電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 4月16日 火曜日
【皐月の躑躅】

友人との“恥くらべ”の蒸し返しのようになってしまうが、私は“さつき”と“つつじ”の区別がつかない。
 
Bricolage 編集者の K さんから電話があり、来月号の表紙は何にしようかという話になり、
「つつじの花なんてどうかしら?」
と言うので、
「K さん、つつじが好きなの? ボクはあまり好きじゃないなあ」と私は答え、
「だって、あの印刷インクのマゼンタ100%みたいな濃いピンク色って強烈だし、花の多さだって、いかにも人工的な感じがしない?」
そうすると、K さんが意外なことを言う。
「あら、それって“さつき”でしょう? 私が好きなのは、もっと花が小さくて、もっと赤い“つつじ”のことよ」
私は恥の上塗りを恐れない人で、しかも彼女は三歳年上なので、畳みかけるように尋ねる。
「ねぇねぇ、“さつき”と“つつじ”って違うの?」
「うん、違うと思うわよ」
 
“つつじ”を広辞苑第五版で調べると、
 
【つつじ】
ツツジ科ツツジ属の植物の総称。常緑または落葉性の低木。山地に自生し、公園や庭園に広く栽植される。葉は互生。四、五月、枝先に先端が五裂した漏斗形の美しい花を数個つける。
 
とある。さらに“さつき”を広辞苑第五版で調べると、
 
【さつき】
ツツジ科の常緑低木。関東以西の山中の川岸の岩上などに自生。また、古くから観賞用に栽植されて、多くの園芸品種がある。五、六月、枝先に漏斗状の花をつける。
 
とある。どちらもツツジ科であり、“つつじ”と言えば間違いでは無いような気もするのだが、文京区根津にある根津神社に植えられているのは“つつじ”であり、そのお祭りは文京つつじ祭り。
我が郷土清水市、かつて路面電車が走っていたメインストリートに植えられているのは“さつき”であり、通りの名前はさつき通り。
 

私は、その地に訪れ、どちらの花を見ても、
「あ、つつじが咲いてる!」
などと口走ってしまうのだが、ひょっとして、それは宿敵はまボーズ氏との“恥くらべ”に価するくらい恥ずかしいことなのだろうか。

※写真は4/16現在、JR駒込駅構内の“つつじ”(^^;

2002年 4月18日 木曜日
【見送り坂、見返り坂】

子どもの頃、地図帳の鉄道路線を辿るのが好きだった。
東京にいれば、郷里の人々を想い、郷里に預けられていれば東京の母を思い、たとえ愛する人たちと離れ離れになっても、鉄道の路線が繋がっているかぎり、その気になりさえすれば必ず逢うことができる、というのが寂しがり屋の慰めの一つだった。
 
かつて静岡県清水市内を走っていた路面電車が、新清水と新静岡間を結ぶ静岡鉄道の路線を走っているのを見たことがあり、そうか、路面電車であっても自由に運転することができるなら、地図帳の路線図を辿って何処にでも行くことができるのだなぁと思ったりしていた。
繋がっていることは、それだけで有り難いと。
 
私は長ずるまで、日本国内の鉄道路線、線路幅は新幹線を除いて、すべて共通だと思い込んでいた。
新幹線の線路幅は1435ミリあり、これは米国とも共通。一方、JR在来線の線路幅は1067ミリで、これは英国が植民地向けに作った規格。
で、日本国内、新幹線を除くすべての鉄道路線が後者の1067ミリ(狭軌)かというとそうでもなくて、関西では近鉄・阪急などの一部区間が1435ミリ(標準軌)、関東では京王線が1372ミリという特殊な幅を採用しているという。
 
そう簡単に「線路はつづくよどこまでも」などと鼻歌交じりに走り回れるわけではない、と夢破れるわけだが、軌間可変電車といって自分で線路幅に合わせ車輪間隔を調整してしまう車両なども開発されているらしく、それはそれでちょっと嬉しかったりする。
 
   ***
 
文京区本郷で仕事の打ち合わせがあり、友人の編集者から、
「本郷三丁目のすぐ近く,菊坂の入口に,“見送り坂と見返り坂”の案内標識があるのを知ってるかい?」
というメールをいただいていたので、打ち合わせの前に寄り道して、菊坂を歩いてみた。
 
菊坂というのは東大赤門方向から春日方向に下る坂であり、しかも両側から見ると窪んで谷となっている。
かつては東大構内から流れ出した水が小川となって流れており、そこに架けられた橋の名が通称“別れの橋”。かつて、罪人となり江戸市中から追放される者たちがその橋を渡って家族と別れた。今の本郷三丁目交差点側で家族が手を振り、その坂の名が“見送り坂”、そして追放された者たちが家族を涙ながらに振り返った側を“見返り坂”と呼んだという。
 

此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。

  蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ

明治二十六年五月二日、樋口一葉の日記より

一葉が通ったという伊勢屋質店。万延元年(1860)創業。昭和五十七年に廃業されたが、店舗はしっかりと健在である。現在の西片一丁目で一葉が亡くなるまで、つきあいは続いていたらしい。一葉、享年二十四歳の若さであったという。
 
母親と二人、父親が質入れした家財道具を受け出すために質屋通いをした、自分の子ども時代を思い出しつつ、若き一葉を見送り、見返り、写真に収める。
 
   ***
 
そういえば、同じ友人が、
「菊坂の一本裏通りに良い町並みがあるんだよ」
と言っていたのを思いだし、帰りは別の道を歩いてみた。
 
胸に込み上げるものがあって言葉にしがたい。
 
“そこだけ時の流れが止まった”とか“時代に取り残された”などという表現は全く用をなさない。そこには、今この時を生きる人々の暮らしがあり、それは私が感傷とともに回想する四十数年の人生としっかり同じ線路で繋がった、時の流れの生き証人であるかのようだ。
 
遥か時の彼方に去っていった人々、二度と帰らない過ぎ去った日々に、しっかりと繋がって今日という日、今この時を生きていることを想起させる、町並みと人の暮らしぶりは、しみじみと有り難い。
見ようとしない人には見えない、存在しないようでいてもしっかりと実在する、“エコ・ミュージアム”とはそういうものだ。
 
※写真は伊勢屋質店。写真にマウスカーソルを合わせてみてください。

2002年 4月21日 日曜日
【リニアとノンリニア】

仕事をいただいた事を通じて友達になった編集者を初めて訪ねた時、私を驚かせたのは立派なビデオ編集機だった。
 
「これは何の機械ですか?」
と、尋ねるとビデオ編集機で、かつてバブル経済の恩恵を受け好景気に沸いた頃、編集事務所は今後、ビデオ編集も手がける時代が来るに違いないという目算で、大枚はたいて購入したのだという。
やがてバブルも崩壊し、従業員を解雇し、経営規模を縮小した際、結局使い込んだ Macintosh と、このビデオ編集機が残ったのだという。
「もう、時代はノンリニア編集だから、過去の遺物ですが愛着があってね」
と、寂しそうに笑われたのが印象的だった。
 
ビデオ編集。
テープからテープへ、時間軸に沿ってのダビングによって編集していく作業を“リニア編集”といい、当然膨大な時間がかかり、徹夜作業など日常茶飯事だったという。
一方、ビデオ映像をデジタル化してパソコンに取り込み、パソコンでお馴染のカットアンドペースト(切り取りと貼り付け)などの簡便な手法で手早く編集することを“ノンリニア編集”という。編集という行為が時間軸の制約から脱却したのである。
 
   ***
 
幼い頃、私を実の息子のように育ててくれた伯父が亡くなり、郷里での葬儀に参列することになった。
朝九時半に清水入りし、親戚の者が運転する自動車に乗せていただいて駆けつけることにしたのだが、東京駅発のひかり号に飛び乗れば、1時間もかからずに静岡駅についてしまう。車窓の旅情を味わう暇などないほどなのだが、それでも郊外の景色が見え出すと、山を薄紫に染めて山藤や桐の花が一瞬見えたりして心和む。
 
心和むといっても、一瞬の出来事であって、深い味わいなどとは無縁の感慨である。
交通輸送機関の運行スピードを向上させることで、人は時間の流れに沿うという制約を逃れ、ともかく早く着いてしまうことで濃密な一日を獲得するという、ノンリニアな旅をするようになったのかも知れない。
かつて濃密に存在した旅の味わいを捨て去ることと引き換えに。
 
清水市から藤枝市まで、国道1号線バイパスの高架を突っ走るのだが、こちらもノンリニア化は進行中で、見慣れた町並みはコマ落としのように分断され、あれよあれよという間に、思わぬ場所へと転移しているような錯覚すらある。
 
慌ただしい現代人の生活の都合に合わせるように、本葬、告別式、そして初七日の法要まで、一気に済ませてしまう葬儀が多いらしく、こちらもノンリニアの時代になりつつあるようだ。告別式会場から退出し、再度入場し、僧侶の読経に合わせて焼香を済ませれば、儀礼としての初七日は終了し、精進落としの会食となるといった具合で、その濃密な進行は簡便さと引き換えに、激しい疲労を私たちに強いる。
 
 

だが、人はノンリニアな世界だけに生きることはできない。
嗚咽しながらの納棺まで、故人のまわりに渦巻く、重苦しくも哀しい時の流れはいつの時代もリニアである。そして、
「どなたか追悼の辞は?」
の呼びかけに立ち上がった八十歳過ぎの戦友三人が、直立不動で次々に読み上げる弔辞は気が遠くなるほど長かった。郷里で招集を受け、これで富士も見納めか、死んで靖国神社で会おうと言い交わして、輸送船に乗りガダルカナル島へ護送。
ほとんどの友人が命を落とし、船の欄干にもたれて号泣したという伯父たちの体験が延々と語られる。そして、年老いてもなお、郷里の戦友会で会うことを楽しみにしていたという、老人たちの現在に至るまで続く話は、彼らの戦後が決してノンリニアに存在している訳ではないという、動かぬ証なのだ。

ここ数日、日本の将来を運命づけるような政治の出来事を見るにつけ、時代錯誤とも思える郷里の市町村合併強行を見るにつけ、リニアなものがノンリニアな思考に無理やり駆逐されていくことの、理不尽さを思わずにはいられない。
 
仕事でも趣味でもビデオ編集などしたことのない私なのだが、リニア好きの私には、ノンリニアではないビデオ編集にも、それなりの良さがあるものなのかしら、ということにちょっと興味があったりする。
 
※写真は静岡県焼津市。伯父との別れは雨模様。

2002年 4月24日 水曜日
【教育雑感】

教育関連書籍の装丁もずいぶんやったなぁと本棚を見回すと既に三十冊近い。
 
教育現場の荒廃を嘆き糾弾するもの、そもそも人格形成に教育がどういう意味を持ちうるのかを考察するもの、現場の取り組みの中から希望の芽を見いだし、教育のあり方の将来に一石を投じようとするもの。
 
私の親の口癖は「満足な教育も受けさせてもらえなかった」であり、息子である私に対しては「教育をしっかり身に付けないと世間様に馬鹿にされる」、そして「たとえ貧しく何も残してやれなくても、教育だけはどんなことをしてでも受けさせてやりたい」であった。
そして、私が反抗期にさしかかって、親に口答えするようになり、少しでも母をへこましたりすると、「子どものためを思って苦しい思いにも耐えて教育を受けさせたら、こうやって無学の親を馬鹿にするようになった」と、泣いて見せたりもした。
 
子ども時代戦争を体験しており、軍需工場へ駆り出されて学校どころではなく、しかも貧乏人の子だくさんが多かったから、教育と言うものに対する喪失感と劣等感が強い世代なのだろう。
 
当然のことのように親の金で最高学府まで出させてもらい、それに対する感謝の念を忘れることは人の道に外れるとは思うけれど、学校教育は通過儀礼に過ぎず、本当の教育とは、社会に出て自分が自分に対し自主的な学びとして施すものでしかない、と言う思いも強い。教育とは受けるものではなく、自ら学び取るものである、などと言うことは、親のすねをかじっている時代に理解することはできなかったことだ。
 
   ***
 

パソコンなどというものはマニュアルなど無くても、使いこなせるものであるべきだ、と言う思いは強い。だがその反面、通過儀礼としての教則本の必要もまた感じる。
私が使い始めた頃の Macintosh 用ソフトのマニュアルというのは良くできていて、紙面構成も、造本も美しく、秀逸なものは今でも大切に保管してあるが、何よりも中身の文章が素晴らしかった。クイック・ツアーなどといってショート・ショートの物語仕立てで、楽しみながら機能と操作の基本を学ぶことができたりしたものだ。
「あなたはまず、開く・保存する・終了する、コピーする・カットする・ペーストする、など Macintosh の基本操作を習得しておく必要があります」などという前書きが、どんなソフトのマニュアルにも最初に書かれていた時代を懐かしく思い出す。なんとか投げ出すことなく、自分たちが世に送り出したソフトウェアに習熟してもらいたいという願いが、紙面から伝わってくる良き時代だった。
 
私が初めて Macintosh に触った時代は、日本国内の代理店から発売されているのに、日本語化されていないソフトも多く、英文のマニュアルを読まなければならないことも多かった。それでも、何とか理解することができたのは、文章の質の高さによるところも大きかったが、基礎英語力さえあれば、パソコンのマニュアルがパソコンの事しか書いていない限り、読みこなせるものなのだ。
 
上京した母親が「お前はコンピュータなどを使うのか?」と聞くので、「マニュアルは英文のものが多く苦労するが、何とか理解できるのも教育を受けさせてもらったおかげだと感謝してるよ」などという思いが不意に口をつき、母を涙ぐませてしまった事があるが、その言葉も、今では言っておいて良かったなと素直に思う。
“何よりも教育を受けさせていただいたことに感謝しています”というセリフは、私の親の世代が子どもから貰いたい究極の言葉かけなのかも知れないが、それに私たち子どもが気づく事もまた、自ら学び取るべきことなのだろう。

※写真は文京区本駒込、吉祥寺にある二宮尊徳の墓。

2002年 4月27日―29日 土曜日―月曜日
【「清水市は無くなる」を考える】

実は何も考えてないので、こんなタイトルにしたのを後悔してますが、清水蔵談義その他の用事での帰省報告を「清水目玉焼」サイトにて公開しました。

ふるさとというものは、心で思うものと、眼で、手で、肌の触れ合いで感じ取るものと、あらかじめ乖離しているものなのかもしれないと、考えながら、二泊三日の清水への旅でした。

http://odamame.com/kuradangi/2002_04.html

 


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