電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

2009/03
2009/02
2009/01
2008/12
2008/11
2008/10
2008/09
2008/08
2008/07
2008/06
2008/05
2008/04
2008/03
2008/02
2008/01
2007/12
2007/11
2007/10
2007/09
2007/08
2007/07
2007/06
2007/05
2007/04
2007/03
2007/02
2007/01
2006/12
2006/11
2006/10
2006/09
2006/08
2006/07
2006/06
2006/05
2006/04
2006/03
2006/02
2006/01
2005/12
2005/11
2005/10
2005/09
2005/08
2005/07
2005/06
2005/05
2005/04
2005/03
2005/02
2005/01
2004/12
2004/11
2004/10
2004/09
2004/08
2004/07
2004/06
2004/05
2004/04
2004/03
2004/02
2004/01
2003/12
2003/11
2003/10
2003/09
2003/08
2003/07
2003/06
2003/05
2003/04
2003/03
2003/02
2003/01
2002/12
2002/11
2002/10
2002/09

2002/08
2002/07
2002/06
2002/05
2002/04
2002/03
2002/02
2002/01
2001/12
2001/11
2001/10
2001/09

2001/08
2001/07
2001/06
2001/05
2001/04
2001/03
2001/02
2001/01
2000/12
2000/11
2000/10
2000/09
2000/08
2000/07
2000/06
2000/05
2000/04
2000/03
2000/02
2000/01
1999/12
1999/11
1999/10
1999/10以前



三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

2003年 1月21日 火曜日

【徹夜の鉄人】

仕事が忙しいので今夜は徹夜だといろんな人に宣言し、念のために同居中の義父にまで宣言してみる。
 
それくらいの根回しをして自分を追い詰めないと終夜残業ができないほどに、僕は徹夜が得意でない。
徹夜仕事が得意か否かは、体力の問題ではなさそうだ。大きな身体で体力のある僕に比べ、小柄な妻は若い頃から徹夜仕事が得意だったからだ。
 
学生時代は毎週課題としての作品作りが有り、間際まで追い詰められて自宅での徹夜もすれば、仲間と大学の教室に泊まり込むことも有った。明け方、睡魔に耐えきれず床に倒れ込むように仮眠するのは決まって僕で、妻は夜が明けるまで不眠で制作にあたっており、何処にそんな力が秘められているのか不思議で仕方なかった。
 
それでも学生時代は徹夜が週に一度くらいはできた。
徹夜明けに地下鉄丸ノ内線に乗って吊り革につかまり立ったまま眠ることも有ったが、「立ったまま眠る」ことも僕は得意でなく、吊り革につかまった手を放さず硬直した棒のようになって眠る友人に感心することも多かった。「立ち寝」にも達人がいるのだ。
 
僕も吊り革を握ったまま眠ることはできるのだが、下半身が思うに任せず、うとうとっとすると両膝がガクッと折れ、目の前に座っている人の膝のお皿下部分に膝頭が見事に命中し、「痛いっ!」と悲鳴を上げさせたことも有る。

池袋駅改札を通過するために定期入れを握りしめて地下鉄を降りたのだが、改札まで来て手に持っているはずの定期入れが無いことに気付き、狐につままれたように驚くとともに、通学定期券も学生証も免許証もキャッシュカードも一気に失って途方に暮れたことが有る。
翌日、池袋駅遺失物預かりから電話が有り、ホーム下の線路上で僕の定期入れが拾得されたという。徹夜明けでフラフラになり、降車時に列車とホームのすき間に落としたらしい。掌から定期入れがすりぬけて落ちた事すら気付かなかったのだ。疲れていたというより、精神が弛緩しきっていたという感じに近い。
 
思うに、徹夜は「気合い」でするものであり、体力より集中力でするものなのだ。
学生時代から睡魔の誘惑に負けるほどに薄弱な意志しか持たないので、昨夜も「徹夜をするぞ!」と宣言したくせに眠ってしまい、今こうして慌てて起きて、眠気覚ましに熱いコーヒーを飲みながら日記を書いている。時計はすでに午前三時になろうとしている。
大変だ!!

2003年 1月22日 水曜日

【まえうしろ】

パーキンソン病の義父は前のめりにトットットッと早足で歩く。
 
早足過ぎて勢いが止まらなくなり、猛烈なスピードで歩く。
「死ぬ時は前のめりで」というが、義父が路上で命を落とすとすれば必ずそうなるに違いなく、そうならないようにと、杖を用意したり、車輪の付いた折りたたみ式歩行器をブレーキがわりに愛用している。
 
年末年始、検査入院の名目で義父は大学病院で一週間ほど過ごしたのだが、パーキンソン病患者同士で相部屋だったので、様々な症状の方を見る機会があった。
義父より遙かに年若の方が廊下を歩いておられたのだが、義父とは正反対の症状が出ており、それはそれで看護婦さんが片時も目を離せない。歩くと足だけは前に進むのだが、上半身が次第に後ろに取り残され、放っておくと真後ろに転倒してしまい、後ろのめりに命を落とす危険性があるのだ。看護婦さんが慌てて手助けするたびに、ご本人も笑みを浮かべて首を傾げ、「変だなあ」という表情をしておられた。パーキンソン病というのは変な病気なのだ。

寝坊して、朝食作り役の僕の作業が遅れ、洗顔して着席した義父の前に、何も置かれていない事態が発生した今日の朝、義父はテーブルの上に手を伸ばして前屈みになり、頻りに屈伸運動をしている。
「何をしているの?」
と聞くと、デイサービスセンターで教えていただいたパーキンソン体操なのだそうだ。
せっかくなので台拭きを渡して、
「ついでにテーブルを拭いてね」
と言うと、義父も大笑いしていた。
 
義父をデイサービスセンターに送ったついでに、指導員に
「あの体操は何の効果があるのですか?」
と聞くと、パーキンソンの方はどうしても後ろに倒れるような力が発生するので、前に向かって体を動かす自分の力を確認する訓練なのだという。
 
なるほど、病院で見かけた【後ろのめり】の方は体が弱そうなので【後ろに倒れるような力】に負けて倒れそうになるのであり、70歳過ぎまでテニスで体を鍛えていた義父は【後ろに倒れるような力】に負けまいと、ムキになって前方に突進するのだ。
椅子から立ち上がる動作が苦手な義父に、
「最敬礼するつもりで前屈みに」
と声をかける時、義父は【後ろに倒れるような力】と必死で戦っているような表情をしているのを思い出す。
 
大学病院前の桜はとうとう最後の一葉を失ったが、枝には春に備えてしっかりと新芽が用意されている。

2003年 1月23日 木曜日

【冬の家族】

老人のデイサービスは、希望すれば「毎日」利用できる方がいい。
 
生活の日々は細切れではなく永遠に繋がり合って、他人の都合では分断不能だからだ。
そして、老人のショートステイは咄嗟の時にこそ自由に利用できる物であるべきだと思う。家族のやむにやまれぬ事情で、暮らしを分断してでも援助の欲しい日々が、年に数日は必ずやってくるからだ。
 
金子みすゞ生誕100周年。
妻は出張でみすゞの故郷へ2泊3日の旅に出た。老人の看護・介護が始まって半年ぶりの外泊である。行楽シーズンのホテル予約より難しいデイサービスの予約をし、義父母の健康を祈り、ようやく漕ぎ着けた彼女のライフワークの旅である。深夜の介護のない夜が二晩だけやってくる。

在宅介護は辛いこともあるけれど、良いものだなあとも思う。
家族は健康で一生ひとつ屋根の下に暮らすのが願いであり、健康を損なえば尚更の事ひとつ屋根の下で見守りながら暮らしたいのだ。在宅介護は社会から押しつけられる物ではなく、家族自身が選び取る物であり、それでもくじけそうになる時こそ、勇気を持って取り組む者にいつでもさしのべられる支援が欲しいのである。
 
都内ではインフルエンザが流行しているが、「当日風邪気味だったらショートステイはお断りする」と言われていたので、複雑な気持ちで迎えた朝、
「行ってくるちゃ」
と娘のため、元気にショートステイに出掛けていく義父の背中に感謝を込めて合掌する。
弱った者の自身に鞭打つような更なる頑張りがあって、辛うじて支えられているのがこの国の在宅福祉の現状である。

2003年 1月24日 金曜日

【銭湯へ行こう】

東京下町で過ごした小学生時代、内風呂のある同級生はほとんどいなかったし、内風呂がある家族でも、なぜか銭湯で出会うことが多かった。銭湯に通う暮らしでも別段不自由は感じなかったのだが、それでも思春期に近づくにつれて、内風呂があったらいいなあと思い始めた。
 
郷里の静岡県清水市に戻って店舗兼用住宅を建てる際、内風呂のある暮らしを期待したのだが、母は内風呂を作るスペースを客席にした方が儲かるといって聞かない。強硬に「内風呂が欲しい」と言うと「何のために銭湯がある!」と怒るのだった。
 
介護保険の適用範囲内で週6日デイサービスセンターに通う義父は、その残りで週2回、在宅での入浴サービスを受けている。自転車を飛ばしてやってくる入浴サービスの若者に聞くと、銭湯に連れて行って欲しいというお年寄りの要望も多いという。

近所に、地価高騰の時代ビルに建て替えてマンションにし、家業を地下に移した銭湯があるのを思い出した。地下の銭湯など義父には縁がないと思いつつも、インターネットで検索すると、なんと座ったまま降りられるリフトを設け、内部は見事に段差のない手摺り付きのバリアフリー銭湯になっていた。
 
義父に話すと「行こう、行こう!」と言う。妻も喜んで「あなた一人で無理なら哲ちゃん(カメラマンの川上哲也氏)を呼んで手伝って貰い、帰りに三人で餃子とビールで乾杯すればいい」などと大乗り気である。入浴サービスのスタッフも「平日の口開けがいいですよ」などと笑顔で言う。
 
そうだ、銭湯へ行こう。その気になればパラダイス、三人で「エピソードをつくろう!」。遥か昔からあった社会資源としての銭湯。「何のために銭湯がある!」と言い放った母の言葉を改めて噛み締める。

※三好春樹責任編集『Bricolage』2003年2月号、特集・プロジェクトU(湯)in 富士――みんなでエピソードをつくろう!に寄せた【装丁者のひとり言】より。

2003年 1月25日 土曜日

【明星】

2003年1月24日金曜日午前6時17分、義父は老人ホームのショートステイ、義母は大学病院の治療室、母は静岡県清水市の自宅、妻は童謡詩人金子みすゞの生まれ故郷、そして僕は義父母の住まいで留守番。
家族5人がばらばらになって迎える冬の朝である。
前日は雪が舞うこともある寒い一日だったので、空模様が気になってマンション9階のベランダに出るときれいな朝焼け。
 
幼い頃、友と遊んでいて黄昏時になると、誰かが不意に、
「一番星見つけた!」
と、【宵の明星】を指さして叫んだものだった。一番最初に見つけた者が第一発見者の名誉を得られるので、気にはかけているものの、ついつい遊びに夢中になって先を越され、悔し紛れに、
「二番星も見つけた!」
などと、別の小さな星を探して叫んだりしたものだ。
誰から教わるともなく身に付いた、きわめて原初的な遊びだったが、幼い頃は【宵の明星】しか見ることが無かった。

成人すると、【宵の明星】を見る機会は少なくなり、中年になるにつれ【明けの明星】を見ることの方が多くなってきた。そして、
「一番星見つけた!」
と叫びたい時は、決まって独りぼっちなのである。
誰かに見せたいなぁと思ったりして、ベランダに出てデジカメのシャッターを押してみる。
インターネットに掲示する小さな写真で【明けの明星】が見えるかしらと、画像作成ソフトで開いてみると、ちゃんと【明けの明星】が写っていて嬉しい。
 
「一番星見つけた!」
と、インターネットの虚空に向かって叫んでみる。

2003年 1月26日 日曜日

【寒中水泳】

JR山手線に、車内液晶表示スクリーンのついた車両が増えてきた。
 
最近の液晶表示では、車両運行に関する情報も提供され、それはそれで便利なのだが、収入源となる有料コンテンツは工夫が足りなくて退屈である。天気予報は平板だし、文字ニュースは順次表示される紙芝居方式なのだ。
紙芝居であっても興味のあるニュースには思わず見入ってしまうのだが、「松井秀喜は…」で終わった次のページが「フィギュアスケート、フリーの演技で…」などと、とんでもないページが表示されたりする。スポンサーとしてロゴが表示されている【SONY】には迷惑な話で、「(だから VAIO を買って Windows で PowerPoint なんか使う気がしないんだよなぁ)」などと思ってしまう。ページ順を間違えて配信しているのである。
 
時々、動画の広告も表示されるのだが、こちらはもっと手抜きで、見慣れたTV-CMをそのまま流しているのだが、音声が無いのでタレントは皆、口をパクパクさせているだけで気味が悪い。音無のTV-CMというのは異様であり、スポンサーにとっては百害有って一利無しという気もする。

ところが最近、秀逸な紙芝居式広告を見た。
スポンサーが何処なのか確認し忘れたが、季節に因んだ英語のクイズを出してくれるのである。
「【雪合戦】は英語で何と言いますか?」
と出題され、画面に■■■□□(5・4・3…)と回答までの残り時間が表示される。
「うーん、わかんない(Star Wars にひっかけて Snow Wars なんて答えたら笑われちゃうだろうなぁ)」
などと考え込んでいると、
「Snow Ball Fight」
と正解が表示される。
「【寒中水泳】は英語で何と言いますか?」
と出題され「うーん、わかんない(それにしても、米英人も寒中水泳なんてするんだ〜。白いふんどし姿で浜に上がり、婦人部が差し入れた甘酒を震えながら飲んだりするのかなあ…)」
などと馬鹿なことを考えていると■■■□□(5・4・3…)と時間になり、
「Polar Bear Swim」
と正解が表示される。
「へぇー(ホッキョクグマ泳ぎかぁ。米英人にとって寒中水泳に精神鍛錬なんていう馬鹿げた思い入れはないんだろうなぁ)」
などと感心しているうちに有楽町駅で降り損ねて、列車は新橋駅のホームにさしかかる。

【追記】Polar というのは「極」のことなので「南極熊」はいないかしらと検索してみた。
「南極熊」こと冨安大輔さんのWeb 、
“老眼を自覚し、ふと「望遠鏡が欲しい」と思ったおっさん熊の、天体望遠鏡とデジカメでの悪戦苦闘”
南極熊の晴望雨網

2003年 1月27日 月曜日

【苺の季節】

今から五十年ほど前、祖父母が営む瓦工場の端に、小さな木造二階建ての住まいが建てられ、母屋から工場を経て、雨に濡れずに行き来できるようになっていた。十代後半から重い結核を患った母が、家族と離れて寝起きするために建てられたものだった。
 
病が癒え、病床での数少ない楽しみ、「文通」で知り合った父と結ばれ、僕が生まれた後しばらく暮らしたのもその家だ。両親が東京に出て空き家になり、その後十数年、物置として残されていたので今でも間取りや室内の細部が手に取るように思い浮かぶのだけれど、そこで暮らした幼児期の記憶はきわめて朧である。

誰が植えたのか、軒下に苺が一筋植えられており、僕はそれを食べるのが楽しみだった。
苺が色づき始めると、祖母に
「食べてもいい?」
と聞き、
「明日まで待てば三つ食べられる」
と言われて楽しみに待った。当時の苺はまだ素朴な形をしており、今ほど香りや甘味が強くなかった。それでも甘い品種を選んで植えたようで、祖母は【さとういちご】と呼んでいた記憶がある。
 
三粒の苺をもぎ、砂糖をかけ、スプーンで潰した上に牛乳をかけて食べるのだが、家の脇に植えられていた琵琶と無花果と並んで、懐かしい幼児期の【甘味】の記憶である。
両親と過ごした当時を思い出そうとすると、軒下にポッと苺の赤が点灯するのだけれど、温室栽培で一年中苺が出回るので、軒下露地栽培の苺が色づいたのが何月ごろだったのか、今となっては特定するのが難しい。

2003年 1月28日 火曜日

【スイカ】

JRの改札口を切符無しで通過する人々が増えてきて、それが【Suica】というプリペイドカードだとわかったのだが、便利そうには見えるものの購入する機会を逸していた。
 
新しいものは人から人へ伝染するもので、友人が便利そうに使っているのを見て、混雑する券売機前に並び、運賃表を確かめ、小銭入れを引っかき回して切符を買うのが馬鹿馬鹿しくなり、意を決して購入してみた。
 
これは便利!
2000円で購入し、500円のデポジット(預かり金)を除く1500円分が取り敢えず使用できる。券売機で1000円単位のチャージ(入金)ができる。【Suica】のマークのある店で買い物もできるそうで、利子が付かないに等しい銀行に、金を貸すように預金してサラ金の資金源として運用されるより、JRに無利息で貸してやったと思うと、株主になったようで気分がいい。よーし、有り金全部貸しちゃおうと思ったら入金できる上限は20000円までらしい。

取り敢えず10000円のカードを持って、みんながやっているように、読みとり機に「バッチン!」と叩き付けるようにして改札口を通ると、葵の御紋の印籠を持ったようで黄門気分である。心地良いけれど「バッチン!」と叩き付け、残高が無くて「バッチン!」と人前でストッパーが閉まるというのは恥ずかしいので、通過時の残高チェックが欠かせない。
 
ソニーマーケティング社から、200万画素CCD回転カメラを搭載し、通信用カードスロットや Bluetooth 機能などを装備した"クリエ"「 PEG-NZ90 」が発売される。
折りたたみ式キーボードの手前にある間抜けたスペースが先代マシンでは好きになれなかったのだが、今度の機種ではその部分に【Suica】をかざすと、残高と過去20件分の利用記録が参照できるという。交通費精算にきわめて便利だと思うので、きっとどこかの会社が USB 接続、パソコン用の読み取り機を発売しそうな気がする。

2003年 1月29日 水曜日

【メルマガ情話】

インターネット上でデータをダウンロードする際、メールアドレスの入力を求められ「最新情報をお伝えするメールマガジンをお送りしても良いですか?」などと聞かれ、有償にせよ無償にせよダウンロードによる恩恵を受けたと感じると、「いいえ」とは答えにくく「はい」を押してしまう癖が、僕にはある。

その結果、毎日膨大な数のダイレクトメールやメールマガジンが届き、有用なものは振り分け、無用なものは削除しているのだけれど、公私ともに忙しいと、着信は確認してもそれを読む時間がないことが増えてきた。
 
外出時の空き時間の読み物にすればよいと気づき、引き出しに放り込んだままになっていたSharpのZaurus、愛称【捨て子ザウルス】君を引っ張り出して、仕事以外のMailboxに届いたメールを128MBのSDメモリに受信できるようにセットアップしてみた。
 
後はダイレクトメールやメールマガジンの、不要なものは購読解除し、有用なものはアドレス変更手続きをすればよい。最近は文末に解除・変更のURLが書き添えられているので手続きは至極簡単。各社、手続き方法は様々で、有用な情報をお送りいただける大手のシステムほど良くできているケースが多くて感心する。片や、パーソナルな配信システムで運用されているものは、購読を打ち切る理由を尋ねるアンケートなどがあって面白い。「つまらないから」などとは答えにくく、「その他」を押してしまう癖も、また僕にはある。

購読解除」ボタンを押すと、「長らくのご愛読ありがとうございました」などという文章が表示され、意外な人に「今まで愛してくれてありがとう」と突然言われたようで胸に迫るものがあり、「やっぱり購読する!」という取り消しボタンが有れば、衝動に身を任せて押してしまうであろう癖も、またまた僕にはあるのだ。
 
夕暮れの銀座通りに立ち、信号待ちを利用して受信ボタンを押すと、「愛読」を決めたメールマガジンが茜雲の空から手のひらのパソコンに舞い降りる。

2003年 1月30日 木曜日

【北風のプレゼント

二十代も後半にさしかかり、転職するなら今が潮時と思い始めた頃、妻が新聞広告で電機メーカーのデザイン課で2名の中途採用求人広告があるのを見つけた。
「どうせ受けるなら一部上場企業にしてね」
との希望に応えようと意気込んで出掛けて行った入社試験。
 
試験終了後、トイレで隣り合わせた男性に声をかけたら某大手ベッドメーカーに勤める工業デザイナーだった。聞くと新潟県高田市(現上越市)の出身だという。偶然にも彼と僕の2名がデザイナーとして採用になったのだが、彼とは奇妙に縁が深い。
 
新潟県高田市と静岡県清水市は、昭和29年から中学生による交歓会を実施しており、平成7年には姉妹都市になっている。【高田交歓】(高田市側では【清水交歓】)の歌も互いに覚えていたし、僕は当時2校あった高田市の中学、城南・城北中学の校歌をいまだに歌えるのだ。
 
高田市から生徒を迎えての歓迎会で、女生徒が
「その昔、高田市があまりにも雪深いので旅人のために道しるべが立てられました。それにはこう書かれていました。【この下に高田あり】」
とスピーチしたのが忘れられない。それほど雪深い地方に旅したことはなかったし、豪雪に耐える暮らしが魅惑的に思えたりもしたのだった。
 
「高田市側から清水はどう思えた?」
と同僚になってから聞くと、高田市で育った者が将来住んでみたい土地は、【清水交歓】の歌にあるような蜜柑が黄金色に色づいてたわわに実る、温暖な静岡県であり、誰もが一度は清水市民に羨望の思いを抱いたことがあるのではないかと答えた。
 
僕が日本海側の土を初めて踏んだのは、妻との結婚を申し込みに出掛けた昭和56年だった。
その年、日本海側は豪雪で、北陸線も不通になり、やっと動き始めた列車に乗れはしたものの、予定していた米原には着けず、湖西を回って京都駅にたどり着き、東海道新幹線を乗り継いで清水の母に報告に帰るという有様だった。
 
清水駅に降り立ち、あまりの風の冷たさに愕然としたのを覚えている。
真夏の日本海側でフェーン現象による熱暑に驚くように、真冬の清水市に吹き下ろす乾いた北風は、身も凍るほど冷たく、雪の降りしきる日本海側の寒さの方が凌ぎやすく感じたりするのである。

静岡市への実質上の吸収合併を二ヶ月後にひかえた1月29日の昼過ぎ、清水市美濃輪町にある鮮魚店、【魚初商店】さんから『北風のプレゼント』と題して写真添付のメールが配信されてきた。この日、北風に乗って清水市にほんの一時、雪が降りしきったのだという。そう、清水にも雪が降るのだ。
 
高田出身の友人が清水の雪景色を見たらどう思うかなあと、【高田交歓】のことを思い出し、上越市のサイトを覗いたら、半世紀に渡る清水市との友好に感謝して、作成する文集のために『ありがとう清水市の皆さん!!』のテーマで感謝のメッセージを募集されていた。
片や清水市側では、合併後は【高田交歓(上越交歓)】はやめると市長の独断発言が飛び出し、市のサイトを覗くと3月31日の閉市式では市役所前で【万歳三唱】をするなどという戯けた記述しかない。ここでもまた真冬の体感温度差は著しいなあと感じる。
 
高田市(上越市)の皆さんに申し訳ないので、僕が大好きだった高田市立城南中学の校歌を歌って、半世紀に渡る友好と、かけがえのない思い出をいただいた事への感謝の気持ちとしたい。


妙高に 妙高に 水晶の雪
荒川に 荒川に 翡翠の流れ
住む人に 真珠の心
美しや 我らが故郷
   
狭き地の 狭き地の 日本なれど
かぐわしし かぐわしし 花咲く理想
我ら 我らまた 雪深き底
常に灯せ 正義の明かり


写真は【魚初商店】中田元比古さん撮影の清水市美濃輪町。奥に見えるのは美濃輪稲荷神社の鳥居。

2003年 1月31日 金曜日

【バルタン星人】

コンピュータで名高い某電機メーカー、そのデザイン・センターに勤めた大学で同窓の友人を、そのまた友人が
「あいつは最近ヘンになって可笑しい」
と笑う。どうヘンになったかというと、ウルトラマンに出て来たバルタン星人、その腕先のザリガニ爪のように、いつも【ノギス】を持って歩いていて、何を計るのにもそれで挟むようになったというのだ。
グラフィックデザインの分野では【ノギス】を用いるのは希なので、僕も一緒に笑ったものだった。
 
20歳代後半、電機メーカーのデザインセクションに転職して、備品として最初に支給された道具の中に【ノギス】があり、「(ははあ、来たな!)」と思った。こんなもの使うかなあと、最初は馬鹿にしていたのだが、使ってみると良くできていて感心するほど便利なのである。本の装丁専門のデザイナーとして独立し、円満退社する際も、役に立ちそうなので有り難く頂戴して来て、現在も便利に使っている。
 
仕事先で本の束厚を計ろうということになり、編集者が、
「これ、どうやって使うんでしたっけ?」
と持ってきたのがなんと【ノギス】で、しかも見たことのないデザインでとても美しく、写真に撮らせていただいた(本当は頂戴したかったくらいなのだけれど)。
 
製造者は【足立計器製作所】とあり、電話帳で調べると東京都足立区に現存する会社だった。どう見ても、かなり古い物のようだ。
この【ノギス】というヘンな名前の計測器具を考案したのはフランス人で P.Vernier といい、彼の名を取って Vernier Callipers(バーニヤ・カリパス)と呼ばれた。Callipers(カリパス)は Compasses(コンパス)とほぼ同義である。この計測具、単に物を挟んだり、物に突っ込んだりして外法・内法を測るだけのもののように思えるけれど、【本尺】と【副尺】を用いて小数点以下まで計測できるアイデア商品なのである。フランスでは【副尺】を発明者に因んで Vernier(バーニヤ)と呼び、ドイツでは【副尺】を Nonius(ノニス)と呼ぶのだが、ドイツから伝わった【ノニス】が日本では【ノギス】と変じたらしい。

意外と便利なので簡便小型なキーホルダー式や、医療用などでデジタル式の【ノギス】を見かけるけれど、【副尺】(ノニス)を持たない物を【ノギス】と呼ぶのはおかしい気がする。

onMouseOver

上の写真(【足立計器製作所ノギス】にマウスを重ねて表示される写真)で写っているのは僕が愛用している【ミツトヨ】のものだ。ちょっと12mm強の物を計測してみた。上の目盛りが【本尺】で下の目盛りは【副尺】。上の目盛りは正寸だけれど、下の目盛りは19mmを20分割したもので、ひと目盛りが0.95mmになっている。【副尺】の起点【0】の線が【本尺】で12〜13の間にあるので【12】と小数点以下を割愛して読みとり、同時に【副尺】の目盛りのどれかひとつだけが【本尺】の目盛りと一直線に重なる箇所を探す。そうすると【(小数点以下)85】であることがわかるので、この場合計測した寸法は両者を足して【12.85mm】であるとわかる。【ノギス】では【副尺】を用いて 0.05mm 単位で計測できるのである。
 
そんな方法で正確に計測して何が嬉しいのかと笑われるかもしれないし、僕もかつてはそうだった。
バルタン星人のヨロコビは、バルタン星人になってみなければわからない。

 


電脳六義園サイトへのリンクは下のバナーをご利用ください。