電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 9月 1日 日曜日

【ロボット】

テレビのニュースで、直立二足歩行のロボットがパラパラを踊っていたりしても、さして驚きもしない世の中に、いつの間にやらなってしまった。
 
産業用ロボットのように人間の姿態に似ても似つかないものまでロボットというらしいけれど、チェコスロバキアの作家チャペックが戯曲で「人造人間」と造語したように、やはり人間の形をしていなくちゃ、ロボットじゃないような気がしてならない。
 
してみると、幼い頃見ていた案山子だって、考えてみればロボットの原初的な一種だったのかなぁと思えてくる。
最近の都市近郊農業ではとんとお目にかからないけれど、幼い頃、田んぼには必ず案山子があった。さまざまに“人造人間”らしい意匠が施され、驚くほどリアルなくせに、顔には「へのへのもへじ」などと描かれていたりしたのだが、僕にはどうしてもユーモラスなものとして見ることができなかった、
 
稔った稲穂を食い荒らす雀よけだったのだろうが、同様にカラスの被害も大きかったようで、縊られた本物のカラスが竹竿の先から吊るされている荒涼とした光景も目にすることが多く、お百姓さんの怨念の深さに脅え、案山子はリアルであればあるほど、縊られた人間を晒し者にしたとしか、見ることができなかったのだ、
 

深夜、地方の国道で車を走らせていたりすると“人造人間”の警察官がヘッドライトの光芒の中に浮かび上がって、ドキッとすることがある。
ドキッとさせることを目的として設置されているものなのだから当然なのだが、その“人造警官”を見るたびに陰惨な気持ちになり、早く自家用車など持たない生活に戻りたいと思う。
 
野放図に自家用車を持つという社会がおかしいと思っているので、それはそれで、別の意味の環境保全に協力するきっかけとなる良い取り組みかもしれないなぁと思うが、工事中の道路の“人造ガードマン”を見ると、別な意味で陰惨な気持ちになる。
“人造駅員”“人造警官”“人造警備員”“人造公務員”“人造裁判官”“人造僧侶”“人造教師”なんていうのが当たり前になる世界は恐ろしいだろうなぁ(^^;;

2002年 9月 7日 土曜日

【Mac OS X 10.x のディスク複製】

8月24日土曜日は Mac OS X 10.2 の発売日であり、早朝からカウントダウンイベントが各所で催されたりしたのだが、突然家族が病に倒れ、医師から告知を受ける日になってしまい、新しい OS のインストールなんてやっている場合ではなくなってしまった。
 
急遽入院し、本格的な治療も始まり、あとは本人と家族のがんばり、そして医療チームへの信頼と、神様へのお願いくらいしかできることが無くなったので、やっと9月最初の土曜日、2週間遅れで Mac OS X 10.2 をインストールしてみた。
 
インストール方法がいくつか選択できるのだが、最も好もしい真っさらな新規インストールを実行する気力も時間もないので、今まで使用していた Mac OS X 10.1.x への上書きインストール(アップデート)を実行してみた。上書きインストールによる不具合が発生して、仕事に支障が出ると困るので、現在の Mac OS X 10.1.x を起動可能ディスクとして別途保存しておくことにした。
 
Mac OS X 9.x までは起動ディスク上の“システムフォルダ”をコピーするだけで、いくらでも起動可能バックアップを作成することができたのだが、Mac OS X 10.x では単純なコピーで起動ディスクとしてのバックアップを取ることができない。僕が知っている起動可能なバックアップ方法は二つ。
 
その一つは、“Carbon Copy Cloner”というソフトを使用する方法で、こちらはドネーション(寄付)ウェア。今回のようなケースではこれで十分なのだけれど、随時、最新のバックアップを作成し、非常時に簡単に書き戻したりしたいので、“Synchronize! Pro X-J”を使用してみた。こちらは $110 のシェアウェア。ファイルバックアップソフトなのだけれど、起動可能な Mac OS X 10.x のバックアップ、シンクロナイズを行うことができる。
 

“Synchronize! Pro X-J”で起動可能な Mac OS X 10.x のディスクを複製する方法は下記の通り。
まず、Applications フォルダ内の Utilities にある Disk Utility で新規のバックアップ用ディスクを用意する。
次に、 アップルメニュー→システム環境設定→アカウント→ログインオプション→ログイン時の表示:名前とパスワードをチェツクしておく。
次に Applicationsフォルダ→Utilities→NetInfo Managerを起動し、セキュリティメニュー→認証で管理者名とパスワードを入力、セキュリティメニュー→ルートユーザーを有効をチェック。
ここまで設定してしまえば、次回からこの作業は不要。
続いてアップルメニュー→ログアウト、ログインウインドウが表示されるので、ユーザー名に root と入力し、下欄に管理者パスワードを入力してルートユーザーとしてログインする。

後は“Synchronize! Pro X-J”を起動し、バックアップを実行すれば起動可能な Mac OS X 10.x ディスクを作成することができる。

2002年 9月 9日 月曜日

【話の抗口】

深夜の食卓で向かい合った相手の眼が虚ろで、こちらの語りかけが心に届かず、ひたすら自己の内面に語りかけることに没頭している姿を見るとき、僕に何ができるのだろうかと考える。
 
他人であれば、心の通い合わない空疎な時間をやり過ごせば、それはそれで良いのだけれど、血の繋がりのある家族だとそうはいかない。そして、血の繋がりのない家族である僕ですら、その時間は奈落の底に引きずり込まれるように重苦しい。家族にとっては沈黙もまた一つの、沈鬱な会話なのである。
 
心の深奥をまさぐるような俄カウンセラーにならない、非難しない、現実の直視を強要しない、自分の感情そのものに気づかそうとしない、自身の行動を分析させない、恩着せがましい態度を見せない……エトセトラエトセトラ。介助者が対象者を悪化させない基本的な心得をマニュアル本で拾い読みしてみるが、多少なりとも他人の心に寄り添おうという気持ちを持つ者にとっては、すでに直感的に理解できている範囲の事ばかりのように思える。
 
夜が明けるまで眠れないのではないかしら、などという暗澹たる気持ちに負けまいと、蛮勇を奮いおこして、奈落の底へ続く道にすすんで踏み込むように、言葉を闇の隙間に這い入らせてみる。虚実も判然としない手探りの心の坑道彷徨だが、他人だからこそ分け入る勇気を持って支援できるのかもしれないと、自身を励ましながら。
 
それこそ60年以上も昔の思い出話を辿り、血の繋がった家族なら憤り、仰天するような虚妄に寄り添っているのかもしれないと思いながらも心の地底を進むと、ふと急に地上から眩しい一条の光が射し込んだような場所に到達することがある。「ここだ!」と思って、さぁ、地上に出ましょうと手を引くように上る道は足取りも軽く、楽しくもある。
戦前の中等野球の話などを笑顔で聞きながら地上に出て、
「もう寝ましょうか」
と声をかけ、
「うん寝ようか」
と僅かなコミニュケーションが、眼と眼を合わせて成立した時の喜びは何物にも代え難い。

長い夜が明け、一晩に夜明けが二度有ったような、奇妙な疲労感を感じながら仕事場に来て、ふと本棚に目をやると、上野英信集1『話の抗口』が目に入った。
妻の叔父である千田梅二が版画を刷り、上野英信が文章を書いて筑豊の炭坑で発行していたガリ版刷りの『地下戦線』などをまとめたものだ。
ぱらぱらとページをめくりながら、上野英信さんはどうして炭坑夫になろうと思ったのかしらと、動機が知りたくなり、本人による「あとがき」にその答えを見つけた。

上野さんは幼い頃、炭坑の長屋街を見て恐怖感を心に植え付ける。
 
「その、異常な、重い、闇の正体が何であるか、少年の私にはもとより理解できるはずもなかった。ただ、それまでに経験した、どんな闇とも違うことだけを、本能的に感じておびえたにすぎない。それが深い地底からにじみ出る闇であることに気づいたのは、ずっとのちのことである。むろん、その闇が、やがて私の光になろうなどとは、夢にも思わなかった。」(上野英信集1『話の抗口』径書房より)
 
上野さんはその後、23歳の時、広島県宇品で陸軍船舶砲兵として原子爆弾を体験する。その惨状を目の当たりにして「みずからいのちを絶つことだけが、私にとって、ただ一つの救い」と思えるような日々を過ごす。そして、幼い日に恐れた筑豊炭田の地底の闇に迷い込むことこそが、心の中のヒロシマを消し去る唯一の道だと思ったのだという。
 
「もしあのとき、筑豊の闇が私をつつんでいてくれなかったとしたら、私は果たしてどうなっていたことか。」(上野英信集1『話の抗口』径書房より)
 
人は人生という“生涯ステージ(エリック・エリクソン)”の各段階において、解決すべき課題に決着をつけながら、“より良い死”を迎える準備をするというが、高齢期にいたって未解決のままの課題がある者は、最後の“解決ステージ”で自身の心の深奥と対峙するのだという。認知障害と闘いながら。
 
筑豊の炭住に晩年の上野英信さんを訪ねたのは、もう20年以上昔のことになってしまった。
地底の“解決ステージ”で自身の苦悩と対峙し、セイタカアワダチソウが生い茂るボタ山跡で、穏やかな老後を迎えられていた上野さんの笑顔を思い出す時、それが、義父を心の坑道から明るい地上へ誘う愚息の『話の抗口』探しの励みになっていることが、今はとてもありがたい。

2002年 9月10日 火曜日

【もり川食堂】

仕事で東大正門前界わいに出向き、ちょうど昼飯時だったりすると「万定」か「もり川食堂」に行きたくなる。
 
本郷郵便局脇の路地を折れ、「もり川食堂」前まで行くと、「建築計画のお知らせ」という看板が入り口右脇に張られていた。
「えーっ、もり川食堂が無くなっちゃうの?」
と一瞬驚いたが、地上4階建ての店舗兼用住宅として改築するらしい。
平成14年11月1日着工、平成15年4月末日完成の予定とあるから、半年間だけのお別れだし、仮店舗での営業もあるかもしれないので、悲しむべき事でもないし、この不況の時代、地道な商売をされてきたご褒美かもしれないので、喜ぶべき事なのかもしれないが、この歳になると、年々歳々失われていくものが多く、この世の無常を感じることが多いので、しばしの別れも哀しくて仕方ないのだ。
 
「おめでとう、君に良い旅を、またここで会おうぜ!」
という思いを込めて「トンカツ定食」を注文してみる。
相変わらず、心のこもった盛りつけのお盆が目の前に置かれると、思わず合掌したくなる。
健康的な生活をするためには、人間一日三十品目以上の食品を摂取すべきだというが、トンカツ定食に添えられた副菜の多さ、栄養バランスの良さには敬意を表したくなる。これだけで三十品目を達成できてしまうのではないだろうか。
息子や娘がいて、東大生であり、本郷に下宿して「もり川食堂」のお世話になっていたりしたら、親としてどれほど安心なことかと胸が熱くなる。


実は、トンカツを醤油で食べるのが僕は好きで、さっと醤油をかけて和辛子をつけ、真っ白いご飯をかっこむのが大好きなのだ。そういう気ままさを発揮しても、ちっとも恥ずかしくない客筋の良さがまた嬉しい。
カウンターの隅で、夢中になっている僕をニコニコと覗き込む人がいるので、おやっと思ったら、近所の理工系出版社の編集者だった。
「この店、建て替えなんですねぇ」
と話しかけると、
「そうなんですよ。おでんの呑喜さんみたいに思い出の調度が残るといいなぁ」
などという答えが返ってきた。
僕は、ぜひ使い込んだ暖簾を残して欲しいのだけれど、本当は従業員の皆さんの心意気、接客態度、そして良心的な経営方針さえ失わないでくれたら、それで良いような気もしている。
 
しかし、何という時代になってしまったのだろう。
「良心的」であることが、こんなにも得難い希少価値として感じられるなんて。
改めて「もり川食堂」偉大なりの感慨で、お腹と胸がいっぱいである。

2002年 9月11日 水曜日

【捨て猫散歩】

猫を飼ったことがないので、仔猫を捨てるなどという耐え難い体験はしたことがないのだけれど、子ども時代の友人には捨て猫経験者が多かった。
 
生半可な捨て方では家に戻ってきてしまうので、箱に入れて蓋をし、自転車の荷台に括り付け、脈絡無く、あの街この街と迷走し、目的地に着いたら念のために自分もフラフラするくらいその場で回転し、箱を置いたら一目散に逃げ帰るのだそうだ。
 
そうすれば戻ってこないと自慢げに言うのだが、仔猫なので帰巣本能が未成熟だったか、愛情ある飼い主に拾われたか、はたまた雨に打たれずぶ濡れになって死んでしまったかの、いずれかではないかと思ったりしたものだ。成描だと100km以上の道のりを歩いて帰り着いたなどという話も聞くことがあるから。
 
いったいどのようにして帰巣するかが謎なのだけれど、動物の持つ independent navigation(自立航法)によるものだとの説が有力らしい。
視覚や聴覚から得られる情報を基に脳内で地図を作っている「感覚地図説」、体内時計と太陽・月・星などの位置情報を総合して移動するという「天体コンパス説」、体内にある磁石状物質により方位を察知している「地磁気説」があるのだが、これらに加えて、最近では head direction cell(方向細胞)なるものの存在が確認され、一つひとつの細胞が方向を記憶し、特定の方向に向いた時、活性化して暗闇でも目的地への移動を可能にする空間認識の仕組みが明らかにされつつあるらしい。
方向細胞は人間にも存在するらしく、方向音痴といわれる人はその使い方が不慣れなのだという。
 
外出の際、気分転換をかねて見知らぬ街を散歩するのは楽しいが、楽しい散歩の秘訣は「感覚地図作成機能」を休止させることにあるのかもしれない。あの角を曲がったらどんな町並みが現れるかしらと、ワクワクすることこそが楽しく、なまじ地図が脳内で作成・更新され続けていると興醒めなことが多い。

仕事で出掛けた港区赤坂、カナダ大使館脇の路地を入り、この方向に進むと乃木希典が自刃した旧宅跡に行けるかもしれないなぁ、などと初めての道を歩き始める。やがて緩やかな下り坂にさしかかり、その名を「新坂」という。元禄12(1699)年に開かれた当時は、当然新しくてまさしく「新坂」だったのだが、今ではとてつもなく古く、もっと古い「旧坂」の場所が知りたくなる。
 
右手に民族文化豊かなエンブレムを壁面にあしらったビルがあり、これが一般分譲マンションだったら、とてつもない悪趣味だなぁと正門に回ってみると「カンボジア王国大使館」だった。奥にいる女性がこちらを見ているので、「中に入ってお茶でもいかが……」なぁんてことはあるはずないかと、浅ましい思いを恥じつつ通過。欧米には妙にコンプレックスがあるくせに、アジア諸国に馴れ馴れしいのは日本人の悪い癖だろうか。
 
わざわざ迷走するように次々に角を折れて進んでいくと、ちょっとした崖っぷちのような場所があり、バブル最盛期に片側を削り取られたような袋小路が眼下に見渡せる。
こういう場所が好きなのでちょっと写真撮影。期せずして間が抜けてしまった近代都市の風景を眺めるのが好きなのである。手前の区画の駐車スペースが斜めになっているけど、垂直でも良かったような気がするのは余計なお世話だろうか。

高台と窪地が入り組み、坂の多い街なので、民家の私道も実に面白い。高い場所があれば上がってみたい、石段があれば上ってみたいという性格なのでワクワクする。
 
片側が空き地のまま駐車場化してしまったような路地があり、右手に「民族の味」と銘打った看板を掲げた飲食店、突き当たりは切り立った崖線になっている露地があり、自然の地形なのかなぁと興味があったので写真撮影。で、おやっと気づいたら、先ほど写真撮影した崖っぷちの下に、いつの間にか迷い込んでいたのだった。「感覚地図作成機能」を休止させる楽しみはこういうところにある。

そろそろ打ち合わせの時間だから急がなくちゃと、こっちの方角だろうと方向を定めて坂道を上ったら、見事に「富山県赤坂会館」に突き当たった。「感覚地図作成機能」を休止させても「方向細胞」は、バックグラウンドで活動していたらしい。

2002年 9月13日 金曜日

【木と暮らす】

仕事で武蔵野市吉祥寺へ。
 
残暑が厳しいとはいえ、木陰を吹く風はすっかり秋の風なので、帰り道は徒歩で吉祥寺駅まで。
通称吉祥寺通りを歩いていたら、立野町で、面白い八百屋さんを見つけた。
店先に桜の大木があるのだけれど、その幹を店舗兼用住宅の中に包含してしまっているのだ。
当然、店舗兼用住宅を建築する以前から生えていた桜なのだろう。ここまで育った桜に愛着があるのは日本人なら当然のように思えるし、僕が店主だったら、やはり切り倒すには忍びなく、桜の木を温存するために、あの手この手で思案をかさねるに違いないのだけれど、この手は思いつかないなぁと感心してしまう。
 
感心するだけではなくて、ちょっと暮らしぶりが羨ましかったりするのは、幼い頃、冒険小説で読んだ樹上の小屋が大好きだったり、『ロビンソン漂流記』で、主人公が切り倒した丸太で柵を巡らしたら、根を張り葉をつけて、さながら森の中で守られて暮らしているかのようになった、などという展開にワクワクした体験があるからかもしれない。

●画像にマウスを重ねて見てください。

もう亡くなられたが、高取正男さんという生活学者がおられ、その著述集の中で、山居村や屋敷林のように住まいと木々が寄り添う暮らしについて考察されていたのを思い出す。
その効用を一般的には、木々が冬の北風を防ぎ、落ち葉や枝が冬場の燃料になるからという、近代的合理性で論じられることが多いのだけれど、かつて平地で定住型農耕生活を始める以前の祖先たちは、森の中に抱かれて眠ることで、どれほどの安らぎを得ていた事かに思いをはせて論考されている。
見渡す限り平坦な土地に下りた人間に、かつて暮らした山林の適度な暗さと湿り気の中で寝起きすることによる安らぎを希求する気持ちがなければ、窓に大型サッシが取り付けられ、原発からの電力が山奥に届く時代まで、山居村や屋敷林が大切に守られ続けてきたはずはないのだ。
 
桜の木を一本、住まいに包含することで、適度な暗さや湿り気という生活環境の恩恵を受けられるはずもないが、生きている大木と共生する覚悟をした住人は、きっと「心の適度な暗さや湿り気」を感じられているに違いないと思えて、妙に羨ましかったのかもしれない。
 
春になって、桜が満開の頃、再訪してみたい花見のポイントがまたひとつできた。

2002年 9月14日 土曜日

【運がいいとか悪いとか…】

おみくじを見るたびに母親を思い出して可笑しい。
若い頃の母が一緒にいて、この前に立ったら必ず引くだろうなと思う。
 
他人の人生相談気取りで、「運勢なんて言うものは自分の手でどうにでもなるもんだよ」などと他人に言ったりするくせに、おみくじを見たら引きたくなる、引いて都合の悪いことが書いてあるともう一度引いてみたりして、若い頃は手相の見方を勉強したこともあるらしい母親なのだ。

作家の関川夏央さんと飲む機会があった時、関川さんが著書で飽食の時代を嘆き、ご自身のお母上を、“洋食といえば新宿中村屋のカリーしか知らず、塩辛いラーメンの汁が大好き”な人だけど、誇らしく思っていると書かれていたのを思い出し、その話を引いて僕自身の自己紹介をした夜を思い出したりする。
 
女手ひとつで子どもを育て上げ、飲食店を切り回し、自分の人生は運に頼らず自力で切りひらいた、などと豪語しているくせに、パチンコ屋の前を通ると、「運試しに100円だけ遊んでいこうか」などと言う、若い頃の母を僕は知っている。
まだパチンコが手動だった時代で、100円分の玉をすべてはじいてしまい、隣の台の受け皿に誰かが残していった玉を見つけ、自分の台に入れ、ピーンとはじき、カタカタと音を立てて下の穴に吸い込まれるのを見届け、「ちぇっ」と言うように台のレバーを掌で叩いていた姿が、妙に哀愁を帯びていて面白哀しかったのだ。
 
「お母様は、強い、立派な女性だったのですね」
などと言われると妙に照れくさく、自分の「運」が気になって仕方なかった、若かった母の後ろ姿の方が、今でもリアルで愛おしい。自身の運・不運が気になり、怯えながら頑張った母の方が、今でも誇らしかったりするのだ。
70歳を過ぎて、おみくじも引かなくなり、パチンコにも興味を失った母は、自分の「運」も定まったと感じ始めているのかもしれない。

2002年 9月15日 日曜日

【バナナチョコレートの怪】

祭りの露店で「バナナチョコレート」を見ると懐かしい。
 
だけど、懐かしがっている自分がとてもアヤシイ!
「懐かしい」ときたら「子ども時代」の思い出に決まっているのに、僕の子ども時代のお祭りに「バナナチョコレート」が有ったなどとは到底思えないのだ。

僕の好きなイタリア人作家の本に、第二次大戦後のイタリアはとても貧しくて、“鶏肉などは病気の時か、鶏が病気の時にしか食べられなかった”と書かれていて笑ったが、第二次大戦後の日本も貧しくて、バナナなど自分が病気の時か、親が病気の時にしか食べられなかったのだ。
 
同様に、チョコレートもとても贅沢な食べ物だった。
小学校一年くらいの時、叔母の実家で不幸があり、神奈川県の山奥での葬儀に、両親に連れられて参列したことがある。あまりに山奥なのに驚いたし、仏様を土葬するのにも驚いたりした。
小田急線の駅で降り、これからバスで大変な山の中に向かうので、車中で食べるお菓子を買ってやるということになり、僕はここぞとばかり、一番大きなチョコレートを買って貰った。チョコレートなど身内に死人でも出ないと、滅多に食べられなかったのである。
 
そのバスが、転落事故を起こしてもおかしくないような渓流沿いの悪路を進むので、僕はすっかり乗り物酔いしてしまい、チョコレートに手をつけることができなかった。
叔母の実家に着いて通夜になり、退屈しのぎにチョコレートを食べようとしたら、母が、実家の子どもたちにも分けてあげなさいと言う。パキパキと折ってお裾分けしたのだが、部屋のあちこちに、ちょっと囓ったチョコレートが放置されているのに驚いた。
「どうして食べないの?」
と聞いたら、
「このアンコ、苦いんだもん」
と言われてしまった。それほど、チョコレートは気安い食べ物ではなかったのである。
 
戦争などがあって物資の乏しい時代に子ども時代を過ごした女性たちが大人になって、少女の喜ぶような玩具を金に飽かせてコレクションしていたりするらしく、それを「怨念の少女趣味」と呼ぶらしい。
少年時代、高価なバナナとチョコレートをお腹いっぱい食べられなかったおじさんが「バナナチョコレート」を見て、思わず「懐かしい!」などと虚偽の発言をしてしまうのも、「怨念の懐古趣味」なのかもしれない。


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