電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 8月 1日 木曜日

【六義園自然観察……1】

六義園正門から園内に入り、しだれ桜のある広場から、左手「玉藻の磯」方向に歩くと、橙色の木の実がたくさん落ちていました。

拾い上げてみると、それは榎(エノキ)の実です。ニレ科エノキ属の落葉高木「榎(Celtis sinensis var. japonica)」は江戸時代、一里塚に植える樹木として推奨されたそうです。

名前の由来の一つに「枝の多い木」とあるように、成長すると20メートルもの高さに達し、しかも秋になっても常緑樹のように紅葉せずにいて、12月になると急に紅葉して葉を落とすため、旅人に長期間木陰を提供する能力に長けていたからかもしれません。

4〜5月に目立たない花が咲き、このような橙色の実を付けます。秋には黒く熟し、甘みがあって食用にもなるらしいのですが、7月のこの時期に、盛大に実を落としているのが不思議なので、しばらく炎天下に立って、木の実の落ちるわけを考えてみました。

しばらく見上げていると、梢のあちらこちらが、ゆさゆさと動きます。
どうやら小鳥たちが榎のみをついばんでいるようです。一時もじっとしていないので、鳥の姿を捉えるのが難しいのですが、それもそのはずで、榎の実は細かく枝分かれした梢の先端近くにあるので、小鳥といえども枝につかまって、じっとしているのが困難なのです。

枝につかまり、実をついばんだ途端、足もとが狂って宙づりになったり、落ちまいと羽ばたいたりするので、たくさんの木の実が、お腹に収まる前に地上に落下してしまうのです(画像にマウスを重ねると奮闘振りが)


300mm以上の望遠レンズで撮影した写真の中に、かろうじて鳥の顔を捉えているものが数カットありました。上手く実を摘み天を仰いで嚥下しているところです。

スズメ目ムクドリ科の小鳥、「ムクドリ(Sturnus cineraceus)」、日本各地に生息する留鳥です。
ミミズ、両生類、昆虫などとともに穀類や果実も食べる雑食性の鳥で、こうして六義園の榎をついばみつつ、地上に木の実を落としているわけです。

2002年 8月 2日 金曜日


【清水で清水を考える……1】
鰻の寝床丼

故郷と言うのは母親に似ている。
 
「母親っていう奴はさぁ…」
などと、大の大人が、郷里の母親のことを、たいして旨くも無い酒の肴にして、飲んだりすることがある。親元を離れている時は、わかったような口をたたいて1丁前のつもりでいるのだが、実際、母親を前にして小一時間話をしていたりすると、いつの間にやら「抜き差しならない親子の関係」という寝技に持ち込まれている自分に気付いて唖然とする。中年になろうが、白髪頭になろうが、息子にとって母は母なのである。
 
「郷里のことを考える」などという所業も似たようなものだ。
都会暮らしをしていたりすると、偉そうに衰退する地域経済のこと、地方自治のことなど、利いた風な口をたたいたりしてしまうのだが、実家に里帰りして数時間、蝉の鳴き声を聞きながら寝転がったりしていると、凡才が大所高所から物事を論ずるような都会人病が癒えて、懐かしい田舎暮らしのスローな思考の心地よさに気付いたりするのだ。
 
母親にも故郷にも似たような「魔」があり、それこそがありがたい長所であることも事実のように思える。
 
スロー・バラードを口ずさみながら、炎天下の清水をカメラ片手に散歩してみる。
生家から100メートルも歩き、さくらももこの実家を過ぎると旧東海道。江尻宿のはずれ、稚児橋まで至る途中に入江町商店街というのがある。立ち並ぶ商家のうちの1件に「深沢時計店」というのがあり、どこにでもある小さな時計屋さんなのだが、時計修理の腕前を活かして、壊れた中古カメラを買ってきては修理し、コレクションされている。そのリストを拝見しながら、自慢話を聞いたりするのが楽しいのだが、今回の帰省時、更地になっているのを見て唖然とした。
 
日本中、どこでもそうなのだが、シャッターを下ろしたまま【仕舞た屋】になっている店が清水にも多く、廃業された上に更地になってしまったのかしらと寂しさが胸に込み上げたのだけれど、隣りの空き店舗を仮営業所にされていたので一安心。どうやら、店舗兼住宅の建て直しらしい。
建て直しに際して更地になった場所を拝見すると興味深い。店舗の間口は狭いが、驚くほど奥行きのある町屋風の建築物だったのである。旧東海道に面しているのだから、当然といえば当然だが、清水の町というのは旧街道に面していなくても、町屋風の区画になっている場所が多く、帰省するたびに飲みに行く万世町の「三鬼」さんですら、お手洗いを借りに店の奥に入ると同様の構造になっていて驚く。
 
こういう町屋風の建築物が多いと、【仕舞た屋】になっても、店を貸店舗にしたり、売却したりして商業の新陳代謝が起こるのが困難なわけで、店は貸すが、奥に大家の老夫婦が起居するなどという条件で借り手も付きにくいのも当然だとおもえる。このような細長い土地に現代風の快適な住環境を構築する設計者も大変だろうなぁと思えたりするのだ。
 
友人の設計家、T設計室の谷川さんが、清水市美濃輪町の次郎長生家の構造を褒めていたのを思い出したが、鰻の寝床式の商家にはその奥の辺りに明かり採りが設けられているケースも多いようで、同じく次郎長通り商店街で名高い練り物屋さんの内部も、意外に明るかったりして驚く。
 
鰻の寝床式の区画を有効活用する方法の一つかもしれないと思われたのが、旧東海道稚児橋を渡り、旧江尻宿、清水銀座商店街に折れずに小芝神社方向に進んだ右手にある飲食店街「小芝小路」。
母親が清水に帰って始めた飲食店もこの方式の新しい小路だった。今は市役所になってしまって残っていないが、新たに小路を作る面白さというのも、小路暮らしをしたものにとっては古いようでいて新しさも感じたりする。小路=歓楽街という発想を改めたら面白いような気もするのだ。
 
静岡の町で買い物をしていたら面白いものを見つけた。
細長い矩形の容器にご飯を敷き詰め、白いベッドの上に鰻の蒲焼きを1本寝かせ、名付けて「鰻の寝床丼」というのだが、細長いことを面白がるのもまた楽しかったりする良い例かもしれない。

2002年 8月 3日 土曜日


【清水で清水を考える……2】
市民総踊り

郷里静岡県清水市に友人が増えてからは、清水みなと祭りを目指して帰省するのが楽しい。
 
昨年は、清水市内を練り歩く次郎長道中を追いかけたり、先回りしたりして、中央集権的になりがちな祭りのトリック・スターを演ずるボランティア達に快哉を贈ったのだが、今年はその火付け役を演じてくれた次郎長通りの魚屋さんが、市民総踊りの連に加わって家族全員で踊るというので、専らさつき通りを通行止めにして繰り広げられる狂乱の踊りの波間を漂ってみた。
 
かつての清水市の賑わいを知る者から見れば、灯の消えたような寂しさが漂う街なのだが、午後6時の総踊り開始時に何処からともなく突如集まる大群衆と、その熱気を目の当たりにして唖然とするのは去年と変わらない。1年間溜め込んだ鬱憤を晴らすかのような狂乱振りは「呆れる」を通り越して「痴れることの美」を感じるし、この歳になると熱狂する郷里の若者たちがたまらなく愛おしかったりする。
今年は思いきり仰々しいカメラを下げて行ったので、カメラを向けると晴れがましい笑顔で一層踊りに熱が入る若者たちもいて、年に一度の晴れ舞台に、「私を見て」と咲く花たちの美しさに感動する。

宇崎竜童によるカッポレ三部作を日本中から苦情が出そうな大音響でぶちかまし、狂乱の祭りとして定着させた関係者に敬意を表したい。
 

清水駅前から港橋まで、メインストリートを通行止めにして練り歩く踊りの輪の中に、仲間達の姿を探して歩く。

懐かしい清水橋跨線橋を上ると、踊り手も観客も渾然として観客席が無いことが楽しく、今から三十年前、近道をするために清水橋を渡るお婆さんを撮影した場所であることにも感慨深いものがある。
 
遠い日の思い出に浸っていたら、清水のオダックイ仲間に橋上で遭遇。早速記念撮影となった。


「清水のことは清水で考える」
それが今年の僕のテーマだったのだけれど、来年は
「清水の夏は踊りながら考える」
を一つの目標にしたくなった。来年は是非この仲間達とともに踊り手として参加したい。
もう一度町の中へ、そして人の海の中へ、そこからひとりの人間として拙い思索を積み重ねることにこそ、真の自立した大人の生き方があるような気がしてならないから。

2002年 8月 4日 日曜日


【清水で清水を考える……3】
清水おでんをもう一度

時折、雑誌などで紹介されることもあるが、静岡県清水市にはちょっと変わったおでんがある。
 
子どもの頃、僕の親の世代が「一文商い」などと呼ぶいわゆる駄菓子屋では、どの店でもこの独特のおでんを食べることができた。「静岡おでん」などと紹介されることもあり、静岡市内にもよく似たおでんを食べさせる店があるのだが、どういうわけか幼い頃清水市内で食べたおでんとのギャップが埋まらず、ああ「清水おでん」が食べたいと思うことが多かった。
 
清水市内、浜田小学校近く、南幹線沿いに懐かしい店構えの「清水おでん」の店があり、以前から気になっていたので清水みなと祭りに帰省したついでに立ち寄ってみた。

鍋の中で煮えているのは、黒はんぺん、じゃがいも、薩摩揚げ、コンニャク、モツなど。
いわゆる関東炊きで、そのままでも十分に味がしみているのだけれど、さらに真ん中の八丁味噌を主体にした甘だれをつけていただくのである。さらに、「だし粉」と地元で呼ぶ鯵節、鯖節などの粉に青海苔を混ぜたものを付けて食べるのが「正統派清水おでん」なのだが、このお店では「だし粉」のかわりに和がらしを付けることになっているようだ。
 
当時の清水の駄菓子屋では、バイ(ツボ)やナガラミ(キシャゴ)という巻き貝を塩ゆでにしたものも売られており、さながら今のファーストフード店のようだった。どれも大人の酒の肴になるものばかりで(現在は高価になって、本当に酒の肴化している)、清水っ子は群を抜いて酒飲みに育つ率が高かったのかもしれない。
 
真ん中の味噌壺に浸ける際、おでん種を取り落としてしまう者も多く、味噌を付ける振りをして、竹串で壺の中をかき回し、拾い物をするなどといういじましいことをしたのも懐かしい。おでん種取り落とし防止のため、薩摩揚げの先に小さく切ったコンニャクで滑落防止策を施してあるのにも、このお店を経営する老夫婦の思いやりがうかがえる。
 
店に入った瞬間、鼻を突く懐かしい「清水おでん」の匂い。綺麗に並べられた丸イス。アルコール類を置かない店内。年季の入った鍋の付着物。レトロファンなら涎の出そうな、懐かしい飲みものたち。三人で好きなだけ食べて串を数えてもらっても500円ポッキリというリーズナブルな価格。
そしてお勘定を済ませて出ようとする瞬間、おばちゃんがにっこり笑って、
「ありがとうっけねぇ」
と言う清水弁まで、相変わらずの味で相変わらずの誠実な商売、そのすべてを含めた総体こそ、「清水おでん」が「清水おでん」である、真骨頂なのかもしれない。

2002年 8月 4日 日曜日


【清水で清水を考える……4】
二の丸の人々

城下町というのは良いものだなと思う。
 
堀があり城が残っているからどうなんだ、という気もしないでもないが、たとえ存在価値が空疎であったとしても、中心と周縁を持つ町の活力というのは、情緒的な側面からも、ちょっと羨ましい。
 
清水にも戦国時代にはいくつかの城があった。
その最大のものが江尻城であり、永禄12(1569)年、駿河に進出した武田信玄が、三ヶ月という突貫工事で完成させたものだった。その10年後の天正6(1578)年、一年余のの工期で改築されるのだが、こちらは東海の名城と呼ぶにふさわしい秀麗なものであったらしい。本能寺の変で命を落とす直前、武田氏を滅ぼした戦の帰り、徳川家康の接待で清水観光をした織田信長が一泊した城が、この江尻城だったのだ。武田氏滅亡の後、徳川家康の手に渡り、東海道五十三次の宿駅制度が整う頃には廃城となり、現在では往時をしのぶ遺構はほとんど残されていない。
 
清水市二の丸町、年寄りたちが「二の丸」と呼ぶ地域がある。
旧東海道を駿府側から江戸を目指して進み、巴川にかかる稚児橋を渡り、左手に魚町稲荷を見て右折し、清水銀座商店街に入ると、そこが東海道五十三次19番目の宿場「江尻宿」なのだが、そのまま右折せずに直進し、左手小芝神社の手前で左折したあたりが二の丸町ということになる。

わけもなく気になる地域だったので、散歩してみた。
右手の中華麺飯「三徳」という店が何とも気になる。その斜め向かい「長沢米穀店」という米屋さんは、母が清水市内におにぎり・お茶漬けの店を開店した際、米を配達してくれた店だ。「米は二の丸からとることに決めた」と聞いた記憶がある。

さらに進むと、右手に「濱格打刃物店」という、鋤や鍬などの農機具を扱うお店があったりするのが面白い。
江尻城下には鋳物師町、鍛治町、紺屋町、魚町などわずか三十年の間に城下町が形成されたこともあったらしいが、そういえば、この通りは蕎麦屋、割烹材料品店、石材店、薬局などもあって、ちょっとした商業地域になっているようだ。

この通りを直進すると高橋町で北街道と交差する。
陽炎立ち上るアスファルトの彼方から子供御輿がやってきて小路を入っていくので、行ってみるとそこには「二の丸稲荷」という小さな社があった。まさに江尻城の二の丸があった場所で、城の鬼門よけに建立された神社が「二の丸稲荷」なのである。

この地域は明治時代になっても独立した自治組織を持ち、「二の丸」と名乗ったまま、現在に至っているという。静岡市に吸収合併された揚げ句、消え行く清水の地名も噂される今日この頃だが、「名こそ惜しけれ」鎌倉武士の心意気を引くまでも無く、強い「自治」の心で守る「地域」。これはこれで、小さくても立派な城下町なのかもしれない。

2002年 8月10日 土曜日


この日記はかつて「食べ食べ食べた」として公開していた食エッセイを数年ぶりにリライトしたものです。

【冬瓜(とうがん)の味】

とう‐が【冬瓜】
ウリ科の一年生果菜。熱帯アジア原産。夏、黄色の雌雄異花をつける。果実は非常に大きく、球形または楕円形で食用。トウガン。カモウリ。(広辞苑第五版より)

 
子供の頃はよく冬瓜を食べた。
静岡県清水市、祖父母の暮らす巴川の土手にたくさん転がっていたからだ。
あまりにも野放図に生えていたので、増水の際、種子が漂着して自然繁殖したのだと思っていたのだが、母によれば、おそらく祖母が蒔いたものだろうという。
 
“冬瓜の花は咲いても百に一つ”、それくらい希にしか実が付かないとの言い回しがあるそうなので、祖母が蒔いたとすればずいぶん盛大に蒔いたのだと思う。土手にゴロゴロと実をつけていた記憶があるから。
 
僕は幼い頃、ウリ科の野菜では胡瓜くらいしか口に合わず、白瓜の漬け物などは大嫌いだったし、「昔は西瓜の皮も糠床に漬け込んで食べたもんだ」と、母親が気まぐれに作った“西瓜の糠漬け”などは、飲み込むのが精一杯だった。ウリ科の野菜は中心の種に近いあたりこそが食べ物であり、カリカリの皮に近づくにつれて食べ物でなくなるのだというような、妙な思いこみが強かったのだ。だから真桑瓜なども相当熟していないと食べられなかった。ウリを西瓜の延長としか見れなかったのだろう。
 
それでも、頻繁に食卓に上るトウガンのあんかけや味噌汁は何故か好きだった。
あんかけには豚肉、冬場に猟が有った時は味付けを濃くして猪肉と相場が決まっていたのだけれど、関西出身の友人に聞くと、冬瓜のあんかけには海老がつき物というあたりが面白い。
収穫後、涼しい土間などに転がしておくと、翌年の春まで貯蔵できるため“冬瓜”“寒瓜”の字が当てられているそうで、確かに冬場に食した記憶も有るけれど、何と言っても夏の食べ物という印象が強い。
 
いたずら好きの叔父が、「西瓜を取ってきたぞ」と土間に巨大な冬瓜を置き、西瓜と聞くと、ついつい叩いて熟れ具合を確かめる癖のあった僕は、ポンと叩いて泣きそうになったりした。取り立ての冬瓜の表皮には細かいとげが生えていて、刺さると、とても痛いのである。冬瓜を見るたびに、泥だらけのランニングシャツ姿で笑い転げる、若くして亡くなった叔父を今でも思い出す。

上の写真は、清水市本町の八百屋さんで見かけた冬瓜。
叔父が抱えてきて僕にいたずらしたのは、この種の冬瓜の巨大なもので、当時はこんな形と模様の西瓜も八百屋さんに出回っていたのだ。
作物品種としては“長冬瓜”というらしい。

清水市二の丸町の八百屋さんで見つけた冬瓜がこちら。
最近、清水に帰省した際、母親が「冬瓜をもらったから一つ持って帰れ」と言ってくれる冬瓜は、幼い頃から親しんでいた冬瓜とはかなり形状が異なっていて驚く。
作物品種としては“大丸冬瓜”なのだけれど、“丸”が扁平気味なのが面白いところで、どう見ても南瓜の親戚である。同じウリ科なので、交配でもされたのだろうか。
我が家では“西瓜型冬瓜”と“南瓜型冬瓜”などと呼び分けている。
 
幼い頃嫌いでも、年齢を重ねるにつれて好きになる食べ物も多く、それらは決まって“人の思い出”に繋がっていることが多い。ことにお酒は、好き嫌い解消の特効薬のようで、ああ白瓜の糠漬けが食べたいなぁ、西瓜の皮の美味しい料理法を考えてみようかなぁ、などとほろ酔い加減で考え始めている自分が可笑しい。
 
この夏の帰省時、清水市万世町にある居酒屋「三鬼」で、“とうがん”とだけ書かれたメニューを見つけたので、料理人のお母さんに「とうがんをください」と言ったら「あら、とうがんを食べてくれるの?嬉しい!」と喜ばれてしまった。何故“嬉しい”のかを考えながらちびちびやるのも味わい深い。
出てきた“とうがん”は、いかにも清水らしい、とびきり鰹だしの効いた、透き通った汁ごと冷やされた煮物(とろみなし)だった。

2002年 8月12日 月曜日

【京橋界隈散歩の30分で考えたこと……1】

町を歩いていて、思わず「むむっ」と唸るような店構えを見つけるたびに、“個人商店は劇場である”との思いを、その都度強くする。
 
役者が自分の身一つを武器とし、体を張って人生の勝負をかけるように、個人商店というのは家族で力を合わせて興業を続ける常設小屋のようなものだ。客が来て木戸銭が貰えなければ生活が成り立たない。だから、人生の舞台に、腕一本で立つ心意気を店構えに感じると、思わず木戸銭を払って入ってみたくなるのだ。
中央区八丁堀三丁目。銀座一丁目にある出版社での打ち合わせ、その30分ほど前に着いてしまったので、京橋からの時間潰しの散歩中に見つけた店である。
 
どうして最近の個人商店は元気がないのかと、この日記に書いたら、“経営者が店に住まなくなったことに原因があるのではないか”と指摘するメールをいただいた。
確かにそれもあると思うのだけれど、僕は個人商店が“劇場性”を失ったことが、元気がない=面白くない原因と思えてならない。
 
大企業に属してその歯車の一つとして働くサラリーマン人生にもそれなりの意義は認めるのだけれど、個人商店がそうなってはいけないサラリーマン化に傾いたことが衰退の引き金になっているのだと思う。マスコミに連動して加盟店を増やすフランチャイズ店に加盟し、マニュアル通りのサービスをし、採算が合わなければさっさと店を畳むような商売をする個人商店が増えてきたのだ。
それを横目で見ながらまるで歩調を合わせるように、フランチャイズ店に加盟せず店舗の奥や階上に寝泊まりしている従来通りの個人商店までが、“「世間」一般にこういう商売はこういう商いをしていれば良い”という、甘い「世間」観に基づいた“目に見えないマニュアル”通りの商売をし、それを続けていれば「世間」が何とか食べさせてくれるのではないかという、甘えから抜け出せなくなっているように思えるのだ。

「私は私以外の誰でもありません」と誇らしげにたなびく暖簾を見るとくぐりたくなる。
カメラを構えていると客の出入りが絶えない。中高年男性に混じって、若い女性の一人客もいて、この劇場の御贔屓は層が厚そうだ。

一軒一軒の個人商店が潔い“劇場性”を保っている町歩きは楽しく、一度だけの人生を行く旅人に、清々しい元気を与えてくれるものなのだなぁと思う。

2002年 8月13日 火曜日

【京橋界隈散歩の30分で考えたこと……2】

京橋から八丁堀方向へ少し歩いた場所で、“コルク専門店”を見つけた。
 
東京下町では思いもかけない専門店が存立できる条件が整っているので、特殊な商品に特化したユニークな店に出会えて楽しい。“銀ブラ”なる言葉発祥の地に近いだけあって、ショーウインドウや店頭の飾り付けを眺めながら散策する楽しみが、この界隈にはまだ残されている。郷里、静岡県清水市で駅前銀座や清水銀座を流して歩く楽しみもまた立派な“銀ブラ”だったけれど、思えば何のことは無い、商店街と言うのはそもそも、よりリアリティの高い情報メディアだったのであり、その出来損ないがインターネット・ショッピングサイトだったりするのだ。
 
“コルク専門店”の飾り窓に「奇跡の聖なる雄鶏」という民芸品が飾り付けられており、造形的に美しいだけでなく、由来も面白いので、しばし足を止めて展示を楽しませていただいた。ポルトガルに伝承されている奇譚に基づくものだと言うが、読んだそのものを転記するのも面白みに欠けるので、開高健の芥川賞受賞作『裸の王様』を真似て、日本の物語に置き換えて書き留めて置くことにした。

「奇跡の聖なる雄鶏」
 
今は昔、徳川の世も終わりに近い頃、四国の霊場を遍路する旅の途中、一人の巡礼が、無実の罪で代官所に捕らえられました。
無実であることを訴えても、代官はとり合ってくれず、巡礼は首を刎ねられて処刑されることになりました。そこで巡礼は、自分の死後、無実である事の身の証しとなるよう、一つの予言を残します。
 
「血色の良いお代官様、あなたは夕餉に鶏肉を食されることもあるのでしょう。私が処刑されるその時、あなたの膳の上に鶏肉があったなら、生きた雄鶏として立ち上がってひと声鳴き、私が無実であったことを証明するでしょう」
 
はたして、巡礼が処刑されようとするその時、代官の膳の上に突然黒い雄鶏が立ち上がり、
「こけこっこ〜〜〜〜〜〜〜っ!」
と鳴いたのです。代官は箸と茶碗を放り出して、腰を抜かさんばかりに驚き、巡礼の処刑中止を命じました。身の潔白を証明し、無事四国遍路の旅を終え、帰途再びこの地に立ち寄った巡礼は、「奇跡の聖なる雄鶏」の顕彰碑を建てて後世にその遺徳を伝えましたとさ。
 
※写真はポルトガル民芸品[幸せを呼ぶ黒い鶏]、左端の最小のものが380円。聖地の名はサンディアゴ・デ・コンポステーラ、奇跡が起こったとされる町はポルトガル北端のバルセロシュ。

2002年 8月14日 水曜日


この日記はかつて「食べ食べ食べた」として公開していた食エッセイを数年ぶりにリライトしたものです。

【カレーの宇宙】

カレーを大別すれば三種類に分かれるような気がする。
 
外国人労働者が激増したせいか、今ではちっとも珍しくなくなった、東南アジアで生まれ育った人々自らが作る郷土料理と呼べるような本格派カレー。これは、わざわざ「カリー」などと表記されていて可笑しい。
 
次に、大手食品メーカーがマスコミの宣伝を絡めて売りまくる、ルーやレトルトのインスタントカレー。いわゆる家庭のカレーで、これが最も一般的に食されているカレーということになるのだろう。
 
最後に、カレー粉や香辛料、その他を独自の工夫で組み合わせて作った、“日本オリジナル”と呼べそうな風変わりなカレー。
今でも、蕎麦屋、中華料理店、大衆食堂などで“カレー”を注文すると「えっ?!」と驚くような珍妙なカレーに遭遇することになる“第三のカレー”であり、僕はそれが大好きなのだ。
 
幼い頃から、親戚や知人の家に預けられて泊まり歩くことが多く、さまざまな“我が家のカレー”に出逢い、「うちのお母さんのカレーは美味しいでしょう?」と念を押され、その度に「本当は僕のお母さんが作るカレーの方が美味しいな」と心の中で呟いたものだ。
今ほど家庭のカレーが画一化せず、すべての家に“うちのカレーは日本一”が存在した時代があった。
フレーク状の市販ルーに、カレー粉や小麦粉をガサ増しして、白っぽかったり、目が覚めるくらい黄色っぽいカレーがあり、家庭によってはウスター・ソースや醤油をかけたりもしていた。
福神漬けが付き物の家庭もあれば、紅ショウガが欠かせないという家もあった。
 
料理上手なお母さんに料理下手なお母さん、裁縫上手なお母さんがいれば不器用なお母さんもいて、それでもその一人一人が、すべての子どもにとって“うちのお母さんは日本一”なんだよなぁ、という感慨に僕は子供の頃から弱い。全校生徒1000人の朝礼があれば、そこに2000個の“日本一のオッパイ”が存在するというイメージに今でもウルウルしたりするのだ。

港区虎ノ門に大好きなカレー屋がある。
「スマトラ」という店で、虎ノ門以外にも新橋と銀座(こちらはもうない)に同名の店があるので、チェーン店なのかもしれない。
「スマトラ」とインターネットで検索すると、千代田区神田神保町にある「スマトラカレー共栄堂」という名店が数多くヒットするが、それとは全く違う。
見事にカレーパウダーの黄色が鮮やかで、膨大なジャガイモが入っているのだけれど、形を全くとどめていない。実にシンプルな味なのだけれど、何とも忘れがたい味なのだ。
 
二十歳代の頃から厚生省関係の仕事で霞が関界隈に出掛けることが多く、毎夜のように編集者たちと飲み歩いていた。ひどい二日酔いでこの町に出掛けることも多かったのだが、ここのカレーは“二日酔いでも食べられる”カレーなのである。それどころか、体調の悪い時は「ああ、スマトラのカレーが食べたい」と思うことが多い。それほど素直で清潔な味なのである。
 
メニューは実にシンプルで“大盛り”か“普通”を、カウンターに座って告げるだけでよい。
オプションとして“玉子”と“キャベツサラダ”と“ラッキョウ”が注文できる。インターネットでこちらの「スマトラ」を検索すると「あっさりしているので大したこと無いと思うのだけれど忘れがたく病みつきになる」などと評価している方もいて、その通りだなぁと思って嬉しい。「これほど紅ショウガの合うカレーも少ない」という感想も異論なし。
 
ただ、熱狂的ファンの一人として、「メニューは“大盛り”か“普通”だけ」という記述は間違いであることだけは指摘したくなる。
ふらっとカウンターに座って注文する客の声に耳を澄ますと、“大盛り”“普通”に混じって、“ご飯少なめ(“普通”の小ライス版)”や“ルー多め(“普通”のルー大盛り版)”などという注文も通用するのだ。
“キャベツサラダ”だって、“キャベツ”でも“サラダ”でも、“野菜”でも通じてしまう。ここの“キャベツサラダ”がまた妙にあっさりしているくせに美味しくて、今は無き銀座店で、いきなり“キャベツサラダ”を“普通”のうえにぶちまけて食している客がいて、思わず「やる〜〜っ!」と声をかけたくなったりしたのも懐かしい思い出である。
 
夏の昼下がり、「スマトラ」のカウンターに座って黙々と黄色いカレーを食べていると、半ズボンにランニングシャツ姿で、「やっぱ、うちのお母さんのカレーが日本一だよなぁ」と頷き合う、大家族の一員になったようで妙に懐かしく嬉しかったりする。

 


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