電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2002年11月 1日 金曜日

【植物の力】

植物の力というのは凄い。
 
タケノコが地中から生え、寺の本堂内に、床板を突き破って生えたなどと言うニュースを聞くと驚く。
竹が伸びるスピードを見れば、驚くには当たらないような気もするけれど、タケノコの先端、成長点がどうして分厚い床板を突き破るのか、顕微鏡レベルの世界での出来事に興味が尽きない。


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蔦というのも凄い。
伸びるスピードも凄いけれど、石や金属、硝子面にさえ、蔓に規則正しく生えた根のような物を食い込ませているのに驚く。物理的な力ではなく、科学的な力がなければ、柔らかな成長点が金属や硝子に食い込むことは無理なような気がしてならない。
 
更地や廃屋を、あっという間に覆い尽くす植物の力強さに、人間の営みのひ弱さを思い知らされる。
ちょっと前まで人の暮らしが営まれていた家が人手に渡り、数ヶ月たったら蔦が玄関の扉まで覆い尽くし、このまま放置すれば、開かずの扉になる。人類が亡んだ時、後始末をする植物が人の営為を覆い尽くすのは、あっという間の出来事に違いない。
それ程に植物は力強い。

2002年11月 2日 土曜日

【真夜中のカウボーイ】

逃したチャンスなどというものは実在せず、いつか来るチャンスなどという物もあてにはならない。
 
今目の前にあって手を伸ばせば掴める物こそ確かで、チャンスと呼ぶに相応しい。
義父の体調が安定し、3ヶ月ぶりに清水の実母のメンテナンスができそうなので、前日に即決して帰省することにした。
しかし、毎朝の検温で義父が異常な発熱などという事態も有り得るので、出発間際まで、掌から抜け落ちるかも知れない“チャンス”にハラハラドキドキ。
 
意を決して、バッグに着替えとパソコンを詰め込んで出発。
昔なら、東京駅から東海道本線に飛び乗れば、即座に旅の人となり、すべてのしがらみから自由になれる気がしたものだが、新幹線というのはそういう風にできていない。
携帯電話の呼び出し音が鳴るたびに、デッキに出て行く会社員もいるし、社内放送の名指しで電話室に呼び出される人もいる。


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神奈川県内の沿線には田園風景がまだ残っていて、稲刈り後の田んぼが見えたりすると、旅愁がかき立てられるのだが、他人の携帯電話の呼び出し音が鳴るたびにドキッとして現実に引き戻される。現代の高速輸送機関には、個人的な旅愁など縁がないのだろう。
 
静岡駅で下車し、上り方面に3駅分引き返すために、在来線のホームへ向かう。
11時50分、静岡発興津行き。僅か4駅間を走るローカル線だ。
既に乗り込んで発車待ちの人たちののどかさ。
地域には地域のストレスがいっぱいあるのだろうが、ヒステリックな都会暮らしに慣れた者から見れば、常夏の保養地に向かう列車のようだ。この列車なら、テンガロンハットにウエスタンシャツ、乗馬用ブーツで乗り込んでも恥ずかしくない気がする。真夜中からの脱出はここから始まる。

2002年11月 3日 日曜日

【愛犬の効用】

愛玩動物と暮らすというのは便利なものだ。
 
何歳になっても母親は母親であり、息子は息子のままである。
母親が二十歳代の若者であった時も、七十歳を過ぎて背中が丸くなったと感じる今でも、24歳違いの母子であることにかわりはない。
実家に向かう道を歩きながら、今頃息子の帰りを待ちわびて、ワクワク、ソワソワしているんだろうなぁと苦笑いする心根には、鏡に映った息子自身のワクワク、ソワソワが有るのに違いない。


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玄関を開け、「ただいま」を言う時、気恥ずかしさという親子の空隙を埋めるように、タイミング良く間を取り持ってくれるのは、母の愛犬である。
千切れるほどに尻尾を振り、身体をくねらせ、興奮に唇をめくれ上がらせ、部屋中を駆け回って感激を表現する。
母は、
「ほーら、イビちゃん、お兄ちゃんが帰ってきて嬉しいウレシイ!」
本当にウレシイのは母親なのだ。
 
荷物を置いて膝をつき、膝に身体をこすりつけて甘えるイビを撫でながら、
「よっ、元気か? 腰の調子はどうだ?」
本当に気になっているのは、最近ギックリ腰になったという母の調子なのだ。
 
「イビちゃん、少し良くなったもんねー。大分元気になりましたよー」
犬に憑依したつもりで、自分の体調を代弁させているのだろう。
 
「そうかそうか、寒くなるからしっかり治しとかなくちゃ駄目だぞー」
犬に語りかけなければ、母親に面と向かって言うのは恥ずかしい。
 
本当は何の言葉も解さず、ただただ熱狂する愛犬イビを挟んで、母子の会話はしばし続く。

2002年11月 4日 月曜日

【携帯的別れ】

満員電車で立ったまま、器用に親指でメールを読み書きする若い女性を見る。
 
周囲の者に丸見えなのだが、一向に意に介する気配はない。
こちらも、他人のメールのやりとりなど興味ないのだが、郷里清水の電車内でメールを書いている女性がいて、画面がちらっと読めてしまった。
「中田浩二のカレンダー、超欲しいよね〜」
サッカーどころらしいメールで微笑ましいけど、エスパルスファンでなくてがっかり。
でも、なかなか健全な話題で、オジサンは安心。
 
東京駅に着き、JR山手線に乗り換えると、振り替え休日のせいか車内はがら空き。
向かいの席に座った少女が、バッグから携帯電話を取りだしメールチェックを始めたのだが、みるみる涙が浮かんできて頬にこぼれ落ちるので、慌ててハンカチで押さえている。妙に気になって、さりげなく(さりげなかったかなぁ)見ていると、気になるのか、しまい込んだ携帯電話を取りだし読み返しては泣いている。何か、とてつもなく気の毒な知らせでも届いたのだろうか。


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いや、若い世代に付き物、ありがちな男女の別れに違いないさ、などとオジサンは考えたかったりする。

泣くことはない、メールで女性に別れの通告をする男なんて大した奴じゃない。
去る者は去り、訪れる者は訪れる。もっといい男が現れるさ。別れる時は、ちゃんと肉声で話せるような。
いや待てよ、携帯電話で歩きながら「さよなら」が言えるような、お手軽な男も駄目だ。ちゃんと、目を見て肉声で別れの言葉を言えるような男にしなさい。
いやいや待てよ、女性が泣き出すような別れの言葉を、目を見て言えるような男も、それはそれでいかがわしいかもしれないぞ。
うん、永遠にさよならを言わない男でなくちゃ駄目だ。
できれば携帯電話を持っていない男を選びなさい。
 
そんな馬鹿な独り言を思い浮かべ、オジサンは帰省中だけ待ち受けにしている携帯電話のスイッチを切り、駒込駅で下車する。
 
※写真は、新宿駅付近でロケ中、清水市草薙出身の柴田恭平さん。

2002年11月 5日 火曜日

【富岳借景……1】

『富岳三十六景』の初版発売は1831(天保二)年というから、なんと葛飾北斎72歳の時。江戸の庶民に大変な人気を博し、追加の10点を加えて全46点の構成である。
一方『富岳百景』は、1939(昭和14)年、雑誌『文体』に2ヶ月にわたって掲載された太宰治の短編である。1909年6月生まれだから20歳代最後の作品だ。
 
「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。」(太宰治『富岳百景』より)
 
かつて東京は望岳都と呼ばれ、遠くの山々がよく見える美しい街だったという。
太宰が生きた時代、東京の木造アパートから、富士山が見えるなどというのも珍しいことではなかったのだろう。東京都内の富士見坂から富士山が見えなくなったなどという話題も聞くから、都心から富士山を望むのは容易ではない。
 
だが地上10階建て程度のマンションやオフィスビルに登ると、21世紀の東京でも富士山がよく見える。
木枯らし吹く東京の街を歩き、ここぞとばかり狙いをつけて登ってみると様々な表情の富士山が見えて楽しい。僅か数度の角度差で、前景が異なると、こんなに違った様相になるのかと驚くことも多い。

25メートルほど仕事場から離れた出版社に、請求書を出しに行くついでに7階のエレベーターホールから身を乗り出したら、やっぱり富士山が見えた。
あのビルは白山通り沿いかしら、建築中のビルが眺望を遮る高さにならなければいいな、六義園の木々もすっかり色づき始めたな、などと富士山が背景にあると、妙にゆったりと落ち着いて、普段気にもとめない景観に心が動くのが不思議なのである。
 
「老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」(太宰治『富岳百景』より)

 
そう、富士山には都市の借景もよく似合う。
 
※小さい写真は葛飾北斎富岳三十六景『駿州江尻』(清水)、大きい写真は文京区本駒込、株式会社日本文化科学社からの富士山。

2002年11月 6日 水曜日

【剥がしたい】

友人のイラストレーター兼編集者はシールを貼るのが大好き。
新しいものを買ってシールを貼るのが楽しそう。シールを貼って初めて自分の所有物になった気がするのかも知れない。

僕はというと、シールを剥がすのが好きで、新しいものを買ってシールが貼られていると剥がさないと気が済まない。最近の電気製品は、そのまま店頭陳列できるように、機能をうたった、けばけばしいシールがぺたぺたと貼られているのだが、開封したらすべて剥がしてしまう。
煙草を買って使い捨てライターを貰うと、「対人保険責任保証付」というシールが貼られているのだが、これも剥がさないとポケットにしまう気にならない。
 
母親はシールを剥がさない人で、電気湯沸かしポットに「再沸騰・カルキ抜き付き」などというシールが貼ってあっても、そのまま使い続けている。電気器具の表示板のアクリル部分に、傷防止の透明シールが貼られているのだが、あれも剥がさないで使っている。剥がさない人から見れば、僕のような「剥がしたい」人は、多分に神経症的な人間に見えるのかも知れない。
 
“貼ったまま”も“剥がす”も自由なシールはどうでもいいけれど、電気関係では剥がすと保証対象外になるシールがある。ハードディスクなどがそうだし、コストダウンにシールを使い、剥がすと分解したことになってしまい無償修理が受けられなくなる製品もある。剥がすなといわれたら剥がしたくなるけれど、絶対に我慢しなくてはならないのだ。
 
会社員時代、社内の健康診断で、血沈検査のために血を抜かれ、注射針の跡に肌色の小さな絆創膏を貼られたことがある。
「指で軽く揉んでいて下さい、すぐに剥がしちゃ駄目ですよ」
と言われ、剥がすなといわれると剥がしたくなるのだけれど、必死にこらえて指で押さえていたら、別の箇所から一筋、血が流れている。
おかしいなと思ったら、看護婦は小さなホクロの上に絆創膏を貼っていたのである。
剥がすなといわれても、意味の無いシールもあるのだ。

2002年11月 7日 木曜日

【剥がしたい……2】

前日の日記にお便りで言及していただき、剥がしてはいけないもののひとつ、かさぶたを剥がし、一生消えない傷跡が膝小僧に残っているなどと言う、重大な秘密を女性からお聞きしてしまった。
 
そう、“剥がしたい”タイプの人間はかさぶたが固まって自然に剥がれ落ちるまで待てない。
多少の痛みこそが治癒の快感であるかのように、早めに剥がしたくてたまらず、エイッと剥がすと真ん中あたりから血がにじみ、それでも懲りずに固まる前から次々に剥がして、傷跡を深くしてしまうのだ。
そういうタイプは男だけかと思ったら女性にもいるらしい。
 
学生時代、大学控え室でのつましいコンパが開かれたりすると、なけなしの金をはたき、無理をして輸入タバコなどを買ってポケットに忍ばせて行ったものだった。精一杯背伸びして大人ぶりたかったのだろう。僕は CAMEL が好きだった。

女学生も精一杯背伸びして、妖艶な大人の女を演じ、酔った振りをして、
「あら、CAMEL なんて吸ってるの? ラクダの匂いがしない?」
などと、軽口を叩き、笑みを浮かべて、上目遣いにしなを作ったりする。
上級生とはいえ、女性にからかわれるのは癪なので、
「あ、これ。太宰が心中未遂した時に吸ってたんだ」
「あら、そうだったかしら。小説に出てくるの?」
「うん、出てくる」
「何て言う作品?」
CAMEL に火をつけ、むせないように一服し、つまらなそうに呟く。
「『雌に就いて』だったかな」
 
「そのさきは、僕に言わせて呉れ。ちがったら、ちがった、と言って呉れたまえ。およその見当は、ついているつもりだ。君は部屋の縁側の籐椅子に腰をおろして、煙草をやる。煙草は、ふんぱつして、Camel だ。紅葉の山に夕日があたっている。しばらくして、女は風呂からあがって来る。縁側の欄干に手拭を、こうひろげて掛けるね。それから、君のうしろにそっと立って、君の眺めているその同じものを従順しく眺めている。君が美しいと思っているその気持をそのとおりに、汲んでいる。ながくて五分間だね。」
「いや、一分でたくさんだ。五分間じゃ、それっきり沈んで死んでしまう。」(太宰治『雌に就いて』より)

 
何で、こんなことを思い出したかというと、太宰も“剥がしたい”タイプの男であり、その快感のあまり、身体の何処かにかさぶたを繰り返し剥がしたことによる、傷跡があったように思えて仕方ないのだ。

※キャメルにメンソールやマイルドなんていうのが出てるんだなぁ。

2002年11月 8日 金曜日

【コロンブスの卵の背比べ】

子どもの頃「コロンブスの卵」の逸話を聞き、言わんとすることがよく分からなかった。
この歳になって考えても、卵の尻を潰して立てることをアメリカ大陸発見の創意工夫とたとえるなら、いかにもアメリカという国らしい強引な発見のされ方だなぁと思う程度の感慨しかない。

それより、子どもの頃、卓袱台の上に卵が立てられていて、叔父が、
「この卵をどうやって立てたと思う?」
と尋ね、ニコニコしながら教えてくれた種明かしの方が僕には感動的だった。
卓袱台の上に、食卓塩をほんのひとつまみ置き、その上に卵を乗せるといとも容易く直立する。その後、食卓塩と卵が接しているあたりをフッと吹くと余分な塩粒が飛び去り、卵が自立しているように見えるのである。
「卵をどけてごらん」
と言われてそうすると、卵はほんの数粒の塩粒に支えられて直立していたことが分かって感動した。
巨大なものでも数粒の塩で立てることができるのだが、その“関係”発見には100粒ほどの余分な塩が必要なのである。
 
直立した卵、尻を潰したものと塩粒を使ったもの、どちらの方法にも大差は無く、ドングリの背比べと笑えるだろうか。同じ幹に生を受け、同じ日に落下するドングリの大きさに違いがある理由をしみじみと類推する、非常にアメリカ的でない、日本の晩秋である。

2002年11月 9日 土曜日

【コロンブスの卵の背比べ……2】

卵は根気と努力で、何も使わずそのままで直立させることができる。
 
編集者のはまボーズ氏から【しりとり掲示板】にメッセージがあった。
「卵はそのままで,なんの細工もせずとも,直立させることができるよ。そうっと根気よく,重心が安定する一点を探るだけで,本当に立ちます。やってみたまえ (^^;」
そう、こういう人がいるから、日本人は楽しい。
機械では達成できない高精度加工を手作業で成し遂げる町工場の職人さんのような、器用さと根気強さにしみじみとした誇りを感じるのもまた、“様々な晩秋”を身近に感じるせいだろうか。

昔見たアメリカのアニメーション漫画で、こんなギャグが印象深い。
会社の採用試験、丸、四角、三角など様々な形がくりぬかれたボードの前に立ち、丸、四角、三角の断片をピッタリはまる穴に入れる作業が試験なのだ。パーキンソン病の義父がリハビリのために OT(作業療法士)にやらされて「馬鹿にしとる」と、憤慨していた作業そのものだ。
じっくりと目で確かめながら着実に作業する人、驚くほどのスピードで片づける人、様々な職種に振り分けられるのだが、ある人が正方形の穴に三角形の断片を当てはめようとしている。当然入らないところを、彼は拳を振り下ろして無理矢理はめてしまい、見事管理職として採用されるのである。
 
微少な粒を使って卵を立てる人、何も使わず根気強く安定面を探る人、そういう人たちが作り上げてきた街を見下ろしながら、卵の底をへこませて立てるなんて、やっぱり正方形の穴に三角形を力ずくでぶち込むようなもんだよなぁと、緊迫する米国外交の行く末を案じたりする。
 
※写真は東京医科歯科大学最上階から見る六義園方向。

2002年11月10日 日曜日

『林檎の果実』を更新しました。
【田んぼの暮らし】 KeroInMenu


2002年11月10日 日曜日

『林檎の果実』を更新しました。
【孫の手】 Path Finder



2002年11月10日 日曜日

【女と麺】

男女の別にかかわらず麺好きは多い。
 
だが、麺とのつき合い方が男女でひどく違うと感じ始めたのは、母との二人暮らしが最初である。
母親というのは息子から見れば、自分を生んだということで唯一無二の特殊な女性であり、麺とのつき合い方がヘンなのも我が母親の特殊な事情だと、子ども時代は思っていた。

麺食というのは単調な作業で、それはただ箸で次々に麺を口に送り込むピストン運動である。
単調で退屈な作業なので、男は手っ取り早く済ませる食事として重宝するのだが、母は麺を前にして「いただきます」を言った途端能弁になり、ズルズルだらだらと長話を始めるのである。
 
夏であれば、「暑い」「疲れた」「だるい」「何もやる気がしない」「最近体調が優れない」「意外と早死にするかも知れない」、そして近所の噂話などなど。
話しが自身や他人に向いているうちはいいけれど、「最近算数の成績が悪すぎる」「宿題、予習復習はちゃんとやっているか」「机の周りをもう少し片づけたらどうか」などと、息子の説教を麺をすすりながら始めると、まさに果てしのない麺地獄のように感じたものだった。
 
親元を離れ、大学生になって一丁前にデートをしたりすると、なけなしのお金で奢ってやったスパゲティ・ナポリタンを前にして、小指の爪ほどのハムを器用に除きながら、フォークにパスタを巻き付け、くるくるくるくるまわし、口に運びもせず、延々女友達の噂話や授業への不満などを、ズルズルだらだら話し始める女性であることが分かったりして、これは母親と同じだ、こんな女に引っかかったら一生の不作だなぁと思ったりした。
 
結局、妻にした女性もその傾向があるし、真昼のイタ飯屋などに集って暇つぶししている主婦グループもスパゲティをくるくる回してズルズルだらだら話し込んでいるし、饂飩の里などといって紹介される山里では、農家の主婦が集まって饂飩を打ち、茹で上がったヒモをズルズルだらだらとすすりながら、世間話をして過ごすなどと言う農閑期の娯楽があるとも聞く。
 
麺とは女性にとって、そもそもそういう対象なのかも知れないなぁとつくづく思う。

2002年11月11日 月曜日

【犬を笑う】

司馬遼太郎『胡蝶の夢』を読んでいたら、犬に関する記述があり、本筋をそれて楽しんでしまった。
 
江戸時代の西洋医学者松本良順は、弟子の伊之介が道で赤犬と黒犬がすれ違ったのを見て大笑いするのを訝しみ、そのわけを尋ねる。
伊之助は答える。
 
「犬も忙しげにゆくというのは、何か手前(てめえ)に用事があるのでございましょう。そのしたり顔を見ると、おかしゅうございます」(司馬遼太郎『胡蝶の夢』新潮文庫より)
 
これはわかる。僕も道を犬がせわしげに通り過ぎるのを見ると無性に可笑しい。
 
司馬遼太郎はこう続ける。
 
犬を、人間とはまったく別個の動物とは考えず、心理的にはどこか人間の社会に入れて、似て非なるような最下等をあらわすときに犬のイメージを援用してそれにかぶせる。(司馬遼太郎『胡蝶の夢』新潮文庫より)
 
そう言われて調べてみると、植物の名前だけでも「いぬアカシア」「いぬ独活(うど)」「いぬガヤ」「いぬ芥(がらし)」「いぬ雁足(がんそく)」「いぬ桐」「いぬ樟(ぐす)」「いぬこうじゅ」「いぬ胡麻」「いぬ桜」「いぬサフラン」「いぬ山椒」「いぬたで」「いぬつげ」「いぬひえ」「いぬびわ」「いぬぶな」「いぬほおずき」「いぬ槇」「いぬわらび」など、「本」や「真」に対して一段低い格付けとして「いぬ」が冠せられているのが分かる。
 
なるほど、犬嫌いを自称する人々に、そういう人間社会の仕組み嫌いがいそうな気もする。


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犬がせわしげに歩いていくのを見ると無性に可笑しいのは、最下等の分際で「何か手前(てめえ)に用事がある」からかなとも考えてみるが、猫だって蟻だって路上を急ぐ時は「何か手前(てめえ)に用事がある」のであり、犬のそれが可笑しいのは妙に分別顔や憂い顔、思慮深げであったり苦悩に満ちた顔に見えたりし、時にそれが「したり顔」に見えてしまったりする、なまじ人間の顔に似て生まれたことの不幸なのだろう。
 
とはいえ、最近は路上を一人歩きする犬を見かけなくなり、擬制的な社会的存在の一部を失ったようで、街の風景も心持ち寂しい。

2002年11月12日 火曜日

【競争の朝】

義父が大学病院で定期検診を受ける朝、早朝の場所取りが僕の役目である。
 
電話で、前もって朝一番、9時半からの受診を申し込み定刻に診察室待合所に行っても、一番で診察を受けられるとは限らない。電話での予約は、あくまでも未来への意思表示であり、当日の「受付票」で再度その日の確実な受診意志を伝えなければならない。新規受診者もいるし、急患もあるので、予約という場所取りで拘束されてしまったら病院側も他の患者も困るのだ。
 
ではどうするか。当日午前6時から自動発券機で「再診受付票」が貰えるので、一刻も早く若い番号の券を貰う。そして、午前7時から自動再診受付機で若い番号の「受付票」を貰う。そして、その「受付票」を持って予約時刻より早めに診察室待合所に向かうのである。そうすれば、予約時刻に最も近い時刻での診察が受けられるのである。
 
どうしてそんなに急ぐのか、受診時間が正確であれば義父の待ち時間による疲労を防げるし、付き添う家族の予定も立ち、疲れないことで家庭内の看護も、より手厚いものにできるのだ。病院での場所取りも、家族と社会も含めた「関係性の医療」の一部といえなくもないのである。

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午前6時、西の空がようやく白み始める。
タクシーで病院に乗り付け、エスカレーターを駆け上がり、自動発券機で「再診受付票」を引くと「13番」。残念、自動再診受付機は12台あるので「12番」までの「再診受付票」なら午前7時の自動再診受付機始動時に、その前に立って一番の券を引けるのだ。「13番」以降は番号順に行列し、12台ある自動再診受付機が空いた場所に、次々に争うように走るのである。
 
「2台空きましたので14番までの方、どうぞ」
 
良かった、若い番号の「再診受付票」を引いたのに午前7時の受付開始に間に合わなかった人がいるらしい。
5分前に、自動再診受付機の前に並ぶ。
これで一安心、義父に一番の「受付票」が貰えると胸をなで下ろしたが、隣の女性はなんと自動再診受付機のカード挿入口にカードを差し込み、午前7時の時報と共に指で一押しして一番の券を引く体制に入っていたりする。
ああ、競争は嫌だと常々思っていても、いざその場に巻き込まれると、人間、競争原理に抗うことが困難なものなのだ。僕も知らず知らずに、義父のカードの向きを確かめたりしている。とほほ、なんと浅ましい。
 
無事、一番の「受付票」を手に入れて外に出ると、あたりはすっかり、眩しい朝の陽光に満ちている。

2002年11月13日 水曜日

【酉の市】

仕事で新宿区、花園神社前を通りかかったら酉の市が開かれていた。
 
十一月の酉の日に立つ市なので、第一週目に酉の日がある年は「三の酉」まであるわけで、この日は「二の酉」に遭遇したことになる。
縁起物の熊手はこの世の「福」をかき集めてくれるそうで、ありとあらゆる「福」のシンボルが飾り立てられている。母親が郷里清水市で飲食店を営んでいた頃は、大きな熊手を帰省時の土産にするため、何度か買いに来たことがある。
思い切り値切って購入し、差し出されたノートに住所を書くと毎年年賀状が送られてくる。廃業した今でも律儀に届くと、母は笑っているが、商売柄まめな人たちが多いのだろう。

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酉の市というと、新宿で呑んだ、浅草で呑んだと、友と連れだっての飲み会の口実にした思い出が多い。師走になると、様々なつきあいに忙殺されるし、飲み歩くには寒いし、11月というのも好都合だったのかもしれない。

満艦飾の縁起物を眺め、買う気もないのに巨大な熊手を値切り、友人達と酔っぱらって喧噪の中を歩いた日々が懐かしい。あれもまた、縁起物の熊手がかき集めた「福」のひとつだったのかも知れない。

2002年11月14日 木曜日

【遠くへ行きたい】

テレビ番組『遠くへ行きたい』の放送開始は1970(昭和45)年というから、大阪万博が開かれた年だ。
 
その年、僕は高校一年生で、夏休み中大阪万博を見に行きたくて仕方なかった。
ダイダラザウルスに乗りたかったのだから、随分幼い高校生だったのだと思う。
テレビで中継される会場の混雑ぶりを見て仰天し、
「夏休みが終われば空くだろうから、九月に入ったら学校を休ませて連れて行ってやる」
と母は言い(ひどい親だなぁ)、その九月に入っても収まらない会場の長蛇の列を見ると、
「あんなもん、行列してまで見るもんじゃない」
と言いだし、結局、僕は大阪万博を見ていない。
当時は大阪も、結構遠いところだったのだ。

「遠くへ行きたい」とさりげなく言う時、今は「遠く」のイメージが湧きにくい。
行こうと思いたてば地球の裏側まで格安航空券で飛んで行ける時代になり、仕事では札幌や大阪に日帰りで往復したりもする。
それでも、「ああ、遠くへ行きたいなぁ」と思う時、僕の行きたい「遠く」は都心から1時間程度で行ける場所だったりする。
 
ほんの二百年ほど前、お江戸日本橋を七つに発った旅人は、品川あたりで初日の旅装を解き、のんびりお湯に浸かって日頃の憂さを洗い流し、旅愁に浸ったという。
そんな旅が、とてつもなく豊かな旅に思え、かつての「近場で我慢するか」こそが、遠い憧れの旅になっていく、慌ただしい日常を今日も生きる。

2002年11月15日 金曜日

【友情】

司馬遼太郎によれば、日本における「友情の歴史」はすこぶる浅いらしい。
 
「ヨーロッパや中国とはちがい、友情が哲学もしくは行動として激しく成立するには、奈良朝以来の日本の社会は、そのことの触発や培養に不適きであったというにちかい。
 とくに江戸期の支配体制の思想としては、友情という横の倫理関係が成立することをむしろきらうにおいさえあった。
 庶民は、同列の関係においては「五人組制」といったふうなものが上から押しつけられ、連帯責任と相互監視を基本思想とし、むしろ密告が奨励された。」(司馬遼太郎『胡蝶の夢』新潮文庫より)
 
人間が相互の友情を確認し合うのはなかなか難しいけれど、動物とのそれはある意味気楽である。
人間から動物への一方的な思い込み、押しつけであっても、人間側からすれば、友情を取り結んだという満足感さえあればよいのだから。
日本における「人間と動物の友情の歴史」なら、西欧諸国のそれを凌ぐものがあるのではないだろうか。
 
仕事で出掛ける港区赤坂。路地裏に友人の猫がいる。
白黒ツートンの猫なのだが口吻の周囲が黒くて愛嬌があり、僕は「デン助」と呼んでいる。飼い主がつけた本当の名前は知らない。デン助はいつも路上で奇妙な姿勢で寝転がり、前脚で空を掻いたりしながら、無為な日々を送っているのだが、この日は住まいの庇に登って僕が通りかかるのを待っていた。
 
「よっ、久しぶり。なんか寂しげな顔して歩いてるね」
「わかる? いろいろあってさ」

onMouseOver

地下鉄と JR 総武線を乗り継いで代々木にある出版社へ向かう。
その会社の1階エレベーターホールにも仲の良い友人がいるのだ。
魚種は知らないけれど、愛嬌のある魚で、僕の姿を見つけると水槽の縁までやってきて、様々な愛嬌を振りまいてくれる。名前は「キョロちゃん」と呼んでいる。飼い主に付けられた名前は、無いのかもしれない。
この日は、接写向きのデジカメを持参したので思い切り近づいてみる。
「キョロちゃん」は男性だと思っていたのだけれど、唇があまりにもなまめかしくて、ひょっとして女性だったのかしらとも思え、どぎまぎしてしまった。
 
「あら、このところご無沙汰ね。いいヒトでもできたの?」
「あ、その、ちょっと、また、急いでるから…」
 
二人の友人に出逢って、心持ち晴れ晴れとして帰途につく。
監視も密告もない良い友達を持つのは有り難い。

2002年11月16日 土曜日

【老人と毛】

老人、とくに男性が歳を取ると、どうして体毛の発育が良くなるのだろう。
 
老いた男性と向き合って暮らしたことがなかったので、義父の顔に、もの凄い勢いで毛が生える様が新鮮である。
ひげはもちろんのこと、鼻毛、眉毛、耳毛まで面白いように生えてくる。ホルモンに関係しているのだろうか。
 
僕は生まれつき体毛が薄いので、ひげなどは毎日電気カミソリを当てるだけで事足りてしまう。
床屋さんなどは、月に一度行けばよいと思っている。
一方、義父は持病で利き腕が震えようとも、カミソリでひげを剃らなければ気が済まない人で、自分で剃れない毛は理容師のお世話になるしかなく、頻繁に床屋通いをしている。

国道の交差点に住んでいるので近所に床屋さんが多く、なかでもとりわけ老人に親切な店を見つけて、僕も一緒にお世話になっている。血の繋がりが無いとはいえ、親子で並んで散髪して貰うのは気持ちがよい。あまりの気持ちよさに義父はうとうとし、毎夜の介護疲れで僕もうとうとする。
 
赤は動脈、青は静脈、白は包帯を意味するという床屋さんの看板。
理容師は外科医のルーツであるという話しはさておいても、心地よさそうな老人を見ていると、老人のリハビリ、地域生活に欠かせない、もうひとつの療法士のようにも思えてくる。
ああ、この床屋さんが店をたたんだら困るなぁ、願わくば義父の存命中、欲を言えば僕が歳を取り、ひげ、鼻毛、眉毛、耳毛が勢いよく伸び始めても、この場所でトリコロールの看板が回り続けていて欲しいなぁ、などと考えながら、またうとうとして首の傾きを正される。

2002年11月17日 日曜日

【ステレオ印刷】

誰にでも無鉄砲なことをする時期があり、社会にもまた無鉄砲な時代がある。
 
大学二年生の夏、お金が欲しくて、友人と3人で銀座の雑居ビルにある小さな広告代理店を訪ね、8月の一ヶ月間だけデザイナーとして使ってくれと売り込んだことがある。社長は僕のボサボサ長髪から爪先まで一瞥し、一言、
「面白い」
と言い、
「明日から来い、ただし下駄は駄目だぞ」
と付け加えた。
穴の空いたブリーチアウト・ベルボトムジーンズに素足の下駄履きで殴り込みをかけ、それが当時の「ナウ」だったのである。
 
外資系スキーメーカーで販促物のコンペがあるというので、今時、紙細工なんて駄目だ、三次元ステレオ印刷でこういうビジュアル、こういうコピーで画期的なポップを作りましょうとでっち上げ、社長に提案すると、
「面白い」
と言う。
 
印刷会社は大きい方がいいと思い、凸版印刷に電話し、営業を呼びつけ、見積りを取る。
カンプを作ると、社長は一緒に来いと言う。
真っ赤な中古アメリカ車の助手席に乗り、首都高をぶっ飛ばし、新宿高層ビル内にあるクライアントに向かう。社長は担当者に、
「我が社の新人デザイナーです」
などと僕を紹介した。
 
プレゼンテーションは見事に通り、仕事は最後まで完結した。
無鉄砲な若者と、無鉄砲な社長がいた、無鉄砲な時代の思い出である。


タバコを買っておまけについてきた使い捨てライターを見たら、懐かしい三次元ステレオ印刷のシールが巻かれている。
人間の左右の眼が6センチ強離れているため生じる視差を利用して、かまぼこ状のプラスチックレンズの下にいくつかの絵柄を印刷し、画像を変えたり、動かしたり、立体的に見せたりするのだ。子どもの頃、お菓子の景品などについてきた懐かしい技術である。
現代のステレオ印刷は、複眼のような球形レンズが細かく配置され、かまぼこレンズのように見る方向が限定されないらしい。しかも薄いシールにでき、べた付け販促物に使えるほど安価になっているようなのだ。
 
これならもっと面白いことができるのになぁ、などと思ったりするが、無鉄砲な時期をとうに過ぎたオジサンはタバコをくわえて、カチッと火をつけるのみである。

2002年11月18日 月曜日

【いつも土砂降り】

最近の子どもは早熟で、幼児とは思えないほど利発だったりするので、長じても幼少期の思い出を鮮明に記憶しているのではないだろうか。
僕など、幼稚園に上がる以前の記憶など、靄が立ちこめたようにぼんやりとしか思い出せない。

仕事で新宿区歌舞伎町へ。
帰り道、新大久保駅に向かって裏通りを歩くと、新宿区大久保一丁目の懐かしい路地裏に迷いこんだ。

いまから45年ほど前、父は和菓子職人、母はその店の賄い婦をし、店近くの木賃アパートに親子3人で暮らしていたのだ。毎夜毎夜喧嘩が絶えず、すでにその頃両親は絶望的なほどに不仲だった。

アパート前の露地を職安通り方向に行くと道は鍵型に左に折れるのだが、曲がり角の正面に木の門があり、直進するとその先は銭湯に続く、緩やかに下る未舗装の私道になっていた。

激しい雨の降る夜、母は僕を背負って銭湯に行き、この場所で滑って横転した。
僕と干支で二回り違いだから27歳の若い母は、自分の顔は擦り剥いたが、背負った子どもに怪我をさせないよう上手に転んだらしい。
 
親子で道に倒れた時、母の手を離れたこうもり傘と、風呂敷に包まれた入浴道具が水溜まりに転がり、地面を打つ激しい雨音がひときわ大きく聞こえたのを、今も鮮明に覚えている。
朧気な過去の記憶の中で、その瞬間だけがナイフで靄を切り裂いたように、鮮やかな光景として思い浮かび、幼稚園入園前の記憶はいつも土砂降りなのだ。

※確かにこの場所だったという証人、大きな銀杏の木は平成2年「新宿区みどりの文化財保護樹木」に指定されているが、その数メートル先、僕が暮らしたおんぽろアパートはとうに無い。

2002年11月19日 火曜日

【『きむで』の中華そば】

人間の記憶というのは不思議だ。
 
視覚、聴覚、嗅覚、触覚などから得た情報で、不意に思わぬ記憶が呼び覚まされることがある。
前日の昼時、新宿区大久保の路地裏を歩いていたら、蕎麦屋の厨房から鰹だしの匂いが漂ってきて、そうだった、幼い頃暮らしたアパートのある露地への曲がり角に、蕎麦屋があったっけ、と急に思い出した。
 
幼い僕が覚えた店の名前は『きむで』だった。
両親は文字の読み書きを教えることに熱心で、3歳くらいで仮名といくつかの漢字の読み書きが僕はできた。ただ、このお蕎麦屋さんの流暢な筆文字で書かれた看板が読めず、『きむで』としか読むことができなかったのだ。今思えば『生蕎麦』と書かれていたのだと思う。

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母は、
「あのお蕎麦屋さんの中華そばが美味しくて、あんたを連れてよく通った」
と言っていたのを思いだした。
店内に入って見渡してみても、どうしても当時の記憶がない。
母は、店内のどれかのテーブルに座り、小皿を貰って僕の分を取り分け、ズルズルすすりながら、家庭を顧みない父親の愚痴などを、幼い僕に聞かせていたのかも知れない。
 
中華そばを注文した母は、大好きだったこの器の中の物体を、どんな思いで見つめていたのかなぁと感慨深く眺める。
都会で途方に暮れた若い母親の心情は今も量りがたく、ただただ湯気で眼鏡が曇る。

 


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