電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 2月 1日 金曜日
【エレキの若大将】

中学時代に買ったフォークギターを掻き鳴らして、適当に誤魔化しながら歌うならお手の物なのだけれど、最近なんだか急にエレキギターが弾きたくなってきた。小学生時代、加山雄三演じる「エレキの若大将」は、私のアイドルだったのだ。
 
1月31日、念願のエレキギターが届いた。郷里に帰省中、中学時代初めてギターを買った店に注文しておいた物だ。エレキギターといっても本格的な奴ではなくて、仕事の合間に膝に乗せてちょっと練習できるように、アンプとスピーカーを内蔵した小型の奴で、若者には通称「ぞーさん」と呼ばれているらしい。早速開封して電源を入れ、クイ〜ンと鳴らしてみる。嬉しい! これで私も、晴れて「エレキの若大将」になれた気がする。
 
加山雄三主演、『エレキの若大将』は1965年の東宝映画。大学の若大将、銀座の若大将、日本一の若大将、ハワイの若大将、海の若大将に続く、シリーズ6作目だ。封切当時、私は11歳だった。
 
実家の牛鍋屋「田能久」の経営危機を救うため、若大将が友人を集めて「GO!GO!エレキ合戦」(当時実際に有った「勝ち抜きエレキ合戦」のつもりか)という番組に出演する。メンバーは若大将と田中邦衛、黒沢年男、そして寺内タケシ。ライバル・グループのジェリー・藤尾に脅された青大将(田中邦衛)の裏切りで演奏中に電源が切れるのだが、若大将が無伴奏で歌を唄い、それがウケて見事優勝する。当時小学生でなければ感動できないほど、気恥ずかしいシーンで、今でも別の意味で鳥肌が立つ。この映画からは「君といつまでも」「夜空の星」のヒット曲が生まれている。
 
若大将は、京南大学の学生であり、このシリーズでは水泳部、音楽部、拳闘部、マラソン部、ヨット部、スキー部、サッカー部、柔道部、陸上部、自動車部、フェンシング部そしてアメリカンフットボール部(『エレキの若大将』)に所属していた。こんなに四年間でこなせるのかと心配になるが、若大将に留年や飽きっぽい性格は似合わないので、きっとすべてのクラブを掛け持ちしていたのだろう。勉強している暇は有ったのかと心配にもなるが、若大将には勉強も似合わない気がする。結局『卒論の若大将』という作品は作られなかった。
   
   ***
   
昔の家庭は子沢山が多く、私の母は13人兄弟姉妹がいるし、年の近い友人にも大家族の中で育った者がいる。その内の一人Kさんは、末っ子だったので長男と親子ほど年が違い、物心付いた頃は長男を父、父親を祖父だと思っていたそうだ。そして、小学校の授業参観では自分の母親だけおばあさんに見えて恥ずかしかったという。これは切ない話で、お母さんにしてみれば、息子のためにできるものなら若々しくいてやりたかったのは山々だろうし、それほどの高齢の母になる「覚悟の愛」で彼を産んでくれたわけだから、少なくとも他人の私がとやかく言える話では無い。
 
小学生時代に持っていた『日本の昔ばなし』という本に載っていた話を思い出す。
 
昔々、人は歳をとってしわくちゃになると、皮をクルッと脱ぎ捨てて若返ることができたという。ある女性が、だいぶしわくちゃになって来たので川岸に行き、皮を脱ぎ捨てて若返って家に帰った。すると末の息子が「あなたはお母さんじゃない、ボクのお母さんはもっとしわくちゃだ」と泣いて受け入れてくれない。困り果てた女性が泣きながら川岸に引き返すと、先程脱ぎ捨てた皮が杭に引っ掛かっていたので、引き寄せてかぶり直し、再びしわくちゃになって家に帰った。それ以来、人間は歳をとると、しわくちゃになって死ぬようになったのだという。
 
いつまでも若くいたいのは人間誰でも望むことだが、それは叶わない。
 
「エレキの若大将」こと加山雄三は1937 年 4 月 11 日生まれだから、当時既に 28 歳だった。私の周りで若大将ファンは小学生ばかりで、若大将ファンだなどと言うと、少し年上のお兄さんから馬鹿にされることが多かった。中でも私が一番痛かった言葉は、
「なーにが若大将だよ、歌は下手だし、第一あいつもうすぐ三十のオヤジなんだぜ」
だった。
“若大将! どうしてもっと若くいてくれなかったの、十代とは言わなくてもせめて二十歳代前半、京南大学の現役でもおかしくないくらいに!”
と、私たちは叫びたかったに違いない。
 
だが考えてもみよう、若大将だって好き好んで年を取っていたわけではないのだ。
たとえ「もうすぐ三十のオヤジ」でも、私たちちびっ子の喜ぶ顔が見たくて、エレキを手に取り、派手な金赤ベストを着て、溌剌とした「エレキの若大将」ぶりを精一杯演じて見せてくれたのだ。

そうだ、「若大将」は老けていたからこそ「愛」そのものだったのだ。
 
そう、たとえ今年、年男で48歳になろうとも「愛」があれば「エレキの若大将」にだってなれる。
そう、「愛」さえあれば、と「永遠の若大将」は真新しいギターを抱きしめている。

※「ぞーさん」と『君といつまでも/夜空の星』のシングル盤。

2002年 2月 2日 土曜日
【君といつまでも】

レコード大賞特別賞受賞曲、「若大将」こと加山雄三が歌う『君といつまでも』が大ヒットしたのは 1966 年のことだ。
 
間奏の最中に挟まれる「若大将」が鼻の脇を指で撫でながらのモノローグを、小学生の私たちは夢中になって真似したものだった。
 
「幸せだなあ 僕は君といる時が 一番幸せなんだ」
 
続ける言葉が若大将の真骨頂だ。
 
「僕は死ぬまで 君を離さないぞ」
 
これは息苦しい! 京南大学アメフト部員だからできる激しいチャージで、“脂ギッシュ”な中年男にこんなことを言われたら、“たとえ”澄ちゃん(星由里子)でも逃げ出すに違いない。私なら、
「だから、ずっと一緒にいてくれませんか」
と、いうくらいが関の山だろう。
 
若大将のように自信満々の二枚目は、野球にたとえたら、投手の投じた初球をフルスイングし、やすやすとスタントまで持って行くのだが、凡人だと「澄ちゃん」が投じた「考えとくわ」の変化球でたちまちツーストライクに追い込まれてしまうものだ。で、自棄っぱちで三振覚悟のスイングをして空振りした揚げ句、呟く言葉がこうだ。
 
「僕は死ぬまで 君を忘れないぞ」
 
ああ、おぞましい。「いやよ」の言葉で三振した揚げ句、あろうことか愛する女性に呪いの言葉を浴びせているようなものだ。こんな言葉でコロッと翻心するような女性を愛したつもりなのだろうか。
 
では、「若大将」では無い凡人が愛する「澄ちゃん」の心を射止める方法は何か。
それは、ファウルで粘ることだ。バットに当ててフェアグラウンド外に球を打ち返し、ファウルにすることで三振を逃れ、結果的に相手の投球を無効にするのである。野球用語でカット打法という。ただし、高校生の恋愛でこの技を使うことはできない。高野連が定める高校野球特別規則で審判員が「カット打法」と判断した打球は、結果的にバントと判定され、スリーバント失敗でアウトになるからだ。
 
私はなかなか愛のカット打法が上手かった。
 
   ***
 
小学生時代、私のクラスの「若大将」人気は男女の性別を問わず高かった。
何年頃のことか定かではないが「若大将」が、自分の所有するクルーザー「光進丸」で遭難騒ぎを起こしたことがある。航海中「光進丸」からの無線連絡が途絶え、「若大将加山雄三遭難」のニュースがマスコミで報じられたのだ。登校すると、女子生徒も男子生徒も「若大将」の安否を案ずる話の輪に加わって大騒ぎだった。
 
中学生くらいまでの間、男女間の心の成長のギャップは甚だしいのだろう。女子は瞬く間に成熟して大人顔負けの恋愛騒ぎを起こしたりするが、男子の方はいつまでも子どものままで、「澄ちゃん」ではなく「若大将」に憧れていたりするのだ。私も「若大将」の命が助かりますようにと心から祈ったものだ。
 
翌日になって(資料が無いので定かではない)、「光進丸」無事発見のニュースが流れ、私たちは良かった良かったと喜びあったのだが、女子生徒の一人が思いがけない発言をして皆を絶句させた。
 
「死んじゃえば良かったのよ!」
 
これは凄い! これの本格的なのはテレビドラマでなら見たことがある。この言葉の意味する二つの心の動き。
一つめは、「死んじゃえば良かったのよ!」と叫んだ後に、
「こんなに心配させて、もう、馬鹿、馬鹿、馬鹿〜〜!」
と、愛する人の胸に飛び込んで、胸をトントンするやつ。
 
もう一つは、「胸に飛び込んで、胸をトントン」できる可能性の無い「その他大勢の女性の一人」が自分であることに不意に気付き、いっそ死んでもらって自分のものとして心の中で抱きしめたかったと言うやつ。
これは「大人っぽい」し「恐ろしい」。
「若大将」だったらこんな時、何と答えるのだろう。
 
「幸せだなあ 僕は君といる時が 一番幸せなんだ」
「うそっ! だったら私のために死んで!」

2002年 2月 3日 日曜日
【接頭接尾】

「はまボーズさんも、お元気でお過ごしください」

年上の友人に宛てたメールの最後に、そう一言書き添えて、ちょっとヘンだなと思う。
敬意や親愛の情を表す接頭語・接尾語が重複しているからだ。「〜さん」と接尾語を付けて敬意を表した後で、いきなり「元気」という濁音「げ」で始まるのに抵抗があり「お」を冠してしまう。続けて「過ごしてください」では命令調な気もするし、「過ごされますように」では、はまボーズ氏に気味悪がられるように思うし、「過ごしてくださいね」では月夜に釜を掘られそうな気もする。結局、ええい、どうでもいいや、と「お過ごしください」と受けて、送信ボタンを押してしまうのである。

個人のメールではどうでもよくても、さる尊い御方に関する報道などで接頭語「お」が連発されると気になる。妃(きさき)の性格が気さくであることを表現する御学友の言葉、
 
「あら、お流しは、お宜しいのよ」
(台所の洗い物まで手伝ってくれる気さくな方だった、と言いたいらしい。当時は平民の女なのだから当然な気もするが…)
 
この御学友宅の「お流し」というのは、どれくらい立派な「流し台」なのだろうか?
小学校の修学旅行で尊い御方の御用邸を見学した事がある。おそらく日光田母沢御用邸だったのではないかと思う。大正天皇静養のため、明治 32(1899)年に造営されたものだ。芝生が綺麗で、あの上で寝てみたいなと思ったのと、雪隠(大便所)が呆れるほど広かったのだけが印象に残っている。なにしろ六畳一間の我が家より広い(と感じた)和室の真ん中に、陶製便器がポツンとあったような気がする。ああいうのに「お」を付けるのなら、わかる気がしないでもない。
 
   ***
 
初めて大企業の社員というものになってみて、課長や部長など役職付き人間の「実体」というものを見てしまうと、「課長」「部長」自体が敬称であることも忘れがちになることが多く、社内の電話で、
 
「課長様のおっしゃることもわかりますが…」
 
などと思わず口走ってしまい、後ろで同僚に笑いながら、
「おいおい、奴隷じゃ無いんだから課長様はやめてくれよ」
などと、声をかけられたこともある。
 
三省堂大辞林によると接尾語「君」は「友達や目下の人の姓や名、または姓名などに付けて、親しみや軽い敬意を表す」と、した上で「古くは同輩以上の人に対する敬称として用いた。現在でも、議員同士の間では敬称として用いられる」とある。確かに「土井たか子君」などと呼ばれており、土井議員も議長時代、「小泉純一郎君」などと呼んでいたから、議員の場合は「主に男性の用いる語」というのも、あてはまらないようだ。
 
議員だけでなく、ツッパリ高校生の間でも「君」は敬称として用いられる。どちらも似ている社会的存在なのかもしれないし、心情的に相通じるものがあるのかもしれない。
 
頂点に君臨するものは「君」付けで呼ばれて有頂天なのだが、調子に乗り過ぎて墓穴を掘ることもあるようだ。
高校時代、大場という男がツッパリの親分格でクラスメートだったのだが、登校途中、急に学校をサボりたくなり、子分格で声の野太い者を選んで父親を演じさせ、学校に電話させたらしい。担任の教師が、朝、教室に入ってくるなり笑いながら暴露し、教室中、大笑いになった。
 
「大場の野郎、もう少し賢い奴を選べばいいものを、俺に電話して来て“もしもし、大場君の父ですが…”だってさ!」

2002年 2月 4日 月曜日
【イビの詫び状】

犬というのは飼い主に依存する体質が、ことのほか顕著な生き物だろうと思う。
 
世話焼き型で、その結果として他者から頼られるようになることの好きな人間には、格好の「伴侶」なのではないだろうか。自分(飼い主)に「依存してくれる」対象を飼育することで、自らその対象(犬)に「依存される人として依存する」関係になることが、容易に叶うのが犬の飼育であるように、我が母と愛犬「イビ」を見ていると思えてならない。人と犬との「共依存」である。
 
「吠えちゃだめ」と言うときの「吠えろの信号」は母から出ているし、「咬んじゃダメ」という時の母の声は明らかに「咬めの合図」になっていた。食卓から食べ物をねだる行動のキュー・サインが出る瞬間も、母の顔を見ているとわかるのだ。母のサインを受けて「頂戴、頂戴」をし、「駄目よ〜、人間の食べものをあげるとお兄ちゃん(私)が怒るからね〜」と母が諌めるという、見事な「マッチポンプ」なのである。この子は本当に困った犬で、私が先に死んだらどうなっちゃうんだろうね、という犬を育てているのが母自身なのだ。
 
更に驚くべき現象は、母の興味が自分から遠退いていると感じる時に、イビがその場にある適当なもの、母のスカーフやら帽子やらをサッと咥えて叱られるような事をし、母の注意を引きつける行動があることだ。そのバリエーションは実にさまざまで、あの手この手の直向きな努力が微笑ましい。犬の側からもある程度「共依存」を維持しようとする働き掛けがあるのだ。
 
   ***
 
冬の夜、炬燵でうとうとするのは気持ちがよい。掘り炬燵ではなく床面直置きの電気炬燵だと「暖房付き布団」のようなものなので、朝まで眠ってしまったりする。
あまり健康に良くない気もするし、決して品行方正な生活態度とはいえないので、自ら改めようという気持ちが沸くうちは良いのだけれど、歳を取ってくると、炬燵から出て、階段を登り、冷たいベッドに潜り込むのが億劫になり、次第に炬燵周りに身辺雑貨が集まってキャンプ場のようになってしまう。そうしたお年寄りの暮しでは、夏場も電気を落とした炬燵がそのままねぐらになっていたりする。
 
我が母の場合、それはそれで仕方無いと思っていたのだが、座敷犬を飼育するに及んで、母の性格を良く知っている息子から見ると、「母と犬と炬燵」三点セットの「共依存」は絶対にやめさせなければと思った。イビがかなり権勢を振るう犬で、人と犬との地位逆転が起き、問題犬になるのが目に見えていたからだ。
犬と過ごす一階全面をフローリングにしたほうがよいという提案を母が受け入れてくれたのは幸いだった。椅子とテーブル、そして二階にベッドという暮しは、母の少女時代からの憧れでもあったのだ。
私が排除したかった「炬燵」は、晴れて粗大ゴミとして処分され、母は今だにその事を後悔していないようなので助かる。
 
それでも眠くなって、二階のベッドに辿り着くのが大儀に感じる日もあるらしく、時折、一階の床で眠ってしまったなどという話も聞く。
夏の寝苦しい夜なら、ひんやりした木の床で寝るのは、それはそれで気持ちが良いのだが、冬は風邪を引くし、身体に良くないので止めて貰いたい。だが先日も、とうとう床で眠ってしまったらしい。
 
翌日母が笑いながら話すには、犬というのは身勝手なもので、夜が更けて来たら寂しいらしく擦り寄ってくるので、可哀想に思って寒い床に寝転がって抱いてやったら、身体を寄せて眠った。だが、翌朝、寒さで目を覚ましたらイビは暖房付きのハウスに戻って毛布に包まって眠っていた。あまりに身勝手な行状に呆れた、と言うのだ。
 
言葉を話せないイビが、文字を書けたらこんな手紙を書くのではないだろうか。
 
前略 育てのおふくろさま
昨夜は朝まで床で眠られたようですが、お風邪を召されなかったかと案じて居ります。
あまりにおふくろさまが寂しそうなご様子だったので、隣で横にならせていただいたのですが、衣服も付けず身体も小さな私には、何処からか隙間風の吹き込む一軒家の床はことのほか寒く、老いたとはいえ身体の大きな人間のおふくろさまに、朝までお付き合いすることができませんでした。
幼い頃に別れたとはいえ、私にも生みの親がございます。その親からいただいた、たった一度の生を慈しむことこそが私の恩返しだと思って、今日まで生きてまいりました。
育てのおふくろさまにも、まず第一に、ご自愛お忘れなきよう、私の座右の銘を贈ります。
 
「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝(こう)の始めなり」(中国古典『孝経』より)
 
不一

2002年 2月 5日 火曜日
【夜はやさし】

スコット・フィッツジェラルドが、1920年代の「無軌道な生活」ののち、妻が精神病に倒れ入院費の支払いにも事欠き、作家としての評価が凋落しつつある絶望的な時期に書いた長編小説が、『夜はやさし』だった。
 
私は、その本を読んだことがない。ただ、何年か前、深夜にテレビを点けたら映像化された『夜はやさし』が放送されていた。かなり長いとみえて、何夜か連続で放映されており、タイトルは“夜はやさしく”だったような気がする。
 
その頃、私は深夜に起き出して仕事をすることが多く、どこかで人の声が聞こえていないと寂しくてたまらず、小さなテレビを点けっぱなしにしていることが多かったのだ。見るとはなしに見ているうちに夢中になり、原作者スコット・フィッツジェラルドに妙に心惹かれていることに気づいた。
 
昨年、編集者のはまボーズ氏宅を訪問した際、ふと、フィッツジェラルドの話をしたら、これを読んでみろと頂いた村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー』中公文庫が、いま手許にある。はまボーズ氏お薦めの作品の一つ、冒頭の『残り火』を読んで驚いた。これは凄い。あまりに凄いので、はまボーズ氏に日日抄で感想文を書いてみようかと思うと言ったら、オレはテーマが重過ぎて原稿用紙二枚書いたところで断念したと聞かされてちょっと尻込みし、さらに脳出血で倒れる登場人物ジェフリイは右脳をまずやられたのだろうという深い考察を聞かされるに及び、あっさり断念。
しかも、「売れっ子作家ジェフリイと美貌の女性ロクサンヌという人も羨む夫婦、その幸福な暮らしを、夫が脳出血で倒れ植物人間になるという不幸が襲う…」なんていう、あらすじを書くのがしんどいくらいに、密度の濃い短編なのだ。
 
あらすじ付きの感想文はやめにして、気になった事を日記に記して置きたい。
 
植物人間となった夫ジェフリイを看護するロクサンヌを、無二の親友ハリーが訪ね、その妻キティーとの夫婦の破局を打ち明けようとするシーンが素晴らしくて私は痺れた。打ち明け話の最中に、ロクサンヌに哀しい覚悟をせざるをえない診断結果を告げる事になる医師が到着する場面。最初の科白はハリーのものである。
 
「いったいどうすればいいのか……」
 その時、砂利を踏みしめる音とともに、一台の車が角を曲がり、路上にその姿を現わした。ロクサンヌの口から微かな叫びが漏れる。
「ジュウイット先生よ」
「じゃあ、僕はこれで……」
「いいえ、お待ちになって」放心した様子で、彼女はハリーの言葉を遮った。ハリーには自分の問題がロクサンヌの乱れた心の中からすっかり消えうせてしまったことがわかった。

 
この後、ハリーは呆然とし、「自分の問題」が何であるのかを「自分で理解する」行程に入って行くのだが、それが圧巻なのだ。見事な心理カウンセリングを髣髴とする筆の冴えが見られる。そのきっかけとして、ハリーの後頭部をガツンと殴るような一撃、その一撃を私は自分の後頭部にまともに受けてしまった。自分と他者の境界が曖昧で、依存し合おうという志向の強い私には、この「ガツン」が、過去も、そして今も、とても「痛い」のだ。
 
「アルコール依存症(Alcoholics)」治療の臨床の場で、「共依存(co-dependency)」の概念が提起されたのは「1970年代終わりのアメリカ」でのことである。「ある種の病」は「関係性の病理」だという考え方である。『残り火』に登場するハリーの妻キティー、そしてジェフリイは「共依存(co-dependency)」で顕著な「過程嗜癖」であるし、ロクサンヌとハリーは「関係嗜癖」ではないのだろうか。そしてハリーと私の後頭部に一撃を食らわした、フィッツジェラルド自身、嗜癖のうちのアルコール・薬物・食料の過剰摂取である「物質嗜癖」すなわちアルコール依存症だったのだ。
 
この作品を貫くフィッツジェラルドの「やさしさ」の根源は何だろう。共依存概念の第一人者である、Sharon Wegscheider-Cruse により「アメリカの全人口の96%は共依存」と指摘されるに及び、「関係性を持つに至った心理的・社会的背景」を分析することで、世の中のありようを理解しようという動きのある今日この頃だが、フィッツジェラルドが『残り火』を書いたのは何と 24 歳の時、1920 年のことなのである。「関係性こそ…」と知っていたとしか思えないフィッツジェラルドが私の肩を掴んで揺さぶるのだ。

2002年 2月 6日 水曜日
【草の名前】

「植物が好きなの?」
「好き」
 
どうということのない 13 歳の男女が、手入れの行き届いた庭を散歩しながら、交わした会話である。それは 35 年前の 13 歳でも、今この時の 13 歳でも、同じ場所で話される会話としては、月並みで、深い意味もなく、ぎこちないことに変わりはないはずだ。せいぜい違っているのは、「デート」の意識を持つくらいに、今の 13 歳の方が、ませているかもしれない程度のことだ。
 
   ***
 
真新しい学校、真新しいクラスで、隣の席に座ることになった少女の過去を私は知らなかった。私が、転校生同様の余所者だったからだ。登校初日の放課後、彼女に自宅の庭を見に来ないかと誘われ、寄り道してふたりで庭を歩き、「植物が好きなの?」と私が訊ね、「好き」と彼女が答えた。それが最初で最後のふたりきりの時間であり、取るに足らない思い出で終わっているはずの、青春の断片だった。
 
翌日、登校するとクラスの男子生徒数名が近づいて来て、「昨日あいつの家へ行っただろう?」と訊ね、「行った」と私が答えると、「もう行かないほうがいい」と言う。「何故?」と聞き返すと、「お前は知らないだろうけど、あいつは“癲癇(てんかん)”なんだぜ」と上目づかいに囁く。私は癲癇というものを知らなかったので「癲癇って何?」と聞くと、友人の一人が、「急に白目を剥いて倒れ、口から泡を出し、その泡に触るとうつるんだぜ」と私に教えた。
 
ひどい話である。帰宅後、母親に話し「馬鹿なことを真に受けるんじゃない、癲癇がうつるわけないでしょう」と笑われ、私も泡に触ったらうつるなんて馬鹿げていると、気に留めないことにした。
 
彼女は癲癇であることを理由に、以前から「いじめ」を受けていたらしい。初日の緊張感がとけた翌日から、新しい学校の、新しいクラスで、気分も新たに、新しい陰湿な「いじめ」が始まった。近づかない、話しかけない、話しかけられても答えない。小学生時代から、彼女は常にそこに「存在」しながら、「存在」することを否定され続けて生きて来たのだったのだ。
 
この手の「いじめ」は根深いし、感染力が強く、多少の正義感などでは抑止できない。全く存在しないかのように接するだけなのだから、「いじめ」が顕在化しにくく、罪悪感もさ程感じずにすむという、卑劣極まりない「いじめ」なのだ。「いじめ」の存在に気づいた教師にしか助けることは出来なかったのではないかと思うこともある。
 
私は、ことさら無視するでもなく彼女と過ごした気がするが、今となっては言い訳かもしれない。
年が明けて別のクラスになった時は、安堵の気持ちを覚えたというのが正直な気持ちだからだ。その声無き「いじめ」は、私にとって最大の恐怖であり、「いじめ」が存在するという、教室の空気が息苦しいだけの一年間だったのだ。
 
   ***
 
私は、他人の心の中に「存在しているはず」と思いこんでいる自分が「存在しなかった」と気づく瞬間の衝撃に、幼い頃から弱い。昨日の日日抄、『残り火』でハリーが体験したような、いわば当たり前のどうということの無い一瞬の「空白感」を、何歳になっても痛みとして感じてしまうのだ。
そんな性癖をもつ私が、近づかない、話しかけない、話しかけられても答えないという、「いじめ」を受けたとしたら、不登校どころではなく、おそらく生きてはいられなかったと思う。
 
花札の紅葉の札の鹿がうしろを向いて知らん顔しているように見えることから、相手を無視することを「しかとする」と言うのだそうだ。少年少女が用いるのを聞くが、いったい何処からこんな言葉を仕入れて来たのだろうと不思議だ。
無知が偏見を生み、偏見が差別を生んだ、私が体験した「いじめ」よりも、更に陰湿な、級友を死に追いやる「いじめ」に、この「しかとする」行為が多いことが私には恐ろしい。自らを死に追いやるほどの「痛み」であることを知っているからこそ、その「痛み」を最も有効な武器として用いているように思えてならないのだ。他人の心の中に「存在しているはず」の自分が「存在しない」と気づく瞬間の「恐怖」と「痛み」を、今の子どもたちは、皆、知っているのでは無いかと。
 
   ***
 
「植物が好きなの?」
「好き」
 
どうということのない 13 歳の男女が、庭を散歩しながら交わした、どうということのない会話を、彼女は暗黒の少女時代の思い出の中で記憶しているだろうか。

奇妙な几帳面さで手入れされた広大な庭で、この木の名前は斯く斯く、この花の名前は然然、と説明し、「この草にだって名前があるのよ」と笑いかけた少女は、ぼんやりと相槌を打ちながら、「植物が好きなの?」と聞いた少年のことを覚えているだろうか。自分の過去を知らない友として、藁にも縋るような気持ちで選んだ少年が、何の頼りにもならない臆病者だったことを覚えているだろうか。望みうるなら、すべてが忘却の彼方にあり、哀しく痛いことだけれど私の「存在」は影も形もなく、それでもなお、今でも「植物が好き」と言えるような心の日だまりを持って生きていてくれることを、永遠の臆病者は願わずにいられない。

2002年 2月11日 月曜日
【永遠の別れ】

 神が世界を創造したとき、将来、人とイヌの間に友情が結ばれることを予見していなかったにちがいない。さもなければ、神は、イヌに主人より五倍も短い生命を割りあてたことについて、はっきりとした、だがわれわれには不可解な理由をもっていたのだろう。人間の生活には、愛している者と別れなければならぬという深い悲しみ、その者が自分よりも数十年先に生まれたという事実によって、必然的に運命づけられている終わりが近づくのを見るという悲しみがある――すべての者がそれぞれ自分の悲しみをになっているのだ。
コンラート・ローレンツ著『人イヌにあう』小原秀雄訳 至誠堂選書 より

 
2 月 11 日は、かつて我が家にいた愛犬「早太郎」の誕生日だ。
早太郎はスムース・ヘアー、ブラック・アンド・タンのミニチュア・ダックスフント、子どものいない私たち夫婦にとって、早太郎が一家の中心であり、太陽のように愛の喜びをふりまく、掛け替えのない家族の一員だった。
 
愛するものとの別れは、悲しみの序奏とともにやってくることもあれば、突然、平手で頬を殴打するように残される者を襲うこともある。まだ温もりの残る早太郎を抱えて、私たちは深夜の街を泣きながら走り、かかりつけの獣医にその死を宣告されても諦めきれず、隣町の獣医の元へ走った。生きている時に感じるより、死にゆく者の身体は何と重いのだろうなどと考えながら、無情にも冷えて行くだけの身体を抱きしめて私たちは走った。
 
明け方近く、早太郎が「死んだ」ことを受け入れ、彼が好きだった、私たちの匂いの付いた衣類を入れていた竹製の籠に、前夜来客から贈られた紅花の花束を添えてそっと横たえた。泣きながらも、疲労が激しい私たちは籠に寄り添って眠った。
 
後に、翌日から私がとった行動を振り返って妻は、「あなたは鬼のようだった」と、話すことがある。
愛する家族の一員のために、まず葬儀の段取りを整えなければならない。庭のある暮らしなら、木の根元に埋めて手作りの葬儀をするのが私の理想とするところなのだが、マンション暮らしではその夢も叶わない。電話帳を調べた揚げ句、かかりつけの獣医に尋ねるのが一番と気づき、神奈川県川崎市にある動物専門の霊園を紹介していただいた。電話すると、すぐに自動車で東京都文京区まで引き取りにやって来て、翌日、月曜日の昼過ぎに葬儀が営まれることになった。
 
そこにいる筈の生き物が欠けたことによる、心の空洞は恐ろしい。早太郎のいない日曜日という突然現れた心の空洞は、私たちにとって地獄そのものだった。早太郎が散らかしたままの玩具、食事用具、膨大な写真を見る度に、妻は大声で早太郎の名を呼んで泣いた。最近話題の「ペット・ロス」というやつで、私にはそのままにしておくと妻が精神に異常をきたすのではないかとすら思えた。
 
翌朝、私は夜が明けるのを待ちかねて、早太郎の思い出に繋がるあらゆる物を自動車に詰め込んで、妻と霊園に向かった。午後1時の葬儀の前に、私には行っておきたい場所があったのだ。
鎌倉市の材木座海岸、幼い頃、何度も海水浴に出掛けた父親との数少ない思い出の場所だし、小学校時代の臨海学校の場所でもあった。海岸沿いの道に車を止め、早太郎の思い出の品を抱いて波打ち際まで歩き、激しく打ち寄せる波に向かって、名前を呼びながら一つひとつ海に投じた。
梅雨時の横殴りの風と雨に海水が混じり、唇が塩辛かった。
 
私はもう彼のどちらかというと重々しい足音も、私についてくる鼻をならす音も耳にすることができないのだ。彼がいなくなってはじめて、私はその事に気がついた。ブリイの死につづく日々に、私は、感じやすい人びとに死者の亡霊を信じさせるものが何であるかを、本当に理解しはじめていた。数年にわたってたえず私を追ってついてきたイヌの足音は、私の脳裏に、いつまでもつづく印象を刻みこんでいた。
コンラート・ローレンツ著『人イヌにあう』小原秀雄訳 至誠堂選書 より

 
それからの人生を早太郎の亡霊とともに歩くことを私が拒んだわけではない。思い出に繋がる「もの」を抱きしめるのではなく、生きている「もの」を抱きしめて、妻には人生を歩んでもらいたかったのだ。
早朝の鎌倉をあとに、私は時間潰しと、茫然自失の妻の慰めにでもなればと、三浦半島を走り回った。何を思ったか、サザンオールスターズの「Bye Bye My Love」をエンドレスでかけながら、私たちは雨の半島を迷走した。
観音崎灯台あたりで車を降り、無表情の妻と歩く時、妻は道端でタンポポを数本摘み、
「早ちゃんにあげるの」
と、呟いた。
 
そろそろ葬儀場へ、と車を走らせたのだが、慣れない場所に地図を見ながら辿り着くのに手間取った。今にも火葬にされる早太郎が思い浮かんで気ばかり焦り、遺族を待たずに火葬を始めるわけもあるまいと思うものの、その迷走もまた地獄の苦しみだった。何とか時刻に間に合い、火葬場に走ると、早太郎は、私たちが添えた花束の中で、あの夜のままの表情で眠っていた。
妻がどうしても早ちゃんと一緒に、と持ち帰った赤い引き綱が添えられて、早太郎は炉の中に消えて行った。
ふと妻を振り返るとタンポポを握りしめたままだったことに気づき、私は、
「タンポポ!」
と、叫んだ。妻が炉に投げ入れた瞬間、わっと炎の中で身を捩らせたタンポポが、私には今も鮮烈な映像として忘れられない。
 
ノーベル賞受賞、偉大な動物行動学者であり、私たちの「心」の恩人であるローレンツ先生が、『人イヌにあう』の最終章「忠節と死」に添えた、イギリスの詩人バーンズ(Robert Burns:「蛍の光」の原詩作者でもある)の詩の一節を転記する。
 
  喜びはけしの花の開くに似たり
  手にとるや花はこぼれ落つ
  あるいは、川面に散る雪か
  ひととき白く――やがて永遠に溶けゆく

※写真は妻が早太郎の写真を集めて作ったポストカード。

2002年 2月12日 火曜日
【人生劇場】

『ニッポン居酒屋放浪記』などの著作で知られ、居酒屋評論の第一人者になってしまった感のある太田和彦さんが朝の NHK ラジオに出演していた。1946年生まれ。私の大学の先輩にあたり、資生堂宣伝部勤務のグラフィックデザイナーを経て、現在、東北芸術工科大学教授だそうだ。一度、大学の同窓パーティでお逢いしたことがある。
 
アナウンサーに「古い居酒屋の何処が好きなのか」と聞かれ、
「時代に取り残されたようなところ」
と、太田さんは答えられていた。
 
私も明治・大正・昭和初期創業の古い居酒屋が好きで、そういう店を好んで飲み歩く。若干ヘソ曲がりの都市生活者に特有な嗜好かもしれない。
 
アナウンサーに「良い居酒屋の見分け方は?」と聞かれ、
「古いけれどきれいな店」
と、太田さんは答えられていた。
 
太田さんが NHK で、「店名を挙げてもいいのか」と気にしながら名前を挙げられた店のいくつかは、私も行ったことのある店で、確かに「古いけれどきれいな店」である。
 
だが「古い」と「きれい」の共存は硝子の城のように脆く儚い。「古い」ものは「新しい」ものより哀しくもやはり「汚い」のであり、古い店の「きれいさ」は店に流れる「ひとという水流」によって浄化された結果による幻影なのだ。その「きれいさ」は、見ようとしない人には見えない。
 
人の還流しなくなった「古い」店から「きれいさ」が消えうせることの速さには驚く。壁のポスターも、品書きも、日めくりも、常連の土産品も、客足が途絶えるとともに、魔法が解かれたように「汚く古い」だけのものに変わって行く。そうして古い店は「時代に取り残された」店になるのだ。

   ***

友人の影響もあり、私は「古くて汚い店」が好きだ。がらんとした店のカウンターに腰かけて、「まずビール」を注文し、煤けた品書きから、注文して店主に恥をかかせないようなものを選ぶのに苦労する。
そして心の中で呟く。“このグラスの汚さはなんだ、棚の飾り物はガラクタばかりじゃないか、品書きはもう既に無いものばかりじゃないか、どうして油染みて剥がれかかったポスターをいつまでも貼ったままにしておく、どうしてこんな店になる前に何か手を打たなかったのか。店もガラクタ、客もガラクタ、店主もガラクタではないか、だけどこの店が好きなんだよ”と。
 
商店というのは人生の劇場だ。
かつて朝日テレビ『朝まで生テレビ!』で、俳優の黒木香さんを侮蔑した自民党議員を、映画監督大島渚さんが怒鳴りつけたことがある。
「このひとは体を張ってこの芸で生きてるんだ。体を張って仕事をしたことのないお前たちに侮蔑する権利は無い!」
 
商店という仮面はあるものの、都市に看板を掲げての商売は「体を張る」ことに近い。体を張った商売で「時代に取り残される」感覚を意識することは辛い。私のような弱虫には決して耐えられない心の暗黒を見るような衝撃があるに違いない。だからこそ、私の足は自然に「古くて汚い店」という劇場に向くのかもしれない。全てがガラクタになっても、流れの仲に立ち尽くす一本の杭のような、人生の劇場が好きだし、見せていただけることが有り難いと思うからだ。私たちもいつかは、そうしてガラクタになるのだ。

   ***
 
清水蔵談義会場、石野源七商店を取り仕切る奥様が言われた言葉が忘れられない。
「古い看板、生活用具、ひな人形。使われなくなった蔵で埃を被っていた物たちが、ひとが集い、見ていただけるだけでこんなに生き生きとしてくるのに驚いた」
そう、「きれい」「汚い」を決定するのは「新しさ」や「古さ」では無いのだ。人生という劇場で「ひと」こそが、それを決定する力を持っているのであり、時代に取り残されるか、そうでないか、全ては「ひと」の手に委ねられているのだ。

   ***
 
太田和彦さんが好きだという仙台の街。父方の郷里である杜の都の古い飲み屋街は私も好きだ。近代的なビルが立ち並ぶ大都市で、古い飲み屋街や、古色蒼然とした闇市風の商店街が、「ひとの流れ」の還流により、「新しさ」を失なわず、今も見事な「人生劇場」であることに感動すら覚える。地域の文化というのは「ひと」そのものであり、箱物ではなく目に見えない「ひとづくり」に注がれる財源の量こそが、近代的文化都市のバロメーターのように思えてならない。

※写真は石野源七商店蔵のおひなさま。

2002年 2月15日 金曜日
【林檎の名前】1…Macintosh IIvx

社会人になり、自分の食い扶持を自分で稼ぎ、多少の分別もつき、それなりに人生の方向性が見えはじめた年頃になって、生まれて初めてパーソナル・コンピュータの操作を体験するなどという人々も、早晩いなくなるのかもしれない。小学校でパソコンの授業を体験することですら、今では当たり前らしいから。
 
自分と年齢の近い友人がパソコンに、自ら進んで、もしくは人から強制されてでも、挑戦してみたなどという話を聞くと、感想をうかがうのが楽しい。
 
パソコンを“所詮論理の塊なんだな”と捉えるタイプと、パソコンとは“永遠に不可思議な出来損ないの機械”と捉えるタイプの人に分かれ、どちらもすぐに“わからん!”の壁にぶつかり、前者はマニュアルと格闘し、後者はひたすら他人に頼るようになる。

   ***
 
私が初めてのパソコンを購入したのは 1992 年、Apple Computer の Macintosh に搭載する漢字Talk 7 という OS が登場した年だ。届いた真新しい Macintosh の美しいマニュアルを読んで感心した。“永遠に不可思議な出来損ないの機械”としか思えないと横目で見ていたパソコンが、“所詮論理の塊なんだな”と、私には思えた。一時の幻想であったとしても、真に論理的な相棒ができたことを心から喜んだ。
 
ハードディスクという身体があり、「システムフォルダ」という頭があり、その中に「システム」と「Finder」というファイルがあることで、それが「脳」となり、その機能を構成する「機能拡張」と「コントロールパネル」があるんだなと、単純にわかった気になって喜んだ。そして「脳」のあるハードディスクを初期化しようとすると“自分で自分を消去することはできない”という主旨の注意ダイアログが出るのにも感心した。
鏡に向かって自分の笑顔や泣き顔を見ることはできても、自分の死顔を見ることができないのと同じ道理なのだ。なんと聡明な機械だろうと思ったものだ。
 
所詮論理の塊であると思える機械に、論理的につき合って、予想通りの反応が返ってくることは楽しい。Macintosh の美しく優しいインターフェイスと向きあっていると時の経つのも忘れるほどだった。
 
私のような職業の者は、Macintosh にせよ Windows にせよ、ポスト・スクリプトという“ページ記述言語”を操作して作業することになる。Adobe Systems 社が開発し業界標準となったこの方式は、平たく言えば“斯く斯く然然の図形を描きなさい”という文章を言語で記述し、書類のままプリンタに渡す。プリンタはその書類を解釈し、“斯く斯く然然の図形”をもう一度描いて、紙やフイルムに出力する。このプリンターを“ポスト・スクリプト・プリンタ”と呼び、文書を解釈して再描画するために内蔵されている仕組みを“インタープリタ”と呼ぶ。要するに“ポスト・スクリプト・プリンタ”もれっきとした“パソコン”なのである。
 
私を待っていた落とし穴は、この“印刷専用パソコン”の“わからなさ”だった。
漢字Talk 7 という OS が登場した直後、すぐに仕事にパソコンを活用したかった私にとって、同 OS に正式対応しているプリンタを探すと、外国製の高価なプリンタしか選択の余地がなかったのだ。Adobe Systems 社にライセンス料を支払っているプリンタを“純正”と呼ぶのに対し、仕様が公開されているポスト・スクリプトのインタープリタを独自開発して搭載しているものを“ポスト・スクリプト互換プリンタ”と呼ぶ。メーカーは独自開発だからこそ迅速なユーザーサービスが可能だと宣伝していたが、これは酷いものだった。
 
OS も、ソフトウェアも頻繁にバージョンアップを繰り返す時代だったのだが、バージョンが上がる度に印刷不能になる。エラー・ログを読み、参考資料を読み、徹夜で原因を探ってもわからない。たった一つ四角形を描いて出力しようとしてもエラーになる始末で、メーカーのサポートに電話すると「そんなはずは無い」との一点張り。その揚げ句、数日後に“ROM 交換によるバージョンアップ”の知らせが届き有償サービスだという。
“ROM 交換”しても改善しないので、サポートに“論理的”に抗議し追究すると、サービスの人間が取り外した古い ROM を新しいものと間違えて、再度取り付けて行ったなどという、笑えない話もあった。しかも、再度訪問もまた有償だという。もう、呆れて“論理的”に付き合うのは止めて、金で片づくものならさっさとメーカーともガラクタ印刷機とも縁を切りたいと願ったものだ。
 
“論理的”と思い込んだ相手に“論理的”に付き合い、相手が“論理的”でないと知った時、人は狂う。幸いにも、心が狂う前に、まず身体が悲鳴を上げる。手のひらに赤い発疹ができ、やがて身体のあちこちに広がり、たまりかねて大学病院に行くと、原因はわからないが体質的なものかもしれないので、一生病院通いをして強い軟膏をつけ続けろという。軟膏をつければ確かに発疹は治まるのだが、今度は皮膚がどんどん硬化してくる。思い切って、純正プリンタに買い替え、頃合いを見はからって通院を止めると、いつの間にか完治してしまった。
 
最近、パソコンと“論理的”に付き合い始めた友人が、あまりの“わからなさ”に、深夜に“わからん!”を連発した揚げ句、身体に赤い発疹ができたというが、“非論理的電脳心労性発疹”とも呼ぶべき現代病かもしれない。
 
   ***
 
Macintosh IIvx、Macintosh IIci の後継機種として発売されたものの、バス速度が16MHz と遅く、性能的に見劣りしたため、商品寿命が短かく、同機の購入者は後継機の登場に地団駄を踏んだ。そのため“悲運のマシン”とも呼ばれたらしいが、私は決して不満を持ったことは無かった。“intel のプロセッサを積んだガラクタ印刷機”を相棒に持ったことだけが、愛しい Macintosh の不運だったのかもしれない。

Macintosh IIvx:CPU=MC68030/32MHz、FPU=MC68882、最大メモリ搭載容量=68MB(増設単位:4、30pin SIMM)

※ちなみに私が現在使用中のポストスクリプト・プリンタの CPU(中央演算装置)はすべて“PowerPC”搭載である。

2002年 2月15日 金曜日
【林檎の名前】2…PowerBook 170 JLPGA

幸せを手に入れた途端に、それを失うことを思い描いて哀しくなるタイプの人間がいる。喜びと悲しみが常に表裏一体なのだ。
 
林檎マークのパソコンを手に入れて惚れ込み、その幸せを失う自分を想像しただけで堪え切れず、もう一台欲しくて欲しくて矢も盾もたまらなくなってしまった私がそのタイプだ。“仕事に使用しているパソコンがある日突然故障したら困るではないか!”との妄想を逞しくし、パソコン故障に泣いた友人の話を誇張し、“風雲他山”の旗印のもと敵陣に切りこみ、妻を説得して何とかもう一台、林檎マークのパソコン購入を、と画策したのだが、どうしても説得する自信がない。どうせ、もう一台購入するならノート型の PowerBook が希望だったのだが、数十万もする鼠色の“大人の玩具”を突然持ち帰り、気まずい灰色の食卓で妻と向きあう勇気が私にはなかった。
 
「欲しい」「欲しい」と溜息形の吹き出しを頭上に放出しながら秋葉原をうろついていたら、難局打開の切り札とも思える、素晴らしい珍品を見つけてしまった。
Apple Computer が JAPAN 女子ゴルフツアー(JLPGA)を後援したのを記念して、1991 年 9 月 13 日に発売された“JLPGA Special Color PowerBook”がそれで、日本国内で限定 500 台販売されたものだった。当時、ベネトンの F-1 レーシングチームが使用していたカラーリングに似ていたので、通称“ベネトン・モデル”と呼ばれているらしい。現在ではプレミアムが付いているらしいが、あまりの奇抜さ、値段の高さ、さらに翌年 PowerBook 180 が発売されたこともあって、1993 年当時まで新品で格安在庫処分されていたのである。
 
思わず衝動買いしたものの、これは一種の博打である。
何せ“ベネトン・カラー”のノートパソコンなのである。グローバル・ヴィレッジの内蔵モデムまで増設して貰ったので二十万を越えてしまったのも後ろめたい。
 
「ジャ〜ン! ベネトン・カラーの PowerBook だよ!」
「あなた、頭がどうかしちゃったんじゃないの?」
これは最悪のケース。
 
「ジャ〜ン! ベネトン・カラーの PowerBook だよ!」
「わ〜っ、可愛い〜〜〜っ!」
これが最善のケース。
 
一生の不作か、理想の少女趣味妻か。
 
   ***
 
その後、ベネトン・カラーの PowerBook は NIFTY-Serve のパソコン通信と、妻の Macintosh 入門用愛機として活躍し、現在も我が家の永久保存 Macintosh となって余生を送っている。
 
モノクロ TFT の液晶は真夏の太陽の下でも鮮明に文字が表示され、原稿書きの作業が快適にできる。私が Apple Computer を買収できるほどの大富豪なら、一時期私物化して、当時の漢字Talk 6.0.7 の OS で良いから長時間駆動モノクロ・モバイル・ノートを作るのにと残念でならない。

PowerBook 170 JLPGA:CPU=68030/25MHz、FPU=MC68882、最大メモリ搭載容量=8MB

 

 


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