電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

 

2002年12月11日 水曜日

雪の日の物語

年に数度雪が降るか降らないかの都会暮らしをしていると、バイク便会社が運休しているのに困惑したりしながらも、雪中外出をそれなりに楽しんでいたりする。
 
雪の中で気になった物を撮影しておいたのだが、見返すと面白い。
空き地にうっすら積もった雪、植物の根元だけ積もらずに穴が空いているのはなぜだろう。
植物の葉一本あるだけで雪が遮られるから、植物のある根元は温度が高いから、植物に積もった雪は溶けて地上に流れ続けているから。どれが正解だろう。あるいはすべての複合か。

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真夏の外出でエアコン室外機の側を通ると熱風で熱い。
冷気を室内に、暖気を室外に放出しているから。
それでは冬は暖気を室内に、冷気を室外に放出しているのだろうか。
エアコン室外機の上は暖かいらしく、時折雀が群がっていたりするが、空気の吹き出し口は冷たいらしく、やっぱり溶け落ちる雪がつらら状態になっていた。
 
楽しい雪中行軍の思い出を眺めて楽しむが、北海道はもとより、東北・北陸地方では楽しいどころではない、厳しい冬将軍の進軍が始まっている。

2002年12月12日 木曜日

【もういちど白醤油】

子どもの頃から鶏卵が大好きだった。
とは言っても、好きなのは白身の方で、小学生になるまで黄身は嫌いだった。
チュルンと喉越しの良い白身に比べて、黄身はボソボソしていて咽せたりするので、好きになれなかったのだ。
 
神奈川県大磯に父の姉が嫁いでおり、ご主人がホテルのコック長だったので、僕からみるとずいぶんハイカラな家庭が営まれていた。
毎朝、アルコールランプで熱せられたサイホンが香ばしいコーヒーの香りを家中に漂わせ、食卓には必ずエッグスタンドにのった茹卵がついた。この世に、バターや生クリームなどという、格別においしい贅沢品があることを知ったのも、この家でだった。
 
一歳年下、梢という名の従妹がおり、毎日一緒にお風呂に入るほど仲が良く、彼女は卵の白身が嫌い。二人分の茹卵、黄身を梢ちゃん、白身が僕と分け合って食べるのを、伯母は楽しそうに見ていた。今思えば、叔母の作る茹卵はハードボイルドだったのだろう。
 
病気で入院し、二週間ほど仮退院して来ている義母は温泉卵が大好きで、熱湯を使って簡便に温泉卵ができる器具を愛用している。仮退院中の冷蔵庫にも温泉卵がたくさん並んだので、12月8日の日記で書いた、千葉県野田市キノエネ醤油さんからいただいた白醤油、好評だった『タンタン御飯』の温泉卵版を試してみた。


美味しい!
器に温泉卵を割り入れ白醤油をちょっと注ぎ、箸でサクサクと混ぜ、炊き立て御飯に乗せるだけなのだけれど、生卵より遥かに黄身の香りが際立って絶品。至福の味である。

梢ちゃんに黄身をあげて損した、あいつは贅沢者だったんだなあと懐かしい。我が儘で手のつけられないきかん坊、それなのに伯母が不思議がるほど僕にだけは従順だった梢ちゃんに、『温泉タンタン御飯』を食べさせたい。今でも「黄身だけ」をよこせと甘えるのだろうか。

キノエネ醤油のホームページはこちら

2002年12月13日 金曜日

【電通生協会館のクリスマス】

東京は坂の多い町だ。
 
豊島区駒込、駒込東公園脇を下る急坂を木戸坂という。かつて木戸孝允(1833〜1877年)の駒込別邸があったからで、現在その場所は電通生協会館になっている。電通共済生協の宿泊施設であり、会議室や集会室も利用できる。ブロードバンド常時接続もできる客室を備え、宿泊料も格安なので、都内滞在時の穴場かもしれない。
 
生活とリハビリ研究所を主宰される三好春樹さんが定期的に講座を開かれているので度々訪れるのだが、住まいにしているマンションの管理組合の理事をしている関係で、こちらの会議室を借りて集会を開くことも多い。
 
正面玄関を入るとロビーがあり、そこが1階。地下1階はレストランになっていて1階とは吹き抜けになっている。窓からは木戸邸だった往時をしのばせる小さな庭が見える。
地下2階に小さな会議室があって、そちらの部屋をお借りすることが多いのだが、なんと地下2階の休憩所からも庭が見えるのである。
要するに北東向きの斜面に建てられているのだ。

木戸邸がこの斜面にどのように建っていたのか定かではないが、45歳の若さで亡くなった木戸孝允の死因が肺結核であったので、北東向き斜面の住まいがどんなものであったかが少し気になる。
1877(明治10)年5月26日、西南戦争鎮圧に赴く途中、京都で亡くなられているのだが、日記によれば死を覚悟の遠出だったらしい。
 
幕末の急坂を助け合いながら登り、苦労をともにして数々のエピソードを残した10歳年下の芸妓幾松(後に妻となり木戸松子)は、僕の曖昧な記憶では夫の死後10年ほど生きて同じ病で亡くなったのではないか思う。孝允の別邸があり、死後埋葬された京都の地で。
 
電通生協会館レストランにもクリスマスツリーが飾られた。
高杉晋作、久坂玄瑞らと並んで尊皇攘夷派のリーダーであった当時の木戸孝允が、日本武士の甲冑とクリスマスツリーが並んで飾られているのを見てどう思うだろうか。
想像すると、ちょっとだけおかしい。

2002年12月14日 土曜日

【ランドマークの死】

都市の構造物や景観が住民を活気づけ、郷里を離れた者にとっては、いつの間にか心の中のランドマークになっていることも多い。
 
古い清水の写真を公開していたりすると、「路面電車が東海道本線上を通過する美しい橋のある町として想い出に残っています」などと、清水を郷里としない方からお便りをいただいたりすることもある。
片や、その清水橋架け替えを論ずる掲示板などでは、「恥ずかしい汚い橋」などと言う住民もおり、都市景観の美醜に関する温度差があって面白い。

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清水橋架け替え工事が始まり、中央銀座の路上に完成予想図が掲示されていた。
修正を施されてのっぺりとした遺影を見るようで気味が悪い。
さまざまな地域の課題を棚上げにしたまま、見切り発車で始まったような架け替え工事だが、新たなランドマークを創出するような「生まれ変わり」のビジョンを提示しえず、死者に化粧を施すような気味の悪さであることが、「ランドマークの死」を想起させるのだろう。
 
若い頃は、東海道本線清水駅に立ち、田子ノ浦越しに霊峰富士の威容を眺める時、都に上る緊張感で武者震いし、声無き励ましを受けているような気になったプラットフォーム。
駅舎の橋上化工事が始まり、完成すると富士山が見えなくなることに唖然とした。
クレーンの影から雪を頂いた富士が微かに見える時、もう一つの「ランドマークの死」に合掌したい気持ちになる。

2002年12月15日 日曜日

【清水みなと親子丼忠臣蔵】

かつて、清水市内の御蕎麦さんが供する親子丼は、出し汁で煮た鶏肉・玉葱などを卵でとじ、丼飯にのせた料理では無かったのだそうだ。
 
郷里の友人にそんな話をしたら、懐かしい「清水の親子丼」を作り続けている店が市内に現存し、頭数さえ揃えば(※1)、手間のかかる「清水の親子丼」を再現してくださるお店もあると紹介していただいた。
「清水親子丼探検隊」と称し、老若男女十数名の有志が清水に参集し、12月13日、清水市港町にある食事処『晩翠』に討ち入りと相成った。
 
街明かり揺れる巴川河畔を人目を避けて歩き、午後七時半、一斉に『晩翠』二階に突入。
刺し身、蟹、茶わん蒸し、桜海老唐揚げなどを次々に平らげ、めでたく親子丼と対面し、本懐を果たした。お米に鶏肉、蓮根、椎茸などを入れ、鶏の出し汁で炊き上げ、とびきり甘い煎り卵をのせた親子丼こそが「清水の親子丼」だったのである。

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外食など滅多にしたことが無かったと幼年時代を語る同世代の友人が多い。
僕は「社会に出て働く母親」の元で育ったので、極めて外食の機会が多かったが、母からすれば「外食が多い」と言うことは決して自慢できることではなく、外食慣れした僕を見た祖父が、「わりゃあ、どういう育て方をしてるだっ!」と、母を一喝していたことも想い出に残っている。
 
外食は「たまにする」ものであり、それゆえに、外食で食するものは「ハレ食」だった時代なのだろう。
晴れがましくも美しい「清水の親子丼」の美味さとは、個々人の「物語」とともに食するからこそ際立つものであり、新たな清水名物創出に「清水の親子丼」を役立てようと思えば、食の背景にある「物語」も含めて丹念に作り込まなければ容易に叶うことではない。
 
行政や商工会議所のエンパワメントに期待するのが筋違いであり、人の口から口、心から心へと語り継ぐことこそが、味わい豊かな郷土の文化による地域活性化の、苗を子孫のために植えて行くことにほかならないような、そんな気がしてならない。
 
討ち入りのコーディネートをお願いした「ミナト観光ラベルセンター」さん
清水親子丼を再現し、討ち入られ役を買って出てくださった『晩翠』さん
 
(※1) 『晩翠』さんで「清水の親子丼」を食べるにはまず電話もしくは店頭で相談する必要がある。常時メニューにあるわけではなく特注なので少人数ですぐに行って食べられるというわけではないことにご注意くださいね。

2002年12月16日 月曜日

【三科豆腐店】

清水って豆腐屋がどうして少ないんだろう。
 
それは幼い頃から東京と清水の間を行ったり来たりしながら抱き続けた長年の疑問だった。
清水市内で【豆腐店】の3文字を屋号に冠して「静岡県豆腐油揚商工組合」に加入しているお店はわずか9軒しかない。いたるところ豆腐屋だらけの東京暮らしをしていると、広大な清水市になんと豆腐屋の少ないことよと、驚きを禁じえない。
 
実家に近い清水市江尻町に美味しい豆腐屋があるという噂は以前から耳にしていた。
その「三科豆腐店」の看板は何度も目にしていたのだが、母親によると「看板はあるんだけど、豆腐屋自体は無い」のだという。

夕暮れ間近、大正橋たもとから柳橋方向へ歩いていると、何度かお邪魔したことのある料理店のご主人が、大型のプラスチック容器に、清水独特の立方体に近い豆腐を沢山入れ、大事そうに抱えてやってくるのに遭遇した。そうだったそうだった。清水の豆腐は立方体に近く、東京の豆腐は直方体だと言って、清水の中学校で笑われたことがある。「豆腐は立方体に決まってんじゃん」と。
 
やはり柳橋近くに、料理店主が仕入れに行くような「幻の豆腐屋」があるに違いないと、「三科豆腐店」の看板がある路地に向かう。そして、アルマイトの両手鍋にいれた豆腐を大事そうに両手で捧げ持って、老婆がまさに路地から出てくる瞬間を目撃した。
 
看板のある電柱脇の路地を入ってみるが確かに豆腐屋らしき店は無い。
路地の突き当たりを右折すると、その先は袋小路になっている。母はここまで来て「豆腐屋自体は無い」と判断し、引き返したのだろう。


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袋小路のどん詰まり、一般住宅のような家屋の引き戸を意を決してがらっと開けると、そこは見事な豆腐作りの作業場だった。路地裏を盗掘していて、石室の扉をこじ開けたら金銀眩い玄室を探り当ててしまったようなインパクトにフラフラしてしまった。そして、一目見て、ここの豆腐は美味かろうと思った。
 
澄み切ったタイル張りの水槽に、立方体の豆腐が数丁身を沈めているので、
「お豆腐、一丁ください」
と声を掛けると、作業中のご夫婦が「…あるか…」「…四丁ある…」などと小声で囁き合い、
「はい、一丁ですね」
と、急に愛想良く、お豆腐をわけてくださった。
どうやら水槽内の豆腐達は予約済みのものが多く、前もって予約しないと買えないことも多い店らしい。
通りすがりに探り当てて買い物するような、一見の客がたどり着ける場所ではないから予約に頼るのは当然だろうし、こんな奥まって秘密めいた場所で商売が成り立つこと自体、驚異的なことだと思う。
 
帰宅後、早速薬味無しで醤油をたらして食べてみたが、やはりとても美味しいお豆腐だった。
 
清水市内で【豆腐店】の3文字を屋号に冠して「静岡県豆腐油揚商工組合」に加入しているお店は以下の通り。
 
三科豆腐店・江尻町
浜砂豆腐店・下野
稲荷屋豆腐店・松井町
出口豆腐店・港町
菊田豆腐店・村松
橋本屋豆腐店・草薙
小田巻豆腐店・長崎新田
伏見豆腐店・興津中町
鈴木豆腐店・但沼町
 
写真は「三科豆腐店」へのアプローチ。
ガラッと引き戸を開け、豆腐工房に遭遇した瞬間の驚愕を伝える生々しい(ブレブレの)映像はこちら

2002年12月17日 火曜日

【茶香炉の効用】(12月18日改稿)

清水駅前銀座商店街、『リビングハウスこまつ』さんで「小割哲也 陶展」が12/5〜15まで開催されていた。
 
会場でお茶を焙じる良い香りがしているので、ご主人の直さんに、
「お茶を焙じてるの?」
と尋ねると、
「これこれ、茶香炉」
と教えてくださった。
僕は“茶香炉”を知らなかった。
良いものだなあと思い、母も欲しそうだったのだが、小割さんの作品はちょっと手の届かない価格だったので、金子高見さんの『清水園』に出かけてみる。
 
ちょっと前はブームで沢山あったのだけれど今はこれだけ、と出していただいた物の中から、母に陶器、僕にはガラス器のものを購入してきた。
 
東京に戻って、事務所で早速お茶を焚いてみるととても良い香りで心が安らぐ。
これも一種のアロマテラピーかもしれない。
わが家では、高いものではないけれど、お茶は清水市興津川上流域でとれるものを愛飲している。
ちょっともったいないなあという気がしてきたので、近所の酒屋で売られている大手茶業メーカーのお茶を、茶香炉専用に買ってきた。

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茶葉を一つまみ入れ、固形燃料に火をつけ、しばらくおくと、お茶を焙じる良い香りが部屋に漂ってくる。
そろそろ茶葉の替え時かしらと覗き込んで悶絶しそうになった。
お茶の葉やガラス容器に見事に白い結晶が付着しているのである。
“添加茶”といって、お茶の旨味を強化するという口実で、グルタミン酸ナトリウムを添加することがあると聞いているが、ひょっとしてこれはグルタミン酸ソーダなのだろうか。
 
こういうことは気になって仕方のないので、『清水園』さんに母が良くしていただいたお礼もかねてメールを差し上げたら、早速、金子高見さんからお返事を頂いた。
何年か前、国立茶業試験場に問い合わせた結果、透明な付着物は、実はカフェインの結晶化したものだとわかったのだそうだ。
 
なるほど、お茶の苦味成分であるカフェインは、温度が高いほど溶出しやすい性質があるそうで、高級煎茶を熱湯で淹れるなどという愚挙をすると、苦味が増すのもこのせいだ。70度のお湯で淹れた緑茶では18.4%のカフェインが、90度のお湯では58.8%も溶出するらしい。
一方、焙じ茶にカフェインが少ないのは、焙じることによってカフェインが取り除かれているのだろう。茶香炉で茶葉を焙じるということは、カフェインの抽出作業をしているとも言えるのだ。
 
それではお茶の種類によるカフェインの多寡は品質とどうかかわるのだろう。
茶葉内でのカフェインの生成は日射量に反比例するらしく、新芽を摘んだ新茶や、藁などの覆いを掛け手間をかけた玉露などにカフェインが多く含まれるという。カフェインの含有量が多いというのは高級茶の証拠とも言えるようだ。
 
カフェインを摂取すると不眠やめまいといった症状が出るのだが、お茶に含まれるテアニンという物質がカフェインの作用を緩和してくれる仕組みになっている。
90度で煎茶を淹れた場合カフェイン:テアニンの比率は58.8:64.2、一方70度の場合は18.4:26.9というデータがあり、判断力向上、記憶力向上、疲労回復、脂肪を燃焼しやすくするなどのカフェインの効用を副作用なしに取り込むためには、熱すぎないお湯で煎茶を淹れて飲むのが良いらしい。

茶香炉は小さな実験器具であり、その細部から人と食の関係を学び、その副産物として人と人との「知の交流」までもたらしてくれるわけで、まことに有り難い器具に思えてきた。
かけがえのない羅針盤を与えてくださった『清水園』さんに感謝。
 
『清水園』さんのホームページはこちら。写真は美しい清水園店頭。

2002年12月18日 水曜日

【正月魚(しょうがつよ)】

静岡県清水市在住、西伊豆田子(たご)出身の友人から「正月魚(しょうがつよ)」を贈っていただいた。
 
仕事でお世話になっている農山漁村文化協会刊『日本食生活全集 静岡の食事』で読んだことはあったのだが、まさか本物にお目にかかれるとは思っても見なかった。
江戸時代から伝わる伝統食。
手漕ぎ船「八丁櫓」を操り、駿河湾から伊豆諸島へと鰹を追った田子の漁師達が、冷蔵庫の無い時代でもあり、塩を塗して港に持ち帰ったのが起源だという。
内臓を取り除き塩をまぶし、塩水につけた後、水洗いして一週間近く寒風にさらすのだそうだ。
田子では鰹節の生産が盛んであり、鰹節用に用いる物以外を各家庭に配り、これを「おかず分け」と呼んだという。
かつては漁業者が各家庭で作ったが、現在では田子漁業協同組合、カネサ鰹節商店、祐祥丸漁業生産組合が生産し、伝統を守り続けている。
 
立派な「正月魚」が一本届くと聞き、なにしろ鯵より大きな魚を下ろしたことが無いので、調理師免許を持つほどの腕自慢、友人のはまボーズ氏に「おかず分け」を条件に手伝ってもらおうと思ったのだが、
「そんな約束,してたっけ? でも,お裾分けはなんでも大歓迎!(^^)」
などと、とぼけられてしまったので意を決し、鈍ら包丁を片手に、興味津々で見守る義父と妻の目の前で「正月魚」解体ショーを開いてみた。

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はまボーズ氏曰く、
「郷里の熊野地方では,たしか「塩カツオ」とか言って,カツオを丸のまま塩漬けして,寒風にさらして乾かしたもの。カツオ漁が終わる頃に漁師が作っていて,乾燥して崩れた魚の顔つきがガイコツみたいで怖かった記憶がある」
との事だが、確かに形相がすさまじい。
 
贈り主から、三枚に下ろして1センチ厚くらいの切り身にし、冷凍保存すれば一年中食べられるとのアドバイスを受けていたのでその通りにやってみる。三枚に下ろす過程で「ハラモ」の部分は、清水の母が泣いて喜びそうなので別途取り分ける。
中骨はかなり美味しい出汁が出そうだし、骨についた身こそ美味しいので、
「わざと贅沢に骨に身を残してるんだぞ」
と、聞かれてもいないのに家族に説明(苦しい言い訳)して、10センチほどに切って別途保存。
 
さて頭はどうしたものかと思案していたら、先程まで気味悪がっていた家族が、後頭部や頬の部分に美味しい身があるからほじり出せと五月蝿いので、丹念に身をせせる。
小皿一杯ほど身がとれたので、さっと湯通しして「塩カツオ中落ち(実は残骸)の潮汁」にして、家族の「解体ショー」の労いにしてみた。
美味しい! 鰹の塩分のみ、おろしショウガを入れた以外、何も加えない澄まし汁なのだが、なんとも言えない良い風味。
焼いた「正月魚」に熱湯を注ぎ、その湯も飲むと美味しいという贈り主の言なのだが、確かに美味で、塩と寒風により、鰹内のエキスが魚醤化しているのかもしれない。
 
ラップにくるんで冷凍し、「正月魚」の仕込み完了。
義母は順天堂医院のベッド、義父の介護をする妻は東京、僕は郷里で一人暮らしの母と二人きりの清水のお正月と、家族泣き別れの年末年始だけれど、わが家には嬉しい友からの「おかず分け」のお正月がやって来る。

2002年12月19日 木曜日

【社会鍋】

家族に二人も重病人が出たりすると、生活も激変する。
 
妻はこの時期、渋谷・新宿・池袋などの雑踏を避けて、銀座でのんびり、暮れの付け届けを発送し、12月が誕生日の二人の母のプレゼントを買い、年末のバーゲンセールを覗くことを楽しみにしていた。
一日を分刻みで過ごす看護・介護の明け暮れで、今年はそれもままならない。
「この時期銀座に出ると『社会鍋』が出ているので、財布の硬貨を全部入れることにしていたのよ」
という話を聞いた。結婚生活二十数年目にして初めて聞く話で、洗礼を受けたクリスチャンらしいと思うとともに、ちょっとだけ胸が熱くなる。
「もし『社会鍋』を見かけたら私の代わりに入れてね」
と言われ、すぐに忘れてしまっていた。
 
『社会鍋』というと学生時代の同居人を思い出す。
僕が暮らしていた南東向きの明るい部屋は、年老いて二人暮らしになったご夫婦が、一軒家の二階の二間に小さな炊事場を付けて、貸間にしていたものだった。短い廊下にドアが二つ、廊下の突き当たりに二世帯共用のトイレがあった。僕と同じ時期に入居した隣人は、二十代後半、髪の長い小柄な美しい女性だった。木造家屋の同居なので、隣室の声も微かに聞こえるし、廊下側はガラス張りだったので、互いの暮らしぶりが手に取るようにわかり、見知らぬ男女が壁を隔てて同居するような奇妙な暮らしだった。
 
今思えば、共用トイレの清掃はすべて彼女がやっていてくれたわけで、気の利かない同居人だったなあと、自分が恥ずかしい。
クリスマスの夜は、教会の信徒達が、玄関先にやって来て老夫婦のために賛美歌を唄う美しい夜だった。そんな夜、 ドアを小さくノックする音がして、彼女がブランデーの瓶を持って立っていたことがある。
「頂き物のおすそ分けですがどうぞ」
半分弱、茶色い液体が残っており、
「いいんですか?」
と聞くと、
「ええ、私はもうだいぶやりましたから」
という。見ると顔が赤くなっている。
今思えば(ご一緒にいかがですか?)くらい言えば良かったのに、受け取ってお礼を言い、ドアを閉めたのだった。
 
暮れに帰省されるのかと尋ねると、彼女は、
「私、救世軍にいるんです」
と言っていた。
年末年始を清水で過ごし上京する際、下宿の二階で一人、新年を迎えた彼女のことが気にかかり、清水市久能の石垣苺をお土産に買って帰った。
深夜、ドアをノックすると、部屋の奥に小さなランプがともっていて、彼女は起きていて書き物をしていたらしかった。
 
翌朝、ドアに小さな紙片が挟まれており、
「郷里の秋田では、初物を頂く時、東の空に手を合わせました。昨夜は、東の空に合掌して美味しい苺を頂きました」
と書かれていた。

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新宿駅西口。
仕事帰りに通りかかると救世軍の『社会鍋』が出ていた。
必ず男女一組で街頭に立つようで、ふと遠い日の想い出の彼女ではないかと思ったりし、そんなはずないよなと通り過ぎようとして、妻に頼まれた言葉を思い出した。
清水市美濃輪町、魚初商店でおつりに貰ったピンピンの千円札があったので、二つに折って鍋に入れて合掌した。救世軍に仏教式の合掌はヘンかなとも思ったが、生まれて初めての『社会鍋』だからと自分に言い訳する。
「よいお年をお迎えください」
と手渡されたパンフレット、山の手線内でちらと見るとこんな言葉が胸を突く。
 
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」

2002年12月20日 金曜日

【されどシラス】

郷里静岡県清水市に帰省して食するもので一番の楽しみといえば『釜ゆでシラス』である。
炊き立てご飯に、たっぷりのせて食べる時の美味しさは言葉にしがたい。
 
清水市本郷町に美味しいシラスを商う店があると聞いたので出かけてみた。
店頭を覗くと商品は何も無い。だが、店内に並べられたイスにはお年寄りがびっしりと並んで腰掛けているし、イスにあぶれた人は店頭に立って並んでいるのだ。
「何を待っているんですか?」
と聞くと不思議な顔をされた。
考えてみれば愚問であり、シラス店で待つものはシラスに決まっているのだ。
漁に出た船が港に戻り、獲れたての生シラスが届くのを、釜ゆで用のお湯を沸かして待っているのだそうだ。自然を相手の漁だから、入港時間は一定しないし、不漁の日もあるだろうに、客はこうして粘り強くいつまでも待つのだ。

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帰省した際『釜ゆでシラス』を買うならあの店とこの店と決めているのだが、上には上があるもので、ああ、やっぱり都会より地方の方が豊かだなあと思い知らされ、ちょっと小気味よい。
とびきり新鮮で美味しいものを食べられる豊かさもさることながら、こうしてぼんやり待っている時の流れの豊かさ、そういうお客に支えられてこんな商売ができている豊かさ。
 
たかがシラス、されどシラス。
「品質」の良いものを手に入れたい者、貴重な「時間」を節約したい者は、他人より多く金を積んで決着を付けるという都会流のやり口が通用しない田舎町の流儀は、忘れかけた「確かな暮らし」を思い出させて、都会人を田舎暮らしへといざなう。


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