電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年 9月16日 月曜日

【日本的射的】

大きな祭りの縁日には射的の露店が立つ。
 
小学生時代は、お金がなかったから縁日の射的など、やったこともなかったが、親たちの社員旅行に連れられて訪れた古い温泉場では、浴衣の裾から下半身を露わにして夢中で興じる大人たちに混じって、遊ばせて貰ったことが何度か有る。簡便な空気銃にコルクの弾を込め、台の上の景品を打ち落とすと貰えるという、ただそれだけの遊びである。
 
この景品目当ての「射的ゲーム」というのは外国にもあるのだろうか?
 
しゃ‐てき【射的】
(1)的(まと)に向かって銃をうつこと。
(2)空気銃でコルク製の弾丸を射出し、的の人形や煙草などの賞品をねらいあてる遊び。「―場」(広辞苑第五版)
 
的にあてる技能を競い、快感を味わう「射的ゲーム」は海外にも、いくらでもあるらしい。
射的場の対訳として「a shooting gallery」などという英語もある。
明治以前の日本には楊弓場というのがあり、そこで客の相手をする女を矢場女(やばおんな)という。時代劇などで客の射た矢が命中すると「あた〜り〜」などと嬌声をあげているアレだ。
明治時代になると「射的場」という言葉が登場し、本郷の東京大学構内からは「警視局射的場」の遺構も発掘されている。明治9年に着工し西南戦争1ヶ月前の明治10年1月に完成している。西南戦争に派遣される警察官の教練のための施設だ。


だが縁日の射的、広辞苑の(2)に該当する射的というのは、はたして日本以外にも有るのかしらと思えるほど、日本の射的遊びというのは珍なるものだと思う。
だいたい、手前のカウンターから身体を伸ばし、手を伸ばし、銃を片手持ちにして景品から数センチの距離で発射しても許されるのだ。そして射的場のオヤジの側も、どう見ても、軽いコルク玉を何発直撃させても物理的に転倒落下しそうにない巨大な商品を台に置くことすら許されているのだ。
 
物理法則のわからない子どもたちは、巨大景品に向かってむなしく散財し、すれっからしの大人は、欲しくもないココアシガレットの上端両端にコルクを当て、回転力を加えて落下させるなどという、ちょこざいな技を磨くのである。
 
昔、仕事関係の友人たちが共同でログハウスを造ったというので、泊まりがけで招待されたことがある。
自然の中、水道も電気もない森の暮らしを楽しみに出掛けたのだが、エアーライフルを持ち込んできた親子がいるのに呆れた。雀に怪我を負わせる程度の威力はあるというのだ。
幸い、雀が見あたらないので天然水の紙パックを的に射的ゲームをしていたが、紙パックに穴を空ける銃の威力もさることながら、この親子の姿に背筋が寒くなる思いをしたものだ。
 
射的といっても名ばかりの、「射幸ゲーム」にすぎない日本の珍なる射的遊びが、僕はさほど嫌いではない。

2002年 9月17日 火曜日

【オトボケの昼下がり】

雨の振り替え休日、高田馬場の録音スタジオにCDジャケットの打ち合わせで外出。
 
馬場下町に、いかにも学生御用達風の食堂があって繁盛していたのを思い出し、遅めの昼食に立ち寄ってみる。
幼い頃、父は“大衆酒場”“大衆食堂”が大好きだった。
親子三人、たまの外食で、父が連れて行くのは決まって“大衆食堂”であり、母は「大衆食堂じゃ体裁が悪い」と、いつも文句を言っていた気がする。女性は“大衆”が好きではないのかもしれない。
六義園近くにも「たぬき食堂」という“大衆食堂”があり、店内に、雑誌に取り上げられた時の記事が張られていたのだが、そのタイトルが“男なら大衆食堂で飯を食え!”だった。世間では“大衆食堂=男の世界”という観念が一般的なのかもしれない。
 
父親譲りの性格なのか、僕は“大衆酒場”“大衆食堂”が大好きで、“社員食堂”“学生食堂”“職員食堂”などに潜り込んで食事をするのが大好きなのだ。
病院に行っても、白衣の医師や看護婦に混じって地下の食堂で食事をするのが好きだし、会社員時代は、様々な会社の社員食堂や官公庁、図書館、博物館の食堂にも昼食の足を伸ばしたものだった。

馬場下町「オトボケ」は、雨の休日とあって客もまばらで、おじさんでも入りやすい。
ふらっと入ってカウンターの端に腰を下ろそうとすると、
「食券をお願いします」
「あ、食券ね。えーと、ト、トンカツ定食!」
咄嗟に聞かれると、つい学生時代に戻ってトンカツなどを注文してしまう自分がおかしい。
先日の「もり川食堂」でもトンカツ定食だった。学生時代、東京大学の学食でトンカツ定食を頼み、思わず「負けました!」と唸り、向かいの女子学生から「こんな大きいトンカツ、食べられない」と半分貰ってしまい、1.5人前のトンカツに味をしめてからというもの、学生に囲まれての食事では、ついつい“トンカツ定食”などと口走ってしまう。
 
学生相手の食堂って、どうして良心的な質のものを、良心的な価格で提供できるのだろうか。
「オトボケ」のトンカツの大きさ、ご飯の盛りの良さ、清潔なオープンキッチンに恥じない揚げ油の質の良さに驚嘆する。こんな値段で、こんな商売ができるんだよなぁ、と改めて感心してしまう。サラリーマン相手のランチも見習って貰いたいものだ。
 
しかし、最近の学生はひっそりと食事をするんだなぁと静かな店内を見渡すと、何のことはない、皆、膝に漫画本を広げて読みふけりながら、黙々と食べているのだ。
そうか、ここではそれも許されるのかと、おじさんも読みかけの司馬遼太郎を取り出して、行儀の悪い男の群れに仲間入り。
考えてみたら、僕は25歳で結婚をしたから、その後数年以内に子作りをしていれば、ここにいる学生たちは息子の年頃なんだなぁと思う。20人の息子たちと1人のオヤジが、ひとつ屋根の下、行儀の悪い昼食をしている光景を思い浮かべたら妙におかしい。
その拍子に、今から30年近く前、滑り止めのつもりで受験して見事に滑った、早稲田大学文学部の日本史試験問題が近・現代史の難問揃いだった事を苦々しく思い出した。とほほ。

2002年 9月18日 水曜日

【路上の虹】

雨の歩道で虹を見る事がある。
 
子ども時代は、車やバイクがオイルを滴らせる事が多かったのか、もっと頻繁に見た記憶がある。
「綺麗だなぁ」と思って、写真に撮ったりするのだが、こういう写真を“綺麗”と言ってくれる友人はさほど多くない。

デジタルカメラが高性能になる以前は、スライド用のポジ・フィルムで撮影する事が多く、我が家では“花”“草”“樹木”“空”“雲”などと分類整理していたのだが、僕の撮影した路上の拾い物は肩身が狭く、うち捨てられている事が多いので、専用バインダーに整理し“心象”などと名付けておいたら、妻に笑われてしまった。単なる“不潔”なゴミ拾いに過ぎないのだそうだ。
幼い頃、綺麗な“宝物”だと思って拾ってきた物を、母に、
「汚い物を拾ってくるんじゃない」
と、叱られたのによく似ている。
 
「何で、そんな写真を撮っているの?」
と、友人に尋ねられ、
「綺麗だから」
と、答えると、
「わかんないなぁ、当たり前の物理現象に過ぎない物が、どうして綺麗なんだ?」
などと呆れられる事もある。
 
こういう物の感じ方というのも僕は嫌いではない。
“路上の虹”をそういう物の見方で説明すると、こんな感じかな。
路上に油が落ちていて、雨で路面が濡れる。水は油より重いので油の下に浸潤し、水の上に油の被膜が出来る。油の被膜というのはとても薄いのだけれど、光の実体は波であり、その波長は数百nm(ナノメートル)=数10万分の1cmと極小なので、油の表面で反射した光と、水の表面で反射した光が、被膜の厚さ分だけずれて再度一緒になり、僕たちの目に届く時、波の山同士だと増幅し、山と谷だったりすると打ち消し合って干渉するため、異なった波長の光として分光(スペクトラムspectrum)され、虹色に見えるのだと。
 
中学校の授業以降、物理・化学の授業についていけなかった僕に出来る説明はこれくらいだ。
だが、水の上に広がった油の被膜の厚さが均一なら、このような恣意的な虹のパターンは描かず、もっとリニアな虹が見えるはずなのだ。どうしてこのようなパターンを描いて虹が現出するのかの説明が僕には出来ない。
 
個人的技量で不可知な領域に出逢うと“綺麗”と言って逃げる態度を嫌う心根もよくわかる。
“不潔”と拒否する人もいれば、“物理現象”と切り捨てる人もいる。そして僕のように“綺麗”の領域に逃げる者もいて、その総体が人間それぞれ、“美”の感じ方の違いというスペクトラムになっているのが面白い。
 
※写真は9/17正午前、青山通りの路上にて。

2002年 9月19日 木曜日

【赤坂奇遇散歩】

人は時として“奇遇”に驚いたりするけれど、よく考えれば“必然性”の所産だったりする。
硬直した日々の中で、“偶然性”に時めいていたいというのも、人間の欲求のひとつであり、こと人の生き死にの問題が心をよぎったりすると、“奇遇”を捏造したくなる心の動きが、人間にはあるのだろう。
 
2002年 9月11日 水曜日【捨て猫散歩】などと題して、仕事で出掛けた赤坂界隈散歩の模様を日記に書いてみた。
青山通りからカナダ大使館脇の坂道「新坂」をカンボジア王国大使館方面に下ったのだが、曖昧な心の中の“感覚地図”で、あの辺りは乃木希典邸に近いのではないかという予感があり、確認のため、仕事先の脇道を通ってその界隈を再度散歩してみた。
 
岡本綺堂著『半七捕物帖』にも赤坂が登場する。
新聞記者の岡本綺堂が、明治時代になって、江戸の目明かしの生き残りとして赤坂で隠居している半七老人を訪ね、毎回昔話を聞くという設定で、そのオムニバスは綴られるのだ。
数年前、NHKでドラマ化され21回分収録されたにもかかわらず、18回しか放映されないという、視聴者を馬鹿にした企画があったのだが、ドラマ自体の出来は素晴らしく、エンディングで半七が現代の東京に現れるモノクロシーンが美しく、そのテーマに使われた奥田民生『陽』という曲が、僕は大好きだった。
仕事で足繁く赤坂に通う日々が続き、ふと懐かしく思い出されたので、ベルビー赤坂内の「WAVE」という店でアルバムを購入してみた。


『陽』を口ずさみながら裏通りを歩く。
“半七”というくらいだから、半七老人は七男坊だったのかなぁ、どの辺に住んでいたのかなぁ、などと考えながら路地を折れていくと、車の通行の多い坂道に出た。
右折して上っていくと桜の古木があり、「乃木会館」「乃木神社」が現れた。
やはり乃木希典邸に近かったのである(当時の住所は新坂町)。
 
現存する乃木邸を見学するが、まさに「殉死記念館」のようだ。
殉死直前に撮影したご夫妻の写真を見ていたら、妙に夫人の表情が気になり、陰々滅々としてきたので乃木邸をあとにし、喫茶店に入り、司馬遼太郎著『殉死』文春文庫を一気に読んでみた。
乃木夫人の旧姓は湯地シチ、薩摩藩士の娘で姉がお六なので七番目の娘だったらしい。江戸では「お七」の名の犯罪者がいたとの事で、希典から自身の号「静堂」より一字とって静子の名を貰っている。
 
明治天皇崩御で元号が大正と改まったその年の9月11日、この邸宅から出た希典は皇居に向かい、当時12歳だった裕仁親王に別れを告げ、その翌々日9月13日、大喪の日に自刃している。妻静子は突然その15分前に、夫と死をともにする決断を迫られたらしい。希典64歳、静子54歳。
静子の辞世。
 
いでまして帰ります日のなしと聞く 今日のみゆきにあふぞ悲しき


乃木邸前から坂を上ると青山ツインタワー脇に出て、散歩の振り出しに戻った。
交差点で信号待ちをしていると、賑やかに音楽をならして、大型トラックを改造した宣伝カーが目の前を左折して行く。
「奥田民生かぁ、これもまた“奇遇”だなぁ」
と、カメラのシャッターを切る。

2002年 9月20日 金曜日

【カラスにさよなら】

子どもの頃から不思議に思っていた事の一つに、たくさんのスズメ、カラス、ハトなどが空を飛び交う姿を見るのに、どうして地上に落ちて死んでいる姿を見る事が少ないのか、というのがあった。まるで、空を飛びながら死に、そのまま雲の彼方に召されていくように。
 
小学生時代、自動車好きのおじさんに連れられて、「野田のサギ山」という場所に何度か連れて行かれた。
JR浦和駅から8kmほど離れた旧日光御成街道沿いに、その場所はあった。
当時、特別天然記念物に指定されていた「野田のサギ山」の歴史は古く、1720-1730年頃(享保年間)に成立したという。江戸時代、近くにある見沼が開墾されて見沼田んぼという水田となったため、この地がサギの営巣に適していたらしい。
僕が訪れた昭和三十年代は観光地化され、展望塔が建ち、絵葉書が売られ、餌の泥鰌やザリガニも売られていた。
鬱蒼とした竹林におびただしい数のサギが営巣する姿は壮観ではあったのだが、僕は、
「サギって、嫌な鳥だなぁ」
と、思ったのを忘れられないでいる。
竹林の根元、あちらこちらに白い固まりがあり、サギが地上に落ちて死んでいたからだ。
人目につく場所で死んでいる鳥を数多く見たのは、これが最初で最後である。
 
鳥が地上に落ちて死んでいる姿を見る事が少ない理由は、地上には実に手早く作業を済ませる、自然の葬儀屋たちがおり、そういう自然の仕組みの行き届いた場所を選んで、鳥たちが死ぬからに違いないと、いつからか思うようになったのだが、真偽のほどはわからない。
 
「野田のサギ山」には、1955年(昭和30年)頃、親鳥だけで約1万羽、雛を含めるとと3万羽ものサギが生息していたが、1971年頃に数百羽を確認して以降、1972年からは全く姿を見なくなってしまったという。
その理由としては、水田が減少した事、サギの死体を解剖すると肝臓から16.9ppmという健康体の10倍近い高濃度の水銀が検出されるほどの農薬散布が広まったのがあげられるという。
 
「そうかぁ、サギがたくさん死んでいたのも一種の公害だったのかもしれないなぁ」と思う一方、人前に死体を曝さなければならないほど、観光地化による「自然の葬儀屋」の減少も、サギ消滅に拍車をかけていたように思えてならない。
“生きにくい場所”になるとともに“死ににくい場所”にも、なっていたのではないかと。


道を歩いていたら、ヨタヨタと歩くだけで、飛べなくなったカラスと出逢った。
怪我をしている風もなく、全身黒ずくめなので顔色をうかがうのは至難の業だけれど、年老いたか、重い病に罹っているのかもしれない。
近づいてみると、
「俺も長くないよ」
と、諦め顔で逃げようとしない。
「この辺も“死ににくい場所”だけど、良い旅を」
と、後ろ髪を引かれながらカラスにお別れを言う。

追記:
サイトにアップしてカラスを眺めていたら、羽の形状や表情を見ていると、飛べるようになる前に巣から転がり落ちた幼鳥のような気もしてきた。どうなのだろう。今になって妙に気になる。

2002年 9月21日 土曜日

【中秋の名月】

東京オリンピックの年は、まだ10歳だったので、四年前にローマで見上げた月を、今日、日本の空で見る事の感慨なんて歌われても、全く理解不能だった。
 
義母が入院中の病室で見ているはずの、この夜の名月を、来年はどんな感慨で見るのかなぁと思える歳と境遇になってきた事に気づき、急遽東南向きのベランダに三脚を据えて撮影してみた。

35mmフィルムに換算して、1000mm近い焦点距離を持つデジカメなのだが、焦点を無限遠に固定する機能が見あたらない。無いとしたら欠陥カメラだなぁ。おまけに、露出補正の操作方法を忘れてしまったし、月は雲間に見え隠れしてシャッターチャンスを逸しそうだし、月見酒が少し回ってきたりしてさんざんなので、めったやたらに連写しておいた。
 
何だか、沈鬱な中秋の名月だけど、これはこれで思い出の一枚になるかもしれない。
 
※9/21、午後7時55分撮影。

2002年 9月22日 日曜日

【待つ事と、待たれる事】

スーパーマーケットの店頭などで、ガードレールに引き綱を結わえ付けられて、飼い主の帰りを待っている犬の姿を見るのが楽しい。

この世の終わりが来たかのように鼻声を出し鳴き叫ぶ姿は「吠え面」だし、顔を突き出して店内の飼い主を窺う姿は「首を長くして待つ」の言葉通りで、滑稽ですらある。
これほどまで、飼い主を恋い慕う姿が犬好きにはたまらないのだが、残念ながら飼い主というのは、自分に対する愛犬の忠節と恋慕の姿を見る事が出来ない。店内から外に出て、「今泣いたカラスがもう笑った」ように、身体をくねらせて尻尾を振る愛犬を見る程度しか、普通は体験できないのである。
 
僕の母は、そういう「自分が待たれている」姿を見たい人であり、幼い頃は物陰に隠れて、半べそをかきながら母を捜す僕の姿を見て満足していたようだし、犬を飼うようになってからは、やはり隠れて自分を捜す愛犬の姿を見るのが好きなようだ。自分に対する「忠節と恋慕の姿」を見て安心したい人なのだ。
 
嫌な性格だなぁと思ったりするのだが、血は争えないと言うか、僕も同様の感覚に喜ぶ事が多い。
人と待ち合わせして待たせるのが嫌いなので、約束の時間よりかなり早く待ち合わせ場所に着いてしまう事が多い。
もう待ち合わせ時間に遅れる事はないと思うと安心し、周辺を散歩したり買い物したりし、定刻に待ち合わせ場所に行く事になる。そして、待ち合わせ場所で、首を長くして僕を捜している友の姿を見つけたりすると、異性・同性に限らず嬉しかったりするのだ。
思いがけない方角から近づいて、びっくりさせてやろうと近づく時の僕の顔は、きっと母の笑顔によく似ているに違いない。
 
だが、定刻に待ち合わせ場所に着いても友の姿が見えず、遅れてくるのかなぁと首を長くして改札口に目をこらす時、横手から友が近づいてきてびっくりさせられる事も多い。
そんな時の、友の笑顔も母のそれに酷似しているので、誰でも他人が自分を「首を長くして待つ」姿を見るのが好きなのかもしれない。
 
さもなくば、僕も母も、そして友の多くも、きっと犬型人間なのだ

2002年 9月23日 月曜日

【尋常の故郷に非ざるや】

子どもの頃から神社という場所が好きだった。
 
難しい漢字の連続で書かれた「祭神××××××××××××之命」などという縁起を読んで、そこに本当にその神様がいるなどと信じた事はなかったけれど、何か別の「神様」に守られているようで、居心地が良かったのだ。
 
江戸時代、全国の主要街道に一里塚という道程の目安が設置されるように定められたのは、1604(慶長9)年2月の事だ。
旧日光御成道(岩槻街道)、北区西ヶ原に都内で唯一、当時の場所にそのまま保存された一里塚がある。
日本橋を起点とし、現在の本郷通りを進むと最初の一里塚が本郷追分、その次の一里塚が「西ヶ原一里塚」だったのである。
 
小学生時代、北区王子に住み、母親が駒込で働いていたので、路面電車に乗り、何度この一里塚脇を通ったかしれない。
大正時代、その路面電車が敷設される時、この一里塚とそこに植えられていた榎の大木(通称「二本榎」)が路線上にあたるという事で撤去されそうになった時、住民の激しい反対運動が起こった。文化財保護の住民運動に「文化人」が加わった先例となったそうで、参加者に渋沢栄一の名が見える。

武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子として生まれた渋沢栄一の生涯を知ると仰天する。
司馬遼太郎『最後の将軍―徳川慶喜―』などに詳しいが、幕末、彼も江戸に上るたびにこの一里塚を通ったに違いなく、大正時代になって往時の思い出が消えゆくのを見るに忍びなかった事は、想像に難くない。
 
保存運動に成功し、江戸城虎ノ門石垣の石を運んできて刻まれた「二本榎保存之碑」の碑文は、名文家として知られた歴史学者三上参次による。
「幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知る人のあり之を二本榎と云ふ」
このあと、文化遺産としていかに尊いかを述べるのだが、「行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知る」という過度に理論的でない部分が僕は好きだ。
神社の境内で遊ぶ時、「尋常の森や空き地に非ざる」風情が大好きだったのだ。
 
郷里、静岡県清水市に帰省する時、破壊的に変貌を強いられる町を歩くと、神社や旧市街についつい足が向かってしまう。
「尋常の故郷に非ざるや」
故郷の友から耳を覆いたくなるような知らせが届くたびに、その思いが強い。

※二本榎は枯れて現存しない。写真、モノクロは大正時代の一里塚。カラー、右手の鳥居は七社神社。ここの境内もなかなか良い。

2002年 9月24日 火曜日

【苦い思い出】

遙か祖先の人々は、食べられる物と食べられない物を、自らの舌で確かめ、知識として蓄え、伝承してくれたのだろう。
 
子孫にあたる僕は、物心つく頃には、甘い・苦い・酸っぱい、食べられる・食べられない、大方の知識を親から授かり、舌で確かめなくても口に入れて良い物と悪い物の判断はつくようになっていた。
それでも、奇妙な物に対する苦みの記憶があるのは、ひとえに口が卑しかったからだろうか。

連休最終日、六義園界わいを散歩していたら、懐かしい苦みの記憶に再会した。
郷里、静岡県清水市を流れる巴川の土手にも、この季節になると曼珠沙華がたくさん咲いていた。男女にかかわらず、花を見ると摘みたくなるようで、両手いっぱい摘んだりした。飽きれば捨ててしまうのだが、真っ赤な曼珠沙華を競うように摘み、胸に抱えた友たちの姿は、写真で残しておけば、これぞ日本の彼岸であると言えるほど、思い出の中で切なく美しい。
 
この曼珠沙華を手折った手を舐めると苦いのである。
「曼珠沙華を摘んだ手は苦いんだよ」
などと友に話しても、きょとんとされる事が多い。誰でも知っている常識かと思っていたが、曼珠沙華を摘んだ手を舐めるような人間は、そうそう多くないらしい。
 
都心でテントウムシを見るのも久しぶりだ。
花壇にナナホシテントウがとまっていたので、カメラのシャッターを切る。
テントウムシというのはすべすべしていて捕まえにくい。力を入れすぎないようにそっとつまむのだが、指の先をちょっと舐めてやると上手に捕らえる事が出来る。この時、テントウムシを触った手もまた苦いのである。
 
「テントウムシを触ると手が苦いんだぜ」
などと言い、仲間が次々にテントウムシをつまみ、
「ほんとだ、苦〜い!」
などと確かめ合った日々が懐かしい。

このような、なんの役にも立たない苦みの記憶などという物は、子孫に知識として伝えられていく物でもないだろうから、インターネットで「舐めると苦い大百科」などというページを作ったら馬鹿馬鹿しくて楽しいかとも思うのだが、時間もないし、何より、幼い頃ほどナンセンスな好奇心を持てない年齢になっていることが、ちょっと寂しく、ほろ苦かったりする。

2002年 9月25日 水曜日

【窮屈に暮らす】

小学校を卒業するまでひと間のアパート暮らしをしていたので窮屈が苦痛ではなく、多少窮屈な暮らしの方が奇妙に心地よかったりする。
 
仕事で板橋区、都営三田線志村坂上駅近くの凸版印刷へ。
志村坂上駅から地上に出た国道17号線ぞいに一里塚が保存されている。
日本橋を起点にする旧中山道、「本郷森川宿」「板橋宿平尾」に続く三番目の一里塚で、「志村一里塚」という。都内で現存する一里塚は「西ヶ原一里塚」とここだけだという。
 
塚の大きさにも定めがあったらしく、道の両側に五間(約9メートル)四方、高さ一丈(約3メートル)を二つ向かい合わせに築いたという。「西ヶ原一里塚」は唯一、元有った場所に保存された物とあったから、ここのは国道17号線整備の際に多少位置をずらされたのかもしれない。

●マウスを重ねると画像が替ります。

激しく車が行き交う殺伐とした幹線道路沿いに緑の木立を見ると心が安まるが、一里塚があるおかげで、周囲の環境はきわめて狭苦しい。
国道17号線と交わる一般道との交差点にあたるため、歩道橋が設置されているのだが、一里塚脇の僅かな歩道を利用して設置したため、非常に狭苦しい作りになっている。
がっちりした歩道橋が作れなかったせいか、非常に脆弱で、橋上に立っているとゆらゆら揺れて気持ちが悪い。歩道橋を支える柱と階段部分では、歩道がほとんど消失し、バリア・フリーの街作りとしては最悪のケースだと思われる。
 
それでも、一里塚脇には風情ある旧商家も残っており、都市景観保存に関する賞も貰っているらしい。
近代的合理性の都市開発、情念と宗教の景観保存、住民主体のバリア・フリーの街作り、様々な思いと事情の折り重なった息苦しさと、その折り合いの付け方を考えるための「一里塚」として、こういう場所が保存されるのは悪くない。

2002年 9月26日 木曜日

【嗜好品の王様】

ほとんど病院のお世話にならないので、たまに出掛けると楽しい事もある。
 
「調剤薬局で痛み止めが出ますから」
などと言われる。そうかそうか、最近は調剤薬局で薬を貰うシステムになってたんだなぁ、などと地図を見ながら訪れてみる。
「初めてご利用の方にアンケートをお願いしています」
などと言われ、ソファに座って記入してみる。
なんの事はない、「過去重い病気をした事がありますか?」「現在病院に通われていますか?」「服用中の薬はありますか?」など、ありがちな質問ばかりなのだが、その中に「嗜好品についてお尋ねします」という項目があって、その内容にちょっとビックリした。
 
「お酒」、これはもちろん「○」である。「煙草」これも「○」。
そもそも、友とお酒を飲む時、喫煙は欠かせないので、わけて質問されるとヘンな気もする。「お酒」は飲むけど「煙草」は吸わない、「煙草」は吸うけど「お酒」は飲まない、などという友人が身近にいないのだ。なんか、片方だけだと身体に悪いのではないか、などという気までしてしまう。
続いて「コーヒー・紅茶」、これも「○」で、毎日たくさん飲む事が健康法のような気さえしているのである。
 
酒・煙草・コーヒー・紅茶で一般的な嗜好品は出そろった気がするのだが、4番目になぜか「たまご」という項目があって驚いた。子どもの頃から価格が上がらず、どんどん品質が劣化している奇妙な食品だけれど、毎日一個くらいは必ず食べるし、加工食品に使われている事も多いので当然「○」である。
結局、全項目「○」の「嗜好品の王様」のような回答になってしまった。

薬を受け取り、アンケートを手渡し、お金を払ってそれでお終いなのだが、どうしても気になって、白衣の女性に聞いてみた。
「あのぉー、ちょっと伺いますが“たまご”って、嗜好品なんですか〜?」
後ろで調剤中の男性がニヤニヤ笑っている。
「ええ、毎日一パック十個以上召し上がる方もおられますので」
げげっ、それくらい食べなければ、「たまご」の項目に「○」を付けてはいけなかったんだ〜と悔やまれたし、「たまご男」になったようで、かなり恥ずかしい。
 
しこう‐ひん【嗜好品】
栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物。酒・茶・コーヒー・タバコの類。(広辞苑第五版より)

 
広辞苑の字義から言って、「たまご=嗜好品」というのは、やっぱりヘンじゃないかなぁ。
無論、最近のたまごは栄養が無くて、一日10個以上毎日食べ続けると、病気になるというのなら話は別だけど、どうなんだろう。妙に「たまご」が気になってきた。調剤薬局の人は、何か情報を掴んでいるのだろうか?

「あなたの健康を損なうおそれがありますので食べすぎに注意しましょう。喫卵マナーをまもりましょう」

などと、たまごパックに表示される時代が来るのかもしれないぞ。

2002年 9月27日 金曜日

【前後左右の陥穽】

電気保温ポットのデザインは「ヘン」だと思う。
夫婦二人暮らしで気づかない「ヘン」が、年寄りとの親子四人暮らしになったら見えてきた。
 
最近の電気製品のデザインは同様の傾向があるようで、電子炊飯ジャーなどに顕著なのだけれど、懐かしのテレビアニメ「少年ジェッター」が乗っていた“流星号”のようなデザインが施されている。
「あーあ、自動車メーカーでスポーツカーのデザインをしたかったなぁ」
などと考えている工業デザイナーが、気の進まない家電製品デザインをしているうちに、ボォーっと電気保温ポットに乗って憧れの世界を疾走しているうち、自動車のような奇妙奇天烈な意匠を思いついてしまうのかもしれない。その操縦席を確保するために、人は前後左右を勝手に創造してしまうのだ。

電気保温ポットに前後左右はない。
「注ぎ口のある側が前である」などという思いこみからデザイン作業に入り、前面・側面・背面・上面などと作業を進めるのがおかしいのだ。
電気保温ポットというのは灯台のようなものである。室内どこからも、通電中なのか、水はちゃんと入っているか、沸かし中なのか、保温中なのか、が確認できなければならない。そして、注ぎ口は、使用者が右利きか左利きかを含む、それぞれの身体機能の差に応じて、全方向自在に変更可能であるべきだと思う。
 
なんで電気保温ポットなどに固執するかというと、家庭内で電気保温ポットの占める役割が、群を抜いて高く、一人暮らし高齢者の安否確認に、インターネット接続した電気保温ポットが役に立つかもしれないなどという取り組みもあるからだ。
 
机上というのは思い込みを生みやすい。
机もまた操縦席だからだ。「前後左右」を脱却したデザインは、多くの他人と空間を共有する暮らしの中からこそ、生まれ得るものなのかもしれず、日本の最近のデザイナーに最も欠け始めているのが、その体験なのかもしれない。

2002年 9月28日 土曜日

【長谷川】

JR 両国駅改札口には、大相撲力士優勝額が展示されている。
 
定期的に掛け替えられるらしく、なんと懐かしの関脇長谷川に再会した。
本名長谷川勝敏、史上初めて本名で幕内優勝を飾った力士である。
昭和19年 7月20日、北海道空知郡(出生地はロシア連邦サハリン州)出身。
炭坑夫であった父に相撲の指導を受け、幼い頃から頭角を現し、半ば騙されるようにして佐渡ヶ嶽部屋入門させられたが、昭和35年 3月初土俵、昭和40年 1月新入幕、昭和44年 1月関脇に昇進している。

正攻法の四つ相撲で、相手に胸を出してしまうことが多く、20場所以上関脇をつとめたが大関に昇進することは無かった。特に昭和47年 3月東関脇で優勝した時は8勝、10勝、12勝と大関に推挙されても良い成績だったが、上位に4大関がいたため見送られている。
 
僕はこの渋い関脇が大好きで、桟敷から「長谷川っ! 実力大関っ!」の掛け声がかかるたびに、「そうだ、長谷川こそ実力の大関だ!」とテレビの前で声援を送ったものだった。
下位に取りこぼすくせに、上位力士に強いのも、僕の好みだった。
 
長谷川が金星を獲得した、対戦横綱は以下の通り。
栃ノ海2、佐田の山2、柏戸2、北の富士2、輪島。
昭和51年 1月、場所10日目に史上初の幕内連続出場1000回を達成。
昭和51年 5月に引退し、年寄秀ノ山を襲名。
 
横綱大関まで上り詰めた力士より、頂点が定かでない力士の方が、熱いものが胸に込み上げるほど懐かしく、思い出深いのは何故だろう。
引退時の長谷川の言葉。
「自分では大関に成ったつもりでいる」

2002年 9月29日 日曜日

【本田宗一郎と井深大の「時代」】

『本田宗一郎と井深大−夢と創造−』展を見に行く。
 
会社員時代の後輩、福岡在住の友人が、出張で上京するというので、わずかな時間だけご一緒した。
戦後の焼け跡に建てた町工場から世界へ羽ばたいた日本を代表する「創業者」二人の回顧展だ。
 
本田さんと井深さん、それぞれが創業した「HONDA」と「SONY」の歴史には程々の知識があるので、今この時期なぜ「町工場から世界へ」に着目するのかを、「時代背景」に焦点を当てて掘り下げ、時代そのものに旅するような企画を期待していたのだが、少々期待外れ。
最先端技術を生かした2足歩行ロボットを最後に展示して、「そして未来へ」みたいに締めくくりたい気持ちはわかるけれど、かえって内容を希薄にしてしまっているような気がしてならなかった。

友人とは、互いに電気製品にも自動車にも縁の深い企業に勤めていたので、展示を見ながら咲かせる昔話の中に濃密によみがえる、時代の記憶の方が楽しい。
「つい先日のようですよね」
そう、静岡県民が愛着を込めて「ポンポン」と呼んだ、原動機付き自転車が走り回っていた町が今でも目に浮かぶし、生まれて初めて買ってもらったトランジスタラジオ「ソリッドステート・イレブン」で、雑音の中、都会の断片をまさぐった「ラジオの日々」が懐かしい。
 
時代の必然を読み取る知恵と、偶然を捕らえて放さない集中力、そして追い風を信じ続ける努力を生んだ「時代」。先人が生きた「時代」を読み解き、今の「時代」を読み解くための博物館は、今を生きる者の、心の中にこそあるのかもしれない。新しい「創意」は新しい「時代」の細部にのみ指し示されているに違いないと、展示を見ながら自分勝手な想念に遊べる展覧会というのも珍しく、それはそれで貴重なのかもしれない。
 
『本田宗一郎と井深大−夢と創造−』展
江戸東京博物館 1階 企画展示室
平成14年9月21日(土)〜12月8日(日)

2002年 9月30日 月曜日

【甘さと含羞】

僕は大林宣彦の映画が好きだ。
 
大林宣彦の作品を通底する“センチメンタリズム”も“リリシズム”も大好きなのだけれど、大方の作品に共通して登場する特撮シーンになると、気恥ずかしくて、席に腰を据えていることの居心地悪さを感じることが多かった。
大林作品を「甘い」と批評するとき、僕にとっての「甘さ」は“センチメンタリズム”や“リリシズム”ではなく、“特撮シーンの陳腐さ”であることが多く、それが映画全体にとって“破壊的”とも思える執拗さで、多くの作品に繰り返し挿入されることを奇異に感じたものだ。

静岡県清水市に住む母親が、今でも使用している、いかにも清水らしい言い回しで、「遊ばせてもらう」という言葉がある。
「やい、上がって遊んできなぁ」
と言う時のニュアンスは、標準語なら、
「ねぇ、遠慮なさらずにお上がりください」
ということになり、標準語の
「座敷に上げていただいたうえに、もてなしを受けてしまいました」
は、清水の言葉で言えば、
「上がって遊ばせてもらったっけよ」
という表現になる。
僕はこの「遊ばせてもらう」という言葉が大好きなのだ。
 
大林宣彦『淀川長治物語 神戸篇 サイナラ』は良かった。
永遠の映画“鑑賞”少年淀川長治にとって、映画とは見せ物小屋の“のぞきからくり”そのものであり、この映画の鍵になっている。永遠の映画“制作”少年大林宣彦にとってもまた映画は“のぞきからくり”にすぎず、その“いかがわしさ”こそが汲めども尽きぬ魅力であり、哀切なほどの表現衝動であり、容易に人生観にも敷衍可能な“魔”なのかもしれない。
 
四十歳代も終わりに近づいてくると、膨大な予算をかけた洋画の迫真の映像が“くそリアリティ”に見えて気恥ずかしく、しょせん映画は“のぞきからくり”なんだよと、夢を解体してくれる仕掛けを持った映画の方が心地よく思えてきた。
観覧車のように上って行く時は心高揚し、下って行く時は心寂しく恥ずかしかったりする仕掛けこそが、健全な表現のようにも思え、大林作品の“特撮シーンの陳腐さ”が意味するものは、“センチメンタリズム”や“リリシズム”に現を抜かす大の大人の、せめてもの“含羞”なのかもしれない。
 
「映画を見て遊ばせてもらったっけよ」
と、映画館を出て、逃げ出しようの無いリアルな現実に、しっかりした足取りで帰って行ける映画が好きになってきた。


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