電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 4月 1日 月曜日
【流れゆくもの】

流れゆく大根の葉の早さかな
 
この句が載っていた国語教科書は、私が中学三年生の年のものだ。
どうして明確に覚えているかというと、国語担当の男性教師、太田和(おおたわ)先生が好きだったからである。名前は和夫だったような気がするが、定かではない。
報道部員だった私が、学級新聞コンテストに参加するガリ版刷り新聞の目玉として、郷土の戦争体験記事を載せることを思い付き、エッセイを書いてくれませんかとお願いすると、清水市郊外山原堤(やんばらづつみ)で迎えた終戦の日の思い出を、丹念に原稿用紙で書いてくださるような、素朴で誠実な先生だった。
 
教科書に載っていた、この高浜虚子の句を解釈してみよというので、私は手を挙げ、

「冬の朝、山村を歩いていると、小川の流れに大根の葉の切れ端を見つけ、ああこの山深い里のさらに上流にも朝餉の支度をする人の営みがあるのだなぁ、という感慨を詠んだもの」

と、こたえた。「他の解釈をする人は?」と、先生が続け、

「冬の大根畑、山から吹き降ろす風が耕地の上を渡り、風になびく大根の葉が、あたかも水の流れのようであったことを詠んだもの」

と、私の隣の席に座っている女生徒がこたえた。
 
私はそれはおかしいと思い、先生は解釈はいろいろあるから楽しいと言い、授業後も彼女は自分の解釈が正しいと言い張った。
 
   ***
 
中国の故事。昔々、燕の太子丹の依頼を受け、荊軻という者が秦王(後の始皇帝)を暗殺するよう命を受け、燕の国境を流れる易水を渡って出発する。丹との別れに際し、荊軻は
 
風蕭々として易水寒く
壮士ひとたび去ってまた還らず

 
と歌ったという。
蕪村は「史記」のこの故事に触発されて
 
易水にねぶか流るる寒さかな
 
と、詠んだのだという。ねぶかというのは葱のことだ。
そして蕪村に心酔していた虚子が詠んだのが冒頭の句なのである。
「ほら見ろ、僕の解釈が正しいではないか」と、当時の私がそんな事を知っていたら、言いたいところだが、私はその頃「流れゆく大根の葉」は良い表現だと思うのだが、その中に言いたいことの全てがあって「早さかな」は、くどいなぁと感じており、むりやり「ああこの山深い里のさらに上流にも朝餉の支度をする人の営みがあるのだなぁ」などという、蛇足ともいえる解釈を無理やり付け加えたのだった。だから、この句はあまり好きでは無いのだ。
 
今、ふと思い出して見ると、彼女の解釈もなかなか良いなぁとも、思えたりする。
彼女は詩を書く少女であり、互いの詩を見せあったりしているうちに、親しく付き合うようになり、彼女が地元国立大学教育学部を卒業するまで、私たちの付き合いは続いた。今では、年に一度、年賀状が届くだけである。
 
   ***
 

逝く春の象徴として、私は神田川を流れる桜の花びらを思い出す。
井の頭を水源とし、かつては上流を神田上水、中流部を江戸川といった川の、川沿いには桜の名所も多い。膨大な数の桜が散らした花びらが水面に落ち、桜色の流れが延々と下流に続く様は、ドブ川で無かったらさぞかし美しかろうとも思うが、流れているのか、いないのかわからない、澱んだ流れもまた蕪村あたりに句に詠んでもらえたら、味わい深いのかもしれない。


※写真は3/31の神田川。御茶ノ水橋から聖橋をのぞむ。マウスを重ねるとアップが見られます。

2002年 4月 2日 火曜日
【愛と死を見つめて】

昭和三十年から三十九年まで、十年間、各年のレコード売上げ上位三曲を紹介する番組を見た。
 
歌は世に連れ世は歌に連れというが、私と妻が一歳に満たない年からの十年を辿るわけだから、それぞれの家族史が歌とともによみがえって面白い。
三橋美智也が「♪ 松風さわぐ…」と唄う『古城』は、おそらく親たちが後年口ずさんでいたのを聞いて、私たちも懐かしいらしい。昭和三十一年、鈴木三重子が歌った『愛ちゃんはお嫁に』は、妻の場合、伯母に愛子さんがおられたので印象深いのであり、私の場合、曽根史郎が歌った『若いお巡りさん』は、警察官だった父が気に入って「♪ もしもし ベンチでささやくお二人さん」と歌っていたのを聞いて覚えているようだ。
 
やがて昭和三十七年ともなれば、すっかり物心がついていて、歌とともに時代の空気感を思い出す。
 
この年、父は何処ともなく家族を捨てて出て行ったわけで、売上第一位の曲はさぞ陰鬱なものだろうと期待していると、橋幸夫・吉永小百合が歌う『いつでも夢を』だったりする。「♪ 星よりひそかに 雨よりやさしく〜」などと鼻歌まじりで去って行く父を想像すると妙に可笑しい。
 
青山和子が登場して、『愛と死をみつめて』「♪ 儚い命と知った日に 意地悪言って泣いた時」と歌った途端、妻が、
 
「この人は歌詞を間違えてる、“意地悪言われて”だよね」
 
「違うよ、理不尽な死の宣告に、他人にあたりちらしても詮ないと知りながら、最も良き理解者である恋人に、意地悪な無理難題をふっかけて甘えたことを詫びてるんだよ」
 
「へぇー、随分屈折してるのね」
 
「あなたが屈折してなさすぎるだけじゃないの?」
(爆笑)


   ***
 
だが本当に女性は、そんな立場に置かれた時、意地悪言って泣いたりするものだろうか?
 
朝日新聞に「さかのぼり嫉妬」というのが紹介されていたそうだ。
私は読んでいないが、恋人同士、今この時こそが全てと、口では言いながら、相手の過去に遡って嫉妬することであり、その傾向は男性に顕著なのだそうである。

なるほどなぁと思う。
たとえば、 どうにもならない過去のことをほじくり返して責め立て、あまりに度が過ぎれば、
 
「だったら私にどうしろっていうのよ! 私だって、できるものなら過去に戻ってやり直したいわよ! それができないから今だけを見つめて歩こうって約束したんじゃない!」
 
などと、言い放たれてしまうのが関の山だ。私も多分にその傾向がある男なので、
 
「だったら僕にどうしろっていうんだよ! 僕だって、できるものなら過去のことをじくじくと突き回したりしたくないよ! それができないから、こうして意地悪言って甘えてるんじゃないか!」
 
という男の言い分はあり得ないかなぁと思ったりもするのだが、文章にするととても恥ずかしい。
 
男が女の気持ちになって脚本を書いたりすると、意地悪言って甘えがちな自分を、女性の方に投影してしまいがちであり、意地悪言って甘えるのは、さも女性の特徴であるかのような、既成観念が醸成されてしまっているような気がしないでもない。
 
自己の出自などに拘泥して、じくじくと日記など書いていると、
「何やってんのよっ!」
と、いきなり肩を叩くドライな賢者は決まって女性なのだ。

2002年 4月 3日 水曜日
【人は少しずつ変わる】

学生時代、中山ラビという歌手の歌が好きで、「人は少しずつ変わる」という曲をギター片手に歌っていた時代が私にはある。大学二年生の頃だったろうか。
 
生活とリハビリ研究所主任研究員・上野文規さんの著書Bricolage別冊『入浴介護実践集』が完成し、制作にあたった関係者が三好春樹さん親子を交えて、慰労会のため、夜の池袋東口に集った。
 
上野さんとのんびりお話しするのも何年かぶりで、互いが少しずつ変わっていることに気づく。
昨日の日日抄【愛と死を見つめて】の話で盛り上がった後、ふと私の母親の話になり、四歳年下の彼のお母さまが、同い年生まれの午年であることに驚き、互いの母親の話を腹を割って話せるようになっていることにも驚いた。
 
その場に集った人々が、理学療法士三好春樹さんを仲立ちとして出逢ってから、早くも十五年にもなり、当時、今の私の年齢よりも若かった出版社社長筒井眞六さんが、今年なんと還暦を迎えるのである。ああ、あの頃は……と毎度お決まりの昔話に花が咲くのだが、走馬灯のように浮かんでは消える当時の仲間のことを思い出すと、少しずつ変わることを積み重ねて、皆、思いもかけない人生を歩んでいることに感慨は深い。

   ***

出がけにメールを受信し損ねたのだが、友人はまボーズ氏の先輩であり、退職後も、書評や校正作業で Bricolage を支えられた Yさんが亡くなられたという。
知性と経験に裏打ちされた柔和な笑顔の持ち主で、このような飲み会に参加されても、皆の話しを楽しそうに頷きながら聞いて居られた姿が目に浮かぶ。居てくださるだけで、場の雰囲気が和やかになる素敵な方だった。
重い病いで入院された後も、はまボーズ氏が印刷して手土産にした私の拙文を読まれ、「石原君は本当に郷里清水が好きなんだねぇ」と感想を述べられたという話しは、私にとって終生忘れられない想い出となった。
 
集中治療室のベッドで小型ラジオを指さしながら、ラジオより落語のテープが聞きたいとおっしゃったのを聞き、Yさんは私の好きな立川談志はお嫌いかしら、同じように好きな爆笑王初代金馬はどうかしら、やはり志ん生がいいのかなぁなどと思案するうちに、落語のテープのお見舞いが出来なかったことが悔やまれる。
 
人の心も少しずつ変わるが、愛する人びとの顔ぶれもまた少しずつ変わって行く。
 
しんみりした上に酒も回り、繰り言めいた話も出始めたので、
「新しいマッチを擦って、新しく始めましょうよ」
と、私が言うと、上野さんが、
「ボブ・ディランですね」
と、答え、四歳の歳の差を超えた共感が嬉しかったりする。
 
仕事で出掛けた大分県、由布岳の珍しい冠雪した姿を撮影できたので見てくださいと、上野さんが差し出すデジタルカメラの映像は美しい。消え残る月が見事にとらえられているのにも心震える。
「帰ったらメールでお送りしますから」
の言葉どおり、朝のメールボックスに便りが届いていた。
 

「おはようございます。昨日は、ありがとうございました。久しぶりに、とても楽しい夜でした。そして、どなたもが“親”を中心に親族の「人間模様」が変わってきている事に、色々と考えさせられました。また、お話しさせてください。“短い人生”かも!?知れないので、もっと石原さん&三上さんと、お会いしよう。昨日、お見せした『ゆふ岳』です。感動のおすそわけ…です」
 
人は少しずつ変わる。変わって行く互いを、生きて理解し合えるだけで、人生というのは有り難くも楽しい。

2002年 4月 4日 木曜日

【 X の細道 】……1

新しいパソコンは数ヶ月で陳腐化し、オペレーション・システムは頻繁にバージョン・アップを繰り返し、ソフト・ハウスからはグレード・アップの案内が頻繁に届く。
「冗談じゃない、いい加減にしてもらいたいわ!」
編集事務所の女性社長 Kさんは叫び、妻は通帳の記帳明細を照合しながら、
「この引き落としは何? この引き落としは何?」
と執拗に尋ねる。
 
パソコンは速くならなくていいし、一度馴染んだ OS は進化しなくていいし、ソフトの機能は増えなくても良いと言う人たちもいる。それも一つの見識である。
 
片や、処理速度が思考について来ない遅い計算機に苛立ち、バグ(欠陥)だらけの OS に腹を立て、今まで半日掛りでやっていた仕事が数分で片づくことに喜んだりする、私のような人間もおり、両者の綱引きで後者が優勢であるおかげで、電機メーカーもソフトメーカーも食いっぱぐれが無いのである。
 
要は、新機種の性能と魅力、OS の完成度、ソフトのコスト・パフォーマンスが妥当なものであれば、作り手の延命に協力しようという奇特な者が、この世知辛い世の中でも、かろうじて多数を占めているのだろう。
   ***
 
Macintosh で読めないフロッピーを読み取るだけのお付き合いで購入したノートパソコンの OS は、Windows 95 だった。そして、仕事と趣味を兼ねたパソコン自作で組み上げたマシンの OS は、Windows XP で、95 から XP への移行は私にとっては価格に十分値する進化を遂げていると感心させらるものであったし、たいした Windows 使いでないことも幸いしてか、環境変化に対する違和感も少なかった。
 
片や、Macintosh の最新 OS は OS X であり、OS 9.x との 環境の変化は驚くほど激しい。Macintosh も OS X の登場で、ようやく胸を張ってモダン OS の仲間入りをしたのである。
 
Macintosh の最新 OS が、OS 8.x から OS 9.x に移行したときは、本当に嬉しかった。
私のような職種のユーザーにとって Mac OS の最大の弱点であり、トラブルの原因となっていたあることが解決したのである。
今すぐにでも OS 9.x に移行すべきだと、トラブルに悩む友人に進言したのだが、その時、私に吹いた逆風は凄まじいもので、新しいモノはアブナイ、当分待った方が良い、かえってトラブルに巻き込まれた者が多い、私は何でも新しいモノに飛び付く馬鹿だ、エトセトラエトセトラ。
 
そう言った連中が、押っ取り刀で OS 9.x インストール済みの Macintosh を購入し、最も初期の OS 9 を「ソフトウェア・アップデート」も利用せずに、使い続けたりしていて呆れる。OS 9 ほど AppleComputer が真剣にバグ潰しをしているバージョンも少ない。OS X を確固たるものにするためには、OS 9.x を完璧なものにしないとまずいからだ。
 

OS X を導入しようかな、などと口走ると再び激しい風当たりを受ける。
曰く、進んでバグ潰しをさせれて金を払う馬鹿になるな、PowerPC G3 500 なんぞじゃ遅くて使い物にならないぞ、まだまだソフトが出そろっていないからお前のような職種じゃ仕事には使えない、エトセトラエトセトラ。
 
そんなことを言われてまで、あえて OS X にする必要もないと思っていたのだが、OS X 対応で OS 9.x でも動作する「カーボン・アプリケーション」というのが登場し出したら、そうも言っていられなくなってきた。どうやら、OS X 側からインストールしないと OS 9.x で動作しないソフトがあるようなのだ。
 
仕方なしに、インストール用のベースとして OS X を導入し、ソフトのインストールを済ませ、しばらく遊びで使ってみたら、進んでバグ潰しに協力したくなるほどの出来栄えだし、インストール・ベースが PowerPC G3 500 であっても、私にとっては必要にして充分なほど早いし、使い慣れた古いソフトは皆動くし、仕事にもちょっと頭を使えば使えそうなので、OS X を真剣に使い始めている。
 
OS X で初めての日日抄を書きながら、ちょっとしたパソコンごときの進化があるたびに、人を変人呼ばわりしてまでも、口角泡を飛ばして強弁するような輩は、つくづく信用ならないと思うこと頻りである。

※Mac OS X を動かすには最低 128MB の物理ラムが必要とされている。私の Pismo は 384MB の物理 RAM 搭載だが、多いほど高速化するらしいので、メモリも安くなったことだし最大搭載限界まで増設してみようかと……うっ、妻の視線が(^^;

2002年 4月 5日 金曜日

【 X の細道 】……2

揚げ饅頭という食べ物がある。
 
東京で名高いところでは、千代田区神田須田町にある甘味処竹村が有名で、昭和初年の頃のものと思われる建物の風情と相まって、そこはかとなくおいしい。蒸かした饅頭に天ぷらの衣を付けて揚げたものであり、手間をかけた分、蒸かし饅頭とはまた違った味わいがある。
 
大学生時代、男子学生は安くて腹が膨れればそれで良かったが、女子学生はマスコミで話題になるような店を探すのが好きで、後に妻となる女子学生に、神田薮蕎麦で牡蛎蕎麦と蕎麦寿司、竹村で揚げ饅頭とお茶、などというお洒落なコースを奢られた時はたまげた。
 
大学内の控室で寛いでいる時などでも、女子学生達は「ああ、竹村の揚げ饅頭が食べたいな」などと突然言い出し、大学院生として研究室に残っていた先輩が、愛用の自転車にまたがって買い出しを買って出ることもあった。その先輩は後に香川大学に研究室を持ち、Macintosh ユーザーに著名な「Macintosh トラブルニュース 」サイトを公開されている。面倒見の良さは学生時代からだ。
 
揚げ饅頭はパソコンの OS に似ている。
DOS にかぶさった Windows、68k にかぶさった PowerPC 、Macintosh 上で Windows を、Windows 上で Macintosh を動かすエミュレーション・ソフトも、既成の饅頭に衣を付け、油で揚げて天ぷらにしたようなものだ。カラッと揚げるには高温の油が必要なように、かぶせる OS を使い物にするには、それ相応のパワーが必要になる。
 
Macintosh 上に Windows の OS をインストールし、その Windows 上に さらに Macintosh の OS をインストールして動かすなどという、意味のないテスト記事を読んだことがあるが、とてつもなく動作は遅くなるらしい(そりゃそうだ)。私の PowerBookG3 に Windows OS をインストールしてみたことがあるが、遅くて使う気がしなくなり、アン・インストールしてしまったことがある。
 
Macintosh OS X は従来の OS 9.x と構造が異なり、後者のアプリケーションはそのままでは OS X 上で動作しない。Macintosh OS X でのみ動作するアプリケーションを Cocoa、OS X と OS 9.x の両方で動作するアプリケーションを Carbon と呼ぶ。では従来のアプリケーション(Classic と呼ぶ)を OS X 上で動かすためにどうするかというと、OS X 上で OS 9.x を起動し、その中で動かすのである。これもまた揚げ饅頭なのである。


デュアルブートと呼び、Classic アプリケーションを使用しようとすると自動的に OS 9.x が起動してくれるし、最初から両 OS が起動しているように設定することもできる。Classic 環境で、今まで通り、OS 9.x の資産を継承できるということは何となく分っていたのだが、雑誌などによく載っている OS X 上で起動する OS 9.x のスクリーン・ショットを見ると、OS X 上の小窓内で作業するのかと思われ、どうせ遅いのだろうし、画面も狭くて嫌だなぁと思っていた。完全に Classic 環境と決別できるようになるまでは、OS X は使いたくないなぁと思ったのである。
 
だが実際に使用してみると、OS X で作業しているのか、OS 9.x で作業しているのかの違いは、画面最上部のメニューバーの違いだけであり、仕事に集中していると OS の違いなど忘れてしまうほどの出来栄えである。さらに、私が仕事で使うようなアプリケーションでは、揚げ饅頭特有の遅さは全く感じられず、開発途上のオンラインソフトなどは、旧バージョンを Classic 環境で動かした方が、軽快だったりする。


揚げ饅頭はまた、私たちの消費生活にも似ている。昔なら家庭で作るのが当たり前だったような食品が既製品として出回り、味も悪く価格も高いうちは相手にされないが、味もそこそこで価格も自家製するより安くなったりすると、私たちは「その食品は買うものである」という考えに慣れ、自家製していた時代とその技自体も次第に忘れていく。
 
なるほど、OS X で作業しているうちに OS 9.x の存在を忘れ、いつの日か気づくと Classic 環境は絶滅していたというシナリオなのだ。それは驚く程よくできているし、この揚げ饅頭に賭ける熱意には感心せざるを得ない。
 
※図版・上は OS X 上で OS 9.x が起動するところ。下は OS X 上の Classic アプリケーションを操作している様子。メニューバーと最下部の Dock でそれと分るだけ。

2002年 4月 6日 土曜日
【時計仕掛けの黄昏】

悪い事は重なるもので、友人の通夜がある日の午後、入院中の伯母が亡くなった。
 
生前、献体を希望されており、翌朝病院側が引き取りに来るわけで、亡くなったその日の夕暮れ、武蔵小山にある浄土真宗の寺で、慌ただしく身内だけの通夜が営まれる事になった。
 
子どもの頃、動かなくなった目覚まし時計の裏ぶたを開け、小さなねじ回しで複雑に組み合わされている歯車を触ってみる事があった。
「どうして動かなくなっちゃったのかなぁ」
などと、独り言を言いながらいじっていると、突然すべての部品が組み合わさって動き出す事があり、
「あ、動いた!」
などと歓声を上げたりするのだが、一瞬動いた後は凍りついたように硬直し、もう小さなねじ回しなどでは動かす事もできなくなる。時計が死の直前まで溜め込んでいた息がフッと漏れ、永遠の虚無の中に解き放たれるように、小さな「ちから」が消えて行くのである。そして本当の死が訪れる。
 
訃報が伝わり、通夜の段取りが整い、妻が慌ただしく取り出す喪服に着替えていくのは、部品として組み込まれて回る、歯車になったような気がするものである。
義父母と妻、そして私、無彩色を身に纏った異形の一団がタクシーに乗り込むと、運転手も心持ち緊張してか、
「護国寺から首都高に入ってみますが、時間は大丈夫ですか?」
などと、尋ねたりする。
 
黄昏時の高速道路を辿り、沈みゆく夕日を追いかけるように西へ向かう時、行き交う反対車線の車の列、弧を描きながら遥か彼方まで続く水銀灯、薄暮の中、前方に連なる先行車のテールランプまでもが、一つの大きな時計に組み込まれて回る部品のように見えてくる。
 
中原街道から武蔵小山駅前に向かう細い商店街へと右折する時、方向指示器の音は時を刻む槌音のようであるし、黄昏時の商店街を歩く主婦や、勤め帰りの会社員たちは、あたかもカラクリ時計の人形のように、割り当てられた姿勢のまま金具に固定され、歩道に穿たれた溝の上を滑っているだけのように見える。
 
降車し、線路沿いの脇道に折れると、宵闇は迫り、人通りはまばらになり、前方から近づいてくる老人もまた、私の直前まで来て、機械的な正確さで九十度向きを変え、路地に消えていく。
 
寺に入るとまさに納棺の最中であり、葬儀社の若い担当者の指図のもと、死出の旅支度が整えられて行く。花が次々に届き、読経と焼香が始まり、啜り泣きが漏れ、哀しみの旋律に合わせるかのように彼方から聞こえる列車の響きまでもが、壊れかけた時計の一部になったようにも思われる。
 
   ***
 

インターネットが結びつける友人の情報というのは、眼前の世界が一つの必然性に関連づけられた構造物として動き出したように感じる時、今ここにいない彼らまでも、その一部として想起させる不思議な力を持っている。

畏友の通夜に向かう友の姿、直前までメールを書いていた清水の魚屋さんが黄昏時の商店街で、いつも通り烏賊を焼く姿までもが、一つの命を葬送する仕組みの一部のようにも感じられるのだ。人はそれ程、「関係」に依存して生きているのだろう。
 
人の死とその儀式は、生きてある事の異相を顕にする力があり、それにより死者の葬列から離れ、今この時を再び新たに生き直す力を与えてくれる有り難いものと感じる事もあるのだが、自由気ままに生きているように思い込んでいる日常が、実は奇妙な幻想で補強された、壊れかけた時計に過ぎないのかもしれないという哀しみをも伴って、私たちの想念を永遠の虚無へと解き放つ。

2002年 4月 6日 日曜日
【焼酎の味わい】

健康のため昨年末から、酒を日本酒から焼酎に切り替えた。
 
焼酎の何処が健康に良いのか、あまり確証は無いのだが、多少度を過ぎた飲酒をしても、日本酒のそれより、体が怠くなったり、翌日まで気分が悪かったりする事も無いので有り難いし、呑み進むうちに陽気な酒になり、コテッ! と眠くなるのもまた健康的な気がする。現在はもっぱらお湯割りである。
 
焼酎を飲み始めた当初は、飲み口の良い淡泊なものから始めたので、深蒸しの緑茶から白湯(さゆ)に切り替えたように味気なく、単なる「酔えるお湯」を呑んでいるような気分だった。
だが、酒屋の棚を見ていると実に様々な焼酎が有り、米、麦、蕎麦、芋、栗、砂糖黍、昆布などなど原材料も違い、熟成期間も違い、酒蔵ごとに千差万別の違いが有る事に気づいて楽しくなってきた。
同じ麦焼酎でも微妙な味わいの差がある事まで、舌が判別できるようになってきたのだろう。
 
頂き物の高級焼酎を飲んだり、時々奮発して高価な芋焼酎などに手を出してみると、その奥の深さに驚き、金に飽かせて高級物にのめり込めば、日本酒同様、極地までの果てしない旅路が用意されているように思われる。そんな旅路に心引かれれば、何のための健康維持か分らないので程々にしている
 
片や、安くて酔えればそれで良いと言う人のための、もう一つの焼酎の極北への旅。そちらは若い頃から馴染み深い。
社会人として自立し、初めて勤めた会社に1歳年上の先輩がおり、毎夜深夜まで飲み歩き、仕事の事、人生の事、時には励ましあい、時には口論し、終電で帰ったり、泊めていただいたり、気がつくと公園のベンチで寝ている事も有った。
 
「お前はいくら金を持ってる?」
などと、財布の中身を見せあい、二人の有り金を足し、つまみに一皿のハクサイキムチをとり、残りの金額を計算しながら延々酎ハイを飲み続ける事も多く、アル中風のおじさんに、
「お兄さん、そんな飲み方してると体に悪いよー」
などと説教される事も有った。
新宿、思い出横丁。
馴染みの店の厨房では、白いポリタンクに入った焼酎をグラスに注ぎ、親指の爪ほどのレモンのかけらを入れ、炭酸を注いで酎ハイが次々に作られていた。
 
東京ではどんな酒を飲んでいると母親が聞くので、赫々然々と話すと、
「焼酎は危ないからよせ」
などと言う。戦中派の親たちには安い焼酎への恐怖が色濃く残っていたようなのだ。
 
『新編・昭和二十年東京地図』西井一夫・文、平嶋彰彦・写真、ちくま文庫を読むと、次のような記述がある。
 
「敗戦から二日後の八月十七日、芝区小山町二、平寅吉は午後泥酔して帰宅した。翌朝まで泥のように眠り、起きると眼が見えなくなっていた。翌十九日午後一時寅吉は死んだ。九月十五日、麻布区北新門前町二、清水達雄方同居人富国徴兵契約係新井悟郎(46)は酔って帰宅し間もなく死亡した。同二十八日、芝区豊岡町十三、鳶職徳茂銀次郎(61)はやはり泥酔して帰宅し、翌二十九日絶命した。三人とも死因はメチルアルコール中毒で、三田署は十月になって芝区小山町三、平田仁蔵方野口亀之助(48)が一斗三千円で五斗分を密売していた事をつきとめた。」(『新編・昭和二十年東京地図』西井一夫・文、平嶋彰彦・写真、ちくま文庫より)
 
そう言えば、私が子ども時代にもメチル柿事件というのがあり、柿の渋抜きにメチルアルコールを使用した事による同様の事件だった。母は、この事を心配していたのであり、極北まで旅すれば死に至る飲酒が待っている時代もあったのである。
 
   ***

当サイト内、「じっとり酔眼」でお馴染のカメラマン、川上哲也さんと大正から昭和初期に開業した居酒屋を飲み歩くのを楽しみにしている。カウンターに座り、時代の断片が当時のまま澱んでいるような店の調度を眺め、グラスを傾けるのが楽しい。
 
その手の店でなぜか焼酎の銘柄として目に付くのが「亀甲宮」である。
三重県三重郡楠町南五味塚に弘化3(1846)年創業の酒蔵であり、平成8年に施行された文化財保護の条例に伴い本店の蔵六件が文化財建造物に登録されているという老舗である。

親たちの世代も飲ませていただいたに違いないその酒を、時代の逆風に抗うように頑張り続けている、古びた大衆酒場で飲むと、何だか格別な味わいがあるような気がするから不思議だ。
特別な事は何もせず、ひたすら良い水を求めて地中深く穿たれた深井戸の水を使い続けているという醸造元の姿勢も好もしい。
 
川上さんが取り寄せたという「亀甲宮」をいただいた。
わが家でゆっくりと味わってみたが、無味無臭でひたすらリーズナブルな価格の焼酎にも、微妙な味わいの差があると言う川上先生の域まで達していない私は、確かにお湯で割ってもアルコール臭が鼻に来ない、口当たりがまろやかである、程度の差しか分らず、美しいボトルを眺め、ご無沙汰している山谷の名店「大林」のご主人の顔などを思い浮かべているうちに、良い気分で酩酊してしまった。
 
極北への旅は、まだ始まったばかりなのである。

2002年 4月 8日 月曜日

【 X の細道 】……3

身の回りに起こる変革に際し、希望的観測で心弾ませるか、悲観的不安に責めさいなまれるか、はたまた変革自体があることをただただ呪う無為な日々を送るか。
 
右寄りのSF作家と言われたロバート・A・ハインラインには繰り返しこのテーマが登場する。
見知らぬ惑星に着陸し自己と他者、生と死も判然としない、マインド・コントロールされた世界にとどまるか、たとえその先に死が待っているとしても再び宇宙に飛び立ち、自由と自立の精神に満ちた冒険の旅に出るかと問い掛けられ、高校生の私は迷わず後者を選んでいた。
 
人生の決断に比べれば瑣末な変革かもしれないが、パソコンのOS変更というのも、それでなにがしかのお金を稼いでいる方々にとっては大問題である。
 
個人もしくは小規模なオンライン・ソフトの開発者も決断を迫られるようだ。
Macintosh の新オペレーティング・システム、OS X の場合もそうで、早々に開発終了を宣言し有料だったソフトの無料化を決断される作者もいる。
私が使用している某メールソフトのように、
「もう少し時間をかけて MacOS X の安定性、市場性などの点を見極め……現状のままでも Mac OS X の classic 環境で動作しますので……」
などという雑誌の廃刊を休刊と言い抜けるような看板を掲げて、旧ソフトの販売を続けている会社もある。
また、愛用者のために淡々と Carbon 化までお付き合いしてくださる良心的な作者もいる。
 
そして、私が嬉しいのは、OS X でしか動かない Cocoa アプリケーション開発に着手し、先駆的な機能で打って出る方々も存在する事だ。私が、Macintosh 用メールソフトで最も優れていると評価し、愛用している SweetMail というオンライン・ソフトもその一つだ。
早くから Carbon 化され、使用者からのフィード・バックを受けて完成度を高めていたのだが、なんと Cocoa アプリケーションとして一から書き直され、そのβ版が公開されたのである。
 

Macintosh ユーザーにせよ Windows ユーザーにせよ、メールソフトでのやり取りが多くなると、愛用メーラーにこだわりたくなる。
 
メールソフトを立ち上げると表示ウインドウが立ち上がる。Outlook だと、その窓が縦横三つに分割されていたりするが、その分割された一つ一つのエリアを Pane(ペイン)と呼ぶ。窓ガラスの事だ。窓が一枚のガラスだけの時「SinglePane」とよび、二つ、三つと増えるにつれ「TwoPane」「ThreePane」と呼ぶ。
最初のペインがメールボックス、次のペインがメールボックス内のメール一覧、その次のペインがメール内容表示などになっていたりするわけだ。
 
人それぞれ、好みの使い勝手があるわけで、新たに開発するメールソフトのペイン構成をどうするか、いや、そもそもシングルペインのまま、複数の窓を立ち上げた方が使いやすいなどというユーザーもいたりして、開発者も頭が痛いところなのである。
 
ところが、この SweetMail の Cocoa 版はとんでもない方法でそれを克服してしまったのである。
なんと一枚の窓を二枚に、二枚の窓を三枚に…と、次々に分割し、何枚も無限に窓ガラスを嵌め込め、そこに何を表示するかもユーザーが自由に設定できるのである。メールボックスやメールだけではなく画像も表示でき、モー娘のスライドショーも表示できるなどとβ版の公開サイトには書かれている。
特筆すべきは、メールだけでなくあらゆるテキストファイルも読み込め、テキストファイルのブラウザとしても使えたりするのである。

一体、窓をそんなに分割して表示できたからといって何の役に立つのかなどというのは愚問で、ほら、こんな事もできますよと提示することで、思わぬ使い方をするユーザーが現れ、そのフィードバックにより、画期的な機能開発のきっかけにもなるのである。
 
β版の不具合フィードバックを目的としたメーリングリストも盛り上がりを見せ、完成時には Macintosh 用メーラーの天下取りも想像するに難くなく、自由と自立の精神に満ちた冒険の旅の模様はβテスターの眼から見ても楽しく心地よい。

※図版は OS X 上で窓を 5分割し、さらに引出しを引っ張り出したところ。

2002年 4月 9日 火曜日
【駒込土物店の桜】

出掛けようとしたら鍵がない。
 
何処かに、ひょいっと置いたはずなのだが、その「ひょいっ」の場所を思い出せない。
一事が万事その調子で、学生時代、親元から離れ一人暮らしを始めた時点ですでにそうだったから、私は生来物忘れの激しいタイプかもしれない。昔の事は良く覚えているのだが。
 
学生時代は今より暇だったので、失せ物探しものんびりしたもので、考えられる場所をすべて探し尽くしたあとは、必ず一息ついてから、椅子に上ってみる事にしていた。
身長178cm だから、椅子に上ると視点は天井に近い。天井近くから自分の部屋を見渡すと、すべてが新鮮に見えて、妙に達観したような気分で、冷静な思考ができるのが不思議だった。
ふと、本棚に寝かせて置かれた文庫本の角度が気になり、椅子から飛び降りて本棚のそばまで行き、文庫本を持ち上げるとその下に部屋の鍵があったりする事も、よくあることだった。
 
岩槻街道を上富士交差点六義園前から本郷方向に歩く。
 
白山上交差点手前、駒込病院前を経て動坂へと向かう道とのT字路がある場所に江戸時代、神田、千住と並んで江戸三大市場と呼ばれた駒込土物店(こまごめつちものだな)があった。
起源は元和年間(1615〜24)で、農民が作物を江戸市中に売りに出る途中、その場所にある天栄寺境内のマメ科の落葉高木「サイカチの木」の下で、毎朝荷を下ろして休憩するのを日課にしていたところ、近所の人々が新鮮な野菜を求めて集まるようになり、そのまま「駒込辻のやっちゃ場」と呼ばれる市場となったという。正式名は駒込青果市場で、泥のついた野菜がそのまま売られていたので、「駒込土物店」とも呼ばれたのだ。現在巣鴨にある豊島青果市場はこの市場が移転したものである。
 

現在の天栄寺境内を見回して見てもサイカチの木は見当たらないが、見事な八重咲きの桜がある。
境内に散り敷く花びらも美しい。もう一度、今が春である事を思い出した。思い出したら急に、去り行く春の後ろ姿が切なく、高い所から視点を変えて見送りたくなった。
隣接した歩道橋に上り、手すりに足をかけて身を乗り出し、春の空に咲く桜の晴れ姿をカメラに収めてみた。歩道橋下の交番で見ている警官が、怪訝な顔をしており、桜に浮かれて歩道橋から身投げしようとする変人と思われても困るので早々に退散。
 
かつては「駒込なす」の産地でもあった一帯も、今はアスファルトやビル群に覆われてしまい、土を見る事も容易にはかなわない。野菜を担いだ農民、泥のついた新鮮な野菜を求めて集った町民も、既に灰色の表皮の下に眠り、都市の上空から桜色の吹雪が音もなく降りしきる。

2002年 4月12日 金曜日

【装丁拾遺抄】4……“ヘン”礼賛

グリム童話のヘンゼルとグレーテル兄妹は、菓子の家の魔女に捕らえられるが、力を合わせて逃げ帰る。そのやり口が凄くて魔女をパン窯で焼き殺すのである。“ヘンゼルは、ぐれている”という駄洒落が有ったが本当にぐれていたのかもしれない。そうでなかったら、女性をパン窯で焼き殺すなどという残忍な仕打ちを思いつき、実行できそうにないからだ。


 
“ヘンであることはグレートである”、これは正しい。
野球の直球は棒球であり、変化球は癖玉でしかない。だが文学や絵画では、癖玉こそがストレートであったり、棒球こそが一捻りも二捻りもしなくては理解できない高邁な表現だったりするのだ。そのどちらも“ヘン”なのであり、“ヘン”を実践できるものこそが、優れた表現者なのである。
 
 

「思いきり“ヘン”でいいです、遊んじゃってください」
 
などと注文して、嬉々として描いてくれる人は楽しい。
“ヘン”は伝導率が高い、“ヘン”は伝達力が強い、“ヘン”は親和性に秀でている。
“ヘン”なものが、実は“ヘン”じゃないことを伝えるのに、“ヘン”であることほど有効な手段は無い。


全国コミュニティライフサポートセンター(CLC)は、高齢者及び障害者、子どもなどが自立した生活を営むために必要な支援を実施する団体や、それらの団体のネットワーク組織を支援することにより、「だれもが地域で普通に」暮らし続けることのできる地域社会の実現を目指している特定非営利活動法人である。その機関誌『Juntos(ふんとす)』(スペイン語で「一緒に」の意)、表紙のデザインを依頼された際、ふと目に留まった“ヘン”な絵の描き手が中里仁さんである。

若い頃アジアを放浪し、歌を歌い、難民を援助し、福祉器具を開発・制作したりし、現在は社会福祉法人東北福祉会「せんだんの杜」杜長を勤められている方で、絵を描くのが商売ではない素人さんなのである。
 
仙台辺りで何度かお会いしているのだろうが、記憶に無い。年齢は私にかなり近いかもしれない。

『Juntos(ふんとす)』第4号、表紙の絵を受け取って、
「いいなぁ、この絵、でも何なんだろうね」
という話になり、早速電話でご本人に確かめたら、ボブ・ディランの名作「Highway 61 Revisited」(1965)のジャケットなのだという。

のけ反って爆笑したあと、なるほど、そう言われてみればと合点がいく。かなり“ヘン”だが、言わんとするところは、かなりわかる。私もこの LP を持っているし、聴き込んだ青春があったのだ。“ヘン”がわかれば、昨今の成人式で若者たちがなぜご乱心遊ばされているのかも、少しは理解できるのだ。
 
“ヘン”万歳、私も“ヘン”なヤツと呼ばれたい。
 
全国コミュニティライフサポートセンター(CLC)
http://www.clc-japan.com/

2002年 4月13日 土曜日
【電子手紙の読み方】

手書きの手紙を書く事が少なくなった。
 
高校1年生から大学4年生まで一人の女性と文通を続けたけれど、送った手紙の枚数より、下書きの枚数の方が多いと思う。私はとんでもない悪筆だし、文章を読み返すたびに自分の文章が嫌いになるタイプで、おまけに誤字脱字が多いので、下書きをしたのちに清書しないと、とても他人様にお見せできるような手紙を書く事ができないのだ。
 
これで良しと踏ん切りをつけて投函する手紙は無心に清書したものであり、語りかけるように何度も校正しながら書き進めた下書きこそ、直に心のこもったものなのである。私なら相手の下書きをこそ、いただきたいと思うのだが、“あなたの下書きをください”などと自分が言われたら、やはり嫌だろうな、と思う。
 
電子メールの良いところは、何度も読み返し、何度も校正し、加筆も削除も自由自在なところなのだが、手書き文字の味わいと言うものが失われるのが弱点かもしれない。
それでは、電子メールでは心のこもった手紙が書けないかと言うとそうでもなくて、より文章力が際立ってくるし、手短に書かれた短信ですら、書き手それぞれの個性が行間から立ち現れてきて楽しい。視覚的味わいが削がれた分、私たちは電子メールの世界で、言葉の持つ意味そのものに向き合っているのかもしれない。

Macintosh OS X は“Mail”というアプリケーションが、従来の Outlook Express に替わって純正メーラーになっており、インストール時に自分のアカウント情報入力を求められるので設定しておくと、“Mail”を起動した際、即座に自分のメールボックスに届いているメールが表示される。
これは、かなり衝撃的な体験を使用者にもたらすのではないだろうか。
とにかく、その表示が美しいのだ。

Macintosh OS X は従来画面表示を受け持っていた QuicksDraw から、Quartz という描画エンジンが採用されており、さらに大日本スクリーン製のヒラギノというオープンタイプフォントが採用されている。そもそも印刷用に用いられてきたフォントであり、私たちは普段見慣れた書籍などの印刷物を画面で再現したものを眼にするわけで、ちょっと今までのメールの概念が変わる。Macintosh OS X ではすべての書類を PDF 書類として読むのに近いのである。
仲の良い友人の私信までが、印刷された出版物の様に読めてしまうわけで、誰もがこのようなメーラーを使うようになる事を想像すると、ちょっとわくわくする。
 
等幅べた組みを基本とし、恣意的に文字の行間を空けたりしないという、今までのメール文化との整合性を考えると首をかしげたくなる部分もあるけれど、従来愛用のメーラーと平行受信で純正“Mail”でメールの読み書きをする事が増えてきた。友の便りをしみじみ読みたい時、心安らかに便りを書きたい時、純正“Mail”の美しさが欲しくなるのだ。
 
ただし、相手のメーラーとその設定次第で失われてしまう美しさなわけで、飽くまでも読み手としての自分、書き手としての自分の、相手に対する態度の表明に過ぎないのだけれど、もしかすると相手にこんな風に表示して読んでいただけるのかもと思い、心身を引き締め、心のこもったメールを書かなければと、自身を叱咤するために、私にとっては良い道具なのかもしれない。
 
※図版は大好きな十河進さんの文章を表示しているところ。私は、このメールマガジンから本文に“十河進”の文字を含むものだけを“ルール”として設定して“十河進のメールボックス”に抜き出し、楽しみに読ませていただいている。

2002年 4月14日 日曜日
【長いさよなら症候群】

私の母はさよならが長い人である。
 
私が別れを告げて歩き出す時は、角を曲がって見えなくなるまで見送っている。
帰省した際は、静岡鉄道というローカル線を利用することも多いのだが、最寄り駅の線路際までやってきて、電車が動き出し、互いが視野から消えるまで手を振られるのは、この年になると体裁が悪い。
 
片や、母親が上京した際、遠ざかる姿を見送っていると、電信柱一本分くらい歩く度に、振り向いては手を振る。
「ん、もうすぐ振り向くぞ」
と思っていると案の定、振り向いて手を振る。
 
母子癒着も甚だしい親子ならではと思いきや、友人の中にも、さよならの長い者が私の周りには多い。
 
友人のマンションを訪れ、表通りまで見送ってもらい、タクシーを拾うまでの間、
「見てろよ、あいつらエレベーターで上がって、通路に出たら手を振るからね」
などと言って待っていると、マンションの高みから、友人夫婦が笑顔で手を振ったりする。友人夫婦もまた、
「見てろよ、俺たちがエレベーターで上がって通路に出るまで、あいつらは待ってるからな」
などと、笑い合っているに違いないのだ。
 
長いさよならというのは人と人との間で伝染し、人と人との間に持病として定着するようで、もしかすると、この私自身が病原菌の製造元かもしれないのだ。
 
人生そのものが人間にとっての究極の旅である。
親兄弟のみならず、愛する他人が家族となり友となり、共に永遠の片道を行く道連れと意識したりすると、時には去り行く者であり、時には見送る者であるという、抜き差しならない相互の関係を生きなければならない。小さなさよならの向こうに、大きなさよならを見がちな人間には、長いさよならが日常的に付き物なのである。
 

さよなら列車に乗った人生という片道旅行が寂しくて仕方なかった高校生時代、清水駅前銀座商店街にあったレコード店で、私は寺山修司の『ひとりぼっちのあなたに』というレコードをこっそり買った。母親にも知られたくなくて、小遣いをかき集めての買い物だった。内藤洋子と萩原朔美による寺山修司の詩の朗読である。
 
  さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
 
と始まる『幸福が遠過ぎたら』。
「咲いてる野の百合何だろう」「めぐりあう日は何だろう」「ふたりの愛は何だろう」「建てたわが家は何だろう」「ともす灯りは何だろう」と畳みかけて語られるのだが、私は、春は去り行き、花は枯れ、人は別れ、愛は消え、家も朽ち果て、やがて永遠の闇が訪れるではないか、と同意できず、
 
  さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません
 
という結びには、さよならだけが人生なのに、人生を捨てられないから、ひとりぼっちで寂しがるんじゃないかと、寺山修司に反発していた記憶がある。いつか必ず永遠のさよならが用意されている人生に、繰り返し訪れる小さなさよならの種子を、「何だろう」なんて言われたってこっちが困るじゃないか。嬉しいに決まってるのに寂しいのは何故かと聞きたいんじゃないか。

いかにも高校生らしい反発だと笑えるのだが、実はそれこそが、今も私の「長いさよなら症候群」発病源そのものになっているようで困ったものである。

2002年 4月15日 月曜日
【緑萌える】

友人が伊豆山中で“昼掘り”したという筍をいただきに外出。
 
「本当は、“朝掘り”した筍がいちばん美味いんだぞ。何故か知っとるか?」
などと笑いながら“昼掘り”した筍を下さるあたりが彼らしくて可笑しい。
 
筍は日の出とともに凄まじい勢いで成長する。その成長のためのエネルギーを夜間じっくり溜め込んでいるから、朝掘りした筍は美味しいのだそうだ。したがって、私がいただいた筍は若干エネルギーを消耗して、疲れ気味の筍なのだそうだ。
 
疲れ気味といえば、私と友人は十年の歳の開きがあるのだが、共に八十歳過ぎの親を持つという点で共通点がある。
かつて、私の祖父は七十歳代前半で他界したが、今の同年代の人々に比べて遥かに老けていたし、その歳まで生きればお祖父様も本望だった事でしょう、などと言われても決して不自然なお悔やみではなかった。今から僅か三十年ほど前の話である。
 
親が高齢になると、親離れして暮らしている私たち子どもの生活にも、再び親との濃密な関係が戻ってくる。自分たちの暮らしぶりを最優先させて生きるわけにも行かず、ゴールデン・ウイークなどが近づいてくると、親の心配を切り離して予定を立てるなどという事も叶わなくなる。
 
私と友人も、出会ったばかりの十数年前なら、連休中、彼の山小屋にお邪魔しての時期遅れの筍掘りの計画を立て、嬉々として実行に移し、飲んで語って共に夜明けの空を眺めるなどという楽しみも気軽にできた。その当時の楽しさが忘れられず、軽率に連休中お会いして1杯やりましょうか、などという口約束をしてしまう癖が私には抜けなくて、友人たちに申し訳ない思いをさせてしまう。
 
「連休中、一日くらい寄せていただければなどと言ったけど、ご予定は?」
と尋ねると、郷里のお母様の検査入院に立ち会われるという。
「奥さんのお母様も心配だし、山小屋の休暇は難しいですね」
と念を押すと、検査入院は数日で終わるので、帰りがけに清水に寄ってなどと、私の軽率な口約束を覚えておられる。
「いや、東京の両親の事もあるので、清水での連休は難しいんですよ」
と情けない言い訳をし、
「まぁ、連休間際になったら互いに連絡を取り合いましょう」
などと、心もとない約束をして別れる事となる。
 

“昼掘り”とはいえ、春のエネルギーを溜め込んだ筍はずっしりと重い。
汗ばむくらいの初夏を思わせる陽気を感じながら、そのまま帰宅するのも惜しく、赤門から東大構内に入り、正門まで数分間だけ、自由な散歩をしてみる。
安田講堂へと続く銀杏並木の芽吹きが美しい。冬の間に溜め込んだエネルギーが、ホカホカと湯気をあげて空に立ち昇るようだ。
 
あれこれと心の憂さもあるけれど、親たちを長い旅路に送り出した後は、また自由気ままな暮らしができるかしら、いや、“昼掘り”の筍のように若干エネルギーを消耗した中高年になっているのかなぁ、などと考えながら友の思いやりをぶら下げて帰途につく。


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