電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

1999年11月30日 火曜日

体力発電

インターネットで配信されるメールニュースを読んでいたら日本の時計メーカーがぜんまい式クォーツ腕時計のメカニズムを開発したと伝えていました。ぜんまいの力で発電しクォーツ発信子を利用して秒針を制御するものだそうです。

人力発電というのは結構好きです。子どもの頃自転車についている発電機(ダイナモ)が大好きでした。これを使って小川で魚をとるという凄い漁法を見た事もあります。自転車のランプが素晴らしく明るいので、どうしてこのような人力発電をもっと利用しないのかと不思議に思っていたものです。

人力発電した電気を電池に蓄積して利用するラジオなどが発売されるとつい購入してしまいます。災害時などには重宝しそうなのですが、たかだかラジオを聞くために平時も数分間手動発電を繰り返すというのも、そう長続きする趣味ではありません。さらに手動で蓄積した電力がどれくらいなのかわからないので、電池切れが気になるというのも面白くありません。上記の腕時計はぜんまいをいっぱいに巻いておくと48時間動作するそうです。1日1回巻く習慣を付ければノンストップなのですから十分実用的だとわかります。そこがぜんまい式の良いところです。欠点は長時間安定した電力を供給するために極めて微弱な電力しか発生できないことでしょう。

こんなのはどうでしょう。(1)のハンドルを回すことでぜんまいを巻きます。ぜんまいをいっぱいに巻いたら(2)のレバーを引きおろすことでダイナモについているフライホイールが回転し発電が始まります。ぜんまいが巻き戻る力はフライホイールが減速するのを妨げる用途にだけ使用されます。効率の良い豆電球や発光LEDなどを利用すればトイレで用をたすあいだのぼんやりとした明かり程度は得ることができるのではないでしょうか(^^) こんなのをトイレのドアに付けて置いて、まず発電してから発便するというのはどうでしょう。

室内での運動用に用いられる健康器具自転車や、屋外を走れる本物の自転車にダイナモを付け蓄電池に発電した電気を貯められるようにし、1時間程度運動したらどれくらいの電力が得られるのでしょうか。私の事務所ではデジタルコードレス電話を親機として使用し、複数のPHSを子機として使用しています。子機は使用しない間の電池消耗を防ぐためすべてコンセントに接続した充電ホルダーに置いてあります。このように微弱な電気を使用するためにコンセントに繋がっている機器が数え上げるとずいぶんあります。これらの機器の営業時間内使用電力を賄う程度の発電が出来るのなら、最近とみにつきはじめた贅肉減少のために体力発電を励行する励みになるのですが。自転車用発電・蓄電器って無いのでしょうか。

DIYの師匠に相談して試作してみようかな。結構本気で(^^)

1999年11月29日 月曜日

A Hard Day

ハードな一日でした。といってもコンピュータのお話です。ハードディスクが手狭になったので Macintosh G3 MT266 にハードディスクを内蔵しました。初めて買った Macintosh に付いてきた230MBのハードディスクが広大な海原のように思えたのが嘘のようです。 MT266 は内部0番に ATA のハードディスクを1台slaveとして(奴隷ですよ。凄い表現だなあ)ぶら下げられるので、思い切って20GBのやつを入れてみることにしました。お目当てはIBM の DJNA352020-UAT/B です。Macintosh オタク御用達の「秋葉館」に行ってみるとなんと1万円台です。DOS/V ユーザー様々です。

さっそく「これください」と店長らしきお兄ちゃんに言ったら、

「機種はなんですか?」
「 MT266 」
「使えませんよ、それでもいいんですか?」

来たなと思いました。この店はこういう対応をするとNIFTY-Serveのフォーラムで聞いていたのです。

「最悪の場合、認識すらされなくてマシンが起動しなくなることもありますが、いいんですか? 6Gもしくはそれ以下でもディスクの影すら見えなくなるんですよ。それでもいいんですか?」

不思議なことを言うものです。心の中で、(バカヤロ〜認識して使えるに決まってんじゃあねぇか、このすっとこどっこい)と思いましたが、こちらが大人なのとオタク度ではあちらの方がずっと上手(商売だからね)なので、ぐっと言葉を飲み込んでこらえたのですが、何度も何度も言うし、しかも納品書兼保証書に文章として書きやがんの。ったく、どうなってんだ、この店は。

血圧を上げながら帰宅し、MT266 を開腹、DJNA352020-UAT/B がmaster(主人)になっているのをslave(奴隷)にして内蔵、再起動しMacintosh 標準装備の「ドライブ設定」(IBMのドライブに使える)で4つのパーティションを切ってイニシャライズ。これで使えるようになりました。

しかし、あの店はどうしてああいう対応をするのでしょう。大人なので五十歩でも百歩でも引いて考えますが、おそらく

「このドシロ〜トがな〜んもわからんくせに、カッコつけてハードなんかいじるんじゃね〜よ。挙げ句に不良品だ、なんとかせ〜と怒鳴り込むに決まってんだから、使えねえって言われてビビらねぇ覚悟がなきゃあ買うんじゃねぇよ!」

と、言っているのかもしれません。形のいびつな親切ですね。他の店に行けばもっと高いけど、ニコニコ笑いながら黙って売ってくれます。店員はな〜んも知らない接客ロボットですから、「ありがとうございま〜す(ああ、難しいこと聞かれなくて良かった)」と胸をなで下ろすだけです。会話無しで購入できます。

無愛想で不快な講釈を聞かされる店が親切で安い、笑顔でさっさと用件が済む店が不親切で高いという不思議な社会になっているようです。しかも親切・不親切が相当歪んでいます。ご注意あれ。

1999年11月27日 土曜日

ベンヤメンタ学院

ヤン・シュワンクマイエルの「アリス」を見ました。かなり楽しめました。本当は凄く感激して今日の日記はこれでと決めていたのに、クエイ兄弟の「ベンヤメンタ学院」を見たらあまりの衝撃に「アリス」に配給する言葉が底をついてしまいました。

11/14の日記に書いた「ベンヤメンタ学院」は1995年のクエイ兄弟の作品です。長編ということで期待していたのですが、高山裕明さんの前情報によるとパペットではなく人物を使った実写版とのことで、ややがっかりしながら見始めました。す、す、す、す、す、す、素晴らしい! こんなに美しい映像を見るのは久しぶりです。ある意味でNo.1かもしれません。美しいと言っても、風景を絵に譬えるようなサーフェスの問題ではありません。「ストリート・オブ・クロコダイル」で見たようなパペットやオブジェを使った作品で、3次元の不思議、時間の不思議、光りの不思議を求道的な姿勢で探求してきた人が、実写(若干不適切な表現ですが)映画を撮ると、こんな凄い映像になるのかと感心しました。

ストーリー・テリングによるエンターテイメントはさておいて、映像の魅惑に酔いしれてしまいました。物が3次元の空間に立体物として認識されるということの不思議、人間だけではなく心を持たない物体までもが「魂」を持っているかのように、時の流れ光りの移ろいと呼応しながら表情を変えていく不思議を、2次元の映像の中でここまで表現した作品を見たことがありません。「ストリート・オブ・クロコダイル」の中のあのシーン、このシーンがこの映画のための習作だったのではと思えてニヤリとすることもありました。

主題の背景の演出が実に考え抜かれた所業のように「細部」を大切にして表現されています。画面隅の陰影の美しさに溜息が出ます。光りの当て方ひとつ変えれば事象がどんな見え方で立ち現れるかを学ぶための教科書のようでもあります。彫刻家が力強くノミで世界を掘り出していくような映像を見ていると、凡百の映画が平板に見えてしまいます。

ヤン・シュワンクマイエルの「アリス」を見ていても感じたことですが、役者の指一本の動きにすら途方もない意味が込められているのではないかと思わせる拘泥と、思わぬ空間にぐっと腕を掴んで連れ込まれるような逸脱、そして拘泥と逸脱の反復により多様な感慨を次々に想起させる表現手法は、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」と感じさせる事さえ出来るような凄い力を持っていると感心させられました。

恐るべき才能を持った人たちがいるもんだなあ。ただただ感服。

11/28
先日C社のKさんが遊びに来られたとき、主に欧州映画における「窓」への執拗な執着についての話になりました。シュワンクマイエルにしてもクエイ兄弟にしても「窓」「扉」「穴」への拘泥が繰り返し繰り返し映像表現に見られます。それは「鍵穴」や「抽斗」や「破れ」などに形を変えて現れることもあります。思うに、石積の壁を複雑に立てて屋根や床を支える建築様式(結果として個室を多数持つ)で育まれた感覚は、内界と外界を繋ぐ部分に異様な執着を持つのではないでしょうか。私たち日本人のように柱で屋根を支え、壁をめぐらす板材さえついこの間まで庶民には縁遠い物だった民族、湿潤な季候ゆえ開口率を重視した住まいを理想とした民族とは、内界と外界、それの接点に関する感覚がかなり異なるのではないでしょうか。私など、縁側のある一軒家で、夏の夜、庭に向けて扉を開け放して蚊帳を吊って寝ることにあこがれていたりしますから、深層では「窓」への執着は意外と淡白なのかもしれません。

1999年11月26日 金曜日

筆文字実験室

子どもの頃から絵を描くのは好きでした。一方、絵を描くのが嫌いな人もいて、そういう人は絵を描いているところを見られるのもイヤ、描き上がった絵を見せるのもイヤなのだそうです。わかる気がします。

子どもの頃から習字が大嫌いでした。筆で文字を書いているところを見られるのもイヤ、出来上がった書を見せるのもイヤでした。習字がどうして嫌いだったかというと、お手本というものを真似して学ぶというのが性に合わなかったのです。更に教師がその上に朱筆で図々しく添削するというのが屈辱的でした。ですから習字の時間が死ぬほど憂鬱でした。

今でも冠婚葬祭にあたり、筆で文字を書くのも、記帳しているところを人に見られるのもイヤでイヤでたまりません。自分の文字を見るのがイヤなのです。なんて下手で品の無い字なんだろうと思います。恥ずかしくて消え入りたくなります。絵が嫌いな友人は、絵に対して同様の感情を抱いていたといいます。同様に屈辱的な体験をしたのでしょう。

そんなわけで、書に長けた人は理屈抜きで尊敬してしまいます。インターネットで面白いページを見つけました。「書のデザイナー」をめざしている人が、ホームページで書いて欲しい文字を注文すると「書」にして送ってくれるのです。しかも商用目的でなければ自由に使って良いのだそうです。久しぶりに面白いサイトだったのでご紹介します。

筆文字実験室
http://www1.neweb.ne.jp/wb/fudemoji/

1999年11月25日 木曜日

記憶のフーガ

鉈で薪を割るように人を二つに割ると「メモをとる人」「メモをとらない人」が出来上がります。私は後者です。メモなんてとらなくても肝心なことは一度聞いたら忘れないという自信があったからです。ところが最近、老人力がつき始めたせいか「度忘れ」が頻発するようになりました。

やはりメモしとかなくちゃ駄目かしらと手帳を持ち歩いてみるのですが長続きしません。学生時代の受験勉強で「書いて覚える」ということが身についてしまい、書く時にぐっと集中するので、書いたことは覚えてしまうのです。手帳を開いても覚えていることばかりなので馬鹿らしくなります。

さらに手帳というのは持っていることが何とも煩わしいのです。身につけていることを意識しないほど軽快なメモ帳などを買ってみるのですが、身につけていることを意識しないほど軽快だと、「持っていること=メモする行為」すら忘れてしまうのです。

書くことも、メモ帳を持っていることも煩わしいのですが、「何かを覚えていなければいけない」ということ自体が最も煩わしいことです。最近、

「そうか、きちんとメモしておけば一時用件を忘れて自由になれる」

と、鼻歌混じりのノリでリラックスしてメモを取ることを励行してみましたが、これにも落とし穴がありました。何か大切な用件があってメモしておいたのだけど、そのメモを何処に置いたのかが思い出せないのです。勿論何を書いたのかも。

メモ帳の在処を失念するたびに、コンビニで新しいメモ帳を買うので机の回りには書きかけのメモ帳が10冊くらい転がっています。ああ、煩わしい。

1999年11月24日 水曜日

萬楽飯店

はじめにお断りしておきますが萬楽飯店のことは良く知りません。何年か前に秋葉原の凸版印刷で出張校正の帰り、ぶらっと入ってみたのがこの店との出会いでした。順天堂病院、東京医科歯科大学、湯島聖堂前を過ぎて相生坂をとことこ下り、昌平橋方向へ曲がる交差点の左手前にある店です。入ってみてびっくり、この店がただならぬ物語を背負っているのは一目でわかりました。とても説明しきれませんので店内のムードに興味のある方はこのページをご覧ください。後述しますが見るなら今のうちだと思います。リンク切れの節はご容赦ください。

萬楽飯店に入ってみる

実はこの店「中国酒」のコレクションでは大変有名な店だったのですが、そんなことは知らないのでぼんやり古びたテーブルに座ってみました。ランチタイムなのに客が一人もいないのが不安を増幅します。とはいうものの凄い穴場を発見したのかもという期待もあり、どきどきして待っていると出てきたのは痩せぎすの老主人でした。ここは定番のラーメン450円なりを注文すると裏の厨房に回ってなにやらごそごそ作っているムードです。狭い店内に「中国酒」や料理の蘊蓄がびっしり。雑誌の取材を度々受けているらしく、その切り抜きもびっしり。少し片づけないと客席が無くなってしまうのではないかと余計なお節介もしたくなるような乱雑ぶり。何とも怪しげなムードが漂う中に、少年力士の写真を見つけました。ひょっとして…という、こちらの想像を遮るように、
「若貴ではありません、私の孫です」
という注釈があって一安心。だって、この店に天涯孤独の老主人では不気味すぎます。

出てきたラーメンは素晴らしいものでした。好き嫌いは別れると思いますが、独自の味をもっていました。チャーシューが素晴らしい味だったので、次に訪れたとき炒飯を頼んでみましたが、これも絶品でした。

今日、出張校正帰りに前を通りかかると、何と現代風のラーメンショップになっていました。真っ赤な暖簾に創業明治45年という文字が誇らしげに白抜きで大書され、花輪は「北方謙三」「馳星周」「井崎脩五郎」「ビッグコミック」とそうそうたる面々が名を連ねています。

あのラーメンが小綺麗な店で食べられるのかと喜び勇んで入ってみると、ご主人はあの老主人ではなく、ラーメンの味はごくありきたりのものでした。残念。思い出の中でしか会えない味がまた1つ増えてしまいました。あの老主人はお元気なのでしょうか。もしお元気で、今カウンターに立っているのが息子さんならお父さんのラーメンの味を是非復活して欲しいと願って止みません。

1999年11月23日 火曜日

congratulations

11月20日(土)、清水市は1999年Jリーグ2ndステージ第13節「アビスパ福岡」戦で沸き立っていました。清水市興津の町に向かう「第一タクシー」の車内では勿論清水エスパルスの実況中継が流れています。興津駅前の魚屋さんも大音量で中継を流しながら黄昏時の商戦の真っ最中です。地元の熱心な応援を受けて日本平では、清水エスパルスが1対0でアビスパ福岡を撃破。残り2試合の内1勝すれば悲願の初優勝というところに漕ぎ着けました。

そして、本日11月23日(火)横浜Fマリノスを接戦の末2対1で破り清水エスパルスは初優勝を達成しました。2年前、財政難から存続を危ぶまれるほどの危機から立ち直り、熱心な指導者と、薄い選手層をフェアプレイとチームワークで乗り切る選手の自覚と、地元の燃えるようなサポートに支えられ、遂に頂点に登りつめた清水エスパルスに心からの祝福を贈ります。

せめてものお祝いに、遅ればせながらファンクラブ入会申込書に「優勝おめでとう!」のメッセージを添えてFAXを送りました。清水エスパルスホームページhttp://www.s-pulse.co.jp/では既に優勝Logo入りで勝利を祝っていました。

こちらも清水エスパルスのLogo入りでお祝いを掲載したいところですが、デザイナーが率先してLogo/キャラクタ等の著作権を擁護しなければなりませんので、11月21日、
「エスパルスもがんばってますから」
と大奮発してLogo入りサブレを3袋プレゼントしてくれた、清水銀座商店街・和菓子の老舗「中満」店頭の幟の写真を掲載しておきます。

 

1999年11月22日 月曜日

光の国、闇の国

光の国へ

生まれ故郷「静岡県清水市」で最後の映画館が閉館したとき、確実に「街の灯」がまた一つ消えたことが実感として心に沸き上がってくるのを感じました。

その街に最近新たに映画館がオープンしたというのです。是非一度この目で確かめてみたいと思い11/20から連休をとって出掛けてみました。

県道150号線を三保方面から湾岸沿いに清水市街地方向に進んだストックトン橋の手前右側に、それは突如出現したのだそうです。私の記憶では、そこはかつて地元企業「鈴与」のトラック操車場の有った場所で、廃線になった清水臨港線に沿って延々と工場や倉庫群の続く灰色の町並みだった場所です。

現地に近づくと延々と連なる自家用車の列。乗っているのは若者や家族連ればかり。そして、出ました。オレンジ色「清水エスパルスカラー」の巨大エンターテイメントビル「エスパルスドリームプラザ」。周辺には610台収容のパーキングが3棟。清水駅との間をピストン輸送する無料送迎バス。休日ということもあり、物凄い盛況ぶり。清水でこれほどの活気ある人の波を見たのは久しぶりです。この建物周辺には各種イベント施設、ヨットハーバー、親水公園などが整備され小春日和の日差しを浴びて家族連れが海辺の遊びを楽しんでいました。

人並みに揉まれて館内を歩いた妻の感想:
「清水じゃないみたい」

映画館は4階にある「MOVIX清水」で、最近流行の観客の快適性を重視したミニシアターのようです。

さすがに人当たりしてしまい、海の見えるテラスでグラスワインを注文し、おそらく1日「万人」単位の人出を記録したであろうウォーターフロントの盛況ぶりと、駿河湾上にぽっかり頭を出して満足げな富士山に乾杯して帰って来ました。

闇の国へ

清水市内でお薦めの店、地元で漁師をしている若者達の直営店「新生丸」から、一人の若者が独立し「興津」の町で「もとよし」という鮮魚料理の店を始めました。その若者は母のお気に入りでもあり、静岡リビング新聞社の大江みどりさんを伴って妻と4人で出掛けてみました。

興津は清水市の東のはずれにあり、かつては東海道の宿場町として栄え、西園寺公望など著名人が別邸(明治村に移築されて現存)を構えるなど、風光明媚な保養地としてその名を全国に轟かせた町です。今は、新幹線開通、東名高速道路開通、国道1号線バイパス開通、港湾整備と水質汚濁による海水浴場閉鎖、そして平成不況の嵐に揉まれてすっかり往時の繁栄は影を潜めてしまい、静かな海岸沿いの町になりました。

バイパスの混雑を避けて旧1号線(旧東海道)をタクシーで向かったのですが、まばらになったとはいえ、古い街道沿いの家並みを守り続けている人たちがいることに感動しました。もう一度徒歩でこの町並みを歩いてみたいと思いました。作家の村松友視氏も加わって町並み保全の運動も始まっているとも聞きました。

昔の商家の風情をしっかり残して、今も手作りで頑張っている醤油やさん、腰を抜かしそうに美しい佇まいの鯛焼き屋さん、そして一度入ってみたい魅惑的なおでんの店。(川上哲也さん、いかが?)

静かな町の夜は深い闇を伴って足早にやってきます。めざす「もとよし」は、その町並みを更に通り過ぎた海岸沿いの静かな場所にありました。口開けで席に着いたものの、こんな人気のない場所で商売が成り立つのだろうかと店主の「たかやくん」の将来が危ぶまれたりしたのですが、来るわ来るわ、深い闇の中から次々に客が湧いてきて、あっという間に満員になり、臨時の補助椅子を持ち出さなければならないほどの大盛況です。

とれたての地魚と地酒を飛び切り安く御馳走になり、タクシーを呼んで貰って興津の闇夜を後にしました。

タクシーが清水駅前に着いたときの母の第一声:
「ああ、街に帰ってきた!」(全員爆笑)

小さな港町で、サッカーを目玉に新たな光を灯そうとする人々、古い町並みの闇の深さを大切に守り続ける人々を見てきました。そして最後は、大正橋の袂で今日も元気な「金田食堂」の灯火に引きつけられるように4匹の蛾は暖簾をくぐるのでした。

「エスパルスドリームプラザ」のホームページ
http://www.dream-plaza.co.jp/

1999年11月19日 金曜日

納戸

年齢に追われるようにあわてて結婚したのですが、今にして思えば25歳というのは決して遅い結婚ではなかったようです。25歳の男が自分の給料で「君を養う」と宣言したのですから、若いというのは無鉄砲なものです。新居は三鷹駅からはるばるバスに乗って辿り着く、畑の中のウナギの寝床型木賃アパートでした。

やがて僅かばかりの昇給と、妻の副業収入を頼りに都心に攻め上ろうと考えたのですが、中央線沿線は手が出ませんでした。思い切って山手線内、学生時代の思い出の地、文京区内で物件探索したらあまりの安さに驚きました。結局文京区向丘に格安で夢のように広いマンションを見つけて引っ越したのが27歳の時です。

そのマンションに不動産屋に連れられて訪れたときの驚きは忘れられません。広い部屋3室にバストイレ、さらに大宴会が出来そうな広大なベランダつきで、日当たり満点。晴れた日だったのでベランダから富士山が見えるのにも感激。更に奥に3畳ほどの暗い小部屋を見つけ、この部屋は何かと尋ねると、不動産屋は、

「ナンドです」

と、素っ気なく答えました。生まれて初めての納戸のある家で、言葉の意味も分からず、辞書で調べると要するに屋内の物置でした。

自転車が擦れ違える程度の小道を挟んで、ベランダから見下ろせる端正な庭園が劇作家木下順二氏の邸宅だと友人の編集者に聞いて仰天。即座に契約したのは言うまでもありません。

そのマンションも今では取り壊され、文京区の高齢者施設になってしまいました。

1999年11月18日 木曜日

重力の中心を盗む

高校時代の格技の授業は柔道でした。他の高校は2年で終了するところを、私の学校では3年間やらされました。専用の柔道場がありましたから、そもそも柔道の盛んな学校だったのです。

2年までは基礎練習の繰り返しでしたが、3年になると毎時間勝ち抜き戦の試合になりました。当時から身長は高かったので通算では勝ち越して終了しました。素人柔道では体の大きい者が、やはり有利ですから。

ある試合で勝ち上がってきて対戦相手になったのが見城君という小さくて痩せた男でした。彼が中学時代柔道をやっていたことを知っていたので警戒していたのですが、組んでみると、こちらが振り回す度にふらふらしているので「勝ったな」と思いました。気を抜いたその瞬間さっと身体が入ったかと思ったら、私は背負い投げで宙に浮いていました。小よく大を制した訳ですからやんやの喝采です。悔しい思いをしました。

投げられる瞬間「しまった重心を盗まれた」と思いました。重心を思い通りにされてしまったら、さっと腰に乗せられて投げつけられることはわかっていましたから。

一年納めの九州場所、地元の友人から先日の「土佐の海、栃東戦」に対する私のコメントにメールをいただきました。簡単にはたかれて落ちる相撲を取った土佐の海に「落ちるな」と言いたいが、栃東にも「はたくな」と言いたい。旭国、安芸ノ島、千代の富士のような強靱な下半身を持った力士を例に挙げて、「栃東にはそのような期待もあっての厳しい評価」が下ったわけでバッシングとは言えないと言うものでした。その通りだと思います。

千代の富士の相撲を思い出すたびに、あの力士にも、この力士にも「厳しい評価」を下して欲しいと思います。千代の富士の特徴は陸上部で培った、立合でのコンマ数秒早いダッシュ力、突きや喉輪を弓なりになってこらえながら指先がちょっとでも通ったらまわしをを放さない握力の強さ、そして相手の重心を自分有利の位置に盗み取る引きつけの強さにあったと思います。

栃東ファンの私はちょっと甘いので、はたいてもいいから「厳しい評価」を受けざるをえない大関昇進を狙える位置に踏みとどまり、「厳しい評価」に耐えかねた末、重心を盗む手際のよい相撲に開眼して貰いたいと思っていたりします。

…と、書いている間に土佐の海が魁皇に、栃東が雅山にはたき込まれて負けました。やれやれ。押すか、はたくか、サーカスか…これでは怪我人が出るわけです。千代の富士の通算成績は下記の通りです。

優勝

31回

殊勲賞

1回

敢闘賞

1回

技能賞

5回

成績

1045勝437敗159休

場所数

125場所

金星

3


データは残っていませんが、良い力士というのは対戦相手に怪我をさせた回数が勝ち数に反比例するのではないでしょうか。

1999年11月17日 水曜日

小川南吉を知っていますか?

某出版社が電子出版に興味があるようなので「青空文庫」に関するメールを打ちました。このサイトから辿れば「電子出版の今」に関してかなり見通しがきくはずなのですが、果たして見てくれるのやら…。

そのついでに、収録作品を調べてみました。素晴らしい。マン・パワーの結集は凄い力になるものです。なんと新美南吉の作品が充実しているのが嬉しいかぎり。実は、昔教科書で読んだ「おじいさんのランプ」という話が好きで、人と飲むとき「ねえ、ねえ、新美南吉知ってる? おじいさんのランプの話知ってる? えっ、知らない? じゃあ教えてあげる」といった調子で話し出し、佳境にさしかかると涙目のウルウル声で語るのが癖なのです。妻は5回以上聞かされたと言います。

「青空文庫」に「おじいさんのランプ」が収録されたので、さっそく買っておいた「T-Time」を使って読んでみました。何十年ぶりかの原本だったのですが、あまりの違いに愕然。私が記憶の中で作り上げて他人に語っていたものは、まるで出来の悪い贋作です。原文はこうです。

それから巳之助は池のこちら側の往(おう)還(かん)に来た。まだランプは、向こう側の岸の上にみなともっていた。五十いくつがみなともっていた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのランプがともっていた。立ちどまって巳之助は、そこでもながく見つめていた。
 ランプ、ランプ、なつかしいランプ。
 やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つ拾った。そして、いちばん大きくともっているランプに狙(ねら)いをさだめて、力いっぱい投げた。パリーンと音がして、大きい火がひとつ消えた。
 「お前たちの時世(じせい)はすぎた。世の中は進んだ」
と巳之助はいった。そしてまた一つ石ころを拾った。二番目に大きかったランプが、パリーンと鳴って消えた。
 「世の中は進んだ。電気の時世になった」
 三番目のランプを割ったとき、巳之助はなぜか涙がうかんで来て、もうランプに狙(ねら)いを定めることができなかった。
 こうして巳之助は今までのしょうばいをやめた。それから町に出て、新しいしょうばいをはじめた。本屋になったのである。

新美南吉「おじいさんのランプ」より

私の頭の中で変貌し解体し再生産された珍妙な話はこうです。

 巳之助は村はずれの池の端までやってまいります。池の回りに植えられた桜の木は、真冬のことですから葉を落として黒一色の線画になっておりました。巳之助はいとおしむように一つひとつランプを枝に吊していきました。そして一つひとつ灯りをともしていき、すべてのランプに灯をともすと池の回りは光に満ちあふれ、まるで桜が満開になったような美しさでございました。
 足下にあった石を拾い、巳之助は一番手前のランプに狙いを定めて投げつけました。
「古いものなんかだめだ」
カシャンと音を立ててランプが割れ、灯りが一つ消えました。
「古いものなんかだめだ」
「古いものなんかだめだ」
巳之助は泣きながら一つひとつランプを割っていったのでございます。

石原雅彦「思い出のおじいさんのランプ」より

どうしてこんな話になってしまったのでしょう。原作では季節は冬ではなくて春ですし、池の岸に植わっていたのは桜ではなく、はんの木や柳なのです。しかも、どうしたものか文体が小川未明のものにすり替わっているのです。どうも、私は友人に「小川南吉の迷作」を悦に入って語っていたようです。あなはづかしや。

1999年11月16日 火曜日

銀幕に泣く男

高山さんの映画ページを読んでいてふと思いました。私は「泣ける」映画が結構好きです。成人して泣けた映画というのは、人に言えない恥ずかしい動機もあったりして、ちょっと口ごもってしまったりします。では青少年時代に泣けた映画はというと、数えるほどしかないのです。

生まれて初めて泣いた映画というのは多々良純さんが主演した「シマウマのおじさん」(ちょっとうろおぼえ)だったと思います。これは劇場公開用というより、学校の映写会などで上映するための教育映画だったのだと思います。「シマウマの」というのは多々良純が学童の登下校時に交通整理を行うときの衣装のことです。そのおじさんが児童を交通事故から守ろうとして亡くなるというシンプルなお話です。

最後に児童代表が弔辞を読むシーンでこらえていた涙が溢れそうになりました。いじめっ子から「男のくせに映画見て泣いた」とはやされるに決まっているので、何とかこらえようといじめっ子の方を盗み見たら、奴も泣いているのです。最後は映写会場の講堂中がすすり泣きになりました。「交通戦争」が激しくなった時代で、夏休みが終わったら友人が片足を失っていた、学校近くの交差点が大騒ぎなので行ってみたら下級生の女の子が轢かれた現場だったなどの悲惨な出来事ばかりだったので、「大人になっても自動車なんて運転しないぞ」とシマウマのおじさんに誓ったのは私だけではなかったでしょう。結局、成人してマイカー族に身を投じてしまいましたが。

中学生時代は「若大将」と「クレージーキャッツ」ばかりだったので泣いたことなどありません。もう映画を見て級友の前で泣く事などあるまいと思われたのですが、高校生になって意外な映画に泣かされることになりました。

高校3年間通して担任だった若い社会科教師の口癖は、「社会に出てどんな思想を持っても『主義』『主義者』を自称する奴には気をつけろ」でした。今でも会ってみたい兄貴のような「先生」の一人ですが、彼が見せてくれた映画が「軍旗はためく下に」「にあんちゃん」などです。2本とも泣くことはなかったのですが(「にあんちゃん」は成人してから見直して泣きました)、もう1本の「日本列島」は大泣きに泣きました。今でも日本の刑事物映画では最上の部類に入るのではないでしょうか。

主役は宇野重吉。1949年7月5日に起こった初代国鉄総裁下山定則が礫死体で発見された下山事件の真相を追究する刑事役です。三鷹事件、松川事件も組み込まれていたかもしれません。主調として流れるのはアメリカ軍謀略説です。松本清張の著書で概略は知っていたので、こぶしを握りしめて見ました。衝撃的な最後のシーンが終わった途端、涙がポロポロこぼれてしまいました。隣にいた空手部の久保寺が「泣くこたぁないだろ」と妙に青春ドラマ風に肩を叩いてきたので、奴も泣きたかったのだと思います。きっと海岸まで走って狂ったように「石割り」の荒行に励んだのでしょう。

企画

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大塚和

監督

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熊井啓

脚本

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熊井啓

原作

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吉原公一郎

撮影

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姫田真佐久

音楽

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伊福部昭

美術

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千葉和彦

録音

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沼倉範夫

照明

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岩木保夫

出演

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宇野重吉、芦川いづみ、二谷英明、鈴木瑞穂、武藤章生、平田守、庄司永健、下元勉、伊藤寿章、長尾敏之助、雪丘恵介、長弘、紅沢葉子、佐々木すみ江、木村不時子、日野道夫、大滝秀治、加藤嘉、佐野浅夫、内藤武敏、北林谷栄

1965年、モノクロの日活映画です。松本清張の「実在した事件の推理物」が好きな方には最上の出来だと思います。

1999年11月15日 月曜日

庶民はつらいよ

生活とリハビリ研究所を主催する理学療法士の三好春樹さんは最近フーコーの読書会などを開いてポスト構造主義の方面へ知の裾野を広げているようですが、私は分相応と言うことで秋の読書は構造主義再入門に絞っていたのですが、いささか疲れてしまい、このところ地元文京区関係の本を読んで脳味噌のクールダウンにつとめています。

この年になって気付いたのですがローカルな歴史=郷土史というのはどうしてこんなに面白いのでしょう。本駒込三丁目にかつて「えび床」という髪結床(嶋村理髪店として11代続いた)があり、その家に『安政年代駒込富士神社周辺之図・図説・絵図』というのが伝わっているそうです。

本郷通りの本郷三丁目交差点を過ぎ、東大の広大な敷地を右手に見ながら駒込方向へ、白山上交差点を過ぎるとすぐ右に折れる分岐点があります。都立駒込病院を経て道潅山下に続く道です。この分岐点あたりをかつて浅嘉町と呼びました。この浅嘉町からJR駒込駅を経て妙義坂を下り霜降橋交差点に至るまでの本郷通り(岩槻街道)を、左右の家並みを含めて詳細に記述したものがそれです。

いかにも市井の人が描いたような素朴なものですが、この文書(地図)の書き込みが面白いのです。

本郷通り(岩槻街道)といえば徳川将軍が日光に社参する道になっており、「お通りの際」の沿道住民の苦労は大変だったようです。一年前から様々な注意が与えられ、当日は風呂屋は休み、各家庭では仏壇・神棚の線香・灯明も禁止。住民は家の前に土下座してお辞儀をするというありさまです。

その書き込みによると、ある年この辺の住民は「窮屈な強制」を逃れるために知恵を絞って、家の戸を閉めて「貸家」の張り紙をした上で、家族揃って浅草の観音様へ遊びに出掛けてしまったそうです。将軍が通りかかった際、「貸家」の中で鶏の声がしているのを役人が不審に思い裏へ回ってみると裏口ががら空きになっており鶏が入り込んで運動会です。結局ばれて大目玉を食らったなどということが書いてあるのです。

昭和天皇の大葬の礼が行われている日も業務を平常通り行っているポリシーある出版社があり、私も打ち合わせに出掛けましたが、町はゴーストタウンのようで、社員は昼食がとれずに困ったという「反骨」と「応報」の交錯するトホホな、あの雨の日を思い出しました。

1999年11月14日 日曜日

魂の洗濯

活動寫眞千本切りの高山裕明さん推薦の「ストリート・オブ・クロコダイル」を見ました。

●1…レオシュ・ヤナーチェクLEOS JANACEK : INTIMATE EXCURSIONS

監菅、美術、パペットデザイン、撮影=ブラザーズ・クエイ
音楽=レオシユ・ヤナーチェク/I983年/イギリス/カラー/27分

●2…ヤン・シュバンクマイヤーの部屋THE CABINET OF JAN SVANKMAJER-PRAGUE'S ALCHEMIST OF FILM

監督、美術、パペット・デザイン、撮影:ブラザーズ・クエイ/
1984年/イギリス/カラー/14分

●3…ギルガメッシュ/小さなほうきLITTLE SONG OF THE CHIEF OF HUNAR LOUSE OR THIS UNNAMEABLE LITTLE BROOM

監督、美術、パペットデザイン、撮影:ブラザーズ・クエイ
1985年/イギリス/カラー/11分

●4…ストリート・オブ・クロコダイルSTREET OF CROCODILES

監督、美術、パペットデザイン:ブラザーズ・クエイ
原作=ブルーノ・シュルツ「大鰐通り」/美術=ジョナサン・コリンソン/音楽=レシュ・ヤンコフスキ /サウンド編集=ラリー・サイダー/制作=キース・グリフィス/1986年/イギリス/カラー/22分/日本映画ペンクラブ推薦

●5…失われた解剖模型のリハーサルREHEARSALS FOR EXTINCT ANATOMIES

監督、美術、パペットデザイン、撮影:ブラザーズ・クエイ
音楽=レシュ・ヤンコウスキ/1989/イギリス/モノクロ/14分

●1はチェコスロバキアの東部地域モラビア出身の作曲家レオシュ・ヤナーチェク (1854〜1928)に関するもので、ヤナーチェキアンになって氏の作品に触れてからでないと私には荷の重いものでした。
●2は同じくチェコスロバキア出身の人形アニメーション作家ヤン・シュバンクマイヤー(シュワンクマイエル)に関するもの。これは凄い!! 後で見るビデオの中で小沢昭一氏が連発する「魂の高揚」を感じました。昨年見たユーリ・ノルシュテインを見たとき以来の興奮です。創造というものは本来、自由でわくわくするものなのだと改めて思い出させてくれます。魂のリゲインです。落ち込む度に何度でも見直したい傑作だと思います。●3〜5は文句なく素晴らしいです。ビデオパッケージの表題作である●4ストリート・オブ・クロコダイルは定評があり友人の間でも評価が高いものです。CFや映画でこの作品からパクったアイデアがずいぶんあるのではないでしょうか。

ブラザーズ・クエイは1947年、アメリカ・フィラデルフィア生まれの、スティーブとティムの双子の兄弟です。フィラデルフィア芸術大学卒業後英国王立美術学校に学びました。そのためかタイポグラフィーが素晴らしいです。それだけでも見る価値があります。作中で烏口がサラサラっと美しいスクリプトを描くシーンにほれぼれしたりします。他に『Nocturna Artificialia』(1979)、『パンチ・アンド・ジュディ』(1980)、『Ein Brudermord』(1981)、『The Eternal Day of Miche1 De Ghelderode 1898-1962』(1981)、『Igor-The Paris Years Chez Pleyel』(1983)、『スティル・ナハト』(1989〜1993)、『櫛』(1991)、『アナモルフォーシス』(1991)、『ベンヤメンタ学院』(1995)などの作品があります。

続いて同じく高山さん推薦の『じょーじなまはげ』を見ました。高山さんも指摘している中華料理店の細部が素晴らしいです。なまはげの国になんか行ってしまわずに、この胡散臭くも懐かしい町の中で縦横無尽に「じょーじ」君がいたずらをしまくるシーンをもっと見ていたいと心から思いました。タケカワユキヒデの歌う主題歌も傑作です。もう耳について離れませんので高山さんと飲む機会があったら合唱したくなりました。

久しぶりの映画鑑賞の余勢を駆って、小沢昭一さんのビデオを見てみました。

『【大系】日本 歴史と芸能』第13巻大道芸と見せ物
1…薬草売り、2…家相見、3…ハブの薬売り、4…包丁売り、5…バナナ売り、6…見世物小屋・人間ポンプ、7…つく舞、8…猿まわし、9…のぞきからくり、10…瞽女・長岡ごぜの門付

バナナ売りはやっぱり懐かしく、ぜひマスターしたくなります。妻は「人間ポンプ」を見るのが初めてで、途中から正視できなくなりました。のぞきからくりは凄い。ああ、こうだった、こうだったと思い出をずいぶん補修することが出来ました。「ものがたり芸能と社会」の中の『節談説教』も凄い。まさに魂の高揚を感じました。

ああ、精神のリフレッシュをしたと通常テレビ放送に戻すと、昨日の栃東の相撲のことをぐずぐず言っていました。「双子山勢の援護射撃」という言葉の連呼に負けず劣らずNHKは不愉快です。大相撲をつまらなくした罪としてはA級でしょう。

1999年11月13日 土曜日

大相撲の黄昏

夕暮れ時、大相撲中継を見ながらの家族揃っての夕食は子どもの頃から大好きでした。相撲はもう面白くなくなったという声を聞きながらも、良き時代を忘れられず、大相撲開催期間中は中入り後辺りからちびちび飲むのを楽しみにしていたりします。

大相撲九州場所七日目は、好調の土佐ノ海と栃東の対戦があるので楽しみにしていました。栃東がしっかり腰を割り手つきをして待ち受けているのに対して、土佐ノ海はゆっくりと仕切りに入り自分のペースで立ちたいというのがありありと窺えましたので、一気の寄りを目論んでいるのは素人目にもわかりました。土佐ノ海のタイミングで立ったもののあまりに頭を下げすぎているのでポンと叩かれて前に落ちるというあっけない相撲になりました。

解説の北ノ富士はもう糞味噌です。栃東のはたきがいかんというのです。朝日新聞の朝刊には「安易な白星 影響は?」とのタイトルが踊っています。時津風理事長の談話も姑息な考えがけしからんのだそうです。

本当にそうでしょうか。体の無い力士が、ただ一気の押し狙いで頭を下げすぎて突進して来る猪を叩き落とす相撲のどこがいけないのでしょう。解説者たちの論旨はただ一つ、「楽しみにしていたお客様の期待にかなう相撲をとって欲しかった」という栃東批判です。面白くなくなった大相撲を今も支え続けている観客はそれほど愚かなのでしょうか。身体は小さいけれど技能派の力士に対して一気の寄りで勝負をつけるのは間違ってはいないけれど、あれほど頭を下げて猪突猛進するようでは土佐ノ海もまだまだ観客を喜ばせるような相撲は取れない、というまっとうな論調はないのでしょうか。

ねえ、そう思わないかい? と、尋ねてみたいのですが、相撲好きだった友人たちはもう大相撲中継など見ていないのです。

1999年11月12日 金曜日

夢という劇場

25歳で結婚するまで、人が登場する夢を見た記憶がありません。本当です。たとえば、

暗い野原を歩いていくと、地表から眩しい光が闇に漏れだしています。近づいてみると地下へ続く石段があり、それを降りていくと大きなパチンコ屋になっています。新装開店らしく真新しい台が銀色の照明に照らされてずらりと並び、ち〜んじゃらじゃらと音がしているのですが、人影が全くありません…。

そんな夢ばかりでした。妻に話すと信じられないとよく言われましたが、結婚数年後には様々な人々が登場する普通の夢を見るようになってしまい、

「あなたも凡人になったわね」

と妻に笑われます。その妻ですが、私にとって信じがたいのは夢の中にいつも自分が登場するというのです。要するに第三者の視点で夢の中の自分を見ているというのです。私は夢の中で自分の姿を見たことなど一度もありません。夢の視点はいつも自分自身のものです。

更に異様なのは、妻が夢を見ながら大声で笑うことです。自分まで登場人物にして吉本新喜劇の舞台を見ているような夢なのでしょうか。闇の中、大声で笑いながら足をばたばたさせている女というのは不気味なものです。一度「わははっ」と笑った瞬間に股間を蹴り上げられたこともあるので危険この上ありません。

夢というのは、その人の夢の中に入ってみると極めて個性的な劇場になっているのかもしれません。

1999年11月11日 木曜日

おじさんのがんばり

マイペースでぼんやり生きているうちに、年若の人に何らかのアドバイスをしなければならない事もある年齢になってしまいました。

右の車輪に義務感を、左の車輪に自分の能力への不安を意識して、その車軸となって苦悶している人は、概して頑張りすぎに見えます。頑張りすぎず、出来ることをまず第一義に考えて気楽にのんびり行こうやと言ってみるのですが、電話を切る直前に「じゃ、頑張ってね」と言っている自分に唖然としてしまいます。このおじさんは“頑張らない生き方をするにもそれなりの頑張りは必要だ”と知ってしまっているのです。子どもをもうけなくて本当に良かったと思います。子どもに「頑張れ」と言わない親にはなれなかったでしょう。

1999年11月10日 水曜日

坂道の人

出歩いていると思いがけない場所で思いがけない人と出会うことがありますが、書物の中にもそれはあります。

わが家では週末の買い物に、春日通り沿いにある大きなスーパーマーケットに出かけます。用が済むと春日通りを本郷方面に向かって進み最初の角を左折して坂道を下ります。この坂道は吹上坂といい、下りきった交差点で交わるのが千川通り、かつては「小石川」「礫川(れきせん)」と呼ばれた川が流れていましたが現在は暗渠になっています。交差点の手前右角は大手印刷会社の共同印刷、小道を直進すると東京大学附属小石川植物園(江戸時代は小石川養生所)、植物園右脇の細くて急な坂を上り再び下ると白山通りの白山下交差点、さらに直進し急な坂道を登る手前左側が八百屋お七の墓のあるお七稲荷、その坂を上りきったところでぶつかのるが旧中山道、さらに鍵型に直進すると本郷通り白山上交差点、交差点手前左手にある書店がかつて林芙美子が働きながら「放浪記」を書いたとされる場所。こんな、坂の多い土地ならではの抜け道を辿って帰るのが習慣になっています。

おなじみの坂道を本の中で辿っていると思いがけない人に出会いました。

田山花袋といえば、教科書に載っていた写真が「フランキー堺」に似ていたのと、名前が「かたい」で著作が「ふとん」というのが妙に面白おかしく記憶しているのですが、その『蒲団』の中に吹上坂が登場するのです。

「…やや前のめりにだらだら坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪へ難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充ち渡って、深い碧の色が際だって人の感情を動かした。肴屋、酒屋、雑貨屋、其の向うに寺の門やら裏店の長屋やらが連って、久堅町の低い地には数多くの工場の煙突が黒い煙を漲らしてゐた…」

この辺りは明治時代から現在に至るまで、印刷・製本関係の町工場が多く『太陽のない町』の舞台にもなりました。田山花袋は共同印刷(当時は博文社)に勤めていたのだそうです。調べてみると博文社は「博文館付属活版印刷工場博進社」として1896年に設置されています。博文館は『文章世界』(1906年創刊)という雑誌を発行しており花袋はその主筆をつとめていました。同じ坂道を花袋と一緒に歩いてみますが、さすがに「工場の煙突が黒い煙を漲らしてゐた…」光景を思い浮かべることは出来ず、千川通りの暗渠の上に冬の沈鬱な曇り空が広がっているだけです。

1999年11月9日 火曜日

電脳人間達の昼食

仕事で外出したついでに久しぶりに秋葉原を歩いてみました。JR秋葉原駅山手線内回りホームに立つと、神田青果市場が撤去され巨大駐車場になったため、秋葉原電気街の全容をパノラマ視することができます。いったいこの地区が1日に消費する電力はどれほどのものなのでしょうか。想像を絶するものがあります。

現在の家電市場を支えているのはパソコンですから、歩いている人々は若者が多く、金を持っていそうな中高年(私はだめでしょう)に対する金目当ての「オヤジ狩り」なども発生しているようです。そんな電気街を膨大な電磁波を浴びながら歩いていると不思議なことが起こります。無性にお腹がすいてくるのです。それも、あっさりとした「ライトな昼食」ではなく、激しく破滅的な食事がしたくなるのです。ですから、この街で若者や電気店の社員とおぼしき人々がランチ行列を作っているのは「激」を冠した方がよい店ばかりです。激しくギトギト、更にその上に激烈な塩分、何が入っているやら猛烈な異臭などなど。

破滅的な食を求めているのは私も同じですが、行列をするのは嫌なので私は「食の裏通り」専門です。とてつもなく安くて盛りが良く地味な、独立系牛丼屋、時代に取り残されたようなビルの谷間の小さな定食屋、使い古した揚げ油の匂い漂う店などなど。

昨日は更に新しいジャンルを開拓してしまいました。「牛もつ煮込み丼・豚の唐揚げ入り・温泉玉子つき」です。激しい昼食でした。この街の更地を有効利用するなら養鶏場がよいと思います。1日8回産卵させることも可能かもしれません。

1999年11月8日 月曜日

三重微笑み(回文)

関東以西には未だ足を踏み入れたことのない県がいくつかあります。意外なことに三重県には全く縁がありません。残された数少ない秘境です。日本橋三越で11/9〜15まで「旬味まるごと三重展」という催し物が開かれるようで、新聞折り込み広告が入ってきました。「赤福」以外は食したことのないものばかりです。中でも特に魅惑的なものをいつか三重県に行く日のために記録しておきます。

【養肝漬】宮崎屋
伊賀名物として知られる自然食。慶応元年創業の老舗伝統の味をご堪能ください。(どうやら白瓜の芯をくり抜いた中に紫蘇の葉、大根、生姜などを刻んで入れ、一年ほど
玉味噌もろみに漬け込んだものらしい)

【伊勢醤油】ヤマモリ
清らかな鈴鹿山系の自然水を使い、長期熟成にて仕上げた本物のお醤油です。(友人の「伊勢うどん」は美味いか、不味いかという論争を聞くにつけ興味津々)

【二年仕込み天然玉味噌】伊賀越
大豆・米どちらにも麹をつける独特の仕込みで二年間じっくり、天然熟成しました。(「
玉味噌」とはなんぞや?)


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