電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 1月 31日 木曜日
【瞳の誘惑】

人の目を見つめて会話をするというのが苦手だ。

「人の目を見ないで話すような奴は信用するな」などとおっしゃる紳士がいるが、その程度のことで人品を推し量るような方とのお付き合いは御免こうむりたい性格なので不自由はしていない。人の目を見つめて話すのに勇気がいることは確かだが、それがよんどころない事情で辛い人もいるのだ。

   ***

高校に入学して、大学受験雑誌をめくっていたら、ペン・フレンド紹介のコーナーが目に止まった。女性の瞳を見つめて話すなど、口から心臓が飛び出しそうなくらい苦手な私にも、文通ならできそうだったので葉書を書いてみた。
面白いシステムで、もちろん「男女」の文通カップルを作ってくれるわけだが、相手として希望する都道府県を指定できる。今思うと、同県の相手でも希望できたのかなぁと興味がわくが、ともかく私は瞳を見つめて話すよりちょっと距離をおいた感じのする、近県在住の友達が欲しかったので、神奈川県・山梨県あたりに丸を付けて投函した気がする。

「はじめまして!」と、山梨県中巨摩郡の消印がある封書が届くのに、さして時間はかからなかった。
結局、彼女とはその後六年間くらい手紙の交換をさせていただいた。文通というのは誰の場合も多分そんなものだと思うのだが、ほどなく写真を交換しませんか? という話になり、誕生日には手編みのマフラーが届くようになったりする。そんな誕生日のプレゼントのひとつに、みつはしちかこ著『チッチとサリー』というシリーズ化された本があった。可愛いイラストに詩が添えられたもので、その内の何冊かに「こんなカップルになれたらいいな…」と手紙を添えて、高三の秋に送られて来たのだ。

チッチというのはとびきり背の低い女の子、サリーは痩せて涼やかな目をした背の高い少年で、どう考えても私はサリーのタイプでは無いのだが、チッチは可愛らしく、どちらかといえば彼女に似ているように思えた。
女性の全てがそう思うかどうかは知らないが、『チッチとサリー』を読んでみると、“あなたの瞳の中に私が映っている”というイメージが繰り返し出て来たようで、これはたまらんなぁと思った。女性に瞳を見つめられていることに気づいたら、卒倒してしまうに違いない私には、とてもじゃないけど見つめ返すことなんてできっこない、どうしてもサリーにはなれっこないと思えたのだ。女性はそうして男性と見つめ合うことに憧れるものなのだろうか。

   ***

BS-ハイビジョン 1月24日(木) 19:30〜21:00 「アリラン歌謡紀行」 − 望郷と再開・38度線を越えて − というドキュメンタリー番組を見た。アリランというのは「アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えていく」と歌われる韓国民謡だ。私が良く知っている「アリラン」は抗日運動を描いた哀しい映画で使われたポピュラーなものなのだ。だが、韓国では即興で歌われることもあって、詩と旋律に膨大なバリエーションがあると知り、あらためて驚かされた。
レポーターのロック歌手「白竜」さんが釜山の市場で働くご夫人たちに、あなたの「アリラン」を聞かせて欲しいと取材するシーンがあり、「アリラン」だったのか他の曲だったのか定かではないが、一人の女性が唄った歌が私には鮮烈だった。

   私を見て 私を見て 私を見て
   冬の日に 花を見るように 私を見て
   
白抜き文字で画面下部に挿入された対訳には、こう書かれていたように思う。
たとえ周りにたくさん美しい花が咲いていても、冬の枯野に咲いた一輪の花のように、私だけを見つめてくださいと歌うのだ。何と美しい乙女心と感動するとともに、実際にそんなことを言われたらかなわんなぁと私には思えた。この歌を心込めて唄う女性の瞳にはハートのマークが浮かんでいるに違いないと。

   ***

なぜ恋する女性の瞳にはハートのマークが浮かんでいる、などという事を知っているかというと、もてない私でも人生で二回だけ瞳にハートのマークを浮かべて見つめられたことがあるのだ。

一度目は高校一年生の夏、近所の商店街で偶然、中学時代の同級生に会った時だ。在学中は目立たない子で、クラスでも霞んでしまいそうな存在感しか無く、クラブは園芸部だった。会話を交わしたこともなかったのだが、私の存在に気づいたらしく、路上で突然呼び止められたのだ。私も坊主頭の詰襟から長髪の私服に変わっていたのだが、彼女の変貌ぶりは凄まじく、見違えるように美しい娘さんになっていて笑顔は花のようだった。その時の彼女の目には絶対にハートのマークが浮かんでいたと思う。吸い込まれそうで不思議な眼差しだったのだが、私はそれに応えうる自分というものに自信が持てない男だった。「持てない」男は「もてない」のだ。
聞くところによると、人間は好意を持った相手を見つめると瞳孔が開き気味になってそう見えるらしい。少女漫画の硝子玉のように煌めく瞳もそれだ。おそらく読者を魅惑しようという作為が込められているのだろう。
私は恐怖を感じ、あたふたと目をそらし、「あ、どうも」などと、つれない返事をして別れてしまったので、彼女とはその後会うことも無かった。

二度目は、というと何のことは無い、相手は隣にいる妻であるわけで、さして面白いオチも無いのだ。

   ***

文通相手の女性は、互いに都内の大学に進学したので何度かデートしたことがあるのだが、幸いにも私の瞳に映った自分の姿を探すような人では無かった。あるいは探したけれど、何も映っていなかったのかもしれず、彼女が一足早くOLになってしまったので音信も自然に途絶えてしまった。面白い偶然といえば彼女の名前が「ひとみ」だったことくらいかもしれない。

※ショーウィンドウのマネキンの眼差しも私は苦手だ。

2002年 1月 28日 月曜日
【木実の名は】

博識の友人を持つというのは有り難い。困ったときはメールすれば即座に答えが返って来る。

有り難いからといって調べもせずに何でもすぐに聞いてしまおうというのも安直で失礼にあたるので、取りあえず自分で八方手を尽くして調べ、「私はこう思うのですがいかがでしょう」と訊ねるのが礼儀だと思う。自分の考えを述べれば恥をかくこともあり、恥をかかなければ身につかない知識というのもあるのだ。
有り難いことに、恥を忍んで質問する見返りに楽しい会話の花が咲く事もあるのが嬉しい。

2002年 1月 27日 日曜日【木の実の名前】として森田惠子さんから送られて来たデジカメ写真をご紹介したのだが、どうにも樹種の特定に自信が持てない。インターネット検索では埒が明かないので、書店に足を運んで『樹木ガイドブック』を購入してみた。真剣に使い易そうなガイドを探すと、写真より図解によるガイドの方が、格段に私には使いやすそうに思える。ただし、価格がカラー写真版のものの三倍ほどするためおいそれとは手が出ない。

中学時代の友人で、第三管区海上保安本部に勤務し、森林インストラクターの資格を持ち、ボランティア活動しながら、趣味でインターネット・サイトを運営されている友人、のんぶーこと小川信明さんに御指導を仰ぐメールを差し上げてみた。中学・高校の一年後輩に御指導を仰ぐというのもこそばゆい。

石原 左上は言わずと知れた「まつぼつくり」、樹種はアカマツかと思うのですがどうでしょう。余談ですが「まつぼっくり」は「松陰嚢」と書き、「ぼっくり」は「ふぐり」が転化したものだそうです(笑)
小川 クロマツの可能性もありますね。じっくりと見ないとわかりませんが、たいてい種の落ちていた近くにある木が正解です!(笑)
森田 今朝、四宮監督から電話があったので、木の実の話をしました。四宮さんが「ぼっくりがふぐりなら、ぽっくりもそうかい?」と言うので、「履物の?」と、聞いたら「形も似ているだろう?」というのですが、私には分かりません。履物のぽっくりも、ふぐりの転化したものですか?
石原 そうです!と言いたいところですが、「(3)馬などがゆっくり歩くさま。(三省堂「大辞林」より)」の、♪いつでも一緒に ぽっくりぽっくり歩く の「ぽっくり」のようです。馬の足音のオノマトペでしょう。正式には「ぽっくり駒下駄」といい、安永・天明(1772〜1788)の頃女子に大流行したそうです。中にお湯が入れられる湯たんぽ形式のもの、抽き出しが付いていて白縮緬の足ふきが入っているもの、一朱銀や三分銀を入れた袋を付けて鈴のように鳴るものなどが、金蒔き絵や鼈甲張りなどの贅を凝らしたものと同時に市場を賑わしたようです。天保(1830)の改革で製造使用が禁止されました。
森田 まつぼっくりは、友人に貰ったもの。戸田市内産。

石原 その下はマメ科の種子で「豆果」と呼ばれる果実の形態。サイカチの実ではないでしょうか。鞘にサポニン成分が含まれ、昔は石鹸がわりにしたそうです。
小川 サイカチ(トゲトゲの木)なんてよく知ってましたねぇ、でも、この豆科植物は、都会に偶にある「ネムノキ」か「ニセアカシヤ」と見ましたが・・・
森田 豆果は、沖縄・伊良部島で拾いました。

石原 右上のサクランボ型のはよく目にしますね。最初、スズカケノキ科の種子かと思ったのですが、もしかするとモミジバフウかもしれません。モミジバフウはマンサク科の樹木で、大正時代に渡来し公園・街路樹などとして多く見られるそうです。
小川 スズカケノキは、蔵談義で見たでしょ! もっとまん丸で、丸い部分をつつくと綿帽子のように割れる種です。(※石原注:清水蔵談義で小川さんの講義を何も聴いていなかった私を責めている)
森田 さくらんぼ状のものは、北浦和にある埼玉県立近代美術館で。

石原 下段右端は「どんぐり」で、樹種はコナラのような気がします。
小川 せーかいです!
森田 どんぐりは、日光で拾いました。拾ったところは、ちゃんと覚えています。(笑)

石原 で、下段中央、行司軍配の房みたいなやつ、これもよく見かけるのですが名前がわからない(笑)
小川 これも蔵談義で、飛ばしたヤツです。正解は、ユリノキです。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/3643/morino-fusigi/fusigi/2000-10.htm
森田 行事軍配は、種でなくガクかと思っていたのですが。有楽町近くの皇居お堀端で拾いました。種って、生命の素みたいで、好きです。形も綺麗だし、エネルギーを感じます。

森林インストラクタ」小川信明さんのサイトはこちら
http://odakkui.net/

2002年 1月 28日 月曜日
【甘露煮の味】

『ひとり新聞』1月20日号 鮒の甘露煮 より
||仕事が休みになるとさっそく父はいそいそと早起きをし、七輪に火を起こし、
||家で一番大きな アルマイトの鍋で、鮒の甘露煮を作り始めるのでした。
||今ではお料理好きな男性も珍しくない と思いますが、当時としてはとても
||珍しかったのではないかと思います。父は大正8年生まれです。
||
||釣り好きの父は、自ら釣った鮒を焼いて乾燥させ保存しておくのです。

お父様は確かに珍しくマメな方だったのですね。我が家の義父はお茶一つ自分でいれられない男で、大正男とはそんなものかなと思っていたのですが。

子どもの頃、浦安方面に行かれたことはありますか?

私の小学生時代、あの辺りは見事な遠浅の海岸で、潮が引くと遥か沖合いまで歩いて行くことができました。潮がどんどん満ちて来ると、あっという間に水位が上がって来て、早く波打ち際に戻らなければと焦った思い出があります。

母の勤め先の日帰り旅行で、潮干狩りにも良く出掛けましたが、私が好きだったのは東京湾でのハゼ釣りです。乗合船で浅草海苔の養殖場に入り込んで釣り糸を垂らすのですが、当時の東京湾はまだ水が澄んでいて、海底を這うハゼの姿が見えるのに、どうして釣れないんだろうとやきもきしたものです。

昼時になると船頭さんが自分の釣った分と、客の釣った分を合わせて、ハゼの天ぷらを作ってくださるのですが、その美味しかったこと。一艘の小舟に乗り合わせた人々と囲む食卓はひとつの天国で、山里の釣りとは対極にあるものだったのかもしれません。

たくさんハゼを釣り上げた人には賞品が出るなどという社内のイベントもあり、母子家庭の母には幼い私の分と釣果を合わせても良いなどという特例もあり、二人力を合わせて入賞したこともあります。賞品はカレーライス用食器セットで、実家にはまだ皿が何枚か残っているようです。人も都市の自然も、まだまだ優しい時代でした。

帰りのバスに乗り込む前に、ハゼをもっと持って行けと下さる方があり、ご近所に御裾分けしてもバケツ一杯余るほどでした。冷凍庫はおろか、冷蔵庫すら我が家にはありませんでしたから、母はハゼを焼いて乾燥させ、甘露煮を作りました。頭から丸ごと食べられる「ハゼの甘露煮」は、淡白ながら滋味溢れる味わいでした。

昔の人は保存食を手まめに作り、ご近所に分けたり、常備菜にしていたものですね。何度も火を通すうちに、味わいが深まるものも多く、最後の一切れを譲り合い、それは必ず私のものになりましたから、
「ああ、美味しかった。また作ってね」
と、私が言うときの、母の嬉しそうな笑顔が忘れられません。

森田惠子さん発行『ひとり新聞』のバックナンバーはこちら
http://www10.u-page.so-net.ne.jp/kj8/d-tojo/index.html

2002年 1月 27日 日曜日
【木の実の名前】

森田惠子さんから送られて来た、デジカメ最初の撮影という「木の実」の写真をご紹介します。

「これは何でしょう」と聞かれたら「木の実」としか答えられないのですが、中年男の嗜みとして木の実の名前くらい言えなくては恥ずかしいかなぁ(笑)と思い、図鑑と首っ引きで調べてみました。

左上は言わずと知れた「まつぼつくり」、樹種はアカマツかと思うのですがどうでしょう。余談ですが「まつぼっくり」は「松陰嚢」と書き、「ぼっくり」は「ふぐり」が転化したものだそうです(笑)

その下はマメ科の種子で「豆果」と呼ばれる果実の形態。サイカチの実ではないでしょうか。鞘にサポニン成分が含まれ、昔は石鹸がわりにしたそうです。

右上のサクランボ型のはよく目にしますね。最初、スズカケノキ科の種子かと思ったのですが、もしかするとモミジバフウかもしれません。モミジバフウはマンサク科の樹木で、大正時代に渡来し公園・街路樹などとして多く見られるそうです。

下段右端は「どんぐり」で、樹種はコナラのような気がします。

で、下段中央、行司軍配の房みたいなやつ、これもよく見かけるのですが名前がわからない(笑)
ギブアップです。

下に敷かれているのは、友人の染色家の指導のもと、ご自身で染められたスカーフ。

2002年 1月 27日 日曜日
【六義園通信】

拝啓 老いぼれ猫様
朝一面の銀世界を夢見て目覚めましたが、鉛色の空から霙混じりの雨の降る六義園です。

   ***

昨年末、医師より血圧の下の数値が高いと指摘され、薬を飲むのも嫌なので、食生活改善の一環として、一日一食以上、納豆を食することにしています。

日日抄に納豆の話でも書いてみようかと思ったら、急に「電脳六義園しりとり掲示板」における猫さんのしりとりを思い出しました。神々が集うまほろばには納豆を食する習慣は無かったのでしょうか、と畏み畏みお伺い申し上げ奉ります。かつて猫まっしぐら、辿り着いた東京で納豆に出逢い、「ニャンと!」と驚かれたように、「しりとり掲示板」書き込みにて拝察されましたので。

裏日本、元い北陸地方出身の妻は幼い頃から納豆に親しみ、今でも三食納豆でも良いという貧乏人、元い金のかからない賢妻であります。一方、静岡県伊豆半島出身の我が母は、父親が納豆が食卓にあろうものなら卓袱台をひっくり返し、猪狩り用のライフルを乱射しかねないという納豆嫌いでしたので、納豆は伊豆には有った、しかし食べたことは無い、という育ち方をしたそうです。

上京した母は、こんなに美味いものが世の中に有ったのかと、納豆を食べて随喜の涙を流したそうですが、残念ながら息子=私が納豆嫌いでした。それでなくても母子癒着の甚だしい我が家の食卓を、ねばねばと纏わり付き履き古した靴下を連想するような異臭を放つ食品が占領することが、私にはたまらなかったのです。私はやはり祖父に似ていたのでしょう。

   ***

ところが、友人宅の大家族の食卓で囲むどんぶり鉢一杯の納豆の美味さに目覚めてしまったのです。小学校六年生の時です。握り箸で狂ったように撹拌する友人によれば、納豆は混ぜれば混ぜるほど美味くなるのだそうです。これは、日本料理家小山裕久氏がおっしゃる、押し寿司の美味さは空気を抜くから、巻き寿司の
美味さは適度な空気を一緒に食すから、に通じるのかもしれません。不味いアイスクリームもソフトクリームのように引っ掻き回して食べると美味いのと同様です。

さらに電脳六義園ご常連の森田惠子さん
http://www10.u-page.so-net.ne.jp/kj8/d-tojo/index.html
によれば、北海道では納豆に砂糖を入れ、その理由が「納豆の糸ひきが良くなり、味が向上するから」なのだそうです。伊豆に育ち、幼い頃から生山葵をすらされた母が「山葵をするとき砂糖を少し混ぜると粘り気が出て香りと辛みが際立つ」と言っていたのを思い出しました。

   ***

あの友人宅で食べた納豆の香りが懐かしく、「昔ながら」「薫煙」「炭火」「経木」……をキーワードに「本格納豆」などを、手当たり次第に買って見るのですが、どれも思い出の中の納豆と違うのが不思議です。思い出の中で、握り箸で掻き回す友人の箸が折れて、全員で大笑いしたシーンがあるのですが、最近の納豆はあの時代のものほどの粘りが無いのも不思議です。箸がボロだったのか納豆が頑固だったのかわかりませんが。ちなみに文士の町・田端銀座商店街で買える「頑固おやじ納豆」はなかなかの味わいを保っているように思えて笑えます。

老いぼれ猫さん発行、メールマガジン[さすらい通信]購読申し込みはこちら
http://members.tripod.co.jp/oldcat2/

2002年 1月 25日 金曜日
【闇を描く】

友人と仕事の打ち合わせを終わり、別れ際の雑談で、山里の釣りでの体験に話題が移った。
釣ることに熱中し、ふと我に返り、辺りが闇に包まれていることに気づいたとき、不意に川の流れの中に立っている自分の身体が宇宙にに孤立していているような、奇妙な浮遊感を感じること、そして闇が人の情念を動かす力が単に恐れやおののきだけでは無く不思議な恍惚感を伴うこともある、などということを語り合った。

闇の襞に潜む恐怖、苦悩、快楽、郷愁が交錯した世界を、絵として描くことは、光溢れる世界を描けと命じられるより難しい。私にとって、闇を描いた名作と思える作品は無いかと泰西名画集をめくって見たが、これぞという作品が見当たらない。それほどに闇を描くというのは高度な技量を必要とし、単に画面を墨で塗り尽くした暗黒世界を描けば良い、というような話でもないのだ。

   ***

印刷物を拡大鏡で覗いて見ればわかる通り、通常私たちが目にする印刷物はシアン(青)、マゼンタ(赤)、イエロー(黄)の三色のインクによる点を組み合わすことで表現されている。それら三色を一つに重ね合わせると黒になるのだが、実際には美しい黒を表現するためにスミ(K)インクも用いる。プロセスインクによる四色刷りというやつで、この四色のインクによる点の組み合わせで、あらゆる色を表現するわけだ。

全色を重ね合わせると黒になるような色の特性を「減色混合」と呼ぶ。インクであれ、染料であれ、絵の具であれ、すべての色を惜しみなく塗り込めれば、そこに出現するのは漆黒の闇なのである。眼で感じた光の現象を絵の具に置き換え、次々に紙の上に重ねていくのは、光り輝く世界を模倣しているようでいて、実は闇の世界を構築していると言えなくもないのだ。

   ***

1994年12月末、パリの女友達を訪ねた冬、私はかなり体調を崩していた。
美術館はルーブル以外、何処もがらがらに空いていて、人気のない展示室で名のある作品を手に取るように鑑賞できたのは得難い経験だった。昼間の美術館巡りで疲れ果てているのに、女性たちが夕暮れ時は買物に繰り出すというので、体調のすぐれない私は友人のベッドに横になって、古いパリの屋根の連なり、煙突から流れ出る薄煙を眺めながら、ぼんやり昼間見た絵のことを考えていた。

子どもの頃から図工が大好きだった私は、同じような友人と競い合う意識を低学年の頃から持っていた。絵が巧いと誉められることについて、誰にも負けたくなかったのである。あいつにだけは敵わないと思うライバルに出逢うと、したたかめげた。昼間見た画家たちのうちで、子ども時代クラスメートにいたら「あいつにだけは、敵わない」と観念するであろう画家は、と考えるとセザンヌしかいないと私には思えた。それほどにセザンヌは優れていて、衝撃的であり、彼の絵を見たら他の作品が霞んでしまうほどだったのだ。

   ***

中学時代の同級生にO君という友人がいた。O君は日常の言動がかなりゆったりしていて、高校進学は大丈夫なのかしらと思わせるタイプの少年だった。得意科目は体育と美術くらいだったと思う。通学路が同じこともあって、何度か自宅に遊びに行ったのだが、お世辞にも豊かとは言えない家で、根太板が腐りかけているのか、ぶかぶかする畳が敷いてあり、パチンコ店に勤めているという姉の持ち帰ったパチンコ玉が木箱一杯あったのが印象的だった。

その彼の描く絵が巧いのである。私に「あいつにだけは、敵わない」と思わせる力量を持っていたと今でも思う。だが校内の絵画コンクールに入賞したことが無いし、当然、校外のコンクール出品作にも彼の絵は選ばれなかったのである。私にはそれが不思議で、必ず入賞していた私が、後ろめたい敗北感をいつも感じていたのは、彼の存在が有ったからなのである。

私は、水彩絵の具を水で薄めて混色して塗るのが嫌いで、パレットの上で水も使わず大雑把に混ぜて塗りたくったり、チューブから筆先に絞り出しそのまま塗り重ねるのが好きだった。私を親身に指導してくれたS先生は「お前はいつか油絵をやったらいい」と言っていたが、私は油絵というものを知らず、それでも私のやり方を認めてもらえるのが嬉しかった。

一方、O君の画材というのが兄姉からのお下がりらしい使い込まれた年代物で、パレットなどはろくに洗わないので大量の絵の具が固まってこびりついたまま、絵の具もあらかた絞り出されて硬化し、鉛のチューブを引き裂いて固形絵の具をほじくり出さなければならないほどだった。筆に水を付けて絵の具の塊を溶き、流れ出た色水を何度も塗り重ねて描くような技法しか出来ないのだが、それがとてつもなく巧いのである。一見、何とも暗い絵なのだが、得も言われぬ魅力があるのだ。彼の絵を見るたびに「あいつにだけは、敵わない」と、私はいつも打ちのめされた。

   ***

校外写生大会が港の桟橋で行われ、描き上げた作品を校内に持ち帰った後、生徒の互選で入賞作を選ぶことになった。生徒が自由に誰某の作品が良いと言い、S先生が「そうだなぁ、じゃあ入選とするか」などと言って色紙の短冊を貼っていくのである。私の作品はいちはやく選ばれていたのだが、私が最も優れていると思ったO君の作品が一向に選ばれない。「他に入賞作は無いか」とS先生が言うのを待って「O君の作品がいいと思います」と言ってみたのだが、「うーん、Oの作品ねぇ」と先生は腕組みしたまま首をかしげ、結局、短冊を貼ることは無かった。

人柄も美術を見る目も優れ、常日ごろひそかに尊敬していたS先生が、どうしてO君の作品を評価しなかったのか、私には今でも不思議なのである。決して依怙贔屓したり、いわれ無き差別をするような先生ではないので、率直に絵として評価しなかったのだろう。卒業式を終え、校門を出るとき「頑張れよ」と声をかけてくださったが、「はぁ…」と気のない返事になってしまったのは、何度自分が誉められたとしても、S先生がついにO君を評価しなかったことが、心の奥で妙なわだかまりとなっていたのかもしれない。

今でも思い出すO君の作品のどれもが、闇の中から微かな光を絞り出すような、不思議な希望に満ちた明るさを持っていたように私には思えてならず、一枚ぐらい友達のよしみで貰って置けばよかったなぁと思うこともある。

※写真は1994年12月、パリ、オルセー美術館にて。

2002年 1月 24日 木曜日
【どん詰まり】

終戦直後の虚無感を胸に砂丘に寝転んで夜空を見上げ、あの頭上を流れゆく流れ星の一つすら自分の上に落ちて来ることはなかろう、と書いたのは誰だったのだろう。確か、高校の教科書で読んだような気がするのだが。

失恋の哀しみを抱いてか、人の世の無常を思ってだったか忘れたけれど、汽車に乗って砂丘に行き寝転んで夜空を見ていた学生時代があったと言う友人の話も思い出す。砂丘に仰向けになって満天の星を眺めるなどと言うことの似合わない私は、いかにもモンゴル大平原を駆け回った祖先の末裔然とした文学者や友人の話に、ただただ溜め息をつくばかりだ。

私は、心塞ぐと狭い場所に入って丸まりたくなるが、退行願望だろうか。そんな時に浮かぶ言葉が「どん詰まり」なのだ。祖父母の家で寝つかれず、夜中に起き出して足踏みミシンの下に毛布に包まって入って寝たことがある。私を探す祖父母の声で目が覚めたのだが、起きると叱られそうで眠っている振りをすると、「こんなところで寝てる、きっと寂しいんだろう」と笑いながら、祖母が抱きかかえて二階の寝床まで連れ戻してくれたことがある。壁際や押し入れ、家具の隙間などという「どん詰まり」で寝ることが好きだった私の憧れは、友人の家で見た二段ベッドだった。中学に上がるとき、大工が入ったついでに作って貰った作りつけの寝台車上段のようなベッドが気に入って、高校を卒業するまで私はそこで寝起きした。
   
   ***
   
それでも高校生になると、夜中に目が覚めて寝つかれないことが多く、夏の夜などは更なる「どん詰まり」を求めて、海岸まで自転車を走らせることが多かった。最も頻繁に出掛けたのが新港町、豊年製油工場のある防波堤で、今の清水エスパルス・ドリームプラザのあるビルの対岸だ。夏の夜の防波堤のコンクリートの上に寝転がると、まだ日中の温もりが残っていて、波の音を聞きながら眠ると心地よかった。

三保の灯台下や久能海岸(今は侵食に寄り砂浜は無い)などにも足をのばして朝まで眠ったこともある。『清水目玉焼』として公開している別サイトにある高校時代の写真に、明け方の風景が多いのは、清水市街を撮影しながら朝帰りしたからだ。防波堤や海岸の砂利の上で、胎児のように身体を丸くして眠っている高校生というのも異様なものだろうな、と今思えば可笑しい。

屋外の「どん詰まり」で丸まりたい人というのも探せば私以外にもいるもので、某社会福祉法人に勤めていた友人は、酩酊するとビルとビルの隙間に潜り込んで眠るという奇妙な癖があった。人一人ようやく割り込めるような奥まった「どん詰まり」が良いそうで、新橋の裏通りに格好の場所を見つけて丸まっていたら、浮浪者に俺の場所だと追い出されたこともあるそうだ。

それほどまでに泥酔するのが彼の悪い癖で、兵庫の実家に帰った際は、深夜に帰宅したものの兄夫婦の怒りを買って家に入れて貰えず、玄関脇の犬小屋に入って犬と一緒に丸まって寝たそうだ。その後、帰省する度にその犬が彼に腰を使って困ると言う笑い話もある。
   
   ***

片や狩猟民的大胆さで屋外に寝たい友人もいて、当サイトからもリンクしているSさんなどは、通勤の人ごみの中、池袋駅前の芳林堂書店前で寝ているところを友人に目撃されている。見つけた知人もあまりに体裁が悪くて声をかけられなかったというが、後日本人に聞いたら、開店まで立って待っているのも無駄なので、店の前で寝ていたのだという。元漁師だったこともある彼の「どん詰まり」はなんとも豪胆で羨ましい。

私のような内気な?都会暮らしの中年男が、心塞いだとて野外で丸まっているわけにもいかない。そうすると布団の中で丸まっているか深夜起き出してパソコンに向かって、自分の世界の中に丸まっているわけで、思えばこのホームページもまた、私にとって一つの「どん詰まり」なのかもしれない。

※写真は、夜の港町。釧路の幣舞橋(ぬさまいばし)あたり。

2002年 1月 23日 水曜日
【永遠の少年】

「「永遠の少年」(Pure aeternus)とはユング心理学で重要視される原形の一つである。…中略…少年らしい可能性や魅力を持っているが、現実と向き合っていく大人になることのできない人間像の元型で、すべての人が心の底には、これをもっている。…中略…日本人全体の心性を考えるときにも使いたくなる言葉である。日本を占領していたアメリカ軍の司令官マッカーサーが、日本を去るときに、「日本人の精神年齢は十二歳」と言ったのでショックを受けた人も多かったが、彼がそう言ったのも当然と言えば、当然である。」河合隼雄(『「永遠の少年」の娘たち』菅佐和子著の序文より)

私が大好きだった一人の叔父を語るとき、「永遠の少年」という言葉ほど相応しいものはないように思える。

私の母方の叔父たちは七人いて、みな寂しがり屋、人なつこく、子煩悩で、一緒にいて楽しいことの多い人たちだったが、とりわけ母親のすぐ下の弟だった叔父が私は好きだった。日日抄に掲載した私の幼児期の写真はみな、その叔父が撮影してくれたものである。

幼い頃から手の付けられないほどの暴れん坊であり、身体が小さいくせに相撲大会で優勝するほどの力持ち、いつも陽気で明るく、学問よりも職人の仕事が何より好きだったので、外に出すよりは家に置いたほうがよかろうと、三男でありながら父親の瓦工場の後継ぎを任された叔父だった。

祖父が驚くほど、仕事の飲み込みが速かったと言う叔父は、学問こそ無かったが、絵や写真の腕が良く、瓦用の粘土で作って私に焼いてくれる人形や貯金箱は仰天するほどの出来栄えだった。自動車が欲しいと言えば壊れた乳母車や三輪車の部品を使って実際に乗れる自動車を作ってくれたし、目の前の川で筏遊びをしたいと言えば本物の筏を作ってくれる程、器用で熱中する性格の人だった。そして何よりも、私がそうやって遊んで欲しいと言うと、必ず約束を守って本気で遊んでくれる人だったのだ。

「永遠の少年」という言葉を使わなければ、叔父は「境界例」であったと私は思う。

寂しさに直面したとき、一時しのぎに誰もがする飲酒ですら、本気で身を切るような飲み方しか叔父にはできなかった。読む人の少ない日記ですら書くことができないほどの、本気で身を切るような寂しさが叔父にはあった。「境界例」によく見られるように、叔父も当然のごとく重度のアルコール依存症になった。何度も社会復帰をめざして入退院を繰り返したものの、寂しさから逃れることはできず、私と遊んでくれた川の中に最後の安らぎ場所を見つけたのが、叔父の最期だった。

1985年、本家の墓石に刻まれた没年にはそうある。享年五十二歳。私が結婚するので、叔父と叔母に揃って出席して欲しいと挨拶に行ったのが1981年だから、すでにアルコール依存の徴候は叔父に芽生えていたのかもしれない。それに先立つその年の正月、私が母親と訪ねると祖母が出てきて、私の亡き父親が結核療養中の母に書き送った手紙を見せてくれるという。結婚して一家を構える私への贈り物だったのだろう。私は祖母の膝に顔を埋めて泣いた。

叔父はお祝いに二人で大いに飲もうと一升瓶を持ち出してきた。私にとって叔父と差し向かいで飲むなどということは、生まれて初めてだった。私の父は、共産主義活動で警察官の職を失い、母親と文通による交際を経て結婚し、この瓦工場で働いたことがあった。若き後継ぎだった叔父を支え、励まし続けたのが私の父だったのだ。叔父は、お前の父親を恨むな、お前の親父はとてつもなく良い人だったのだ、いつか二人で墓参りに行こうと泣いた。私も泣きながらしたたかに飲んだ。

お前は大きくなったけれど、俺を背負って走れるかと聞くので、私はもちろんと笑って答え、実家裏の冬の田んぼを叔父をおぶって走った。酔った叔父と私が笑いながら走り回る姿を、家族の者は呆れて見ていたという。やがて日も暮れ、泥だらけになったので、叔父は昔良くしたように私を風呂に入れたいと言い出し、私たちは親子のようにはしゃぎながら小さな風呂に入った。それから後のことは記憶にない。

あの一夜こそ、叔父が私と本気で遊んでくれるという、最後の贈り物だったのかもしれない。叔父に誓って、命を粗末にするようなことはすまいと私は思うけれど、身を切るように何でも一身に背負って一所懸命働き、本気になって生きなければならなかった男たちがいた時代が、ほろ苦くも何故か恋しい夜がある。

※写真は、叔父が愛した巴川。千歳橋から大正橋をのぞむ。

2002年 1月 22日 火曜日
【みかん娘】

黄色く色づいた蜜柑がたわわに実るみかん山は美しい。

私が麓の寺で永眠するはずの梶原山に連なる小高い山々も、南東斜面はみかん山である。三百メートル程度の小さな山でも、みかんの畑を登って山頂に立つとその眺望に驚く。考えて見れば、東京タワーや新宿の高層ビルほどの高さのあるみかん山なのである。

子どもの頃から、みかん山に登るのが好きだった。温暖な清水なので、冬でも一気に頂上を目指すとセーターを脱いだとしても汗ばむほどだった。斜面に腰かけて、形の良いみかんをもいで皮を剥き、口に放り込む時の清涼感は何とも言いがたい。もちろん他人の山の作物で、勝手にもぐのは窃盗行為なのだが、時折竹の籠を背負ってひょいと現れるみかん山のおじさんは、みかんを頬張る子どもを見て、
「ここで食うだけにしておけよ」
と笑って言うのだった。
郷里贔屓の私だからどうしても贔屓目になるが、静岡県清水市の男たちは概して子どもたちに優しい。清水弁で男の子のことは「小僧」という。「小僧」は標準弁ではないかと思われるかもしれないが、

こ‐ぞう【小僧】
(3)年少の男子をあなどっていう語。
(広辞苑第五版より)

のような意味で用いられるわけではない。例えばこんな風に用いる。
「おらっち小僧もはしっけぇほうだけぇが、おまっち小僧はまっとはしっけぇなぁ(うちの子どもも賢い方ですが、お宅のお子さんはさらに利発ですね)」
男の子は誰でも「小僧」なのだ。だから清水の男たちは自分の子どもでも他人の子どもでも区別せずに、
「小僧っちが食うぶんには、ええっこしてやらざぁ(子どもたちが自分で食べるのだけは大目に見ましょうよ)」
などというのが習いで、素朴な父性愛を感じる町なのだ。

山から手ぶらで降りるとふらつくといけないからと、みかん山のおじさんが笑いながら、みかんがぎっしりつまった籠を背負わせてくれたことがあるが、その重い事、身体の大きい私も唸るほどだった。みかん山の農作業は重労働なのだ。

   ***

小学生時代、母親に連れられて学校の長期休暇中、郷里の実家へ預けられる時、東京駅ホームに緑とオレンジ色ツートンカラーの電車が入ってくると心が踊った。私の大好きなみかん山の色だったからである。この「湘南電車」が登場したのは1950(昭和25)年のことである。みかんと茶をイメージしたと言う説もあるが、灰色の都会をあとに、湘南海岸を駆け抜け、一路みかん山を目指す夢溢れる「みかん電車」に、私には見えた。

郷里で、預けられた私を母親以上の愛情で見守ってくれた実家の嫁、私の大好きな叔母は山形県出身だった。子どもの頃から「この叔母さんはどうして遠い山形から、清水の片田舎に嫁に来たのだろう」というのが、私の永年の疑問だった。四十歳を過ぎて、母親と思い出話をしながらのんびりと飲めるようになった頃、ふと思い出してこの話を持ち出してみた。

戦後、日本は男性の数が不足し、みかん農家でも収穫作業の人手不足に困った。そこで暮れの収穫作業のために特別列車を仕立て、東北地方から娘さんたちを短期の出稼ぎ要員として集めた。この少女たちを当時「みかん娘」と呼んだらしい。

梶原山に連なる柏尾という土地に住む親戚の者が、気立てが良く働き者の娘がいるが、嫁にどうかと跡取りの叔父に紹介した。それが私の叔母で、彼女もまた「みかん娘」だったのだ。もしかすると、上野駅に着いた叔母は、東京駅から湘南電車に乗り継いで清水を目指したのかなぁ、初めて見たみかん山を綺麗だと思ってくれたかなぁと想像して見る。

男に混じって埃塗れ、乳房剥き出しで熱い瓦焼き窯に入り、早朝から大家族のおさんどんで働きづめに働いた人だった。山形の母親から届いた洋梨を大切に米櫃の米に埋めて保存し、誰かが持ち去ると「私の洋梨が」と泣いていたという叔母を思うと胸が痛む。酒で命を落とした叔父と別れ、今は川崎市にある娘の嫁ぎ先に身を寄せたと聞くが、せめて清水のみかん山だけは「綺麗だったなぁ」と、今も思っていてくれる事を、願わずにはいられない。

※写真は梶原山の北西斜面。みかん山の裏手は見事な茶畑だ。

2002年 1月 21日 月曜日
【父性愛の謎】

ふせい-あい【父性愛】
子に対する父親としての本能的な愛情。⇔母性愛
(三省堂大辞林より)

友人が言うには、私は父性を知らずに育ったらしく、そのせいか「父性愛とは?」と自問してみても、どうしてもその「愛」の実体を明確に思い描くことができない。上記の辞書の記述を読んでも「本能的な愛情」の実体を類推しようがない。そもそも父性愛などというものは実体が提示しにくいものなのか、広辞苑第五版には「父性愛」の独立した項目すらない。

片や、母性愛の方はもう少し明確で、

ぼせい-あい【母性愛】
子供を守り育てようとする、母親の本能的な愛情。⇔父性愛
(三省堂大辞林より)

と、あって「子供を守り育てようとする」と、本能的な部分への言及があってイメージがつかみやすい。ということは「父性愛」の実体は「子供を守り育てようとする」ということとは違うところに発現するものなのかもしれない。

   ***

母親に「母性愛」を感じるというのは当たり前の話だが、小学生時代などを思い出すと、妙に「母性愛」を感じる同級生がいた事を思い出す。放課後、自宅に遊びに来いというのでお邪魔すると、家には彼女しか居らず、冷蔵庫の製氷皿で作った氷が浮いた、生温いカルピスを出してくれたりする。それで緊張してズボンに滴らしたりするとタオルを持ってきて拭いてくれたりするのだ。「小さなお母さんみたいだなぁ」と奇妙な気持ちがしたものだ。彼女は四年生の時、病気で母親を亡くしていた。私と苗字が同姓だったのも、妙に思い出深い。「母性愛」などという言葉を知ってからは、ああいう人を「母性愛の強い人」と言うのかなぁなどと思ったものだ。

幼い頃、大人たちから寂しげな目をした子だと良く言われた。そのせいか、他人から実の母親のような可愛がられ方をされた記憶が多い。もしくは、寂しげな眼差しを装って、愛情を求めたがる助兵衛な性格の嫌なガキだったのかもしれない。

私は集団生活というものが苦手で、小学校の臨海学校や修学旅行が嫌で嫌でたまらなかった。見知らぬ場所で眠ると思うと泣きたくなる事が多かった。高校生になった頃には多少は世慣れして集団生活も楽々こなせると思っていたのだが、長野県の高原への泊まりがけ旅行で思いがけない自分を発見して唖然とした。皆で一つの鍋をつつくことができないのだ。考えて見れば、常に母親との二人暮らしだったので、料理は常に自分で独占していたに近く、他人と一つ鍋の物を争うように食べるなどという体験は皆無だったのだ。

どうしても鍋に手を出せず、手前にある漬物などで食事をしていたら、クラスの暴れ者的な困った奴が「おいおい、食べろ食べろ」と笑いながら私に給仕してくれた。同い年の男性に、実の母親のような可愛がられ方をされたような、奇妙な衝撃だった。

だが、思い起こして見ると、小・中学校を通じて、私はクラスの弾かれ者的な不良と紙一重の級友と仲が良く、皆が恐れるような相手を呼び捨てにして付き合ったり、彼らからもかばって貰ったりすることが多かった。寂しげな眼差しが男にも奏効したわけでもなかろうが、懐かしく思い出す悪童たちは皆、私に対して面倒見が良かった。

強い父性愛というのは、きっと世を拗ねてみたり、弾かれ者である事を恐れない男の子たちに芽生えるものなのかなぁ、などと思うこともある。

2002年 1月 20日 日曜日
【墓に入るまで】

『ロザンナのために』という映画があった。

かつて『レオン』という映画を見たことがあるが、その主役を演じたジャン・レノが主演しているのだが残念ながら『ロザンナのために』は見ていない。1997年の映画だが、その頃の映画評を読むと当時ブームだった「不倫もの」の対極にある、「夫婦の純愛物語」なのだそうだ。

主人公マルチェロの愛妻ロザンナは、病いで余命幾許もない。彼女の最後の願い、それは幼くして亡くなった娘の墓の隣で永眠すること。だが、墓地にはもう三つしか空きがないのだ。妻の願いを叶えるために、マルチェロは村人を一人たりとも死なせまいと、交通整理や重病人への献血など涙ぐましく奮闘する、というストーリーの展開らしい。

   ***

そもそも、焼かれたあとの骨にも人格があると認められるようになったのは浄土宗以降で、墓が重要視されるようになったきっかけにもなっていると聞く。日本の仏教が葬式仏教に堕落する一因となったのは私有の墓制度のような気もする。

私は骨は骨にしか見えないので、自分の骨などはその辺に捨てて置いて貰って一向に構わないのだが、残された家族は「世間体」というものもあるので、そうも行かないだろう。妻が先に死ぬような事でもあれば、私とて、それなりの墓を建てて妻の菩提を弔うに違いないから。

若い頃は、まぁ仕方ない、死んだ先のことまで我を通すのも馬鹿らしいけれど、そう差し迫ってもいないから、と取りあえず保留しておきたい気持ちが強かった。その一方で、加齢とともに、本家筋に生まれない一人っ子同士の結婚で、しかも子どもが無いとなると野垂れ死にを選んだところで、遺体が発見されてしまえば焼かれて納骨されなければならないわけで、せめて一時の納骨場所でもあらかじめ自分で確保して置かないと、始末する人に迷惑がかかるかなぁなどとも思い始めていた。いずれ、我が家の墓に参る人も絶えたら、墓は廃棄して中の遺骨は無縁仏にでもしてもらって、後の世代の永眠場所に明け渡して利用して貰おうと考え、一時的世間付き合いのための墓くらいは確保して置かなくてはという気もしてきていたのだ。

そんな折り、祖母の看取りを終えて次は自分の番と覚悟したのか、私の母親が急に墓のことを気にし出した。自分の墓は息子が建てるに決まっている、まさか遺骨を道端に捨てるような真似はすまいと思ってはいたのだろうが、そんな心配ではなく、何としても先祖代々の墓があり両親の遺骨のある寺で永眠したいと思い始めたらしいのだ。

   ***

昨日の日日抄で書いた梶原山の麓に富谷山保蟹寺(ほうかいじ)という小さな寺がある。創建は慶長年間という。その寺にある石原家本家の墓の脇にいくつか墓の空きがあり、両親の側で眠る権利を得る最後のチャンスかもしれないと母親が言い出したのである。まぁ、私としてはその場所で眠る、ましてや納骨室に「入る」などというイメージを持たない人間なので、正直に言えば親の墓の場所など、どこでもいいやと考えていたのだが、祖父母や叔父の墓がある寺だし、幼い頃から眺めて過ごした梶原山の麓でもあるので、悪い話しではないなと「墓の権利を買う」などという一生に一度の珍体験を、渡りに舟と済ませてしまった。『ロザンナのために』ではなく『母親のために』。

草が生えて、ゴミ捨て場になるのも困るので、いざ鎌倉、ではなく、いざ成仏の際すばやく入室できるように基礎工事だけは済ませて在る。墓石を建てて建立者の名前を刻み朱で埋めて置くなどという「寿陵」とか「寿蔵」とかいう習わしもあるようなのだが、わが石原家の墓には小さな仮の墓石があるだけである。
いつの日か、母親、私、妻の順番で入室予定なのだが、墓などを前もって用意してしまうと奇妙な可笑しさがあるものだ。

私は墓参りというものが嫌いではない。清水に帰省するたびに、妻と母親と愛犬イビを伴ってご先祖の墓にお参りし、献花して香をあげ合掌するのだが、空き家である我が家の墓も見て行こうという話に必ずなる。入居予定の三名が墓の前で無言でいるというのは、何とも気まずいものだ。
必ず誰かが、
「最初に入るのはイビかなぁ」
と、犬に向かって言い、
「でも犬は人間のお墓には入れないもんね〜」
と、続けるオチになるように、家族の会話はいつのまにか決まっている。

いつの日か墓に入るまで、それが墓参り時の我が家のとほほな習慣である。

※写真は保蟹寺の竹林と、本堂前で泣き叫ぶイビ。

2002年 1月 19日 土曜日
【梶原山】

写真というものの細部を観察するのは楽しい。

昨日の日日抄に掲載した幼い頃の私の写真で、右手の土手から一段下がった場所に見える小屋と斜めの白い柱は梨園だ。昭和三十年代、清水市の郊外では梨の栽培が盛んだった。さらに右端で農作業をしている人も私は覚えている。私はこの辺で農作業をしている人は皆顔見知りで、
「ボクノウチハビンボウデ、ヤサイモクダモノモカエマセン」
などと嘘をついては野菜や果実をせしめていたのだ。この一帯を清水市大内という。

そして、畑の後ろにある山が通称「梶原山」という。最高点(私の頭のあるあたり)で標高304?しかない、小高い山である。

「梶原山」の由来は鎌倉時代の武将梶原景時に因む。

かじわら‐かげとき【梶原景時】
鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。平三と称。平家追討に功があった。源義経を讒し、また結城朝光を頼家に讒したが、朝光は諸将と連署してその誣告(ぶこく)を訴え、鎌倉から追放。駿河国狐崎に一族とともに討死。( 〜1200)……広辞苑第五版より

広辞苑の記述を補うと、梶原景時という人は、1180年伊豆に挙兵した頼朝を助けた功により鎌倉幕府に重用された。だが、木曾義仲、源義経、源範頼殺害の黒幕との噂があり、同輩から憎まれ、安達盛長以下六十六名の連署が源頼家に提出されるに及び、もはやこれまでと一族郎党を率いて鎌倉を出立し、京都へ逃げようとした。

1200(正治2)年正月、箱根越えを果たし清見関辺りまで来た時、運悪く国侍に発見されて戦となり、
清水市狐ヶ崎あたりまで逃げ延び、庵原小次郎、工藤八郎、三沢小次郎、飯田四郎・五郎、吉川小次郎、渋川次郎、船越三郎、矢部小次郎等との激しい戦の末、梶原景茂はじめ梶原景国、景宗、景則、景達四兄弟も落命した。不利を悟った景時と息子景季、景高らは梶原山中に逃げ込み割腹して果てた。

地域の村民は梶原一族を憐れに思い、五輪塔を建てて厚く弔い、後にその場所は梶原塚と呼ばれるようになった。これが清水の「梶原山」の由来なのだ。

   ***

「梶原山」でインターネット検索してみると、鎌倉市にも梶原山があって「梶原景時の供養塔」なるものがあるらしい。さらに、兵庫県三原郡南淡町沼島という淡路島の南にある小さな島にも梶原山があり「梶原五輪石」と呼ばれる梶原景時の墓があり重要文化財に指定されているという。清水で亡んだ梶原氏の残党が沼島まで落ち延び、景時の遺骸を持ち帰り葬ったのだという。

さらに話しは面白くて、沼島には沼島水軍というのがあり南北朝時代1336(延元1・建武3)年〜92(元中9・明徳3)年あたりから華々しく歴史の舞台に登場するらしい。梶原氏と沼島水軍との関連が知りたくて日本の水軍を調べて見ると、なんと大内水軍、能島水軍など、清水ゆかりの地名を関した水軍が多いのに驚く。では、と梶原・水軍・清水のキーワードで検索すると、秀吉の小田原・北条攻めに関する記述が見つかって驚く。梶原水軍というのも存在したのだ。

北条攻めに際し、秀吉は清水(江尻)に兵糧二十万石を集結させ、千石船二百隻に満載、九鬼嘉降、加藤嘉明、 脇坂安治等の兵一万四千と数百隻の連合水軍に護衛させ小田原沖への廻送を命令じた。これを阻止しようと迎え撃ったのが梶原水軍(三浦水軍)だったのだ。この駿河湾海戦は凄まじいものだったらしい。

   ***

写真探索から出発し、キーワードによるネット探索の旅で広がる歴史の宇宙は目くるめくもので、とても歴史の素人には歯が立たない。
まあ、物事は調べて見るといろんな歴史があるのだなぁと、最近施設が整備されて格好の夜景鑑賞スポットになっているという清水市の梶原山からの夜景を眺めて溜め息をついた。
【梶原山からの夜景はこちら】

2002年 1月 18日 金曜日
【視線】

祖父は写真を写される時、カメラを真正面から見ることのできない人だった。
そもそも写真を撮られる事が好きでなかったらしく、家族の集合写真などを見ても、一人だけそっぽを向いているのが可笑しい。私の撮影したネガの中にも何枚か祖父の写真があるのだが、一枚もカメラ目線のものが無い。

どちらかというと祖父似の私だが、写真を写される時はカメラを見つめることができる。だが、写す側に回ってカメラを顔の前に持ってきて、銃で狙うように人物の写真を撮るのが得意でなかった。特にファインダー越しに視線が合うのが怖かったのだ。高校生時代に撮影した写真に人物写真が少ないのもそのせいかもしれない。

デジタルカメラの機種選択と買物をさせていただくことになった森田惠子さんからメールをいただいた。

子供の頃、父の大切な物は触ってはいけない物でしたが
時々、父はカメラを覗かせてくれました。
幼かった私は、カメラを首から提げて、両足を広げて立って
両手でカメラを持って、上から覗きました。

読ませていただいて、不思議だなぁと思うのは、なぜ私などに大役を……と思う部分もあるのだが、それよりも私が抜擢されるべくしてそうなったのかなぁ、などと奇妙な縁を感じることだ。
森田さんは「暗室」を知っていた上に、二眼レフのファインダーを覗いたこともあったのだ。

私が日日抄に掲載する写真を撮るために使っているデジタルカメラは「両手でカメラを持って、上から覗き」、撮影することができる機種なのだ。そのために、カメラ背面の液晶表示板が好きな角度に回転させられるようになっている。相談の上、森田さんのために同機種を購入する事に決めたのも、自分のこだわりをわかって貰おうという思惑も、若干あったのかもしれない。二眼レフを覗いた事のある人なので、きっと良さがわかって貰えるに違いないとメールを読んで確信でき、ちょっと嬉しい。

カメラを顔に押し当てて固定する撮影スタイルは、そうする事で手ブレを防げるメリットはあるものの、どうしても好きになれない。かといって、デジタル・カメラで背面の固定液晶を見つめて「前へ習え」をするように顔の前に突き出して撮影するスタイルは醜悪としか思えない。折角、大きな液晶をファインダーとして使うなら、おヘソのあたりで構えて上から覗き込んで撮影する「二眼レフ」スタイルの方が、手ブレも少ないし理想的なように、私には思えるのだ。しかもデジタルの「二眼レフ」スタイルは、見える画像が「左右逆像」ではないのだ。

「二眼レフ」スタイルの撮影が可能なデジタル・カメラは私の個人的こだわりを満足させる以外にもう一つ、ローアングル撮影向きという大きなメリットがある。私の身長で目の位置にカメラを構えると、視点は地上170cmになる。それを「二眼レフ」スタイルで構える事ができると、地上120cmになる。その50cmで写真の表情は驚くほど変わる。ローアングルというのは「自分が見慣れている光景」に比べてなんとなく優しいのだ。「二眼レフ」スタイルでファインダーを見つめていると、ちょっと大げさだが、自分が小津安二郎になったように感じる事もある。

幼い頃、叔父が両足を広げてウンと踏ん張って撮影してくれた写真に視線の優しさを感じるのは、実は叔父のカメラが二眼レフだったからなのだろう。子どもの目線に降りて写真を撮るというのは良いものだなぁと思う。

※写真は叔父が写した2歳3ヶ月の私。巴川べりにあった瓦工場前の土手。後ろにある山は通称梶原山。

2002年 1月 17日 木曜日
【モノと語る夜】

誕生日にモノを贈る習慣はいつ頃からあったのだろうか。

「もうすぐ誕生日だね。何が欲しい?」
などと聞かれても、きょとんとしていた時期もある。小学校低学年の私なら、
「お母さんに、お仕事を休んで家にいてもらいたい」
などと言ったのかもしれない。事実、保育園に通っていた頃、母が仕事に出掛けた後、小さな紙片に、
「おかあさん ぼくは さびしいです」
と、書いて丸めて屑かごに捨てたのを、母親に見つけられたことがある。母は嬉しかったのか、今でも笑って私の友人に話したりするが、冗談ではない、本当に寂しかったのだ。

   ***

「もうすぐ誕生日だね。何が欲しい?」
と聞かれて、咄嗟に答えた今でも忘れられないモノが一つある。ウォルト・ディズニーの目覚まし時計だ。母親の勤め先近くにある小さな時計屋の飾り窓にあったもので、どうしても欲しくて欲しくてたまらなかった。あの時計があれば一人で寝る夜がどんなに楽しいかと思えたのだ。

買ってもらえるとは思っていなかったので、誕生日の朝、目を覚まして枕元にあるのを見付けた時は嬉しかった。紙筒の上下に金属の底と蓋を付けたお洒落な容器に入っていて、側面にはディズニー・アニメのキャラクターが印刷されていた。その容器は、小学校を卒業するまで私の宝物入れになった。

文字盤の絵柄は覚えていないが、時計自体の細部のつくりまで、今でも手に取るように思い出す。数字の夜光塗料が光るのが見たくて、布団の中に潜り込んで眺めたりもした。カチカチと時を刻む音に安らぎを感じる夜が数ヶ月続いたのち、あまりにいじりまわし、ネジを巻き過ぎたのか中のゼンマイが切れて、ついに時計の役目を果たさなくなってしまった。母は、修理に出そうか、などという暇もない人だったし、私も少々飽きていたのか、そのまま放りっぱなしにしてしまった。

ふと、意に反して壊れた時計が憎かったわけではないのだが、中身を取り出して見たくてたまらなくなり、ネジ回しを片手に分解してみた。息を呑むような美しさというものを初めて知ったのはその時だ。とんでもないものを見てしまったと思った。ゼンマイは壊れてしまったけれど、ある部分をネジ回しの先で動かすと、僅かな力で精密な部品が一斉に連動して動くのにも驚いた。凄いなぁ、どういう人がこの仕掛けを作ったのかなぁ、などと毎日飽きもせず眺めていたものだ。

やがてそれにも飽き、部品の一つ一つを取り出して見たくなり、ネジ回しで分解してみた。銀色の金属、金色の金属、様々な形、様々な組み合わされ方。それらがどうしてその素材で、その形をしているのか、作り手が丹念に仕掛けた、モノが語る書物を読んでいるようだった。そうか、モノには物語りがあるのだなぁ、と言葉にはならないながらも、大切な事を知ったのはその時かもしれない。

   ***

私はモノの細部にこだわり、細部を飽かずに眺めているのが好きだ。道に落ちているゴミ拾いをして家人の顰蹙を買ったりもする。だが、売っているモノなら、その商品全体やブランドというモノが好きなわけではない。数ある物欲増幅雑誌がつまらないのも、その辺がルーズだからだ。細部にある、たった一つの部分が好きで商品を購入することだってあるし、夢が見えにくくなっている時代だからこそ、細部が大切なのかもしれない。細部にこそ物語りがあるし、物語りのある細部を持つモノはあたたかいのだ。

※写真は手のひらにのる小さなメトロノーム。ひと目見てこれに決めた。

2002年 1月 16日 水曜日
【Happy birthday to you! 】

誕生日おめでとう。

そう言うと君は、私を見ながら、何を今更、誕生日などあったものかという顔で、大きな欠伸のひとつもして見せるかもしれない。生まれてきた事の痛み、生きていることの痛みがお前にわかるかと。

だが、思い出して欲しい。君を生んだお母さんの事。君は覚えていないかもしれないが、君には同時に生まれた妹がいたのだ。母親の温もりと乳首を共有した同胞(はらから)がいたのだ。
君と妹を産む痛みに耐え、無事に生まれた君たちを愛おしみながら、痛みが喜びにかわるまで耐えたお母さんがいたのだ。君の痛みはお母さんが耐えた痛みに優るか。

あるいは、君はこう言うかもしれない。生まれてきた事、生きて行く事こそが自分にとって最も理不尽な事なのだと。この苦しみが他人にわかってたまるかと。

だが、考えて見て欲しい。君が生まれた翌朝、忘れもしない1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部を襲った大地震で、家屋全半壊257,890、家屋焼失7,456、死者・行方不明者6,427人の被害が出て、死者の88%は圧死だったのだ。
明日がある事を信じて疑わなかった人々を襲った理不尽な死に、君が生きる苦しみと感じる理不尽さは優るか。

もう一度、誕生日おめでとう。

7歳といえば、人間なら42歳、男の厄年だ。健康に留意して、不摂生は謹まなければいけないぞ。君が死んだら、大声で泣く人間が少なくとも三人もいる事を忘れないで欲しい。力一杯生きろ、良く頑張ったね、大往生だったねと残された人たちの痛みが笑顔に変わるまで耐えて生きる事が、男らしさかもしれないぞ。

1995年1月16日早朝に生まれた我が家の愛犬、石原イビに心からの祝福を贈る。

 


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