電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 8月16日 金曜日

【優しい夜の過ごし方】

眠れぬ夜に、心の深奥を覗きこんでいるいると、浮かんでくるのは“死”にまつわる想念ばかり、だから夜が長く、怖いという高齢者の悩みを耳にする機会が増えてきた。僕の親たちもまた然り。
 
泣いても笑っても、遅かれ早かれ“死”は誰にでも訪れるのだから、くよくよ思い煩うことなく、残された人生、楽しいことだけを考えて笑って暮らしましょうなどと言うアドバイスも聞くけれど、どうかなぁと思う。
“死”にまつわる思索こそ、人間の最も大切なテーマなのかもしれず、長い人生を経て老い先短い時だからこそ、一所懸命、忌まわしい想念と勇気を持って対峙してみるのも良いのでは、と思えてならない。
 
僕は、子どもの頃、現在の高齢な親たちのように夜を過ごすことが多かった。
小学校低学年の頃、帰宅したら部屋に鍵をかけ、外に出ず、部屋で本を読んだり、うたた寝をして過ごし、母親が作り置きした夕食を一人で食べ、布団をしいて、仕事で遅くなる母を待つことなく、眠ってしまうことを命じられていた時期がそれだ。
 
布団に入っても寝つかれず、目を閉じてあれこれ考えているうちに、ある時、大変なことに気づいてしまった。
人が“生きている”ということを実感できるのは自分が“生きている”からなのだが、やがて死んでしまった時、“死んでいる”事を実感するべき自分は“死んでいる”自分ではないということ、つまり死ねということは自分が“永遠に徹底的に無い”ということなのだ。“生きている”という状態は存在しても、“死んでいる”というそれは無いらしい。幼な心にそれに気づいたら永遠の虚無に吸い込まれていくような恐怖を感じて泣かずにはいられなかった。
 
その結果、毎夜のように寝惚けるようになったのである。
悪夢を見るのだけれど、それが毎回同じ夢で、折り紙の帆掛け船があり、それが無限に並んでいてちょうど版画家のM.C.エッシャーの作品の様になっている。で、「どうしようもない、どうしようもない」という言葉が浮かんできて、寝惚けて泣き叫んでいるらしいのだ。アパートの隣人たちが心配して鍵をこじ開けて入ってみると、僕は泣き叫びながら、二階の窓を開けて飛び降りようとしていたこともあるらしい。
 
心配になった母親が精神科医の元に連れて行き、カウンセリングを受けさせられたりしたのだが、小学校3年生になる頃には治ってしまった。理由は多分、夕方まで外出して、疲れ果てるまで友と遊ぶことを許されたからだと、今では思う。

“死”にまつわる思索が、人の心を狂わせるのではない。
それよりも、明るい日中、身体を動かさず、眠くなれば昼寝をしたりして過ごし、その結果、夜、布団に入ってから寝つかれずに、自分の心の暗闇を彷徨っていたりすると、浅い眠りの中で悪夢を見てしまうのだ。浅い眠りの中で夢を見る時、人は身体と心が遊離し、子どもは寝惚け、老人は錯乱するのではないだろうか。
 
明るいうちは力一杯覚醒し、暗くなったら力一杯昏倒する、それが人間の自然な暮らし、一番の身体と心の健康法のような気がする。そして、“力一杯生きて、力一杯死ぬ”ことこそ、生死の不条理に決着を付ける自然な知恵のように思えてならない。

2002年 8月20日 火曜日

【八丁堀散歩】

銀座一丁目での打ち合わせに、1時間ほど早く到着してしまったので、京橋から八丁堀方向へ真昼の散策をしてみた。
 
京橋から八丁堀方向に歩くと橋があり、その名を「弾正橋」、川の名前は「楓川(もみじがわ)」といった。現在は埋め立てられてしまい、流れているのは水ではなく、自動車だ。橋の両脇は小さな公園になっており、たくさんの噴水が設けられているのだが、夏場の節水のためか、稼働していない。なんだか真抜けた話だなぁと思って見ると、「噴水ポンプ制御板」も役所の窓口のようで愛想がない。秋になると、区の職員がやってきて操作するのだろう。
 

関東大震災や東京大空襲で焦土と化した地域なのだけれど、ぽつりぽつりと昔ながらの商いの商家が現れると嬉しくなる。「神佛師秋山三五郎商店」、神棚や神社の飾り物を扱う店らしいが、こういうお店が窮屈そうでも、残っているのは古い江戸の町ならではだろう。
 

「今村幸稲荷神社」にはびっくり。鳥居をくぐって正面のシャッターの中には御神輿でも納められているのだろうか。左手の階段を上るとこの民家風の家の玄関があるのだけれど、その手前にお社がある。この界わいには「純子稲荷神社」などという変わった名前の神社もあるらしく、縁起など、是非読んでみたいものだ。
 

今から18年ほどばかり前、フリーランスに成り立ての頃、八丁堀にクライアントがあって足繁く通ったのだけれど、どの辺にその会社があったのか、今となってはわからない。当時、大金を借りられたと社長が大喜びしていた銀行も、その会社自体も、倒産してしまってすでに無い。
橋の上に立って思い出をたどってみても、当時はこんなに高層マンションが建ち並ぶ風景ではなかったのだ。
 

友人と町歩きなどをすると、「表通りを歩こう」という派と、「裏通りを歩こう」という派に別れて面白い。僕は後者の方で、裏通りの路地歩きが大好きなのだ。左手は、表通りに面したビル群のコンクリート壁が続くのだが、右手は木造家屋の家並みが残っていて、人のぬくもりが何より嬉しい。どうやら、印刷関係の工場が軒を接して集まっている区画であり、隣近所が仕事を回し合うことで、大都会の真ん中で生き抜いているらしい。
 

昔は網の目のように水路が開け、水運の便も良かったのだろう。
立派な蔵があり、三階建てというのがモダンで面白い。
 

友人で、大学卒業以来、金属板を叩き腐食させて芸術作品を作り、大学教授にまでなった男がいるが、自然が鍛え上げたトタン板も芸術と呼ぶのに相応しく、圧巻。こういう住まいを維持したり、写真で記録したりしても大学教授にはなれないし、こういう物を芸術だと感心する者は変人扱いされるのが関の山だ。
 

舞踏用の足袋を商う「大野屋」さんというのを見つけた。
こういう商家がずらりと立ち並んでいた時代という物を、タイムマシンでもあったら、一度見てみたい。それにしても、何と美しい建築物だろう。ただただ、溜息が出る。
 
左手が八丁堀の町、右手が銀座の町になる。
この大通りを挟んで、町の発する「気」が随分違うのが面白い。
台風一過、秋晴れの空の下、強風に煽られながらビジネスマンの街へと向かう。

2002年 8月22日 木曜日

【メールソフト栄枯盛衰】

パソコンソフトの中でもメーラーというのは、ひと際特殊なソフトなのかもしれない。
 
最初に起動する時は、デジタル情報として手紙をやりとりするための、中身が空っぽのソフトウェアの一つに過ぎないのだが、受信箱に他人からの手紙が溢れ、送信箱に自分が書いた手紙の控えが溜まって行くうちに、使い手それぞれの「創造物」になっていく。
 
送受信したメールは即座に廃棄してしまうなどという、ある種壮快な使い方をする人も世の中にはいるのかもしれないが、身近に出会った事は無い。
大概は手紙を溜め込むのであり、溜め込むうちに必要に迫られて何らかの整理方法を工夫し、人それぞれ個性ある「情報整理棚」を構築して行くわけで、メーラーというのはすべての人にある種の創造性を要求するソフトでもあるのだろう。
 
その創造性を突き詰めると使い勝手の良いメーラーを探して乗り換えたくなり、それでも自分の理想が満たされないとメールソフト開発者が主催するメーリングリストに加わって要望を述べてみたりする。そして、さらに情熱が高まるとメーリングリスト内で他人を罵倒してでも自分の理想のソフトを手に入れようとする完全「主義者」と化す。
 
メールソフトの栄枯盛衰を見ていると、究極の「完全」なメーラーが欲しければユーザー自身が自分専用ソフトを作れるくらいのスキルが必要であり、完全「主義者」ユーザーの要望に応えすぎる「良心的な開発者」のメーラーは、何らかの形でいずれは破綻する宿命にあるように思えてならない。ソース構造が複雑になり、内部の矛盾が生じ、複雑になり、鈍重になり、OSの進化に追随できず、そして何よりも、すべてのメーラーがすべての人の要望を満たすように進化したら、ソフトウェアの個性などというものは存在し得ず、味気なさしか残らないのでは無かろうかと、思えてならない。
 
OS X を使い出してから、これぞという OS X 用メーラーが見つからず、OS 付属 AppleMail の使い勝手が意外に良いので、メインのメーラーとして使ってきた。OS 付属のお仕着せメーラーというのは、自ら墓穴を掘るようなユーザーの要望に媚びた仕様変更がない点で良いのだが、不具合に気付き始めると、いずれ改善されるのか否かの情報が掴めないので嫌気がさしてくる。
手当たり次第にメーラーを試してみたけれど、僕には AppleMail がとても好もしく、このソフトを自分好みに改造できたらどんなに良いだろうと何度思ったか知れない。

GyazMail というメーラーを見つけて驚いた。
僕の求めているメーラーに限りなく近く、Macintosh用ソフトウェアの情報サイト「新しもの好きのダウンロ〜ド」に初めて登場した時点から、驚くべき完成度だったからだ。
Consoleを使用してのバグフィックスなどを及ばずながら手伝わせて頂いているのだが、今後、どのようなメーラーに育っていくか楽しみなソフトウェアである。

2002年 8月23日 金曜日

【東京の鹿狩】

当サイトのもう一つの日記『林檎の毎日』、2002/08/18 (日)に「二つの碑」と題したメモ書きをした。
 
近所の豊島区駒込、電通生協会館あたりを散歩していたら、江戸時代、旗本・御家人の屋敷が多かったこの場所に、かつて本郷丹後守の屋敷があり、寛政7(1795)年と嘉永2(1849)年、本郷氏が将軍の鹿狩のお供をし、鹿肉を貰ったことを顕彰して建てられた石碑が保存されていたのだ。


「なるほどなぁ」と漠然と思ったものの、いくつかの疑問が湧いてきた。
 
江戸時代、将軍のお供をして鹿狩というと、どの辺まで出掛けたのだろうか。
「本郷も兼康までは江戸のうち」などと言われ、歯磨きの「兼康」を遙かに過ぎた駒込界隈が田舎だったことは想像に難くないが、武蔵野原をどれほど江戸から遠ざかれば、鹿狩が出来たのかが疑問だったのだ。
そして、もう一つ、鹿狩にお供し、鹿肉を貰うのが無邪気に嬉しいとはいえ、石碑を建てるほどの大事だったのだろうか、ということが不思議だったのだ。
 
司馬遼太郎の著書、『最後の将軍―徳川慶喜―』を読んでいたら、その回答を見つけて嬉しかった。
将軍側近の役職に、御側御用取次という重役があり、それは現代で言えば秘書部長のような役職だったらしい。本郷丹後守はその御側御用取次だったのである。以下はその本郷丹後守が小納戸頭取朝比奈甲斐守の加増を取り成すくだりである。
 
「朝比奈が加増を受けるべき理由はあった。なぜならば、御鹿狩(おしかがり)の御場掛(おばがかり)を朝比奈はつとめたのである。御鹿狩というのは武蔵野の小金井でやる将軍の狩猟で、これは将軍の一代一度の吉例行事であった。この狩猟の事務局長をつとめた者には五百石の加増があるという慣例がある。朝比奈にはその沙汰がないのである」(司馬遼太郎著『最後の将軍―徳川慶喜―』文春文庫より)
 
何と当時は中央線で小金井まで行けば鹿狩が出来たのであり、それが将軍一代一度きりの重要行事であり、御場掛を申しつけられれば大変なボーナスが出たのである。それは確かに石碑を建てるくらい嬉しく、誇らしい事だったのだろう。

だが待てよ、当時の小金井は田舎だったとはいえ、そこに常時、野生の鹿がいたのだろうか。将軍に狩らせるためにわざわざ哀れな鹿を放っていたのだったりするのかもしれず、その殺生の段取りを整える幹事が御場掛だったりするわけで、だとしたら富や名誉のためとはいえ、石碑を建てて自慢するほど、気持ちの良い仕事でも無い気もするなぁ(^^;;。

2002年 8月29日 木曜日

【個室世界の夜】

人の一生そのものが誰にとっても“生死の境を彷徨う”ような現象に過ぎない物なのだけれど、いざ家族が緊急入院などという事態になると、その呆気にとられるようなリアリティーにたじろぎ、インターネットで日記を書くなどという悠長な気分になれない。病院の医師とのやり取りや、日々、こなしていかなければならない日常諸事のメモ書きで、手帳こそが日記化しているのに驚く。
 
電話一本取るたびに、絶望が希望へ、希望が落胆へと目紛しく変わり、世界が万華鏡のようだ。
根が楽天的な性格なので人生を“受苦”とは思わないけれど、いつもと変わらないように見える世界のこちら側で、自分の心の動きが翻弄される様を観察する時、神様が実在するなら、全人類一人ひとりに合わせて設えられた試験用シャーレという“個室世界”の中で、匙加減一つで白黒反転するがごとき試練を次々に与えられているような、不思議な気分になってくる。
 
急遽、病院に呼び出され、バスの窓から町の喧噪を眺めながら、ふと考えた。
世界の人口分のシャーレを用意するのも、神様は大変だろうなぁと思うけれど、

「コンピュータのモダン OS のように、コアになる仕組みが共用できるように用意されていて、個々のシャーレの操作はマルチタスクで実行されるから、全人口分の“個室世界”を重層構造にすることなんて造作ないこと。実は犬猫はおろか、虫けらにさえ個々に専用の“個室世界”が用意されているんだぜ」

と、モダンな神様なら笑ってこたえるかもしれない。
 
さらに、神様が機嫌の良い時なら、驚くべき秘密を聴くこともできるかもしれない。

「地球の裏側に住む、あなたと同じように無名の人が、あなたの生死などと関わりなく生活し、あなたの存在を一生知ることもなく死んでいくわけで、無名人同士が共有する“個室世界”の齟齬、矛盾などは端数を切り捨て、丸めて演算されるので、存在する“個室世界”の数だけ別の“専用現実”が存在するという“緩み”を持たせてある。平たく言えば、この“個室世界”ではあなたは明日、交通事故で死ぬけれど、別の“個室世界”では軽傷だったり、また別の“個室世界”では危うく難を逃れていたりということすら有り得るんだよ。それが SF 作家たちが唱える“平行世界”とか“多元宇宙論”というやつさ」
 

だとすると、多元宇宙の何処かでは、いつも通り、脳天気な日記を書いて、お酒を飲んで機嫌良く眠りにつく自分もいるわけで、幸不幸も役割分担のうちかなぁと、脳天気な夢想にふけりながら病院からの帰途につく。
それにしても手の込んだ“個室世界”だなぁと感嘆するような、美しい都市の夜景が窓外にある。

2002年 8月31日 土曜日

【ウチワの夜】

ウチワを見るたびに祖母を思い出す。
 
義父母が住まいにしていたマンションの9階での留守番が増え、和室にゴロッと横になり、開け放した窓から積乱雲を眺めていると、インターネットサイトのライブカメラみたいだ。時折風が通り抜けるとはいうものの、蒸し暑いのでウチワでパタパタしていると、遠い日の思い出が次々に脳裏を横切る。
 
物心ついたときから祖父母はすでに老人然としており、夏場、祖母は白いアッパッパを着て、いつも必ずウチワを持っていた。夕方四時頃から、祖父、祖母の順で一番湯を使い、五時ちょっと前から叔父を相手に祖父の晩酌が始まる。祖母は飲酒を禁じられていたので、夕食は早めに終わってしまい、祖父が晩酌と夕食を終えるまで祖父の横に正座し、ウチワでハタハタと風を送っていた。
 
時折、パンツとランニング姿でご飯を食べる孫達に風を送ったりすることもあった。
祖父が隠居所に引き上げると祖母もついていって蚊帳に入り、祖父が入眠するまで隣りで風を送るのが祖母の日課だった。男女同権が当たり前の世の中から見れば、祖母は祖父に忍従の日々を強いられていたかのように感じがちだが、祖母は自ら進んでそれをやっていたような気がする。
 

13人も次々に子どもをもうけ、子を孕む腹のあいている暇の無い人生だったようだが、そのような日々が続くと、女性というのは常時、母乳が出るものなのだろうか。
母犬を亡くした子犬がおり、祖父に見つかると叱られるので、祖母は隠れて自分の乳で子犬を育てていたこともあるらしい。幼い母は、祖母の隣で、まだ眼も開いていない子犬が、両前脚を交互に動かして祖母の乳房を刺激し、舌で乳首を包み込むように上手に飲む姿に感動したという。祖母も「人間の子どもより、ずっと優しく乳を吸う」と話していたという。
そんなふうに、祖母は人にも動物にも、惜しみなく何かを与え続ける人だった。
 
祖父母の元に預けられていた僕は、寝るときは何故か、いとこ達と離れて祖父母と一緒に寝かされていた。祖母は、祖父が寝入ると、次は僕が寝つくまでウチワの風を送ってくれ、その心地よさを思い出すと今でも何故か甘酸っぱいものが込み上げる。
 
こんなふうに、ウチワの風を感じていたなぁと自分でパタパタやっていたら、眠くなってきて、ふと思った。
首を刎ねられた鶏は、首の無い身体で数メートル駆けるというけれど、人間が眠っても、ウチワを使っている手は動き続けて、自分に風を送ってくれるのかしら。だったら、便利だろうな、などと馬鹿なことを考えながらウトウトしたら、突然何者かに喉元を突かれて、ギクッとして目覚めた。
眠った途端、手が心の支配を離れ、持っていたウチワで自分の喉を突いたらしい。
 
そうだよなぁ、やっぱりそんな芸当はできっこない。
きっと、祖母もウトウトして、ギクッと目を覚ましたこともあるんだろうな。
そう言えば、風が止まり、祖母も眠ったのかなと思う頃、思い出したように再びハタハタと風が来た、寝苦しい夏の夜もあったなぁと懐かしく思い出す。


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