない。「大きいのが獲れたよ」と言われたら鼓膜だったり、「カタツムリが出てきたよ」と言われたら三半規管だったり、「お豆腐が出てきたよ」と言われたら脳味噌だったりする事もあり得るからだ。そんなわけで、見たくも無い体の穴の中を他人に覗いてもらうというのも一つの愛の喜びなのだが、私はこの愛にも恵まれていない。

   ***

仕事で外出して気分が鬱ぐので『DIME』というつまらない物欲増幅雑誌を買ってみた。つまらない読み物によるつまらない刺激も時として癒やしとなることもあるのだ。DIME SHOP というお取り寄せページを見ていたら、癒やし系商品ではないが『イヤスコープ』なるものが載っていた。光ファイバーを用いた内視鏡付き耳掻きだ。先端にランプのついた耳掻きなどを見る度に、いっそのこと内視鏡式にすればよいのに、などと冗談で思ったことはあるのだが、たかが耳掻きがとてつもない大きさと価格になりそうなので、実際に出てくるなどとは想像だにしなかったものだ。耳掻き部分はほどほどにコンパクトだし、目に当てるファインダー部分も妥当な大きさ。それで価格が8800円だという。先端に付いた白色ダイオードで照らしながら、非球面レンズで耳の内部を3.5倍に拡大し、目に押しあてたファインダーで確認しながら耳掃除が出来るというのだ。

しかし、自分の耳の中を覗いてどんな気がするのだろう。見たくも無い体の穴の中を覗いてくれている自分に自己愛を感じるのだろうか。広告写真の女性は、耳掻きを耳に差し込み、ファインダーを左目に押しあてて、大口を開けて笑っているのだが、見ようによっては耳の奥の醜悪さに呆れている、若しくは鼓膜を突き破った瞬間を目撃して絶叫しているようにも見える。はたして、この商品は売れるのだろうか。

それでも「覗ける」と言われると覗きたくなるのが人情で、店頭サンプルでもあれば手に取ってみたい気もする。いっそ、銀座の歩行者天国にテーブルを置いて商品を10台ほど並べ、自由に手にとって覗いてもらえるようにしたらどうだろう。どれ位の人が「自分の穴覗き」に興味があるか調べやすいように、覗いた人の目の回りに墨で丸い輪が付くようにしておくと良いだろう。

町じゅうの人がその模様をつけて歩いている。
自分のことを棚に上げて行き交う人を指差して笑い合っている。
皇居から騎馬警官に先導された皇族の馬車が出てくると、馬の目にも丸が書いてある。

う〜ん、こんなコマーシャルはどうだろうか。

※写真は小学生時代の私と穴覗きした犬。群馬県大穴スキー場にて。

2002年 1月 9日 水曜日
【かくれんぼ】

電信柱の影から笑顔がのぞく。涙でぼやけて良く見えないけれど、寂しさと安堵感が入り交じって、卑屈に歪んで見える夕焼け空に、雲がいくつか間抜けに浮かんでいる。このイメージは私にとって、何歳になっても忘れられないもののひとつで、今でも夜中の悪夢に出てくる。

   ***

「お前は橋の下に捨てられていた子どもで、可哀想なので拾って育てた」
幼い頃、親にそう言われた体験を持つ人は驚くほど多いらしい。幼い頃、初めてそう聞かされた時は、私ひとりの個人的境遇だと思った。やがて、いとこたちと交わるうちに、親戚中の子どもが皆そう言われた事があると聞いて安心し、学校に上がって友人ができると、いくつかの家庭でも、そんな事を言う親がいるのに驚いた。そしてインターネットで検索すると、なんと日本中に「偽りの捨て子」がいるらしい事に驚く。そういう子育てをする国なのだろう。

大人になってから友人と飲んだりすると、「オレは山に捨てられていたらしい」とか「うちは竹林だった」などという話しも聞いた。川に架かる橋の下が冥界への扉だから、と説明する人もいるが、「捨て子奇譚」の捏造場所に選ばれるのが「橋の下」とは限らないらしい。

   ***

「お前は捨て子だった」と言われて、本気で悲しんだり苦悶した経験のある友人は身近にいないが、子ども時代の私にはかなりこたえたし、従姉は一時的な情緒不安定に苦しんだこともあるようだ。

「お前は橋の下に捨てられていた」としばしば口にしたのは祖父だった。祖父は自分の子どもたちにもそう言って育てたらしく、叔父や伯母たちも同じことを、いとこたちに言っていたようだ。

私は、どうやらその話は作り話だとわかってからも、そういう話をニヤニヤして話す大人が気味悪く、「そういうことを言う人は低能だ!」と伯母を罵倒してひどく叱られたことがある。今から四十年も前の話なのに、その事に関する憤りにいささかも変わりが無いほど、それは私には辛かった。

「私はもうすぐ死ぬからお前は孤児(みなしご)になる」
これも、母親が三十代になった頃からの口癖だった。泣いて「そんな事、言わないでよ」と懇願したものだった。

死の恐怖を弄ぶのも大人たちの悪い習慣として有ったようで、二人きりの時、「死んだ真似」の上手い叔父には泣かされた。突然痙攣し白目を剥き出して倒れ、ピクリとも動かない。私は最初は怖くて、二度目以降はそんな悪ふざけをする大人が気味悪くて泣き出し、それがまた大人には滑稽で面白かったらしい。決して悪気は無いのだが、それほどに密着した子どもとの遊び方が好きだったのだ。皆、どこか心寂しい満たされないものを持っていたようで、振り返れば私に酷似している事に気づいて唖然とする。私にも、子どもを泣かせはしないが、幼い子を狂ったように喜ばせる「一体化し過ぎた遊び方」をさせてしまう癖がある。

   ***

母親が自分の寂しさを埋め合わせるために、子どもがいつまでも自分にしがみついているよう、子どもの不安を煽る行動はよく見られるようで、そのような育てられ方をした子どもは母親との「分離不安」を青年期に抱き、他者に対する自分の「見捨てられ感」に苦しむ性格を帯びると聞く。境界性人格障害というやつだ。

最近、祖母が九十歳から書き始めた日記を見付け、今手許にあるのだが、祖父もまた親の愛に薄い人で「分離不安」に苦しむ人だったようだ。その祖父をもっと助けてやれなかった事に、今さらながら苦悶する九十過ぎの祖母の日記には愕然とするし、読んでいると涙が止まらない。

   ***

母は突然「さよなら」と言って駆け出し、路地を曲がったところで電柱のかげに隠れ、泣きながら追いかける私を驚かせて嬉しそうにしていた。その後は、満足そうに手を繋いで歩くのだが、私はどうしてこんなに寂しい思いをさせるのかと口惜しくて泣きじゃくっていた。母こそ、人一倍寂しがり屋で、愛する子どもとの「分離不安」に苦しむ人だったのだろう。

電信柱の影から笑顔がのぞく。涙でぼやけて良く見えないけれど、寂しさと安堵感が入り交じって、卑屈に歪んで見える夕焼け空に、雲がいくつか間抜けに浮かんでいる。

2002年 1月 7日 月曜日
【肌ざわり】

忘れられない思い出というのが過剰な程ある私だけれど、忘れられない肌ざわりとしての記憶というと、それほど多くはない。

子どもがいたりすると、赤ん坊だった頃のわが子の肌ざわりというものが、忘れられない思い出の筆頭に来るのではないだろうか。母親の弟たちの子ども、私にとってはいとこになるわけだが、赤ん坊の頃子守りをさせられたり、風呂に入れる役をさせられたりすると、そのプヨプヨした肌ざわりが忘れられず、もう既に結婚して大きな子どものいる従妹ですら、顔を合わせるとかつてのプヨプヨ感を思い出したりして正視できないことがある。

   ***

母親の肌ざわりの記憶としては鮮烈なものが皆無なのにくらべて、縁が薄く顔もろくに覚えていない父親の肌ざわりは鮮烈で、今でも生々しく思い出されるのが不思議だ。小学校二年生くらいから家に寄り付かなくなった父親だが、時々思い出したように母の留守を見はからって現れ、いっとき私と話したり探し物をしては帰って行くことがあった。その後は大概お金や家財道具が無くなっていたので、私に会うのが目的だけでは無かったのかもしれない。

父は小柄で色黒、そして見事に筋肉質の身体をしていた。漠然と思い出す父の容貌が元横綱千代の富士に似ているような気がするので、「オヤジは千代の富士に似ていなかった?」と母に聞いてみると、「確かに似ていた」と言う。母は熱烈な千代の富士ファンだったので、父は少なくとも容姿に関しては母の好みのタイプだったのかもしれない。

その父がやってくると、まず私に腕に力瘤を作ってみせろという。気乗りがしなくてベソをかきながら作ってみせると、「母親が甘やかすからこんなモヤシみたいな身体になるんだ」とつぶやき「お父さんのを触ってみろ」と必ずシャツの袖をたくし上げて、色黒で血管の浮いた力瘤を作ってみせるのだった。

私は自分がいつか大人になるということが嫌で嫌でたまらず、体中に毛が生えて、野太い声になった姿を想像するだけで、死んでしまいたいと思うことが多かった。大人の力瘤などに触るのは嫌で嫌でたまらないのに、「お父さんのを触ってみろ、どうだ?」と必ず聞くので、俯いて「固い」とポツリと答えると、父は必ず私を抱きしめて「お前もこうなれ」と不精髭の生えた顎を私の顔に押しつけてゴリゴリと頬ずりするのが常だった。

   ***

中学を卒業するまで、男らしい大人になるなど思うだにおぞましかった私は、クラブ活動も体育会系が嫌いで、好きな歴史の穴掘りができる社会化クラブで三年間を通した。自慢にもならないが、通知表の体育の項目はいつも「2」か「3」だった。

勉強などしなくたって好きな学校に入れる自信があったのに、目当ての県立高校受験に失敗し、滑り止めで受かっていた私立高校に進学した私を待っていたのは、暗澹たる体育会系の世界だった。スポーツに熱心なのは私立高校の習いだろうが、その高校はとりわけ熱心で、スポーツなどに興味の無い私のような生徒にまで体育会系クラブ員鍛錬のためか、山盛りの厳しい授業が用意されていた。

県立高校なら二年間でお終いの柔道は実戦形式の三年目があったし、体育の授業は毎時間過酷な柔軟体操と砂浜の持久走ばかりだった。そんな日課をこなしているうちに私の身体は見事な筋肉質になり、思いがけないことに柔道と持久走が大好きになっていた。今でもテレビ中継などで観戦すると胸が躍るし、あの高校時代が無かったら今こうして健康な生活はできていなかったのかもしれない。

「お前もこうなれ」と導いてくれたのは、意にそぐわなかった「学校」であり、一種、私にとって父親がわりだったのかもしれないなぁと、不精髭の頬ずりとともに、その肌ざわりを懐かしく思い出す。

2002年 1月 6日 日曜日
【夫婦善哉】

夫婦善哉(めおとぜんざい)というと、織田作之助の小説でもなく、法善寺横丁で夫婦仲良く食べられる一人前が二杯のぜんざいでもなく、蝶々・雄二の『夫婦善哉』という喋くり番組を思い出す。

蝶々・雄二の『夫婦善哉』は昭和三十(1955)年、ラジオ番組として放送開始され、人気番組となり三十八(1963)年にテレビ番組化された。母親はこの手の番組が大好きだったので、私も良く見ていた。唄子・啓助の『おもろい夫婦』(昭和四十四(1969)年放送開始)も欠かさず見ていた。

関西の夫婦漫才師が必ず離婚するわけではないのに、男女の漫才コンビというと「離婚」のイメージがつきまとうのは、蝶々・雄二、唄子・啓助の、離婚した後もコンビを続ける姿が、私には重過ぎたのだろう。ことに番組中で発表された蝶々・雄二離婚(1958年)の衝撃は大きかったらしく、母が「この二人、離婚しちゃったんだよねぇ…」と、その後も度々溜め息をつくように口にしていたのを記憶している。身長150センチ足らずの身体で幼年期から片方の腎臓が機能せず、透析を受けながら舞台をつとめるミヤコ蝶々に、母は片肺である自分の人生を重ね合わせて声援を送っていたのかもしれない。

亡くなる直前「だれも参ってくれる人がおらんから私の骨は墓に埋めへん」が口癖だったという寂しがり屋の蝶々さんの晩年は胸に迫るものがあり、離婚した夫婦漫才師が離婚ネタで笑いを取っていた姿は、私にはどうしても痛ましく思い出される。

蝶々・雄二、唄子・啓助に続く離婚夫婦漫才師に、正司敏江・玲児というコンビがいてなかなか“おもろいコンビ”なのだが、離婚前からの芸風とはいえ、小柄な敏江をどつき倒す玲児の姿に、「ちょっと、かなわんなぁ…」と思うこともしばしばであった。

香川県小豆島で、病弱な父親に代わって炭坑で働きながら洗濯屋をし敏江を育て上げたという母親の事、芸人となった後も月収はすべて母親に渡して小遣いを貰っていたという敏江の事を知ってからは、見るに堪えない感もあった。

先日、何気なく民放のチャンネルにあわせたら敏江・玲児が出ていて相変わらずの離婚ネタをやっていたのだが、どつき無しでペーソスの域に達するような話芸を披露していて、なんだか安心した。咄嗟の聞き取りで細部が不確かだがこんな感じ。

敏江●「毎朝お前の、水かえて、菜っ葉やって、糞捨てて、一所懸命世話したのに女こさえて逃げやがって」
玲児●「わしゃ文鳥かっ!」

なるべく言葉のどつき合いに絞って、末長く健康で仲良く、芸を磨いていただきたいものである。

2002年 1月 5日 土曜日
【豚と残飯】

昨年の狂牛病騒ぎがきっかけになったのか、私の周りでは肉離れする人が増えてきた。牛肉に限らず、憑き物が落ちたように「肉はもういいや」などと言う。

私は今年が四度目の年男で、周囲にはその前後の年頃の人が多い。「肉はもういいや」と言うのも散々肉食をしてきた世代だから言える事かも知れない。人間という動物は、食べられる肉なら手当たり次第食べてしまうわけで、ある意味で食物連鎖の頂点に立っているのだが、その頂点への立ち方が最近は尋常でなかった。畜産農家には気の毒だが、狂牛病騒ぎには人類の愚行への天誅とも思えるものを感じ、それは昨秋世界を震撼させた某事件にも似ている。起こるべくして起こった事態だと感じる感性を持たない方がおかしい。

行きつけの居酒屋で、肉食への逆風が吹く中、果敢にも近所に新規開店した牛丼チェーンの話になった。それでもそこそこの客が入っているのを不思議がったら、この不況の中、生活費を節約しようと思ったら、昼食代を削るしかなく、仕方なしに格安の牛丼屋に行くのだという。

なんという世の中になってしまったのだろう。ついこの前まで、牛肉はとても高価で、来客から思いがけず竹の皮に包んだ牛肉をいただいたりすると、今夜はすき焼きだということになって、家族全員飛び上がらんばかりに驚喜したものだった。大きくなったらお金持ちになって毎日でも牛肉を食べたいと夢見た子どもも多かったに違いない。それがなんと金がないから昼飯は牛丼ですますという人も今ではいるのだ。貧乏人でも食べられる牛肉を供給するために人が牛にしてきたことをマスコミ報道で改めて概観し、肉離れを起こさないほうが不思議だとも思える。

人間には、肉食にも魚食にも嫌気がさしたら菜食に転向できる雑食動物の特権があるし、菜食といえども、そもそも他の生命を食することに嫌気がさすという過剰な思想に目覚めれば、木の皮だけを食べて即身仏になる自由すらある。だが食生活の転向が許されない動物にとって、人間が獣肉の飽食を続ける都市は、自然の恵みを奪われた飢餓の砂漠である。

朝日新聞2002年1月5日朝刊を読んでいたら、皇居内でオオタカが繁殖中だという。皇居内なら巣から雛を持ち去るような馬鹿者も手が出せないわけで、住環境としては理にかなっているのだが、食糧としているのがなんと、都市のゴミを食べて増え過ぎ(一部の人間が)困っているというハシブトカラスなのだそうだ。かつて、上野の山に寝泊まりする外国人労働者が鳩を捕まえて食べているというまことしやかな噂が流れ、ぜひ我が町にも来て増え過ぎた鳩を食べてもらいたいなどというお笑いネタがあった。ここは一つ、オオタカを都内に大量繁殖させてカラスを大々的に駆除して貰おうなどという笑えないギャグも生まれるかもしれない。

私が中学生頃までの人々は家庭の残飯を捨てるにも随分と気を使っていた。そもそも残飯を出さないように心がけることはもとより、腐敗して悪臭を放つ前にゴミ出しすることを励行していたし、食物残飯に煙草の吸い殻などの異物を混ぜることも自ら戒めていた。その当時はまだ、養豚用の飼料として家庭の残飯を集めに来る人々がいたのだ。「豚さんが食べてまた帰ってくるから」と話す祖母は残飯も大切にし、米のとぎ汁は捨てずに畑に撒き、牛乳瓶を洗った水は植木にかけていた。

都会の、目を覆いたくなるような生ゴミの山を啄ばむハシブトカラスの健康は損なわれていないのかしら、ハシブトカラスを食することに生存への活路を開いたオオタカに異変は起きていないのかしら。そんな心配が、食物連鎖の頂点に立つ者を襲った惨状を見るにつけ案じられてならない。

2002年 1月 4日 金曜日
【富士山】

保育園時代の数少ない思い出のひとつに「富士山の絵事件」がある。

幼い頃から図画工作が得意で、誉められることが多かった。目黒区大橋にある保育園に通っていたのだが、園児全員で一つの絵を描かされたことがあり、画竜点睛というか散漫な絵のまとめ役というか、
「最後にまぁちゃん(私のこと)に富士山を描いて貰おう」
という大役が回ってきたことがある。思い切り気合いを込めて見事な富士山を描いたのだが、描き終えた途端、あろう事か、その富士山が「ヘン」だとクレームが付いたのだ。
「富士山はこうだよ」
と、私は主張したのだが皆は「ヘン」だと言い、保母さんまで音頭をとって
「ヘンな富士山だよねぇ」
などという。その時の悔しさが未だに忘れられず、以前日日抄にも書いたような気もするのに、それでもまた書き始めてしまうほど、私の中でこの一件は思い出深い。

写真左はは東名高速道路富士川サービスエリアから見た富士山。この右肩に宝永山のある富士山が郷里静岡県清水市から見える富士山であり、この富士山をリアルに描いたことが「ヘン」だとやり玉に上がったのだ。一方、写真右は同日、東名高速道路鮎沢パーキングエリアから見た富士山で宝永山が左肩に移っている。

富士山ほど四方から眺望のきく山も珍しいのではないだろうか。宝永山を左右の肩にのせた富士山もあれば、宝永山の見えないシンメトリーな富士山もあるわけで、東京都心から見る富士山は後者のタイプ。昭和三十年代初頭、まだ大気汚染も今ほど深刻ではなく、ビルが乱立しているわけでもなかったので、都内各所に富士山の見える場所がたくさんあった。見慣れた富士山こそ正しい富士山であると思いたい心根は私も他人も共通であり、保育園児の私はそうでなかったにせよ、多少の分別が付けば、致し方ない軋轢であると理解できる。それでも未だに根に持っている事の根底には、保母の「ヘンな富士山だよねぇ」と皆に同意を求め、皆が「ヘンだ、ヘンだ」と囃し立てた事への悔しさがあるようだ。

それが原因と言ったら穿ちすぎかも知れないが、私は子どもの頃から多数決というのが好きではない。「多くの者がが正しいと言ったら正しい」という考え方に反発を覚える癖があり、母親が未だに持っている小学校の通知表家庭通信欄には六年間通じて、先生手書きの文字で「落ち着きがない」という指摘と共に「協調性がない」と書かれていて笑える。デザインなどという稼業を生業とする者にとって得難い特質を三つ子の魂として植えつけてくれたのが富士山だったのかも知れないわけで、見る場所によって次々に様相を変える富士山は、故郷の山の中でもとりわけ私には有り難い。新春に合掌。

2002年 1月 3日 木曜日
【箱根山】

自動車がエンジンのオーバーヒートで動かなくなるというのは情けないものだ。

冷却ファンは回っているし、冷却液もたっぷりあるのに、温度計が振り切れるほどのオーバーヒートに苦しみながら、岩手から東京までなんとか辿り着いた夏がある。順調に走っているうちは良いが、高速道路の渋滞に巻き込まれると水温が上がり、ラジエーターが水蒸気を吹き上げ、エンジン室が蒸籠(せいろ)化して饅頭ふかし器になってしまうので、仕方なしに深夜の一般道を走り、コンビニエンスストアでペットボトル入りの水を補給して冷却しながらの旅だった。一生に一度乗ってみたかった英国車ミニ・クーパーでの話だが、私が左前輪のタイヤボックス内にあるサブ・ファンの存在を知らなかったが故の苦労だった。メカに無知で乗りこなせる車ではなかったのである。

正月三箇日の楽しみのひとつに、テレビでの「東京箱根間往復大学駅伝競走」観戦がある。今年も第二区での法政大学棄権、古豪復活を感じさせる早稲田の走者森村が妻の母校、富山中部高校だったりして、我が家の女どもは興奮することしきりだった。私はと言えば毎度のことながら、最後の五区、国道1号線最高点(874メートル)を含むコースを一気に駈け登るシーンになると幼い頃訪れた箱根山の光景を思い出していた。それほど箱根山は馴染み深い。

昭和三十年代、東京からの一泊温泉旅行というと、鬼怒川、伊香保、湯河原、熱海などと並んでポピュラーだった温泉地が箱根だったのだが、箱根登山道を観光バスで登っていくと、カーブの各所にオーバーヒートした軽自動車が、ボンネットを開けて立ち往生していたものだった。「1000ドルカー」を謳い文句にしたトヨタ・パブリカが登場する以前、軽自動車なら自分もオーナーになれる、という人が続出した時代である。軽自動車がオーバーヒートで山登りにギブアップしても、文句を言う人も少なかったのかも知れない。

1962年というから、私が八歳の年、『箱根山』という映画を見に行った記憶がある。映画館が王子東宝だったのか清水東宝だったのかは定かではないが、封切り館に見に行ったのである。もしかすると正月映画だったのかもしれない。獅子文六原作の小説を映画化したもので加山雄三と星由里子が共演していた。今では伝説的監督として熱烈なファンの多い川島雄三監督作品である。かつて「箱根戦争」と呼ばれた西武と東急の主導権争いをテーマにしたもので、観光バスが箱根登山道でカーチェイスを繰り広げるシーンが忘れられない。それと、子どもながらにタイトルバックがお洒落だなぁと思ったのも印象深い。老舗旅館の娘星由里子とライバル老舗旅館従業員加山雄三のやりとりでは、加山が
「箱根の山は喧嘩の喧」
と、歌い、星が
「箱根の山は天下の険でしょ!」
と、訂正し、加山が
「喧嘩の喧だ!」
と、言い返すやりとりがいかにも初々しい若者のの恋愛シーンのようで頬が熱くなったものだ。
鳥居忱作詞・滝廉太郎作曲『箱根八里』の歌詞、譜面とMP3ファイルダウンロードはこちら


高速道路を疾走し、山岳道路を駈け登る現在の軽自動車を見て、その技術の向上に驚く、などということは実は無かったりする私なのだが、オーバーヒートすることもなく芦ノ湖畔まで一気に駆け登る人間の脚力には今さらながら驚きを禁じ得ない。毎年一月三日は母親と愛犬を郷里清水市に送り届けるのが恒例になっているので、箱根駅伝復路とすれ違いになるわけだが、もうすこしのんびりした時代になったら駅伝応援も兼ねて、『箱根八里』でも歌いながら歩いての箱根越えも体験したいなぁ、と思う今日この頃である。

2002年 1月 2日 水曜日
【犬と語る】

「おい、おふくろのこと、どう思う?」

兄弟姉妹でもいれば、自分と親がどのような抜き差しならぬ関係にあるかを探る見本になりそうな気もするのだが、一人っ子ではそれも叶わないので、母が育てたもう一人の子ども、愛犬「イビ」に聞いてみる。

「イビ」はロングヘアーのミニチュア・ダックスフント。1995年1月16日月曜日、阪神淡路大震災の前日に生まれている。今年の誕生日が来れば満七歳なので、人間の年齢に換算すれば四十代半ばの人生を歩み出すことになる。そろそろ、自分の育て親を客観的に見られるようになり、話し相手にもなるかなぁ、という年頃だ。

私に子どもがいて孫の顔でも見ていれば母親の人生も、もう少し違ったものになっていたのかもしれない。まるで初孫でも授かったかのように、母はこの小型犬を溺愛し、人間の子どものように育児道具を揃え、蝶よ花よと育てた結果、無駄吠えし咬み癖のある問題犬を作り上げた。母に言わせれば、幼い頃私にかけてやれなかった分、この子に手をかけてやったのだそうだが。

飼い主である母親まで咬んで怪我をさせるに及び、郷里清水市でお世話になっていた女性獣医のアドバイスもあって、定評のある警察権訓練士資格を持つ方の施設に数ヶ月の訓練をお願いしたのが1996年早春のことである。子どもを奪われたかように不安がる母親を励ますために、私たち夫婦は郷里に帰省し週末の面会日に母を伴ってイビに会いに行ったものだ。面会時に許される川沿いの散歩が母の唯一の楽しみで、タンポポが咲き始めた土手まで来ると泣きながら櫛で毛を梳かしてやっていた姿を懐かしく思い出す。

座敷で犬とコタツで過ごすなどというのがもってのほかと私には思えたので、実家の一階をすべてフローリングにし、テーブルでの暮しをさせるよう、この期間に手配した。改装が終わり、まもなく卒業が近くなったイビは、訓練士さんに従って「フィッツ」して歩き、「座れ」「伏せ」「待て」「来い」などの動作を引き綱無しでこなし、母親を驚嘆させてみせた。

母親の卒業式も近かった。
イビが我が家にやってくる数年前から、母は私の祖母である実の母親の介護に奔走し、自宅、病院、老人ホームを飛び回る毎日だった。「どうしても祖母の介護は私が」という思いだけが空回りし、女一人で背負うには重過ぎるものと格闘していた。唯一の息抜きがイビの溺愛だったのかもしれない。イビとの面会があるおかげで、私たち孫夫婦も頻繁に帰省し、特別養護老人ホームに毎回祖母を訪ねることができたのも、考えてみればイビのおかげかもしれない。イビの卒業を目前にした1996年5月21日、祖母は息を引き取った。享年九十六歳、波乱の人生だったように思う。

見違えるほどとは言わないまでも、行儀良くなったイビは、加齢とともにすっかり落ち着きも出てきて、母の遊び相手としては多少素っ気なく思われることも最近では多いようだ。それもそのはずで、下顎あたりの毛は白髪混じりで中年男の風貌なのだ。こいつに私と似ているところがあるのかなぁ、と考えるに、ひどく「群れ」にこだわり、家族でも来客でも群れを離れようとすると吠えて追いかけて寂しがる点はそっくりだ。頻りに鼻先を人の掌の下に押し込み、頭を撫でてくれとスキンシップを求める寂しがり屋である点も、私に酷似しているかもしれない。女親との二人暮しが情操に及ぼす影響は大きく、人・犬を問わないのかもしれない。

帰ろうとする客の踵あたりを軽く咬んで引き止めようとし、母は「叱って」と私に言うが、この行為を興味深く思う私には叱ることができない。踵に軽く歯を当てて足止めし、すかさず行く手を遮って吠えて威嚇する姿は、優れた牧羊犬としての資質を感じさせるのだ。
「お前を大きくして家畜の囲い込みをさせたら上手いだろうなぁ、牧羊犬に生まれていたら優秀だったかもしれないぞ」
などと煽てた後で、
「ところで、おふくろのこと、どう思う?」
と、聞いてみる。

祖母が亡くなった特養ホーム園長さんと母の親交は今も続いている。
写真は2001年12月30日、かつて祖母とイビが対面した特養ホーム前の駐車場。後ろの建物が特別養護老人ホーム「柏尾(かしお)の里」。とうとう祖母を乗せることはなかった私の車の運転席で、首に母の手づくり藍染めバンダナを巻き、窓に手をかけ鼻を鳴らすイビ。右頬に、イビが愛する母親の歩いてくる姿が見える。それがイビの答えかもしれない。

2002年 1月 1日 火曜日
【人生訓の重み】

元旦にお父上がが家族一同を前にして人生訓をたれるという習慣のある友人がいた。

中学生時代以降の友人の父君だと思うのだが、誰だったか思い出せない。小学校低学年以降、父親という物が常駐する家庭を知らないので、退屈な人生訓話を新年早々、家族に無理やり聞かせるような「パワフルな父親像」というものに興味が尽きない。「ひとーーーつ、人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」などと読み上げて、家族全員に唱和させたりするのだろうか。毎年ではいささか飽き飽きしそうな気もするのだが、その「飽き飽き」を何十年も続けていたりすると、知らぬ間に習慣として身体に染み付いて、いつの日か思い出の父親像として懐かしく感じられるようになり、友人もまた息子や孫を前に新年の人生訓をたれる「パワフルな父親」になるのだろうか。それはそれで好もしくもある。

   ***

私の母親は息子に改まって人生訓をたれるようなパワフルな人物ではないが、その手の人生訓の「額縁入り」が大好きである。人生の応援歌だと言って『信濃の国』の歌詞を綴った額縁を自分の店の壁に掲げていたこともある。長野県になど住んだこともないのに、どこが人生の応援歌なのか未だにわからない。

『信濃の国』 作詞 浅井 洌 作曲 北村 季晴

信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山は いや高く  流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺  四つの平は肥沃の地
海こそなけれ 物さわに  万ず足わぬ事ぞなき

四方に聳ゆる山々は  御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間は殊に活火山  いずれも国の鎮めなり
流れ淀まず ゆく水は  北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川 これまた国の固かためなり

木曽の谷には真木茂り  諏訪の湖には 魚多し
民のかせぎも豊かにて  五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて  蚕飼いの業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ  国の命を繋ぐなり

尋ねまほしき園原や  旅のやどりの寝覚めの床
木曽の棧 かけし世も  心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯  月の名に立つ姨捨山
しるき名所と風雅士が  詩歌に詠てぞ伝えたる

旭将軍義仲も  仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も  象山佐久間先生も
皆此国の人にして  文武の誉 たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ  川と流れて名は尽ず

吾妻はやとし 日本武  嘆き給いし 碓氷山
穿隧道二十六  夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる国は偉人のある習い

   ***

また、今から四十数年前、近所の産婆さんが私を取り上げた実家の部屋には、何故か慶長八年一月十五日、家康が残したという遺訓の額が掲げられている。

 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
 堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、まくること知らざれば害その身にいたる。
 おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。
 

自分への戒めなのか、息子への叱咤激励のつもりなのか良く解らないが、私はこういう人生訓は心の中に掲げて置くべきもので、額装したものをこれ見よがしに飾るというセンスが良く解らない。母親の荷物を片づける日が来たらまず最初に撤去してやろうと思っているのだが、そんな私の企みを家康公はお気に召さないらしく、額縁ごと私の頭上に落下することが多い。

女の大工仕事で鴨居に引っかけただけなので、身長180cm近い私がイライラしたりして乱暴に襖を開け閉てして通過するとその振動で落下するのである。家康公に恨みがあるわけではないが、いずれ処分してやろうという思惑のある額縁なので、しっかり取り付けてやろうという気にならない。だが、そのうち落下した拍子に頭蓋骨陥没などで私の命を奪い、お笑い三面記事のネタになりそうな気もして悩ましい。
「人生訓の重み、頭蓋骨を直撃。効き過ぎた拳骨、脳挫傷で男性死亡」

同じ家康の拳骨に打たれて落命するなら、

天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし 
                    元和二(1616)年

の方が余程ましなような気もするのだが、そちらの天誅は海の向こうの某国大統領にお譲りしたい気もする。

 


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