電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 6月1日 土曜日

【夏の旅】

JR山手線に乗っていたら、背広姿の会社員の会話に郷里の学校名が出てきておやっ?と思った。
試験の期間がどうのこうの、旅行会社の名前がいくつか、そして観光地の名前が出てきて…。早押しクイズならここでボタンに手が伸びる。どうやら旅行代理店の社員が修学旅行の話をしているらしい。
 
6月といえば修学旅行。
最近の修学旅行は、目的地に着いたら生徒の希望により、グループ単位の自由行動という方式が多いらしく、富山県内で中学校教師をしている妻の友人の頼みで、都内のコンピュータ・グラフィックス専門学校見学を世話したのも、去年の今ごろだったかもしれない。
最近の中学生は、そういう分野に憧れるのだなぁと隔世の感を抱くが、その反面、六義園界隈で、都内での自由行動に庭園巡りを選んだとおぼしき女子中学生のグループに出会ったりすると、微笑ましく、妙にホッとしたりする。
 
東京都内に住む小学生の修学旅行先は、僕の時代は日光だったが、今でもそうなのかは知らない。
小学校での泊まりがけの旅行というと、4・5年生の夏、鎌倉での臨海学校、そして6年生の修学旅行と、3度体験しているが、あまり楽しかった記憶がない。
母子家庭であることに引け目を感じて、妙に卑屈な子どもであったつもりはないのだが、そんな傾向を助長するような働きかけが学校行事にはあり、楽しいと感じたことは一度もないのだ。

子どもを持つ友人と話していて、最近の子どもは僕たちの子ども時代に比べて、学校生活の問題を家庭に持ち込みがちだという話になった。やはりそうなのだ。
僕は学校生活の延長が家庭に入り込むのが嫌いで、他愛の無い出来事でも母親に話すことはなかった。学校生活に母親が干渉することを好まなかったし、学校側にも家庭の問題に干渉して欲しくなかったのだ。親兄弟の揃っていた友人もそう言うのだから、母子家庭の子ども特有の性向ではなく、僕たちの時代の傾向がそうだったのかもしれない。
 
泊まりがけの旅行の前には、用意する持ち物を事細かに書いたプリントが配付され、母は頭を抱えていた。タオルが何枚、下着が何枚、靴下が何足、洗濯ばさみは竹製のものを何個、そのすべてに油性のマジックインクで名前を書けなどという指示が延々と書かれているのである。紺の靴下では名前が書けない、真新しい下着にマジックインクで名前を書くのは辛いと母は笑っていたが、忙しく働く母親の手間と、家計に負担をかけることが嫌でたまらず、学校を憎いとさえ思うことがあった。
 
平穏で気侭な毎日が好きなこと、卒業をただ清々しく感じたこと、そして人生はたった一度限りだからこそ良いと思うことの裏には、二度と味わいたくない、学校というものから受けた屈辱感がいまだにあると思う。
先日亡くなった伯父の戦友の話を聞いていて、事細かな持ち物の指示を受け、決められた時刻、決められた場所へ集合し、生きて帰る保証のない旅に駆り出された招集の残酷さに胸が痛んだ。今の若者、今の親達は、そのような時代が再び訪れた時、耐えることができるのだろうか。
 
他人に強制される旅には、もう二度と出たくない。

※写真は改築中のJR清水駅。中学校の修学旅行は、このホームから修学旅行列車「日の出号」に乗って京都へ。

2002年 6月2日 日曜日


6/1〜9まで文京区白山・白山神社で開催されている文京あじさい祭りに行ってきました]

【点の有無】

長谷川法世という漫画家がいて、彼の『博多っ子純情』という作品が大好きだった。
 
僕が大学生だった昭和51年頃から、『漫画アクション』(双葉社)という雑誌に連載されていたもので、後に映画化されるなど、なかなかの人気作品だった。
下宿先に程近い染井銀座商店街の小さな本屋で、偶然、単行本化された第一巻を手にして夢中になり、全34巻揃えていまだに持っている。
 
杉並区高円寺南の裏通りに、深夜1時過ぎまで、店頭に裸電球を吊るして営業している、猫の額ほどの広さの書店があり、残業を終えて帰る深夜、次々に単行本化されて発売になる『博多っ子純情』を買うのが、何よりの楽しみだった。
 
当時、大学時代の同級生が近所に住んでいたのだが、彼女もまた残業続きで終電車で帰して貰える事さえ稀であり、運良く互いに終電車に間に合うと、待ち合わせて、その書店前の居酒屋で飲んだ。
人情豊かな商店街で、銭湯は終電車到着の時刻に駆け込めば入れて貰えたし、風呂上がりに立ち寄る書店前の居酒屋は、疲れた若者たちのために三時過ぎまで家庭料理を振る舞ってくれたりした。店内に長谷川法世の色紙があり、彼も飲みに来た事がある店だというのもまた嬉しかった。
 
店を出た後、明け方近くまで、彼女の部屋で発売されたばかりの『博多っ子純情』を一緒に読む事が楽しく、後に妻となる人との縁結び役を、この漫画と商店街が、してくれたのかもしれない。
静岡県清水市の小さな教会で結婚式を挙げた際、この居酒屋から祝電が届いたのも、思い出すと涙が込み上げるほど懐かしい。
書店も居酒屋も既に無い。

漢字というのは小さな点がひとつ有る無しだけの違いという、よく似た文字を使い分けるので注意しなくてはいけない。

「塚」の字が違うと編集者の赤字が入るので、注意してよくみると小さな点がある。JIS 文字コードには定義されていないので画像作成ソフトで作字する必要があるのだが、点の多い「塚」の字が頻出すると厄介で、その箇所ごとに作字した画像を貼り込まねばならず、面倒でもフォント化してしまう事にしている。そうすればキーボードで好きなだけ打つ事ができ、文章に埋め込めるから。
 
Macintosh や Windows で定義されていない文字というのは、作字の手間の分、厄介だ。
だが、点が一つ有る無しの違いが文字コードとして定義されていると、便利である反面、奇妙なトラブルの要因になったりもする。


たとえば、政治の「治」という文字には、同じ音読みで「冶」という点が一つ少ない、よく似た文字がある。通常使われる熟語などは日本語変換ソフトに辞書登録されているので間違いは少ないのだが、偶然、点の少ない「冶」を使う機会の多い編集者が「じ」で単漢字辞書登録をしていて、「治」とするべき箇所に「じ」と打って「冶」と入力してしまう事があるのだ。一度大きなトラブルを体験した事がある。似ているだけに間違いに気づき難いのだ。
僕たちは点一つの有る無しにこだわらず、おおまかな図形として文字を識別し、図形と図形が組み合わさった意味という図像の流れとして文章を眺めているのだろう。多少間違って書かれた手書き文字でも、正しく読めて、意味を理解できてしまうのだ。
 
『博多っ子純情』の何巻だったか、著者からのお詫びが掲載されていた事がある。
書名タイトルは著者の手書き筆文字だったのだが、「博」の字の点が一つ欠けていて、長い事「博」の字には点が無いと著者自身、思っていたのだそうだ。著者だけを責めるのもおかしな話で、編集者も、長期間読み続けている読者すら、タイトル文字が間違っている事に気づかなかった事が可笑しい。実は僕も言われるまで気づかなかったのだけれど。
そんなわけで、僕の持っている『博多っ子純情』第一巻から数巻目まではタイトル文字に点が一つ少ないという珍品になっている。

※写真はパリの路上市場(1994年)。現物に添えられていれば文字の意味にも見当はつく。

2002年 6月3日 月曜日
【製本所の昼休み】

「勉強は他人(ひと)のためにするもんじゃない、自分のためにするもんだ」
 
子どもの頃、耳にタコができるほど聞かされた言葉で、当時はいささかうんざりしたけれど、今では確かにそう思う。だが、子どもの頃は、他人がとやかく言うから勉強するのであり、本当に自分のためになる事をしてよいのなら、学校の勉強などやらないぞという反発も常にあった。
 
「仕事は他人(ひと)のためにするもんじゃない、自分のためにするもんだ」
 
と言う人はあまり見かけない。
仕事をいくらやったって、他人との関係を絶って一銭の金にもならなければ生きて行けない社会システムの中で生きているのであれば、当然といえば当然である。一握りの「天才的」な人々が、他人を顧慮せずひたすら自分がやりたい事に打ち込んで、それが本人の目論見か否かは知らないが、社会的評価を得て富と名声が転がり込んでいるのであり、そういう人がこんな言葉を吐いたのならおかしくはない。
 
僕はそういう人ではないのだが、仕事は他人のためにするもんじゃない、自分のためにするもんだよなぁという思いが、限定的ではあるけれど学生時代からある。
 
学生時代、生活費を稼ぐためにいろいろなアルバイトをしたけれど、「他人のために仕事をする」のは嫌だなぁという事を教えてくれたのは、小さな製本所でのアルバイトだった。
学校の卒業アルバム作りという特殊な仕事で、たかだか数百名のためのアルバムづくりだから、小口の依頼を手作業でこなせる小さな製本所に仕事が回ってくるのである。
朝早く出勤して板の間の作業場に胡座をかき、目の前にドサッと置かれる分厚い印刷物を次々に折って行く単調な作業だ。指示された方向に折り、軍手をはめた手でグイッとしごいて折って行くのだが、分厚い特種紙なので、あっという間に軍手は破れ、一日に何度も取り換えなければならなかった。
 
単純作業を辛く感じないコツは、一所懸命打ち込む事である。
言い換えればスポーツと考えれば良い。真剣に取り組むと、効率良く正確に作業するコツが掴めてきて、身体が機械のように勝手に動くようになり、辛いどころか快感とさえ思えるような、いわばワーカーズ・ハイがやって来るのである。僕はこれが好きで、今でも単純作業では早くその域に達しようと集中して打ち込むことにしている。
 
製本所の昼休み、アルバイト仲間に呼び出され、「お前が一所懸命やり過ぎて周りのものが迷惑している、どうせバイト期間が終了して貰える賃金は一緒なのだから、皆でペースを合わせてのんびりやれば良いのだ」と言われてしょげた。僕にとって、単純作業をチンタラやることほど、辛く、屈辱的な事は無かったからだ。社会人になったら、できれば単純作業を皆のペースにあわせてやるような職場だけは避けたいものだと真剣に思った。
 
単純作業に対しての知的作業。
嫌な言葉だけれど、正直言って、知的作業に従事したいと望み、その夢が叶った挙句、他人の時間潰しと損得勘定のために調子を合わせて働いている限り、単純であろうと知的であろうと、その居心地の悪さに大して違いはないのだと悟った時、僕は三十歳になっていた。組織を離れ、一人ぼっちの仕事場を選んだのはその歳だ。

パソコンというのは単純作業合理化の取り組みの集大成である。
単純なものは必ずプログラミング可能であり、その積み重ねが複雑な作業をこなすシステムになっているに過ぎない。その上に乗って、人は仕事をしているのであり、さらに「こんな単純作業、何とかならないかなぁ」と思い付く局面が現れてくるわけで、自分でプログラムを組むか、他人に依頼して作ってもらうか、お金を出して出来合いのものを買うのである。
 
今まで、膨大な時間をかけていた仕事が合理化されると、次々に新しい事がしたくなる。
コンピューターを使った作業もまたスポーツである事に変わりないという思いが強い。よく、そんな時間がありますねと言われる事も多いくらい多動な人間なのだけれど、「人生、泣いても笑っても、神様が定めた宿命が用意されているのだから、みんなと歩調を合わせて楽しくのんびり歩こうよ」、と言われるのが今もって嫌で仕方ないのだ。

すべては、あの製本所の昼休みから始まったのかも知れない。

2002年 6月6日 木曜日
【遠近両用のヨロコビ】

遠くしか見えないのも、近くしか見えないのも不便なものである。
 
高校生になった途端、近視の度が進み、メガネをかけないと教室の黒板の文字が見辛く、席順が自由だったので最前列ど真ん中の席と決めて、メガネ無しの学校生活で済ませていた。大学生になり、色気づいてかコンタクトレンズなどを用い、三十歳を過ぎて眼鏡をかけて今日に至っている。
 
最近、満員電車内での読書は困難である。
大相撲千秋楽の優勝力士表彰のように、両手を真っ直ぐ伸ばして距離をとらないと、本にピントが合わない。それでは眼鏡を外せば良いと思われるかも知れないが、裸眼だと数センチの距離まで本を近づけないと焦点が逢わず、これもまた格好が悪いのである。
同い年の編集者は、朝トイレの中で新聞を読む楽しみが失われたと嘆いていたが、僕たちの年代は、そろそろ世に言う老眼の域に差し掛かっているらしい。
 
電車内で座れると、文庫本を開き、両腕を伸ばして本を膝に置き、ゆったりと読書できるのだけれど、混み合ってくると吊り革につかまった人が目の前に立ち、それが若い女性だったりするとスカートに手の甲が当たったりして、痴漢オヤジのようで気が引け、読書を断念せざるを得ない。手を引くと、文字にピントが合わないのだ。
 
目の直前に文庫本を開いて読むのも興ざめなので、退屈すると眼鏡を外して、自分の爪を見たりしている。爪に飽きたりすると切符を眺めたりするのだが、接写レンズで眺めるようでなかなか面白い。墨文字の印刷の背景に何やら地紋が印刷されているのだが、良く見ると「JR」の文字を用いたエンドレスパターンだったりするのだ。

若い頃、こんなに近くに目の焦点が合ったかしら、もしかするとオジサンの特技かも知れないと思ったりする。
適度な距離を置いて見る機能が衰え、そのかわり物を間近で観察する事の楽しさに開眼したとはいえ、電車内で、まじまじと切符を眺めているのはさほどヘンではないけれど、道端の草花に数センチまで目を近づけて眺めているオジサンというのはかなりヘンなので、帰宅後の楽しみとしてレンズ面から1センチの距離まで近づけるデジタルカメラを持って外出する事にしている。
 
紫陽花の「花」と思い込みやすい部分は「ガク」であることは常識だけれど、じゃあ花はガクの真ん中にある豆粒のようなものなのだろうけど、どうやって花開くのだろうかと興味が湧き、出先で見かけた紫陽花を撮影してみた。
帰宅後、パソコンに取り込んで拡大してみると、やはり球形のドームがパックリと開いて、花が咲くのだという事がわかって面白い。


若者でも眼前のものに焦点を合わせる事くらいオジサン以上に得意なのかも知れないけれど、モノに距離を置いて矮小なステレオタイプでしか世界を見られなかった自身の青春時代を思うと、あらためて間近から見る世界の新鮮さ、多様さに喜べる価値観を持てた事が、老化と引き換えに獲得した有り難い特権のように思えてならない。

2002年 6月7日 金曜日
【ボケと発熱】

老人の脳を活性化させ、ボケを予防するために、簡単な暗算と文字の音読が効果絶大なのだという。
 
簡単な足し算・引き算を延々と繰り返したり、小学校低学年程度の書き取りをしながら、文字を声に出して読み続けると脳への血液の流れが促進されるというのだ。
面白いのは、テレビゲームに興ずる時の脳内血流が部分的なのに対して、暗算や音読の時は、脳の各所に血流が生じるのだという。テレビゲームに集中することは、良い脳の運動になるのだろうなと思っていたのだが、たいしたことはないらしい。脳のある部分を酷使するに過ぎず、他の部分は遊んでいるようなのだ。
 
ところで、頭を使っていて激しく血液の循環が起きている時、脳というのは、それによって発熱するものなのだろうか。
 
郷里に帰省して母親の愛犬イビに会うとき、久しぶりの強い「オス」との再会に、イビは相当な緊張を感じるらしい。尻尾を降りながら身をくねらせて喜びと服従の意志を表現しているのだが、緊張のあまり歯を剥き出していたりして、笑いながら激怒する竹中直人の演技を観ているようで可笑しい。
そんな時、イビの林檎ほどの頭蓋骨を掌で包み込むように撫でてやると大層熱い。脳に血がどんどん流れ込んでいるのだろう。
 
犬ばかりでなく、僕も極度の緊張をすると頭が熱くなり、それでなくとも汗っかきなのに、頭から大量の汗をかいている自分に気づく。
特に人前で書類を書かされるのが苦手で、書いている手元を見つめられたりすると、もういけない。だから役所が大嫌いなのだ。病院も苦手で、医師と向き合うと途端に血圧が上がるタイプらしく、医師本人からそう指摘されたことがある。
 
ともかく、脳というのは活発に使用すると発熱するように思える。本当かなぁ(笑)。

人間の脳の事はわからないが、機械の「脳」は、使えば使うほど発熱する。
CPU(中央演算装置)というのが人間でいえば脳にあたり、手で触れればやけどをするほど激しく発熱するのだ。
僕が仕事で使用しているノートパソコンは CPU の温度が一定値を越えると、内部のファンが回って冷却するようになっている。このファンが回る機会が少なければ少ないほど、ノートパソコンの放熱設計は優秀と言えるのかも知れない。ファンを回す事による電力消費は馬鹿にならないからであり、最近は放熱効果を計算し尽くして、冷却ファンを持たない機種もある。
 
ノートパソコンの冷却ファンが回らないのは有り難いのだが、購入して一度も回らなかったりすると、故障しているのではないかと不安になったりする。僕のノートパソコンのファンも購入して一年以上回転音を聞いた事が無く、ちょっと不安になったので「脳」を発熱させて、ファンが回る事を確かめたくなった。
 
インターネットに接続して、インタラクティブなコンテンツが盛りだくさんのサイトを渡り歩いたり、巨大なデータを長時間かけてダウンロードしたり、MP3の音楽をエンドレスで聴きまくったり、膨大な原稿を入力し続けたりしたところで、CPUの温度はさほど上がらない。僕たちが高度だと思っている日常の作業では冷却ファンが回るほど機械の「脳」に運動効果が無いのである。
 
パソコンの「脳」を激しく発熱させる方法で簡単なのは、パソコン内のデータを一括してバックアップするつもりで、圧縮ソフトで圧縮してみることである。圧縮というのは一定のアルゴリズムによってデータファイルをコンパクトにまとめる地道な作業なのだが、これはパソコンの「脳」に激しい負担となるようで、CPU の温度計がぐんぐん上がってあっという間に冷却ファンが回り出す。
もしくは、円周率を無限に計算し続ける小さなソフトを動かしっぱなしにする事で、これも見事に CPU から救助信号が出て冷却ファンが回り出す。
 
機械の「脳」も単調な計算や、地道な作業でこそ、激しく活性化するようなのだが、これがパソコンのボケ防止に効果があるとはとても思えない。あたりまえか(笑)。

2002年 6月8日 日曜日

はまぼーずの脳味噌煮込み饂飩店】を更新しました(^^)!
 ●【化け物鮎?
  第1話:釣り人の悩み果てなし(仕掛け編)
 ●【化け物鮎?
  第2話:未知との遭遇@大見川

2002年 6月8日 日曜日
【内輪の事情】

一人っ子などに生まれつくと、時には兄弟姉妹のある人を羨ましく思うこともある。
 
「兄弟姉妹なんて煩わしいだけ、いないほうがよっぽどいいよ」
などと言う友人もいるけれど、兄弟姉妹との付き合いが煩わしいと言いながら、兄弟姉妹を持たない他人から見れば、友人がそれによって随分、賦活効果を受けているように見えて羨ましいのだ。
 
「他人には言えない、どろどろとした内輪の事情もあってさ」
そういうものかもしれない。内々、内情、内密、誰でも内輪の事情というものがある。
他人なら付き合いを断てば済むことも、内輪の柵(しがらみ)から逃れられないからこそ、兄弟姉妹を持つ者の憂鬱もあるのだろう。
「兄弟姉妹のいないヤツにはわからないだろうけどね」
 
   ***
 
昔々、といっても時代はもっと明確なのだけれど、花山天皇(かざんてんのう)の御代だというから、西暦900年から1000年にまたがる時代のこと、晴頼という鷹を飼う名人がいたという。
鷹を飼うというのは立派な技能職であり、その道で名を揚げれば富も名声も得られた官職でもあったわけで、その技術情報は企業で言えば機密事項だったはずだ。機密事項などといったところで、それを保持する場は家庭内の延長であり、兄弟姉妹が容易にアクセス可能な情報に過ぎず、常に漏洩の危険はつきまとっていたのだろう。

鷹匠、鷹使い、鷹飼い、鷹師、鷹居(たかすえ)などとも言ったようだが、苧屑(ほくそ)頭巾、からむし頭巾、がんどう頭巾、おがら頭巾、おくそ頭巾などと呼ばれる衣装を身に着け、山言葉、鷹詞などと呼ばれる特殊な言語を用いる不思議な職業だったらしい。
狩りに用いる鷹を育てるには、人にも鷹にも怪我が付きものであり、晴頼の場合、傷ついた鷹を治療する秘密の薬草というものを知っており、それが彼の秘中の秘、機密事項、商売上の切り札の一つであったわけだ。
それを事もあろうに弟が他人に教えてしまったから大変、怒り心頭に達した晴頼は刀を抜いて弟を斬り殺してしまったという。それ以来、その薬草は弟切草(オトギリソウ)と呼ばれ、止血薬、鎮痛薬、火傷の外用薬などとして世に知れわたり、葉にある黒点は晴頼に切られた弟の血痕だと言われるようになったという。
 
いかに機密事項を漏洩したとはいえ、弟を斬り殺したりするかなぁとも思えるのだが、
「兄弟姉妹のいないヤツにはわからないだろうけどさぁ、他人には言えない、どろどろとした内輪の事情もあってねぇ」
などと晴頼は述懐するのだろうか。
そして漏洩したのが兄弟姉妹でなくて赤の他人だったら、斬り殺すなどという仕儀には及ばずに済んだのかもしれず、身内の裏切りであるが故に起きた惨劇だったのかしらと思ったりもする。
 
西洋弟切草(セイヨウオトギリソウ)英名 St.John's Wort にも酷似した話があって面白い。John は聖ヨハネの英語読みなのだが、ヨハネは舞姫サロメにそそのかされたヘロデ王に首を斬られて死ぬのだ。その時飛び散ったヨハネの血痕が葉の黒点になったのだという。
サロメはヘロデ王の姪であり、その母はヘロデ王の後妻というややこしい事情もあり、
「他人には言えない、どろどろとした内輪の事情もあってねぇ」
などとサロメもまた言うのかもしれない。
 
どろどろとした内輪の事情に心悩ますことは、今も昔も変わりないのだろうが、古くから神経症に効能があると言われてきた弟切草の坑鬱・精神賦活作用が近年欧米で注目されているというのも面白い。
 
もうすぐ聖ヨハネ祭、弟切草は待ちかねたように花開く。
 
※写真[上]は未央柳(ビヨウヤナギ)、写真[下]は金糸梅(キンシバイ)、どちらもオトギリソウ科の植物です。

2002年 6月11日 火曜日
【ココロのシャンソン】

「鉄腕アトムと鉄人28号とエイトマンを描いてみて」
 
友人がそんな事を言い出すので、皆で描きくらべしてみる事がある。
記憶を辿って描くので、絵の巧拙より、記憶違い、主観的な思い込みの差異が際立って面白い。皆で笑い転げた挙句、しみじみ思うのは、古い漫画などというものは想い出の中で反芻するから楽しいのであり、インターネットオークションなどで、目の玉が飛び出るほどの金を払ってまでして、コレクションするものではないということだ。
 
赤塚不二夫という漫画家は面白い人で、世の中の嫌われ者、社会の周縁部に生きる人たちが、奇妙な愛着をもって描かれていて楽しい。豚の子分を引き連れた「ブタ松親分」という、人情篤いヤクザ者が出てきて大好きだったのだけれどネット検索しても資料が見当たらない。同じく、マイナーなのだけれど「ココロのボス」というギャングの親分がいた。『もーれつア太郎』という漫画に登場するキャラクターで、中学から高校にかけて、『少年サンデー』誌上で読んでいたのだと思う。
多分、狸がモチーフなのだが、びしっと背広を着込んだいかにもギャング風の出で立ちなのに、とてもセンチメンタルな心根をもった人物で、花が大好き。帽子にいつも花を一輪差していたような記憶があるのだが、定かではない。
 
中学・高校時代の夜更けの楽しみは、トランジスタラジオで雑音を掻き分けながら深夜放送を聞く事で、中でもニッボン放送の『オールナイトニッポン』が大好きだった。パーソナリティは、糸井五郎、亀淵昭信、斉藤安康、いまにてつお、あまいくにお、たかしまひでたけ(字のわからない人はヒラガナ)という面々だったような記憶がある。
中でも亀淵昭信、通称「カメちゃん」が大好きで、僕が大好きだったボブ・ディランに精通している事、悪ふざけが好きな事、道徳心篤い人情家で涙ながらに若者を諭す事、何もかも好きだった。
斉藤安康、通称「アンコーさん」と組んで「カメ&アンコー」としてレコードも出しており、僕も何枚か所有している。
 
彼らの LP レコード『人生はピエロ』の中に『ココロのシャンソン』という曲が含まれており、まさに「ココロのボス」を歌った曲で、もしかすると作詞は赤塚不二夫本人だったのかも知れない。
♪街のはずれの道端に一本、僕の心の花が咲いていたのココロ〜
 誰も知らない振り向かない、僕だけの秘密の花のココロ
といった歌詞だったような気がする(^^;;
そうかぁ、カメちゃんも「ココロのボス」が好きだったのかぁ、と妙に嬉しかった記憶がある。
 
カメちゃんにファンレターを書いて、返事が貰いたいなぁと思うようになり、思いきってハガキを書いてみた。今で言えば著名人にメールを書いて返信メールを待つようなものだ。秋の夜長の徒然に心を込めて書いたのだけれど、返事を貰えないままその年も暮れた。
 
翌年、元日のポストに亀淵昭信という差出人の年賀状を貰った時は嬉しかった。
「ガンバレ!! カメ」
と、カラーインクで大書されていた。
LP レコード『人生はピエロ』は、学生時代、お金に困って二束三文で売り払ってしまったけれど、カメちゃんの年賀状は今でも大切に保存している。カメちゃんの好きだった「ココロのボス」の帽子を、記憶を頼りに描いてみた。カメちゃんが見たら大笑いされるかも知れないけれど。
 
そのカメちゃんも今は、ニッポン放送の社長さんになっている。
カメちゃんもまた頑張ったのだ。

2002年 6月12日 水曜日
【たいした技術力】

お金を払ってメーカーのβテストをさせられる馬鹿がいる。
 
パソコンソフトや OS に関して、そんな話を聞く事が多い。
僕は、パソコンに関しては「お金を払ってβテストをさせられる」のが嫌いではない。不具合を見つけるたびにメールでフィードバックし、メーカーやユーザーの有志が不具合を修正して行く過程を見るのが楽しいし、作業に少しでも奉仕できる事が、何よりもの喜びと感じるからだ。
「お金を払ってβテストをさせられる」なんて、とても他人にお勧めできる事ではないけれど、そういう奇特な人がいるからこそ完成度の高い商品が供給されるようになるのであり、少なくとも馬鹿呼ばわりは無いなぁとも思う。
 
ユーザーが発見した不具合を修正して商品の完成度を上げて行くという手法は、何も今に始まった事ではなく、時代の風潮を嘆くには当たらない。
 
我が家にモノクロテレビがやって来たのは、昭和三十五年だと思う。
まだかなり高価な買い物だったのだが、父親が勤めていた和菓子工場が倒産した際の退職金がそれに充てられたらしい。
両親が秋葉原電気街で買い込んできたのは、僕の予想したナショナルとか東芝とか三菱などではなく、NEC という聞いた事も無いメーカーの製品だった。聞いた事も無いメーカーだと僕が言うと、両親は、
「NEC はあまり聞かないだろうが、たいした技術力を持った会社で、安いけれど性能はいいんだぞ」
と、熱弁した。おそらく店員に聞かされた事を、そのまま子どもに聞かせたに過ぎないのだろう。
 
その NEC のモノクロテレビは「たいした技術力」にもかかわらず、よく故障した。
故障するたびに、メーカーの技術者が大きな工具箱を持ってやってきて、テレビの裏ぶたを開け、真空管を交換したりするわけで、その作業を見ているのが、僕は好きだった。
「あのテレビ、何度くらい壊れたっけ?」
と、母親に聞くと、
「何度壊れたかわからないけど、メーカーもよく何度も何度も来てくれたよねぇ」
と、大笑いしている。いまだに我が家の笑い話なのである。
 
そのうちに、世の中にはカラーテレビなるものが出回り始めた。
カラーテレビが見られるのを売り物にした蕎麦屋なども近所に現れ、母は新聞のテレビ番組表を眺め、日に何本かある
【カラー】
と書かれた番組放映時間を見計らって、食べたくも無い蕎麦を食べに僕を連れて出掛けたものだった。
木工の家具調テレビに観音開きの扉が付いており、更に織物の幕がかけてあったりし、カラーの番組のある時だけご開帳して見せてもらえるのである。モノクロ番組を見たりすると、テレビの寿命が縮むとけちっていたのかも知れない。「本日のカラー放送」などという手書き番組表が客寄せのために貼ってあったりした時代である。
 
その肝心のカラー映像というのが酷いもので、何だかそれらしい色が付いているだけで、へたくそな塗り絵のようにはみ出しているようにも見え、僕はよっぽどモノクロテレビの方が良いと思ったし、大人たちもまた、
「カラーテレビはまだまだだなぁ」
などと、サイケデリックな映像を見ながら笑っていたものだった。
今の若者に見せたら、すべての番組が MTV のビデオ・クリップのように見えると大受けするかも知れない。
 
未完成な商品でも、買って試用してくれる消費者がいないと進化は遅々として進まない。
パソコンの OS の場合、消費者がどうしても買わずにいられなくなるようなキーとなるソフトを「キラー・アプリ」と呼ぶ。そのアプリケーションを使いたいがために、消費者は新しい OS を買うのである。
 
「カラーテレビなんて欲しくない」
と、親の懐も気遣いながら、強がりを言っていたのだけれど、新しもの好きな叔父がカラーテレビを買い、
「カラーテレビが欲しくて欲しくてたまらなくなる番組を見せてやるから来い」
と、嬉しそうに言う。何を見せてくれるのやらと出掛けて行ったら、それは何と子ども向けのアニメーションだったのだが、見た途端、開いた口が塞がらないほど感動的なものだった。
平板な塗り絵のようなアニメーションを見慣れた眼に、美しい日本画のような映像が鮮烈で、しかもストーリーが飛び切り面白いのである。これは凄いと驚き、母親にしつこくねだったのは言うまでも無い。
昭和43年、白土三平原作のテレビアニメーション『サスケ』である。
まさにこの番組こそ、僕がモノクロテレビの時代は終わったと実感するきっかけになったのだが、我が家にカラーテレビがやって来たのは『サスケ』の放映が終了した後だった。
 
両親が買い込んできた想い出深い NEC のモノクロテレビは、一年間の調整の後、12年間無故障のまま粗大ゴミとして廃棄されるまで、「たいした技術力」を実証し続けたからである。

2002年 6月13日 木曜日
【ココロのシャンソン・2】

当サイト、『脳味噌煮込み饂飩店』店主、はまぼーず氏に仕事の事で電話をしたら「……のココロ(笑)」などと言う。あ、日日抄を読んでくれたんだ〜と嬉しくなり、
 
「ココロのボスを知ってるんですよね。帽子、あんなのでしたよね」
 
と聞くと、あんなに立派な帽子じゃないし、キャラクターのモチーフは狸じゃなくて犬ではなかったかと言う。そう言われれば、そんな気もするなぁと突っ込んで話を聞くと、「ココロのボス」はいつも葉巻をくわえて、ステッキを振り回していたような気がするという。そうだった、そうだった、帽子の下の口元とおぼしき場所に葉巻を描いておけばよかったなぁ、などと笑いあった。
 
僕は四十代後半になって、友とのこういう会話が楽しくてたまらない。
インターネットが使えるようになって、何でも手軽に調べて付け焼き刃の知識をひけらかすような自分が嫌で仕方なく、知らない事は自分の知っている範囲の事を伝えながら尋ね、友もまた知っている範囲の事を記憶を頼りに教えてくれる、そういう、仲間で朧げな記憶を辿って行くような遊びが心地よくて仕方ないのだ。
 
さらに「知らない」「憶えていない」という事柄を友と語り合い、互いの個性として共有しあうのも楽しくなってきた。「知っている」「憶えている」事こそ自分の個性であるかのように、虚勢を張りながら背伸びして生きる事に倦(う)んできたのかも知れない。他者が「知らない」「憶えていない」ことを一つひとつ知るのも、その人への理解の方法なのである。
 
そんな心境にさせてもらえたのは、理学療法士の三好春樹さんと知りあったからかなぁと思う時、百歳を目前にして特別養護老人ホームで亡くなった祖母との会話を思い出す。
孫の僕がびっくりするような昔話を何度も何度も繰り返して聞かせてくれたりする反面、
「そんなこともあったっけかなぁ、憶えてないやぁ…」
と視線を天井にさ迷わせる祖母を見ていると、記憶というものは消そうにも消せないものと、眩しい白紙が突然目の前に現れるように、綺麗さっぱり抜け落ちてしまうものがあるのだという厳然たる事実を教えられた気がした。人は老いとともに、記憶の中に白紙のページが増えて行くのは致し方ないが、その白紙のページもまたその人の個性として愛おしく思える事もあり、それこそが「掛け替えのない僕のおばあちゃん」の全人格なのだと実感することもあった。
 
知識は宝というけれど、知らない事、忘れた事もまた人生を楽しむ道具であり、他者に有って自分に無いものこそ、掛け替えのない宝のような気もする。よき友、よき理解者さえあればの話だけれど。

2002年 6月14日 金曜日

2002年 6月14日 金曜日
【吹けば飛ぶよな時代もあった】

歌手の村田英雄が亡くなった。
 
「♪吹けば飛ぶような将棋の駒に…」と始まる『王将』、発売は昭和36年で、翌37年に大ヒットとなった。昭和36年というと、『東京ドドンパ娘』『硝子のジョニー』『銀座の恋の物語』『君恋し』『コーヒー・ルンバ』『川は流れる』『北帰行』『スーダラ節』『上を向いて歩こう』と、当時7歳だった僕が今でも唄える曲がたくさん発売になっている。そして『北上夜曲』『山のロザリア』などという「うたごえ運動」からヒットした曲もあるように、国民はよく歌を唄い、破局直前の両親も、仲の良い時は「♪吹けば飛ぶような将棋の駒に…」と、貧乏暮らしの自分たちを笑い飛ばすように、二人で唄っていたのを思い出す。
 
僕はこの歌の「通天閣」という言葉がどうしても耳につき、実際にあるのなら、いつか行ってみたいと思っていた。
村田英雄が「♪つ〜てんか〜くに〜〜〜」と唄う時の、なんとも言えない恍惚の表情が気になってしかたなかったのだ。
天王寺で降りてジャンジャン横丁へ。昼間から串カツで飲んでるオッチャン、ずらっと並んだ将棋盤に群がるオッチャン、でっかい河豚ぢょうちんが印象的な「新世界」の町並み、そして「日立OAシステム」と大書された通天閣。憧れの展望台から大阪市街を見渡して「ええなぁ!」とため息をついたのは30歳の冬だったと思う。
 
僕は、こういう猥雑な町が好きで、今でも昭和三十年代の面影を残す浅草の裏通りを歩いたりすると居心地が良くて、夏場ならごろっと横になって路地裏の小さな星空を見上げて眠ったら、さぞかし気持ちがいいだろう、などと思ったりする。
母はそういうことが嫌いな人なので、父親の性格を受け継いだのかもしれず、実際にそれを実行して浅草で命を落とした父親を思うと、本気で路上に横になったりはしないけれど、大阪や東京の気取らない街を歩くと「♪吹けば飛ぶような将棋の駒に…」と口ずさんでいる自分がいる。
 
村田英雄死す、と聞いても島倉千代子のように、「兄のような人を失った」という感慨は無いけれど、「一つの時代を失った」という思いは強い。吹けば飛ぶよな時代を生きた両親の思い出がまた一つ消えた。

2002年 6月15日 土曜日
【ココロのシャンソン・3】

当サイト、『脳味噌煮込み饂飩店』店主、はまぼーず氏との小さな想い出話も、ひとまず大団円。
 
仕事の納品でお邪魔したら、『もーれつア太郎』登場キャラクターの栞を公開しているサイトを見つけたとのことで、プリントアウトをいただいた。
 
二人で眺めながら、
「帽子って、こんなんだったんだなぁ」
などと笑いが込み上げる。帽子をかぶったキャラクターが少なかったせいか、小さかった帽子の何と印象的に思えていたことか。そうだった、そうだった、こんなシャツにこんなネクタイ、ダブルのスーツはこんな柄だったし、靴もこんなの履いてたなぁ。
 
「ほら、どう見ても犬だろう、ブルドッグとかの」
「でも、尻尾が狸でしょう?」
「尻尾は狸でも顔はどう見ても犬だぞ〜」
 
まあ、犬と鰻の合体キャラ(ウナギイヌ)を作ってしまう「モロー博士」みたいな漫画家だから、それ以上、考えても意味はない。第一、犬にせよ狸にせよ、耳が無いではないか。そういえば「ココロのボス」は他人の言うことに耳を貸さないマイ・ペースな人だったような気がしないでもないが、そんなことより、ボスに尻尾があったのを忘れていたことに気づいて嬉しい。
 
見せていただいたのは、竹書房という出版社から出ていた文庫判の全集を揃えると手に入った栞らしい。
はまぼーず氏と別れ、次なる打ち合わせに千代田区飯田橋に向かうと、潮出版の並びに竹書房の本社ピルを発見。『もーれつア太郎』の栞が落ちてないかしら、なんて思ったりする自分が浅ましい。
いただいたプリントアウトを見つめながら、Palm のお絵描きソフトで、思い出の「ココロのボス」を描いていたら、不意に、ボスは自分のことを、
「ポク」
と呼んでいたのを思い出した。トホホな幕切れに、去って行く「ココロのボス」はこう呟いていたっけ。
 
「はぁ〜〜、ポックンポックン」

 


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