電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 7月1日 月曜日
【「純」のしくみ】

「純粋絵画」なんて言葉があった。
「あった」と過去形で言い切りたいところだけど、インターネットで検索すると、今でもたくさん使われている。
 
「純文学」という言葉を辞書で引くと、「読者に媚びず純粋な芸術をめざした文学作品(三省堂大辞林)」なんて書いてある。「純粋」な「文学」を「純文学」と呼ぶ程度の想像はついているわけで、何をもって「純粋」とするのかが知りたいのだけれど。
 
で、「純粋絵画」をこれに当てはめると「見る人に媚びず純粋な芸術をめざした絵画作品」となり、当然、何のことやらわからないのだけれど、一般的に「純粋絵画」の対極に「イラストレーション(デザイン)」を置いて用いられるらしい。
 
他人に誉められたい、認めてもらいたい、要望に応えたい、対価を得たい、と思うのは人間当たり前の行為であり、それを目的として絵を描くと「純粋」ではないとされるわけだ。まぁ、大人の描く絵は多かれ少なかれこのような「不純な動機」から全く無関係でいられるはずはない。それどころか、音楽だって、数学だって、哲学だって、多かれ少なかれ、そういう言い方をするなら不純なのだ。
 
それじゃあ子どもの描く絵は純粋で無垢かというと、それもきわめて疑わしい。
僕は、子どもの頃学校で描かされた絵を覚えていることが多く、何故かというと、いつも先生に誉められたい、友達をびっくりさせたい、校長先生から賞状がもらいたい、賞品の画材がほしい、母親の喜ぶ顔が見たい、そう思って絵を描いていたからだ。
算数や理科、音楽や体育で、通信簿に良い点数が欲しかったのと同じ理由にすぎない。
 
覚えている一番古い絵は幼稚園で描かされたものだ。
男子は、自動車、電車、飛行機、船、女子は、家、花、女の子、そんな絵柄を決まって描いており、保母さんが、
「自動車、電車、飛行機、船、家、花、女の子、じゃない絵を描こうよ〜」
と要求したのでそれに応えたものだ。
 
「自動車、電車、飛行機、船」を描いても、それ「だけ」じゃなければいいのだろうと、川にかかる鉄橋、そして大好きな富士山を描き、その風景の一部として電車と船を描いたら、案の定、誉められた。
それ以来、どう描いたら誉められ、認められ、要望を満たし、自分の得になるかを考えて絵柄を考えるようになったので、あの写生会で何を書いたか、あのコンクールに何を応募したか、はっきり覚えているのだ。
 
その結果の必然として、デザイナーなどという「不純?」な職業になっているわけだけれど、誉められない、認められない、要望を満たせない、自分の得になる仕事がない同業者が、暇に飽かして「作品」なるものを作って、自らを「アーチスト」などと名乗っているのを見るにつけ、「純粋」と称することの不純さに目を覆いたくなる今日この頃である。

2002年 7月3日 水曜日
【ギックリおつきあい術】

友人がギックリ腰になったという。
 
ギックリ腰未体験者にはわからないだろうけれど、これは痛い。
寝椅子から起きあがろうとした瞬間に、ギックリ行ったというのだが、想像しただけで痛い。
僕は、椅子に座ってパソコンを操作している最中、大きなくしゃみをした途端にギックリ行ったことがある。間の悪いことに、OA機器メーカーの営業マンが訪ねてくることになっており、事務所のドアチャイムをしつこく押すので、玄関まで這って出て驚かせてしまった。
 
さらに、癪なことに取引先の T書房社長が、あいつは大欠伸をした途端にギックリ腰になったと言いふらしたので、しばらくの間、仲間内の笑いものにされたりしたこともある。


友人のギックリさんが、電話やメールで、当サイトの「しりとり掲示板」の表示がおかしいという。
仕事で使っている Macintosh でも Windows でも、そのような症状は出ていないので、お使いのソフトが「ギックリ・ブラウザ」になったんじゃないかと、笑い飛ばしておいたのだが、どう設定を見直しても表示がおかしいし、職場でも自宅でも同様なのだという。
 
管理者の側からすれば、設置以来、全く設定はいじっておらず、掲示板の CGI が自動で出力する画面なので「そちらの設定が変わっちゃったんじゃないですか」と言いたいし、先方からすれば、自分の側で何の設定もいじっていないのだから「そっちが掲示板の設定をいじったに違いない」と思いたいに決まっている。
 
互いに自分は悪くないと意地を張り合うと人間関係もギックリ行く。
四十歳代も後半になると、相手の気持ちになって考えるという態度がようやく身に付いて来たおかげで、ここはひとつ第三の原因を究明しようと言う気になった。
 
幸いなことに、Macintosh OS X と Windows XP を同時に起動しているので、それぞれの InternetExplorer を起動して「しりとり掲示板」を子細に観察してみた。
Macintosh 版 InternetExplorer は日本語の文章中にある http://www.〜で始まる URL をそのまま日本語に続けて表示し、長い場合は改行して表示するので、テキスト表示窓はユーザーの画面に応じてリサイズされ、横スクロールボタンが表示されることはないのだが、Windows 版 InternetExplorer は http://www.〜で始まる URL をその先頭部分で改行し、それに続く文字列が長い場合でも改行せず一行で表示するのだ。要するに何百字にも及ぶ長い URL を表示したら延々右端が現れるまでスクロールしなければならないらしい。
 
同じ InternetExplorer でも Macintosh 版 と Windows 版で仕様が違うのであり、Macintosh 版 の方が理にかなっている気がするのだが、いずれにせよ多勢に無勢の Macintosh ユーザー は肩身が狭い。Windows 版 ユーザーには長い URL がページから過去ログに送られるまで、我慢してもらうしかないわけで、これもまたギックリ腰の切なさに、似ていると言えば似ている。

2002年 7月4日 木曜日
【消え行く歌】

日日抄で、小学校の卒業式で歌った「別れの歌」という曲をご紹介したら、何通かメールをいただいた。
とてもマイナーな曲なのだが、卒業の思い出と重なって忘れ難い方がいて、インターネットで検索し、詞と曲を発見したことに感動してお便りをくださるらしい。
流行歌なら、全集物のCDも多く、懐かしのメロディとして放送される機会も多いのだが、小中学校で歌われた曲というのは、もう一度聞いてみたいと思っても、なかなか叶わないので、インターネットで発信される情報というのが、とても貴重なのだ。
 
小中学校の校歌というのも思い出深く、僕は、東京都北区立王子小学校、千葉県成東市立成東小学校、静岡県清水市立第二中学校、新潟県高田市立城南中学校、新潟県高田市立城北中学校(高田市は現在の上越市)の校歌を歌うことができるのだけれど、考えてみると、それぞれの学校が毎年150人の卒業生を出すとして、100年で15,000人の同窓生がいるに過ぎず、校歌というのも、ヒット歌謡曲からはほど遠いマイナーな存在であることを、改めて思い知る。
 
僕が六年間を過ごした東京都北区立王子小学校には音楽専門、図工専門などという先生がおり、禿頭の丸顔でいつも絵の具まみれの白衣を着た岡本先生などは、あの人が「岡本太郎」なのだろうと、僕は長いこと思いこんでいたりした。
片や、音楽の先生は灘友先生(?)といい、アコーディオンがとびきり上手な先生で、毎朝の朝礼や、講堂での行事でも必ず大きなアコーディオンを弾き、子どもながらに上手だなぁと思ったものだった。
僕が入学した年の六年生に音楽家の羽田健太郎や歌手の小川知子がいたから、彼らも灘友先生に習ったのではないかと思う。
 
当時、王子小学校では四年生と五年生の夏、神奈川県鎌倉市材木座海岸で臨海学校があった。たぶん三泊四日くらいの日程ではなかったろうか。
材木座海岸にほど近い光明寺というお寺の境内から山道を登ったところに北区の施設(現在は東京都北区立鎌倉学園)があり、苔生した山道を往復する毎日だったのだが、灘友先生はいつもアコーディオンを抱えて歌の伴奏をしてくれた。思えば「うたごえ運動」華やかなりし時代だった。
 
山道脇、古い無数の石仏の周りに、たくさんの蟹がいたこと、宿舎のあった場所は昔、刀工の工房があったと伝えられ、施設内の敷石が砥石だったこと、そして眼下に鎌倉の海が見え、仲良しだった肉屋の荻野君と二人で「早く家に帰りたいね」と泣いたことが忘れられない。
 
そして、もう一つ忘れられないのが、食堂での食事の際、灘友先生の伴奏でみんなで歌った「給食の歌」だ。確か、灘友先生の作詞作曲だったと思う。
 
給食の歌
 
♪楽しい給食食べようね
♪仲良く食べよう 良く噛んで
♪みんなの血となり肉となり
♪大きくなるんだ 僕たちは

 
いったいこの曲を覚えている人が何人いるのかしらと、夏になると思い出すけれど、校歌よりもさらにマイナーなこの曲も、いつかは永遠に消えていくのだろう。

2002年 7月6日 土曜日
【相変わらないことの有り難さ】

2002年6月22日、静岡県清水市で行われた、地域活性化イベント、「清水蔵談義」参加報告の写真帖を公開しました。

http://odamame.com/kuradangi/kura2002_06_22/Index.html

2002年 7月6日 土曜日


この日記はかつて「食べ食べ食べた」として公開していた食エッセイを数年ぶりにリライトしたものです。


【飯粒魂】……「食べ食べ食べた」をもう一度(1)

父親も祖父も、米に関して口うるさい人だった。
 
「ごちそうさまでした」の後、茶わんに飯粒が一つでも残っていると叱られたし、「お百姓さんは、その一粒を一年かけて作るんだぞ」と、同じ説教を何度も何度も聞かされたりした。
飯粒一つに執着した父は、宮城県仙台市出身で、母によれば、たいそう貧しい家庭に育ったらしい。貧しい境遇の中で、飯粒一つたりとも粗末にしてはいけないという厳しい生活態度を身につけた割には、お米のお酒にだらしがなく、飯粒より大事なはずの妻子まで、さっさと放棄してしまったので、【飯粒魂】(めしつぶだましい)を僕にたたき込んだのは、もっぱら祖父だった。
 
祖父は、白いご飯に何かを載せるのを極度に嫌い、納豆をご飯にかけて食べるなど言語道断という人だった。母は幼い頃、祖父が猟で外泊する時など、祖母がこっそり買ってきてくれる糸引き納豆を、ご飯にかけて食べるのが何よりのたのしみだったという。祖父に見つかれば烈火のごとく怒って、「白いご飯を食べられるありがたさを忘れたか!」と怒鳴られるので、祖母に守られてこっそり食べるしかなく、結婚して一番嬉しかったのは誰憚ることなく納豆かけご飯が食べられたことだったという。
 
その母も祖父譲りの【飯粒魂】を持った人で、郷里清水市に帰ってからは、おにぎり・お茶漬けを商う食堂としての登録で飲み屋を始めたため、商売に使う米にうるさく、気に入った品質のものが調達できるまで、何軒も米屋を替えていた。僕は学校から帰って、米とぎを手伝わされることも多く、中学生でもべそをかくくらいに、何度でもやり直しを命じられたものだった。
そして祖父譲りの【飯粒魂】は、おにぎりの海苔の巻き方にも顕著で、焼き立ての海苔をたっぷり、ただし三角形の頂点を美しく見せるように巻くのだと言って、独特の巻き方を工夫していた。祖父は、中のご飯が見えない海苔の巻き方を嫌がり、「あれは麦でかさ増ししたご飯を隠すための貧乏人の巻き方だ」と口うるさく祖母を叱っていたのだという。
 
当然、祖母も飯粒を大切にし、ご飯を炊いた釜やお櫃を洗う時は、残った飯粒をざるで受けて洗い、乾燥させて干し飯を作っていた。茶筒に入れて保存し、ある程度の量が貯まると、油で揚げて水あめをまぶしたお菓子を作ってくれるのだ。

家中の障子が穴だらけになる季節は、僕にとって嬉しい事があった。
多めにご飯を炊き、それを湯で煮詰めてお粥状にし、布巾で絞り、さらに煮詰めて、障子紙を貼るための糊を作る作業があるのだ。
祖母は「美味しそうでも、手を出しちゃだめだよ。ハサミで舌をちょんぎって舌切り雀にしちゃうよ」と笑い、その一部を小鉢にとって砂糖を入れ、スプーンで食べさせてくれるのだった。それが何より楽しみで、障子の張り替えを心待ちにしていたのである。「舌切り雀」のお話しがどうして出来たのか、昔の子どもの楽しみを通して、理解できたような気がしたものだ。
 
漫画家、長谷川法世の「博多っ子純情」の中にあったエッセイで、【飯粒魂】爆発の思い出話があって忘れられない。
幼い頃、野球の木のバットが折れ、仕方なしにセメダインで補修するのだけれどすぐに折れてしまう。すると兄がお櫃からご飯を失敬してきて折れ目に詰めて張り合わせてくれたら、しっかり補修できて普通に使えたのだという。兄は得意げに「コメダインたい!」と笑ったという。
 
そう言えば、昔の人は飯粒をよく糊代わりに使った。
手紙を書いて封筒に入れ、飯粒を指で擦りつけて封をしたりした。簡単な紙工作に「飯粒糊」を使うことも多く、しっかり擦りつけないと米粒の形に盛り上がって体裁が悪かったものだ。
 
ああ、あんなことがあった、こんなことがあったと、以前、書いたことがあるような日記を書いている自分も、しっかり【飯粒魂】を継承しているなぁと思える。そして、飲食店で茶色く汚したご飯を食べ散らかして行く若者を見るたびに、親の顔が見てみたい、「お百姓さんは、その一粒を一年かけて作るんだぞ」と腹を立てたりする自分の顔が、祖父に似てきたのかもしれないなぁとしみじみと思う。
 
パンより断然ご飯党の僕にとって、【飯粒魂】は、忘れてはいけないことの接着剤として、甘酸っぱく、そして懐かしい。

2002年 7月7日 日曜日


この日記はかつて「食べ食べ食べた」として公開していた食エッセイを数年ぶりにリライトしたものです。


【含羞草】……「食べ食べ食べた」をもう一度(2)

豆科の植物に御辞儀草(オジギソウ)というのがあり、手で触れると葉を閉じてうなだれるのだが、これが子どもにはたいそう面白く、よく触れて遊んだ。含羞草とも書く。
 
「他人の家に飯時に行くもんじゃない」
 
子ども時代、よく言われた言葉だが死語だろうか?
食卓にはそれぞれの「家庭の事情」があり、他人のそれを見ること、他人にそれを見られることに、含羞を覚えた時代が、かつてはあったのだ。


小学校時代は六年間給食があったので弁当を持つのは遠足の時くらいだった。中学に上がると給食が無かったので弁当持ちになったのだが、僕にはそれがひどく嫌だった。
母は明け方近くまで立ちっぱなしで働くことが多く、それでも、倒れるように床に就く前に、必ず弁当を作ってくれた。弁当用冷凍食品など無い時代であり、昔の人だから、詰めるおかずの温度にも気を使い、彩りより栄養、栄養より安全を心がけた、手間のかかる作業だったと思う。
 
蓋を開けて、それが心のこもった弁当に見えれば申し訳なく、いかにも疲れ果てて手抜きしたと見えれば、それはそれで切ない思いがあった。そして、弁当箱の中の「家庭の事情」を他人に見られるのが、とても恥ずかしかったのだ。
 
母子家庭で一人っ子などという、甘ったれに育ちやすい環境だったから、そのような意気地なしだったとも思える一方で、クラスのほとんどの者が、弁当箱の蓋を立てて、隠すように黙々と食べていたから、当時の社会が恥じらいのある時代だったのだと思えなくもない。
 
無類の巨人ファンである義父が、一度、東京ドームのネット裏で巨人戦を見たいというので、友人に頼んでチケットを入手し、二人で出掛けたことがある。
観戦中に食べるようにと、妻が二人分の弁当を作り、夏場だから、食べ残しは捨ててくるようにと使い捨ての容器に詰めてくれたのだけれど、どうしても捨てるに忍び無く、持ち帰って笑われてしまった。球場で売られている焼きそばやおにぎりの残飯の山に「家庭の事情」を捨てるようで、どうしてもそれが出来なかったのだ。
 
人間の味覚とは敏感なもので、同じ外食であっても、ロボットが流れ作業で組み立てた料理のように「思い」のこもらない「死んだ味」と感ずる一方で、作り手の「思い」のこもった「生きた味」に感激することもある。「思い」のこもった料理を残さずいただけば、「ごちそうさまでした」と掌を合わせたくなり、食べきれないと「ごめんなさい、美味しかったのに食べきれなくて」と両手をついて謝りたくなる。
 
同じ料金を請求することしかできないのに、どうしてこんなに良心的な料理を出すのかしらと思える店にはそれぞれの「作り手の情」があり、それをありがたく感じる人もあれば、重荷と感じる人もあるようだ。
愛犬を連れて狩猟をするために、自動車で孤独な旅をする友人がいるのだが、犬は車内、自分の宿泊は安ビジネスホテルと決め、コンビニで調達した弁当と自販機で買ったウイスキーで、一人ちびちびやる夜が楽しいと言う。
「旅はそれが一番、何をやってもらうわけでも無く、その度に、ありがとうって言わなくて済むから」
 
されど「食」と言いたいが、たかが「食」と思いたい気持ちもわかる気がして、何の「情」も感じずに済む外食チェーン・レストランの賑わいを見るにつけ、そういう時代になったんだろうなと、しみじみと思う。

 

写真提供『植物園へようこそ!
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/BotanicalGarden-F.html
【御辞儀草】群馬大学荒牧キャンパス(前橋市)にて Aug 20, 1998
写真撮影:青木繁伸(群馬県前橋市)

2002年 7月10日 水曜日

【花と蟻とアブラムシ】

台風接近で雨足の強まる帰り道、本郷通り沿いの歩道にある、木槿(むくげ)の花が咲き始めていたので撮影してみた。僕は花の蕾が好きで、それは幼児の握り拳に似ている。花が開くにもそれ相応の力がいるわけで、その力を「うんっ!」と溜め込んだ姿が美しいのだ。


フィルムを用いるカメラだと、このような接写では一眼レフを用いるしかないのだが、ファインダーを覗いて「うわっ!」と声を上げて撮影を止めてしまうような光景がそこにあっても、デジタルカメラの小さな液晶ファインダーでは気付かずに、シャッターを押してしまうことが多い。
 
パソコンに取り込んで、2832×2128ピクセルの画像を開いてみると、蕾に蟻が1匹、取りついているのが見える。雨の中、花の蜜目当てに昇ってきたのかしら、ご苦労様だな……とよく見ると、小さな象牙色の生き物がたくさんいる。アブラムシ(蟻巻)だろうか?
アブラムシが分泌する甘い液体を目当てに、蟻が世話をすることで共棲すると聞いたことがある。
 
レンズ面から 1cm まで近づいて接写できるデジタルカメラを持ち歩いて、植物を撮影して気付くのだが、薊(アザミ)の花にも、車前草(オオバコ)の花にも、見事にアブラムシが取りついていて、蟻が世話をする営みがそこにある。植栽に限らず、自生している草花にも、蟻とアブラムシが共棲しているわけで、地上には物凄い数の蟻とアブラムシがいるのだろう。
 
アブラムシは単為生殖といって、雌が単独で新しい固体を胎生して生み出す生殖方法をとるのだそうで、蜜蜂とかミジンコとかもそうらしい。別名単性生殖、処女生殖などという。
夏場はそうやって増えるのだけれど、秋になると雌雄が生じて産卵が行われ、その卵が越冬して、翌年もまた蟻と力を合わせて増殖して行くわけだ。
 
アブラムシ、英語では plant louse で louse はシラミのこと。俗語で人間に対して louse と言えば「げす野郎」になる。
アブラムシが植物に取りつくのは「寄生」であり、植物はアブラムシにとっての「宿主」になる。一方、蟻とアブラムシのように互いの利益を共有すると「相利共生」になる。前者のケースでは「下種(げす)」であり、後者のケースでは「上種(じょうず)」というわけだ。
花と蟻とアブラムシなら何となく納得するけど、それが人間だと「下種」な関係でも「上種」な関係でも、どちらにも「げす野郎」がいるのが面白い。

2002年 7月13日 土曜日

【精霊会と草の子たち】

梅雨が終わり、もわっとした草いきれの夏が来ると、バッタがたくさん湧いて出る。
 
夏草と寸分違い無い黄緑の肌をしたバッタたちは、本当に夏草から分離してできた草の子のように見えた。祖父母の家の前の土手道には子どもの背丈の数倍もある茅(かや)が生い茂り、うっかり素手で掴むとスパっと切れて血が噴き出し、とても痛痒かった。夏の一日、半ズボンにランニング姿で遊ぶと、腿や腕が傷だらけになったものだ。

夏草をかき分けて進んでいくと、あちらこちらの草が揺れ、そこにしがみついているのは、驚いて逃げ惑うアマガエルだったりショウリョウバッタであったりした。
7月13日から15日まで行われる盂蘭盆(うらぼん)、別名精霊会(しょうりょうえ)の時期に現れる草の子たちは、その季節に由来して精霊飛蝗(ショウリョウバッタ)の名が付いたという。かなり大きなものもいて、雄はキチキチと羽音をたてて飛んで逃げるので、特にキチキチバッタなどとも呼んでいた。
 
祖母は精霊バッタを捕まえると、後ろ両足を揃えて持ち、
「バッタさん、バッタさん、米搗いておくれ」
と歌を歌ってくれた。そうすると精霊バッタは後ろ足で蹴って祖母の手から逃れようとし、その仕草が確かに米を搗くようにも見えた。コメツキバッタという別名の由来である。
 
祖母の真似をして精霊バッタを捕まえ、
「バッタさん、バッタさん、米搗いておくれ」
と、僕も真似をして遊んだものだけれど、若々しい緑の柔らかな腹部に触れると、茶褐色の液体を尻の先から分泌するのには参った。血が出るほどに虐めてしまった気がして、思わず取り落とすことも多かった。
 
富山県出身の妻も、この遊びを知っていて、茶褐色の液体が血ではなく醤油に見えたので、長いこと精霊バッタを醤油バッタだと思いこんでいたという。
同じような思い違いは僕にもあって、オンブバッタはてっきり精霊バッタの親子であると思っていた。母親の精霊バッタが子どもをオンブしていると思いこんでいたのだ。実は別種のバッタであり、身体の大きな雌の背中に雄が飛び乗り、他の雄に雌を奪われないよう、交尾の日まで何も食べずにしがみついて独占し続けるのだという。
 
ペコペコと頭を下げて媚びへつらう人の生き方のたとえにされるコメツキバッタといい、食を断ってまで雌を独り占めするオンブバッタといい、人の世界もバッタの世界も雄は同様に楽じゃないのだ。

2002年 7月13日 土曜日

千葉大学園芸学部教授小野佐和子さんの原稿を「名勝六義園私設案内」のページにて公開させていただきました。

2002年 7月14日 日曜日


この日記はかつて「食べ食べ食べた」として公開していた食エッセイを数年ぶりにリライトしたものです。


【野蒜の味】……「食べ食べ食べた」をもう一度(3)

千葉大学園芸学部教授小野佐和子さんが、六義園に関して書かれた原稿を当サイトに掲載させていただいた。柳沢吉保の孫に当たる信鴻(のぶとき)は、六義園を隠居所とし、春は園内で野蒜(のびる)や土筆(つくし)を摘んだという。当然食用としたのだろう。
 
大地の恵みを自ら収穫して食すという体験を子ども時代に持つと、終生忘れられない思い出になるのかもしれず、そのひとつとしての野蒜詰みが懐かしく思い出される。
 
祖父母と暮らした静岡県清水市、巴川沿いの土手や、梶原山麓に広がる田畑の農道沿いには、かつて野蒜が群生しており、祖母の手伝いでよく摘んだ。
ユリ科の多年草で、若々しい葉の部分と地下茎の部分が食用になるのだ。この地下茎の部分を【鱗茎(りんけい)】と呼び、茎の周囲の多数の葉が養分を蓄えて球形の多肉化したものだという。【根蒜・沢蒜(ねびる)】などの別名も有る。
 
ユリ科の野菜といえばネギが代表的だけれど、思い出の野蒜は八百屋で見かけるエシャロットに近かった気がする。エシャロットもまた鱗茎の部分を食するのだ。フランス語でechalote(eはアクサン−テギュつき)、ラテン語でascaloniaであり、パレスチナにある名産地の名に由来するという。国産でエシャロットとして売られているものは【辣韮(ラッキョウ)】を若採りしたもので、本物のエシャロットとは違うらしい。


祖母は野蒜をさっとゆがいて酢みそで和え【饅(ぬた)】にすることが多く、祖父や叔父は酒の肴に、祖母や叔母はご飯のおかずにしていた。
「うまいぞ、食ってみろ」
と勧められ、口に入れて顔をしかめたものだった。野蒜料理にしても、土筆料理にしても、子どもの味覚ではお世辞にも美味しいとは思えなかったのだ。
 
四十代も終わりに近づき、髪に白いものが混じり出し、晩酌は健康のために焼酎お湯割り一辺倒などという暮らしになると、幼い頃馴染めなかった味覚がひどく恋しくなる。
春になると嬉々として野草を摘んだ信鴻老人のような園芸庭園を持たない人間には、遠い昔に顔をしかめた野蒜や土筆の思い出の味だけが、ほろ苦い酒の肴として、今も心の糧となっている。

※写真は、焼酎お湯割り用として愛用、硝子工芸家小谷真三さんのグラス。小谷さんのグラスの中を覗いていると故郷の山河が見えます。バーナード・リーチによる小谷さんへの的確な評論はこちら。

 


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