電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄

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三好春樹主催・生活とリハビリ研究所サイトの管理日誌です。

1999年10月16日
衣だけの天丼

更に、昨日の続きです。衣だけの天丼に限りなく近い食べものを出す店があると聞き、昨日行って来ました。お品書きには【たぬき丼】とありました。煮立てたそばつゆの中に大量の揚げ玉を入れ卵でとじて、どんぶり飯に乗せたものです。結論からいうとあまりに味付けが濃くて何を食べているのかわかりませんでした。失敗作だと思います。

1999年10月15日
でんぷんウォーズ

昨日の続きです。子どもの頃、お好み焼きが大好物でした。わが家のお好み焼きは、ニラ・ニンニク・合い挽き肉・烏賊・千切りキャベツ・桜海老・鶏卵・紅生姜等に小麦粉と水を加えて混ぜ合わせて、ぺっちゃんこに焼き上げるもので、一味唐辛子をたっぷり入れた酢醤油で食べるのです。今思うと、なんと韓国のチヂミに似ていることでしょう。
それをおかずに、ご飯を食べるのです。この話をするとカメラマンの川上哲也氏は顔を真っ赤にして笑い転げます。澱粉をおかずに澱粉を食べるのがおかしくてたまらないようです。そんな彼ですから、奥さんの京さんと「広島のお好み焼き」に関して意見が合いません。お好み焼きは許せても、その中にラーメン玉を入れるのが許せないと言うのです。
「天麩羅の衣だけで作った天丼」などというのも許せないものの一つでしょう。「ラーメン・ライス」なども許されない食の一つだし、もしかすると「焼きそばパン」もかな。最近では「ご飯の入った変わりパン」もあるようですが、これなどもまさに噴飯ものなのでしょう。
澱粉をおかずの澱粉食って、そんなにおかしいかなぁ。

1999年10月14日
天麩羅の衣

天麩羅の具と衣のどちらかしか食べられないとしたら、具は友人に譲り衣を取ると書いたら、早速、今度一緒に天麩羅を食べに行きましょうと言う電話が入りました。天麩羅は衣こそが美味いと思う人はいないのかな?
だって衣がなかったら単なる海老や穴子や烏賊、蓮根や牛蒡や獅子唐でしょう?学生時代200円以下の値段で安い天丼を食べさせる店に通いました。具なんてほとんど無いのにとても美味しかったです。最高の職人が、最高の油で、最高の火加減で、最高の手際で揚げた、衣だけのかき揚げの天丼を作ったら、美味しいと思うけどなぁ。劣悪な油で揚げた巨大エビ天麩羅蕎麦より、上質な揚げ玉の入ったたぬき蕎麦の方が美味しいと思うけどなぁ…。
そんな話をしたら連れ合いに鼻で笑われてしまいました。少数派の悲哀を感じますわ。

1999年10月14日
墓参り随行記

恒例の富山墓参りツアーから帰ってきました。富山市内から遠望する山々の方角は雲や霧に霞んでいましたので宇奈月方面は結構寒かったのではないでしょうか。
毎年思うことを、今年は更に強く感じたのですが、墓参りを兼ねた帰省のように年寄りと共に過去へ遡る旅では、私たち若い者がボケ役になってしまいます。昨日有った事、先週有った事は私たちの方が覚えているのに、遙か昔のことを年寄りが妙に鮮明に記憶しているのには驚きます。ましてや、大正から昭和初期に地元で噂になったゴシップ話などを語る時の生きいきとした語り口と目の輝きは、自称「まだらボケ」など信じられないほどです。今日が何年何月何日かとか、先週の土曜日は何を食べたかとか、取るに足らないことをストレスを蓄積しながら語るような日常から離れたら、年寄りというのは博識で物覚えが良く、概して便利な人たちです。煩雑なお寺での儀礼や墓参りでの諸作業を次々にこなしていく手際の良さには舌を巻きます。私たちはただボケ〜ッと年寄りに従うだけだったりします。


あっという間に草むしりを終え、献花の済んだ墓。花は前日年寄りが東京で買って用意してあったもの

1999年10月8日

新米

新米が届く季節になり、偽ブランド米に関する番組がテレビで放送されていました。「ブランド指向」というのは、消費者が味がわからなくなっている証拠でしょう。以前、南魚沼産コシヒカリと標準米の目隠しテストをしていましたが、標準米が美味しいと答えていた人も多かったです。炊き方によっては標準米の方が美味しいことだってあると思います。
落語でこんな話があります。どんな米でも食べただけで産地をぴったり言い当てる男がいて、それを自慢にしていました。あまり見事に言い当てるものですから、長屋の連中がなんとか鼻をあかしてやりたいものだと知恵を絞ります。そこで、各自家から少しずつ米を持ち寄り、一緒くたに混ぜてご飯を炊きあげます。そして、男に食べさせ産地を当ててみろと迫ります。男はしばらく考えて答えます。
「これは……托鉢坊主の集めた米だ」
托鉢坊主の集めた米というのも意外に美味しくて、いつかブレンド米がトレンドになるかもしれません。わが家では時々沖縄県産の黒米を混ぜていますが、非常に美味しいです。上手なブレンドコーヒーがストレートより美味しいのと同じでしょう。

1999年10月1日
日本酒の日

神無月になりました。今日10月1日は「日本酒の日」だそうです。これは十二支の十番目「酉」の文字が壷を表す象形文字で酒を意味したからだそうです。夜風も涼しさを増し、家庭では冷やで良し、ぬる燗で良しと日本酒が美味しい季節となり、酒蔵では今年収穫した新米での酒の仕込みが始まる忙しい季節を迎えています。
10月1日は大東京祭の日でもあります。小学生の頃は学校で「河童のバッチ」と言うのが販売され(当時の学校は本当に良く物を売りました。記念切手や雑誌なども)、そのバッチを胸につけていると一日中都電・都バスが乗り放題でした。27系統(三ノ輪橋−赤羽)、32系統(荒川車庫前−早稲田)の王子軌道鉄道沿いに住んでいましたから、悪ガキ仲間といっしょに、この範囲を中心に遊びまわったものでした。都電廃止後も27系統と32系統を折衷して都電荒川線として三ノ輪橋−早稲田の区間が保存されたのは有り難いことです。
大東京祭も今では「都民の日」などという盛り上がりに欠ける訳の分からない記念日になってしまいましたが、「日本酒の日」でもあることですし、都電荒川線で三ノ輪橋まで出て日本堤辺りで桜鍋をつつきながら熱燗を呑むなどというのも、お腹の出た元悪ガキの大東京祭にはお似合いかもしれません。

1999年9月30日
運動会の秋

ドドスコ、ドドスコ、ド〜ンド〜ン。
秋の運動会シーズンが近づいてきて、近所の小学校から鼓笛隊のドラム練習の音が聞こえてきます。
私の通った小学校では運動会が近くなると、各家庭に玉入れ競技用の玉を紅白一組作ってくるように通知がありました。お母さんのいない家庭、お母さんが忙しく働いている家庭にはかなりの負担だったようです。さらに各家庭を困惑させたのは、白い端ぎれはともかく、赤い端ぎれなど、そうそう家にあるわけではないことです。わが家の母親もよく愚痴をこぼしていました。提出期限の日には各家庭が苦労したあげくの珍なる玉もかなり混じっていました。
競技用ピストルの音がパ〜ンと鳴り響き、子どもたちの歓声と共に、抜けるような秋空に紅白の玉が舞います。赤い布が手に入らなかったのかピンクの玉、花柄の玉。リレーのバトンと勘違いしたのか30センチメートルもある長い玉。中に入れるモミガラをワタで代用したふわふわの玉。端の処理がぎこちないセロファン包みの飴玉のような玉。一つひとつの玉のうしろに、一人ひとりの作り手がいて、一つひとつの家庭の事情が、次々に投げ上げられては宙に舞っていました。そのシーンだけが思い出の中で、今でも色褪せることなく鮮やかなのは何故でしょうか。思い出すたびになんとも切なく美しい光景の一つです。

1999年9月29日
身近にある沢内村

雲母書房のホームページで「社長のひとりごと」を社長の茂木敏博さんが書き始めました。パチパチ!!! うるさく催促した一人としてご紹介しますので是非ご覧ください。こちらの管理人より法人格が上の会社経営に、消化器を人質に出して励んでおられる「社長」さんですから高尚な内容が期待されます。そのうちミッシェル・フーコー論が聞けたりするのではないでしょうか。
「半日ドック」に入られ消化器以外の異常なしだったそうで何よりです。大病院体験後の「ひとりごと」第一声として「いらっしゃい。ところでどうしました?」といきなり聞いてくれる沢内村のお医者さんを恋しがっていらっしゃいます。これは同感です。
私は引っ越しするたびに、近所の飲み屋を虱潰しに飲み歩いて「今度近所に越してきた者なんですが、いい内科のお医者さんを教えて貰えませんか?」と聞いて歩くことにしています。そうすると結構同じ医院の名前が出てきて名医の目星をつけられるものです。地元の支持の厚いお医者さんというのは「いらっしゃい。ところでどうしました?」型の方が多いです。
家内はバスで2停留所ほど離れた「大病院脇」で開業している老先生の元に何かあると出掛けていますが、大変な「名医」です。隣接する区のお寿司屋さんで教えて貰いました。「いらっしゃい。ところでどうしました?」から始まって問診が丁寧です。話を聞いて貰っているうちにかなり楽になってしまい、「先生、注射はしなくても大丈夫そうです」と言いそうになりますが、こういう先生に限ってあまり注射器を振り回しません。
腕の立つ小開業医を探し当てれば、身近に「沢内村」はあります。「仮想の村」に住んでいる幸せと引き換えに「大病院の人間ドック」は無いものと覚悟を決めておけば、「都会の村暮らし」はのどかで、病院を癒しの場所と感じることもあります。「いらっしゃい。ところでどうしました?」と聞かれて「どうもしませんが、お声を聞いて元気になりたくて」と言っても、きっと怒らないと思います。実行する勇気はありませんが。

1999年9月27日
究極の朝食

以前テレビで見たのですが、熊本県の農村に伝統として残る、お年寄りの「珍なる朝食」を知り、これこそ究極の朝ご飯だなぁと感心したことがあります。
熊本県は綺麗な地下水が湧出することで名高いようで、農村のあちらこちらにこんこんと湧き出る泉があります。田んぼの真ん中にあるその泉のひとつに、夏の早朝お年寄りが集まってきます。手に手にざる一杯のご飯と漬け物を持って泉の周囲に車座になり、冷たい天然水でご飯を洗い、手(五本箸)で口に運んでは漬け物を囓ることをくり返すのです。夏の夜の寝苦しさを思うと清涼感溢れる素朴な朝食はまさに垂涎ものでした。草いきれの中、皆で食べる楽しさをお年寄りの笑顔が物語っていました。
Bricolage第80号の表紙撮影をお願いした川上哲也さん※1は熊本の在の出身なので、その風習について尋ねてみました。九州は冷や汁(熊本ではひやっちる)など、冷たいご飯を美味しくいただく郷土食があるのですが、野の冷水で洗って食べる「珍なる朝食」については聞いたことがないとのことでした。
昨日(9/26)民放の旅番組を見ていたら、突然同じ食べ方が出てきてびっくりしました。秋田県のある湧水の周りに元秋田美人のおばちゃんたちが集まり、清冽な水にご飯をすすいでは、同様の食事をしていました。名前は「さしまんま」だそうです。藤田弓子が「お〜いし〜〜っ」と絶叫していましたから、さぞや美味しいのでしょう。九州と東北と隔たった地域で全く同じ伝統食がある※2ことに驚くと共に、いつか真似してみたいものだと思いました。

1999年9月27日
親子丼

静岡で新聞社に勤める姉貴分からメールが届きました。

静岡の親子丼というのをご存じでしょうか? 注文の時「卵とじの親子丼」といわないと、卵とじの親子丼は出てこないのです。そして、出てくるのは、炒り卵の親子丼なのです。鶏肉、タケノコ、椎茸、カマボコ(ナルトを使っているお店もあり)などを甘じょっぱく煮てご飯に混ぜ、その上に炒り卵がのっているのです。(中略)静岡市には、中村屋という親子丼専門店もあります。ここでは、メーンは炒り卵、ただし卵とじもあります。

とのことです。私の好きな清水市の「山下天どん」でも同様だそうです。これは知りませんでした。そして嬉しくなりました。福井で「カツ丼」というとカツとタマネギを甘じょっぱく煮て卵でとじたものではなく、千切りキャベツを敷いてカツそのものを載せソースをかけたものが出てくるのを知った時と同じ楽しさを感じました。こういうのが好きです。
構造主義的に記述すればシーニュ[親子丼]は、シニフィアン[oyako-don]が指し示すシニフィエ[おやこどん]が、「炒り卵」と「卵とじ」と混在することにより、差異の対立と共に存在すると言うことになるでしょう。小さな「食の文化人類学」です。
こういう例がいくつかあったのですが思い出せません。関東と関西で料理名が指し示す「料理そのもの」が完全に逆転しているものもあったような気がするのですが思い出せないのが悲しい。老化でしょうか。

1999年9月24日
おとな

東海道新幹線の「だんごっ鼻」こと、0系車両が18日をもって姿を消したそうです。私、あの「だんごっ鼻」の中に入ったことがあります。入ったと言っても頭だけですが。
小学校の自由研究で、王子駅前の米屋の矢嶋と、肉屋の荻野と3人で東京駅を取材しようと言うことになりました。入場券で新幹線ホームに入り、駅員さんに停車中の新幹線の内部の写真を撮らせて欲しいと頼むと、座席に座らせていろいろ説明してくれました。生まれて初めて乗る新幹線でした。
しばらくして運転手がやってきて運転席に入ってみるかと言うのです。運転席の説明を聞く中で、この先っぽの中はどうなっているのかと聞いたら、運転席下の扉を開けて頭だけ突っ込ませてくれたのです。電子部品でいっぱいでした。その先には連結器が入っていると聞いて驚きました。すべて写真を撮って帰り、クラスで得意気に発表しました。
今、小学生が同じ様な体験を手続きなしですることができるでしょうか。人間が一人ひとり自分の裁量で生きていたよき時代の「おとな」の思い出です。

1999年9月17日
ひょうたん

子どもの頃集めていた横浜名物・崎陽軒シュウマイの瓢箪型醤油入れは、なんと横山隆一氏による図案で、いろは四十八文字にちなんで48種類有ったのだと知りました。朝食の時妻に話したら、
「その人が絵付けをしていたの?」
「ばかっ、一日何千食も出る商品の絵をいちいち横山隆一が描いてたわけないだろっ!楽焼きじゃ有るまいし!」(…以後沈黙)
どうも「横山隆一」も「フクちゃん」も知らないようです。断絶を感じるなぁ。
 
   瓢箪で鯰押さえて秋の風
             粗茶

1999年9月14日
笑う

「アッハッハッハッハァ」と今日も六義園から女性の高笑いが聞こえてきます。
小学生の時、校庭の片隅に大きな鳥小屋が造られ、様々な小鳥を生徒が当番を決めて飼育していました。或る朝、金網に穴が開けられ小鳥はすべて逃げ去ってしまいました。結局野良犬の仕業だろうという結論になったのですが、とぼけた結末として、空き家になった鳥かごに、小鳥たちが残していった餌を失敬しようとして潜り込んでいた、カラスが身代わりに飼われることになりました。
カラスというのは頭が良いらしく、すぐに私たちに慣れ、手から給食の残りの食パンの耳などを貰うようになりました。ところが誰かが「馬鹿野郎」という言葉を繰り返し教えたらしく、「バカヤローッ」と喋るようになってしまったのです。カラスが九官鳥のように物真似が上手いというのをこの時初めて知りました。
カラスは人気者になり、休み時間には人垣ができるようになりました。教職員の間で問題になったらしく、校長先生が朝礼で「カラスに悪い言葉を教えないように」と特別に注意をされたのですが効果無く、カラスは元の世界に解き放たれました。
仕事場と自宅が都の庭園・六義園(りくぎえん)に面しているので、他の公園と同じく都内で激増しているカラスとねぐらを隣り合わせにしているようなものです。家内は気味悪がりますが、私は幼なじみなので結構嬉しかったりします。その、隣人たちの中に「バカァ、バカァ」と鳴くやつがいて、そのバリエーションとして「バカッカッカッカァ」とかとんでもない鳴き方をすることもあり、家内も呆れ顔で苦笑しています。
最近、六義園からけたたましい女性の馬鹿笑いが聞こえてくるようになりました。「アッハッハッハッハァ」と何度も繰り返し笑うのです。最初は公園の客に底抜けに陽気な人がいるのだろうと思っていたのですが、閉園時間を過ぎても聞こえるし、その翌日も聞こえてくるので、もしかするとカラスが来園者の笑い声を覚えてしまったのかと思っていました。
ところが先日見つけてしまったのです。大型でハデな色をしたインコ。東京都西部地区で家庭から逃げ出したものが大繁殖しているというニュースを、何年か前に見たことがあるのですが、とうとうこちらにもやってきたようです。
今後、六義園でも大繁殖して、「アッハッハッハッハァ」という笑い声に満ちあふれたら……。結構いいかもしれません。「笑う六義園」。

1999年9月13日
梶君

同じマンションの5階に自宅、8階に仕事場、9階に義父母という「職住親接近」の暮らしをしているのでエレベーターでの移動が多くなります。エレベーター内で「梶君2号」に会うと大変です。
以前住んでいた千駄木のマンションに「梶君」という少年がいました。「梶君」は小学校低学年で剣道の道場に通っており、エレベーターに乗り合わせたりすると「おはようごさいますっ!」とすすんで声をかけてくる礼儀正しい少年です。礼儀正しいのはいいのですが、
「どこへいくんですかっ!」とか、
「なにをかってきたんですかっ!」とか、
矢継ぎ早に質問責めになるので、こちらの身体や心の調子が悪いときにはドドッと疲れます。まさか、
「くそ●●●屋のじじいと打ち合わせっ!」とか、
「徹夜のくそったれ仕事用の夜食っ!」とか、
正直に答えるのも気が引けて、良い近所のおじさん風の答えをしようとするので一層疲れます。
今住んでいるマンションに越してきたら、同じような少年がいて、我が家では「梶君2号」と呼んでいます。「梶君2号」の得意技は、エレベーターに乗り合わせた人に挨拶をした後、
「何階にいくんですかっ!」
と聞いて、階数ボタンを押してくれるのです。そして何回も乗り合わせた人の居住階数は記憶しているようです。
以前1階から乗り合わせ、いつもなら5階の自宅の階数を押して貰うのですが、事務所に行こうと思っていたので、「8階をお願いします」と言ったら、怪訝な顔をして8階のボタンを押した後しばらくして、さっと振り向き、
「本当は5階だよねっ!」
と眉間に皺を寄せて問いつめられました。

1999年9月12日
必然性の旅

同最近、外出先の路上で知人から突然呼び止められることが多くなりました。家内は「でっかいおっさんがホームページのことなんかを考えながら、ボーッとした顔で歩いてるから目に付くんじゃないの?」と言いたげです。
「いやーっ、思いがけない場所で、思いがけない人に会っちゃってさ〜」
と、夕食時に言い出そうとして、よく考えてみると互いの職業、生活範囲、趣味・嗜好、時間帯などを考慮すると、実はかなりの必然性があっての出来事で、決して「思いがけない」邂逅では無かったことに気が付きます。
家内が大切にしている一枚の写真があります。雪に覆われた真冬の北海道、日本最北端の地と書かれた石碑の前で、私の見知らぬ女性と二人で写っているものです。学生時代の一人旅、日本最北端の地で東京で行きつけだった毛糸屋の店員と偶然会ったのだそうです。
「思いがけない場所で、思いがけない人」との出会いの典型のようにも思えますが、厳冬の北海道と言えば女性の「感傷旅行」には好適の地ですし、職業、学業を放りだしての旅ができる期間も限られるはずです。汽車の時間も思うに任せない土地でしょうから、最北端に立つ時刻も、片や真っ昼間、片や真夜中と言うことも考えられません。稀薄とは言えかなりの必然性に後押しされての出会いであったようにも思えます。
ひょっとすると人生は有り得る必然を繋ぐ線路の上を行く旅にすぎないのかもしれません。
数日前、東京・池袋の路上で白昼通り魔事件があり、多数の怪我人と共に二人の女性が命を落とされました。池袋と言えばリハ研の事務所があって多くの知人が足を運んでいるはずですし、現場の東急ハンズは家内や母が手芸材料調達にしばしば訪れる場所ですので、身近な人が巻き込まれたらと思うと背筋が寒くなります。
思いがけない突然の惨劇で亡くなられた方の無念を思うとき、「必然性のレールを行くだけの単調な旅」も捨てたものでもないのかなと思います。「必然性」の行く手を遮れるのは「狂気」だけかもしれません。合掌。

1999年9月8日

はまボーズ氏から誤植発見のメールが届きましたが、メール・タイトルを見て爆笑してしまいました。
「誤植発見∞」
と書かれていたのです。「いつまでたっても誤植はなくならんなあ」との思いを込めて「∞(むげん)」と、つけられたのでしょうが、何故可笑しかったかというと、数年前のある一日の思い出が堰を切ったように押し寄せてきたからです。
川崎の生活リハビリクラブの妖精の一人、中山真美さんが北海道に帰られることになり、お別れの会が隅田川遊覧の屋形船で催されたのです。惜別の思いと共に、実は関係者には二重三重の悲しい思い出の残る一夜だったと思いますがここでは触れません。私にはとっての二重の悲しみは、もう一人の妖精、桂美知恵さんが結婚して生活リハビリクラブを去られることでした。さようならと真美さんと握手をしていると桂さんが笑顔で手を差し出されたのですが、無粋な者どもに遮られて握り返すことができなかったのが返す返すも口惜しいです。くく〜〜〜っ。
その会に参加するために早めに着いたので、江戸東京博物館を訪れると、なんと葛飾北斎展が開催されていたので観覧してみました。北斎の画業をあれほど圧倒的な量で一覧するのは初めてでしたので素晴らしい拾い物でした。
なんと北斎は九十歳近くまで生きていて、面白いことに次第に雅号を変えていて晩年の作品には「画狂老人」などと描き添えてありなかなか笑えるのです。その号にしてからも更に生きられたようで、最晩年の作品を見て爆笑してしまいました。そこには、こう描かれていました。
「画狂老人卍(まんじ)」
私が老人になってもまだホームページの更新を続けているとして、そんな或る日、はまボーズ翁からメールが届くとタイトルはこうです。
「誤植発見卍」
そんなことを想像したらたまらなく可笑しかったのです。

1999年9月7日
大垣

七七舎の「文学熟女」が固く閉ざした富士壷のような口を開いて、ついに原稿を書きました。三好春樹in大垣レポートです。おめでとう。やっとインターネット・デビューだね。

大垣というと思い出すのは子どもの頃故郷清水へ帰省する際に乗った東海道線に大垣行きが多かったこと。急行は別料金の急行券がいるため、準急にしか乗れない人たちで、いつも東京駅の(大垣行き)準急待ちのホームは長蛇の列でした。あまりの人混みに気圧されて泣きべそをかいていると、先に乗った人が窓から、
「子どもをよこせっ!」
と、怒鳴ってくれて、窓から私だけ突っ込まれたこともありました。足の踏み場もない車内では、周りの人に手伝って貰って網棚に載せられたこともありました。まるで伊太利亜映画みたいに「Life is Beautiful」な時代が、ほんの一足歳月を遡れば、この日本にもあったんだよなあ。いい思い出です。貧乏という宝物をくれた親に感謝。

1999年9月4日
カッパ

本郷の誤植ハンターことはまボーズ氏が「いいものあげるからおいで」と言うので出掛けてみたら、いただいたのは河童の箸置きでした。箸置きと言えばあってもなくてもいいものの代名詞ですが、河童の箸置きは欲しかったアイテムの一つでしたので結構嬉しかったりします。

この箸置きですが、はまボーズ氏が行きつけの店の女将が、以前素敵な河童の箸置きを見たことがあり、その箸置き100個入り一箱を注文したつもりでいたら、似ても似つかないこの河童くんが届いたのだそうです。確かに私が行きつけの店で使っている妖艶な河童の箸置きに比べたら稚拙で、頬杖をついて甲羅干ししていると言うより、水泳中に足がつって助けを求めているようにも見えます。
さらに悲惨なのは、この女将がもっと違うものをと更に100個入り一箱を追加注文したら、もっと強烈な河童の箸置きが送られてきたのだそうです。そちらもいただいてきたのですが表ではとてもお見せできません。

※サイトリニューアルによる制限緩和によりここに掲載。

1999年9月2日
つくえ

NHKの朝のニュースを見ていたら小学校の児童用机のサイズが70cm角の正方形に改定されたそうだ。なんと大きな机だろう。児童の体型が大きくなったのに加えて、教科書のサイズがA5判からB5判に拡大されたのが理由だそうだ。思うに児童数の減少も関係しているのではないだろうか。私たちの時代の1クラスの構成人数でこんな机を入れたら人の居場所がないに違いない。
私が小学生の時使用していたのは木製二人掛けのものだった。もちろん男女ワンペアで座るのだ。女子は知らないが、男子はそれが嫌で嫌でたまらなかった。机の中央線から女子の教科書や帳面がはみ出すと、
「入って来んなよ〜」
とかいって押し戻し、ここが国境なのだと鉛筆でぐりぐり線をなぞったり、コンパスの針でガリガリ線をひっかいたり、挙げ句の果てに肥後の守やボンナイフで深く深く線を彫り込んだりしていたものだ。
やがて代々の男子児童の不断の努力とボランタリズムで、机はぱったりと中央で二つにわかたれ、1人用の机が出来上がった。昭和41年のことである。残念ながら私は完成を見ることなく、ボーズ頭に詰め襟を着せられてその年清水市の中学校に入学した。

1999年9月1日
九月には帰らない

九月に入ると、「秋」になったのだなあと言う実感が深まります。身辺の出来事が更に秋の感慨を深くするような色合いを帯びてきたのを感じます。重い病と闘われている方の近況を報せるメールが届きます。友人の便りに思い出話が増えます。そして私は仕事そっちのけで過去の思い出を電子の野原で反芻しています。
妻と母を連れて日本堤を歩いてきました。山谷では早散りの病葉が舞う路上で、労務者から外れ馬券がどんなに惜しかったかという話を笑顔で聞く駐在さんの後ろ姿が、手帳にはさんで持ち帰りたくなるほど、いとおしく見えました。
九月には帰らないと松任谷由実は歌いました。一学年年上のお姉さんはいまだに元気です。本当に九月には帰らないのでしょうか。
血液型O型の乙女座は今でも、溶かしたミルクのような曇りガラスを見つめて、入り日色の櫨の葉を溜息で揺らすのが好きだったりします。

1999年8月31日
雨の日と、月曜日と、八月のつごもりは…

「失語症友の会海外旅行団ソウルの旅」の記録ビデオのパッケージをビデオ制作者の森田惠子さん宛に発送しました。タイトルは「元気と元気のひびき合う旅」です。近日中にお手元に届く方もおられると思います。お楽しみに。

毎日、就寝は午後九時と決めています。八月のど真ん中では毎朝四時に朝日とともにさわやかに目覚めて、ホームページの更新に喜々として取り組んでいたのですが、今日はついに七時に妻にたたき起こされるまで、目が覚めませんでした。夜中に悪夢を見て何度か目覚めたのですが、八月中に終えなければならなかった仕事のことを思い出し闇の中への逃避を繰り返していたようです。
結局何歳になっても小学生時代と変わっていません。8月31日になると、「明日の始業式の持ち物、ぜ〜んぶ揃えちゃったから遊ぼうぜ〜」と誘いに来た嫌なやつを思い出します。
おそらく今頃はタイムレコーダーをガチャンと押せばなんとか格好がつくような気楽なサラリーマン稼業を送っていることでしょう。
8月31日に泣きべそをかいていたものは、今も雨の日と、月曜日と、八月のつごもりは枕に顔を埋めてふて寝をしています。

1999年8月18日
【球児の夏

夏の全国高校野球選手権大会は今日8強が出揃い、明日は全チームが出揃う準々決勝です。
大学生だった4年間、長い夏休みの楽しみの一つは、ふるさとに帰省して夏の高校野球地方予選を見ることでした。中学時代の友人と二人で、梅干し入りのおにぎりと、氷の入った水筒を提げ、麦藁帽子をかぶって出かけるのです。めざすのは、地方鉄道で20分ほどの県立野球場です。
地方大会を見た後に、甲子園の本大会を見ると、どのチームも洗練されている半面、とても平板に見えます。地方予選は玉石混淆なのですが、突出して下手なチームというのがあるわけではありません。本大会に出場するチームとの違いは、一言で言えば「単に粒がそろっていないだけ」です。逆に言えば、、各チームに必ずキラリと光る選手が一人や二人はいて、それらの選手を集めて選抜チームを作ったら、能力的には甲子園の本大会で通用するチームがいくつもできると思います。
とても思い出に残っているチームがあります。県東部地域の学校でしたが、一人すごい選手がいて、その選手を中心にした、野球漫画に出てくるようなユニークなキャラクター揃いのチームでした。たとえて言えば「ドカベン」の山田太郎と「巨人の星」の伴宙太を足して二で割ったようなガッチリ型の選手に支えられたワンマンチームなのです。
そのチームがしぶといのです。打たれても打たれても、チームメイトの声援を受けた山田宙太が出てきて、どっか〜んと大きいのを放ってチームを救うのです。ネット裏の常連高校野球ファンは笑ったり唸ったりしているうちに次第に彼のムードに引き込まれていき、チームの勝利が決まる頃にはすっかり贔屓になっています。何試合か勝ち進み、地方新聞にも注目されてか小さな見出しがつく頃、そのチームは敗退していきました。
山田宙太がその後どういう人生を歩んだのかはわかりません。確かなのは、彼にとって最後の高校野球だったことです。高校野球地方大会観戦は「球児の夏の終わり」を告げる花火大会のような気がします。リタイアして長い夏休みが取れるようになったら、いつか麦藁帽子をかぶって出かけてみたいと思っています。

1999年8月14日
【古本屋

ひょっとして古本屋の数というのは増えているのでしょうか。私の住んでいる地域では立て続けに古本屋が開店しています。不況が続いて本の売り方・買い方の需給のバランスが古本屋新規開店の追い風になっているのではと推察するのですが。ともかく古本を求めて東大近辺まで出向かなくて済むようになったのはありがたいことです。
新規開店した古本屋ですが、そのどれもが半分以上はコミック本が書棚を占めていて、残り半分は中身を改めずに箱買いしてきた一般書籍が適当に置いてあるといった風情です。この一般書籍の棚が、何が出てくるかわからないおもしろさに満ちているのです。夏の夜、涼みがてらサンダル履きで出かけて、ちょっとアルコールが入っていたりすると楽しさ倍増です。しらふのときには買いもしないような本を酔った勢いで買い込んでしまいます。家内は一度真剣に読んでみたかったなどといってシモーヌ・ヴェーユの分厚い本を買ったりしています(1ページたりとも読んでいないようです:大笑い)。私は上製箱入りの立派な本(なんと1冊300円)を買ったりしますが。結構「あたり」が多いです。
今夢中になっているのは、
勝海舟自伝 氷川清話 勝部真長編 広池学園出版部 昭和42年発行
という本で、1899年77歳で亡くなった勝海舟を、晩年を過ごした赤坂氷川町に訪ねて幕末から明治維新の出来事を聞き書きしたものです。話の断片を羅列しただけなので、空いた時間、好きな場所から読み進めることができます。話し言葉をなるべく原文ママで記述したような文体も好もしいです(この版では現代語訳されていますが)。何よりも激動の時代を、苛烈に走りぬけた群像とともに生きた当人が語る一言一言が、当時を生き生きと描き出しています。凄い人たちが綺羅星のように現れては消えていきます。以下、ちょっとおもしろかった部分を引用します。
坂本竜馬が、かつておれに「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。
勝海舟に関しては巖本善治氏による『海舟座談』というのが岩波文庫に収められたことがあるようで探してみようと思っています。

1999年8月14日
【ハモニカ

母親が港町で小さな飲み屋をやっています。高校卒業までその店の2階で生活していました。その頃の話です。
夜更けに目を覚ますと嬌声に混じって澄んだハモニカの音が聞こえてきます。この町で浮浪者のような暮らしをしている人がいて、夜になるとハモニカと空き缶をもって飲食店を回って歩くのです。ハモニカの腕前は大したもので、うまいなぁと私も思いました。一曲演奏させてくれと店に入ってきて、その対価として一杯のビールを所望するわけです。演奏の腕前もさることながら、その人柄に好感を持つ客も多く、母も結構気に入っていたようで客のいるときは必ず演奏してもらっていました。演奏が終わって客が冷えたビールを差し出すと、お金を払って飲んでいる人と同じコップでは飲めないと言って、腰に提げた空き缶を差し出し、決してコップで飲むことは無かったそうです。
高校卒業と同時に、私はその港町を離れて東京暮らしになってしまいましたが、母と酒が飲めるような年齢になったある夜、ふとハモニカのおじさんのことを思いだして訊ねてみました。その後、おじさんは路上で亡くなっているのを発見された。市と警察で身寄りを捜したところ、息子さんが他県で大学教授をされていることがわかり遺骨はその方に引き取られて行った。そんな顛末を聞きました。
奇妙な話だなと思いました。路上で変死した浮浪者の息子を捜したら社会的に地位も名声もある人だった…。凡庸な生活をする大多数の者が日常性の中に「異人」を受容するために創出する「典型的な結末」ではないのかと思えてならなかったのです。
私たちは日々創り出した「物語」を食べながら生きています。生活が平穏であることを確認するための盛り土として、あるいは平穏を維持するための苦い秘薬として「神話」は常に拡大再生産され日常に織り込まれていきます。
そして、歳を重ねると次第に、人は「神話」を疑うようになるようです。

1999年8月14日
【しんぶんし

古紙を回収してのリサイクルのコストが合わないとかで、私の区でも古新聞は燃えるゴミとして清掃車が回収していくようです。
「天才・秀才・馬鹿」という言葉の遊戯があります。もう20年以上前になりますが、某ラジオ局の深夜放送に同名のコーナーがあり、かなり人気がありました。リハ研の上野文規さんも熱烈なファンだったそうで、最近その放送原稿をまとめたものが出版されて小さな話題になりました。
この言葉の遊戯の起源は古いらしく、私が少年時代の漫画雑誌にすでに読者投稿コーナーとして存在していました。その中で面白くて家族や友人に話しまくったおかげで、いまだに覚えているものがあります。以下のようなものです。
先生:諸君、朝新聞が届いたらどうするかね。
天才:見ます。
秀才:読みます。
馬鹿:包みます。
というものなのですが、今読んでもちっとも面白くありません。それはひとえに私がおじさんになったからだと思います。おじさんは、「包みます」のところで、
「昔の人の知恵は偉大だったんだなぁ」
などと笑う前に感心してしまうのです。
昔のお弁当というのは「痛まない」ことを最重視したものでしたから、今のように生野菜や果物などの華やかなものはなく、煮物・焼き物などが主体の茶系の地味なものでした。その結果、どんなにしっかり蓋をしても、学校に着くまでに鞄の中に醤油等の液体が漏出してしまうのです。その時に新聞紙が役に立ったのです。新聞紙の吸水効率ときたら、布などの比ではありませんでした。私の通った学校では男子はほとんど新聞紙でくるんだお弁当を持ってきていました(女子は体裁を気にしてか花柄のクロスが多かった)。
また、新聞紙の遮熱性もたいしたもので、冷凍したものも新聞紙でくるむだけで長い時間、凍らせたままで保存することができます。焼き芋屋のおじさんが石の中から軍手で掴んで取り出したアツアツの石焼き芋も新聞紙でくるっと一巻きするだけで手に持って食べることができました。ビニールなどでくるんだら暑さでむれてしまうような季候でも、適度な通気性と遮熱性で食中毒を防いでくれていたのでしょう。
若さで笑えるところで、しみじみ感慨に耽ってしまう。これは「おじさん」の弱点のひとつです。言葉の遊戯で「古今東西●●の名前」というのがあります。みんなで車座になりトップの人を決めその人が、
「古今東西、果物の名前、バナナ」
と言ったら、次の人から順番にスピーディに名前を挙げていくのです。つっかえてしまったら、その人の負けになりゲームオーバーです。この遊技もおじさんは苦手です。
若者    :「古今東西、自動車の名前、
        TOYOTA Vitz」
おじさん1 :「日野コンテッサ」
おじさん2 :「あった、あった、懐かしいなぁ。ヒルマン・ミンクスなんてのもあったぞ」
おじさん1 :「そうそう、いすずベレル、ダイハツ・ベルリーナなんてのもあったぞ。「ベ」のつく車って結構あったぞ。いすずペレットなんて最高。昔の車は良くできてたよな〜」(以下おじさんたち盛り上がる)
若者    :(どっちらけ〜)

1999年8月14日
【ずっこける

=ゆるんでずりおちる。(「広辞苑」より)
人から「世の中で一番●●な時とは、どういう時ですか?」とよく聞かれる……ということは無くて、大概暇な時に自問自答するのだけれど、「世の中で一番」などと明確に答えられるものなどそうざらにはない。
しかし、ただ一つ私には断言できる「世の中で一番●●な時」がある。仕事で書類をプリントして人に渡す時はホッチキスでとめるのが好きだ。紙束を挟みつける方式のものでは相手に渡すまでに紙の端がずれてしまうことが多い。人に比べ取り立てて几帳面なわけではないのだが、書類はビシッと揃っていないとどうにも気持ちが悪いのだ。
ハードな仕事を片付けて、「よしっ、これで納品だ」とプリントアウトした書類を束ねて机の上でスコンスコンと紙の端と角をしっかり揃え、ホッチキスでカシャッと綴じるときの心地よさ。ところがその「カシャッ」が「スカン」になってしまう時がある。針切れである。それもたちの悪いことに、揃えにくい書類を苦労して揃え上げた時に限って「スカン」が起こるのである。思わず、
「くそ〜っ!」
と大声を上げてしまう自分が愛らしく、いじらしい。
私にとって「世の中で一番ずっこける」瞬間である。
何処かに共感してくれる人はいないだろうか。

1999年8月13日
【鎮魂の夏

もう17〜8年も前の話です。富山県の利賀村というたいへん山奥の村に、鈴木忠志さんが主催する劇団スコット(旧早稲田小劇場)の芝居を家内とその友人の3人で見に行こうということになりました。
なにぶん辺鄙な場所ですので、前夜は菅沼集落の合掌造りの民家に泊まらせていただきました。お盆休みをとって大阪で働いている娘さんが帰省する前ということで、滑り込みで一夜の宿をお願いしたのでした。心温まる素朴なもてなしを受けさわやかに目覚めた翌朝、静かな集落の一軒の家になにやら人だかりがしています。聞けば、東京から九ちゃん(坂本九さん)が、こけ(きのこ)料理を食べに来るのだとのことでした。直接お会いする絶好のチャンスだったのですが、急ぐ旅でそれもかないませんでした。
そして、今から14年前。8月のちょうど同じ日に、私たち夫婦はそれぞれの親を伴って合掌造りの村を再訪することになりました。その前々日、日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落し坂本九さんは亡くなられました。
犠牲になった方々のお名前を放送するラジオを聴きながら利賀村の林道を走っていたとき、思いがけないことが起こりました。深い砂利でスリップし私の運転する車が谷に落ちたのです。咄嗟にアクセルを踏んで逆ハンドルを当ててみたりしたのですが、一瞬のことでどうにもなりませんでいた。谷底に落ちていたら一家全員の人生はその年で終わっていたはずです。幸い深い夏草に絡まって45度ぐらい傾いて車は斜面に止まったのでした。エンジンを切り山側の席から一人ずつ静かに降車し、車を支え、次の者に手を貸しながら、無事全員車外に出ることができました。蝉の声と谷川のせせらぎと、傾いた車のウインド洗浄液が噴水のようにビュービューと噴き出す音が聞こえていました。
林道で面倒を起こすものではありません。行けども行けども人気のない山道を汗をかきながら麓まで助けを呼びに走りました。空は抜けるように青く暑い夏の日でした。8月12日の鎮魂の日が来るたびに、大惨事と、九ちゃんと、我が家の小さな惨事を思い出します。合掌。

1999年8月12日
【最後の日食

昨夜は欧州等で皆既日食が観測されたようで、「今世紀最後の天文ショー」などと銘打ってマスコミが大々的に中継していました。ん?…「今世紀最後の天文ショー」って何度も聞いたことがあるような…。まるで、Paris●●●の店終いセールみたいだ。
パリといえば、パリっ子(揚げ煎餅みたい)の熱狂ぶりは凄い。ワインに、月が蝕んだ太陽をうつして一気に飲み干すなんて、アメノウズメだって気が付かないアトラクションだもんなぁ。私は、日食よりも、田舎に行ってふと見上げた空にまさにミルクをこぼしたように天の川が見えたり、嫉妬に狂った若妻がアイスピックでぶちぶち刺したように、大熊やカシオペアがどっか〜んと見事に夜空に穿たれていた方が感激するんだけど。日食ってみんな感激するみたいだな。
数年前に日本で「今世紀最後の部分日食」が観測されたときの事、ふと昼のニュースをつけたら、「いま太陽が欠け始めています!」などとアナウンサーが興奮した口調で怒鳴っています。あまり興味なかったんだけど、ふと1階上に住むパーキンソンの義父のことを思いだして、ポジの切れ端(スライド用フィルム現像後の未露光部分切れ端は平滑度といい、黒の濃度といい太陽観察に最適)を持って訪ねてみました。
そうしたら、えらく興奮し、なんとベランダで立て膝して、フィルムの切れ端を両手で目の前にかざし、
「おお〜っ、すっごいもんだの〜!おお〜っ!」
と熱中しているではありませんか。
靴を履くにも人の支えを借りたり、手すりにつかまったりと、身体の震えと平衡感覚の喪失が激しい人が、一人で立て膝して太陽を観察しているのです。
その神々しい姿を見て、私たちも後ろで「おお〜っ!」と声を上げていました。
雲母書房から発売される「シリーズ生活リハビリ講座5 遊びリテーション」の表紙を今日入稿します。帯のキャッチに「人は夢中になるときバランス感覚を取り戻す」とありますが、それを絵に描いたような美しいな光景でした。
来世紀の日食を見ることがあったらきっと、父さんの「おお〜っ!」を思い出すことでしょう。

1999年8月12日
【徳用マッチ

昨はまボーズ氏よりメールをいただきました。ありがとうございました。

得と徳の語義について、[得]と[徳]のそれぞれの項に下記の説明があります(広辞苑)。
[得] (2)もうけること。利益。また有利なこと。「得失・損得」→とく(徳)(2)
[徳] (2)(「得」の通用字)利益。もうけ。富。[徳用]
どうやら表記としてはどちらでもいいようですね。
[徳用]という用法から,そういえば『徳用マッチ』というのがあったな・・・・・・などと、昔のことを思い出してしまった。あの大きなマッチ箱とラベルの独特のデザインはなかなか素敵だったなあ。
ところで、マッチ箱といえば,小学校での検便のときに、女の先生が
「便を入れるマッチ箱は、徳用マッチ箱ではありません。小さい普通のマッチ箱ですよ」
と念を押していたのも、今となってはなんともおかしく、なつかしい・・・・・・。
それでも「徳用マッチ箱」に便を入れてきた奴がいて、先生に叱られたり、みんなに笑われたりしたが、俺は奴の家が貧しくて、割高な小さな普通のマッチ箱がないことを知っていたので、ひそかにつらい思いをしたっけ・・・・・・。

『徳用マッチ』の『徳用』がいいですよね。『得用マッチ』とはやっぱり違う風情を感じてしまうのは「性格の根っこ」の問題でしょうか。久しぶりに夫婦で笑わせていただきました。検便に関してはまボーズ氏に触発されて次々にトホホな話がでましたがここでは割愛。
私、小学生時代『徳用マッチ』の上で点火した花火の火で『徳用マッチ』が箱ごと燃え上がり前髪の大半を焼いたことがあります。しばらくの間「三平」と呼ばれました。

1999年8月11日
【三文の得

はまボーズさまが、浮き世に戻ってこられました。
早速、下記のようなメールをいただきました。ありがとうございました。

「やっぱり早起きは三門の徳だ。」というのは、
『早起きは三文の得』ということわざの誤植か?それとも意識的なシャレかいな?(シャレになってないよ)
誤植とすれば,この場合二重の誤植(三門→三文、徳→得)なり。
はまボーズ敬白


洒落の出来不出来は置いといて、私は「早起きは三文の徳」だと思っていたのですが「早起きは三文の得」と、いったいどちらが正しいのでしょうか。手元の広辞苑では「はやおき」の項目でひくと、「早起きは三文の徳」になっています(ATOK12でもそう変換されます)。
ちなみに、インターネット・「goo」のサーチエンジンで検索すると
「早起きは三文の徳」83件
「早起きは三文の得」441件
という結果になり、はまボーズ氏派が多数派を占めているようです。
上記の検索の中で面白いページを見つけました。島根県で採集した農業に関係する諺を集めたページで、
早起きは三文の徳、長起きは三百の損。
というのがあります。これが、この諺の原形だとすると「三文の得」なら「損得」の対応がすっきりするのですが、どなたか、謎解きを教えていただけると幸いです。謎が解けるまで、はまボーズ氏より「広辞苑」準拠で通したいと思います。

1999年8月11日
【三文の得

え〜、昔から早起きするといいことがあるぞ、なんてぇ事を申しますが、昔の人はえらいもんで、ちゃあんとお日様とともに目覚めたやつには、それ相応のいいことがあるもんでございます。昨日遠藤先生の原稿をいただいて早速更新したんですが、「三門(ATOK12では出ん)」を「山門」と直したら「三門」で正しいよとメールが届いていました。三解脱門(空門・無相門・無作門=法空・涅槃に至る端緒)の事なのですね。こいつは朝から勉強になった。
やっぱり早起きは三門の徳だ。
お後がよろしいようで。

1999年8月8日
【夏

夏が来ると思い出すことの1つを書きます。70歳を過ぎた家内の両親と半同居になって、食事のあと果物を食する機会が増えました。夏はなんと言ってもスイカです。上にへたくそな絵を描いてみましたがどこか変なところがありますか? 実は、我が家の私以外の3名は右下の「ひとつまみの塩」が変だと言うのです。私は「スイカに塩」は当たり前だと思っていたのですが、富山から来た3人の聖者は「変」だというのです。「そういう人もおると聞いたことはある」と取り繕ってくれますが、たった1人の少数派は心穏やかではありません。民族紛争の勃発です。
ちなみに果物を巡っては我が家のたった一人の少数民族(私)はさまざまな悲哀を味わっています。
悲哀1
“イチゴをスプーンで潰して食べるのは行儀悪い・子どもっぽい”
悲哀2
“ブドウやイチゴを塩水で洗い、微かな塩味を楽しむのは「変」”
悲哀3
“リンゴやナシを剥いたら、必ず塩水に浸してからいただくのも「変」”
まぁ、「自分が正しいと思うなら折れてやれ」という祖父の教えを守って、「どうせ変ですよ」と奇人変人を装って、スイカに塩を塗りたくり、イチゴをぐちゃぐちゃに潰して「ズルズルズ〜ッ」と音を立てて飲んで、ぎょっとした目で見られるのを楽しんでいる今日この頃です。

1999年8月7日
【一番不幸な少女

『大英博物館 古代エジプト展』が東京都美術館で始まりました。8/6、朝日新聞朝刊で荒俣宏さんは「単にエジプト展というよりミイラ展と紹介するほうが良い」と書かれています。気色悪いので私は行きません。
私、生まれて初めて見た「死んでいる人」がミイラだったのです。上野にある国立科学博物館所蔵の、ガラスケースに入れられた少女のミイラです。その後何度悪夢にうなされたか数え切れないほどです。後に大好きだった祖父の死に立ち会い、息を引き取ったばかりの死体を整えドライアイスで痛まないように処置しながらでもあのような恐ろしさがこみ上げてくることはありませんでした。
その祖父ですが、晩年まで文字の読み書きもできない人でしたが、人の道に外れたことにはとりわけ厳格な人でした。食事中も手の届くところに蠅叩きを置き、蠅もよく叩きましたが、孫もよく叩きました。家の中にいるとどこから蠅叩きが飛んでくるかわからず、冷や冷やしたものです。赤黒い蠅の血を吸ったグニャグニャの金網製の蠅叩きで叩かれることは屈辱的な事でしたが、今思い出しても理不尽な理由で叩かれたことは一度もありません。
どうしても納得がいかないのですが、文化的に、美術的に、CTScanやDNA鑑定の資料として科学的にいかに貴重なものであると屁理屈をこねても、どう遡ってもたかだか5000年しか経っていないのに、永遠の眠りについた死体を掘り出して、他国に持ち帰り、それを今でもコレクションなどと称して保持し、見せ物として他国に貸し出すなどの行状が人の道に外れた行為でないのでしょう。
そのようなものを見るために行列し、目を逸らさずに陵辱された死体(しかも干物)をいや〜な思いをこらえて見て、死生観の新たな高みに到達したところで、そのようなものを踏み台にして登った高みなどたいしたものではないと思いませんか? 祖父の蠅叩きで打たれた方がいいと思います。
「この罰当たりが〜っ!」ビシッ!!!
同展覧会は10/3まで開催。
日本で一番不幸な少女は今も股間に一枚布片をのせられた哀れな姿のまま、同じ上野の博物館で眠っています。

1999年8月3日
【ひとりっ子

久しぶりに『AERA』を買ってしまいました。
オヤジ駄洒落の広告を見ただけで目を背けてしまうおぞましい雑誌だったのですが、「ひとりっ子の…」という表題がひどく気になって…。わたし「ひとりっ子」なのです。三好春樹さんも「ひとりっ子」だったとおもいます。村上廣夫氏もそうだったかな。
で、小学生時代そのことでいわれのない嫌がらせを受けていたのです、教師から。当時の通信簿を見るとびっくりしますが、通信欄に「落ち着きが無く協調性が無い」といつも書かれていたのです。毎学期ですよ。
協調性が無かった訳じゃないんです。学級委員だってちゃんと務めたし、クラスの有志が「全国少年野球大会」出場をめざして作った野球チームにも進んで入ったし。
ただ運動会とかの行進やマスゲームのような「人を人とも思わないような行事」が大嫌いだっただけなのです。皆があまりにまじめくさった顔をしてるのが可笑しくて、わざと間違えて見せて笑いをとろうとしたり、いかにも気乗りのしない態度がよほど癪に障ったのでしょう。いつも、
「みんなが何も言わずにやっていることがどうして一緒にできないんですかっ!」
だもんなぁ。
でも、運動会って変だと思いません?あんなの今もやってるらしいですね。あれは明治政府が軍隊西欧化の一環として教育現場に持ち込んだものですよ。「集団画一踊り」や「軍隊硬直行進」を見て「美しい」と思う人と友だちにはなりたくありません。
結局『AERA』の内容は「ひとりっ子」を糾弾するものではなくて、その協調性の無さが横並び偏重社会を壊し、明日の日本を救うかもしれないというものでした。「わがまま身勝手」から「個性の時代の開拓者」へ、ですよ。世の中変わったな〜。
ことさら近隣諸国の脅威を煽っての改憲論争も聞かれる今日この頃。『AERA』も「テポドン2発射の脅威」なんて記事をすぐ後に載っけてますけど、大丈夫「ひとりっ子」が日本を救います。「ひとりっ子」も、もう少数派じゃないし。
こんな事を書くと八八舎のK藤あたりから横槍が入りそうですが、いいです。なんせ「ひとりっ子」は「歩く中華思想」だそうですから。せやなかったら孤高なホームページの管理人なんてできまへんて。

1999年8月3日
【夏の桜

8/1、東京は焼け付くような暑さでした、午後から気の合う仲間と王子から都電に乗って三ノ輪に出掛けました。お目当てはもちろんよく冷えたビールです。不況の嵐が吹き荒れる中、山谷の人たちにとってはいっそう厳しい夏のようです。路上に設置された無料冷水機にはコップ1杯の冷たい水を求める人たちが行列を作っていました。

清々しい桜鍋のお店の暖簾。桜肉のユッケ風がおいしかった。

川上哲也氏ご推薦の『大林』は、素晴らしい居酒屋でした。安いのはもちろんのこと、その店内の風情は魂の洗濯になること請け合いです。お店のおじちゃん、おばちゃんの人柄も素晴らしい。台東区日本堤1丁目、吉野通り沿いにあります。アクセスはJR南千住または浅草橋からバスが便利だそうです。健脚の私たちは都電三ノ輪橋駅終点から歩き始め4件梯子して浅草ビューホテル前で遂にタクシーの人となるまで歩き通しました。辺鄙なところにあり、多少腰が引けますが行って損のないお店でした。写真はおじちゃんのお尻のにおいをかぐミルクハイ付属・プラスチック白鳥のマドラー。

1999年7月31日
【夏休み

はまボーズ氏も夏休みに突入しました。インターポールじゃなかったインターネットの手の届かない辺境の地で自堕落なサマータイムを浪費する旅に出られたようです。
夏の終わり、夜半に激しい雨の降った翌朝、昨日まであれほど喧(かまびす)しかった蝉の鳴き声がパタッと止まった、ふと見上げると空が青くとても高い。そしてすーっと一筋の雲。秋だなぁ。わかるか、さくら。
蝉ほどの かまびすしさなり はまボーズ
一足早い秋の気配に、管理人からの愛の一句を庵の柱に掛け置く。

1999年7月30日
【森羅

このページをご覧の皆様の中には新宿の「鼎(かなえ)」という店で飲んだことのある方が多々おられるのではないでしょうか。店長だった中村五十夫さんが、ご自身の店を持たれたそうです。
東京都新宿区四谷1-20 四谷駅前しんみち通り中程
「酒舗森羅」
03-3355-2412
5:00p.m.〜11:00p.m. 日曜・祝日定休

さっそく行ってきました。しんみち通り中程の地下にある店で小さな看板が目印なので見落とさないようにしてください。とても落ち着ける良いお店で、たいそう繁盛しているようでした。枝豆を注文すると大変時間がかかります。聴くと注文を受けた分だけ茹でているそうです。おいしい。
「この店は、“とりあえず枝豆”が通用しない」(農文協職員の感想)

1999年7月29日
【谷川さん

我慢できずに「坂本九・SINGLES」という2枚組CDを買ってきました。18枚のシングル版レコードのA・B面を2枚のCDにおさめたもので、完全縮刷版のジャケットが18枚ついているのが泣かせます。
で、びっくりしたのが永六輔さん、青島幸男さんにまじって1曲谷川俊太郎さんが詩を書いています。『涙くんさよなら』のB面で『真ん中とはじっこ』という曲です。これがすごい高尚な出来映えで歌詞をご紹介できないのが残念です。これはまいったな〜。谷川さんは言葉の腕力が卓越しているところが好きなんです。後に小室等さんに詩を書いた頃よりもっと腕力が横溢しています。ピカソも絵より存在の腕力が好きでした。ちなみに、作曲は芥川也寸志さん。そんじょそこらのアンポンタン作曲家ではこの詩を乗りこなすことはできなかったのでしょう。いずみたくさんは編曲にまわっています。
ところで、谷川俊太郎さんの詩集に誤植を発見した方からメールがありました。そのまま転載させていただきます。

谷川俊太郎の「生きる」という詩が野バラ社から出ている詩集に載っています。
生きているということ
いま生きているということ……ではじまるのですが、
「いまどこかで兵士が傷つくということ」が「……どこがで兵士が……」になっていました。きっと編集は●●出身だったのでしょう。
詩集だぜ。谷川さんの。

1999年7月29日
【守って勝つ

雲母書房主催の「杉山とく子『老いるとはどういうことですか』出版記念パーティ」に出席して朝帰り。今日「海の日」は久しぶりにオフなので念願のリハ研ホームページを試験的にアップロードすることにする。したがって「海の日」は今年から「リハ研ホームページ開設記念日」に改称されますので、各自周知徹底をよろしく。
しかし、杉山とく子さんのパーティは素晴らしかった。雲母書房は前回の「市川りんたろう『老人愛』出版記念パーティ」に続けて久々の松井・高橋連続ホームランで、かくなる上は売りまくって長嶋監督の「野球は点を取るスポーツ」を実践してもらいたいものである。
しかしシーズンはじめの日テレの番組で長嶋が今シーズンの抱負を聞かれ、「野球は点を取るスポーツですから…」と言って色紙に

「守って勝つ」

と書いたのには笑ったな。
で、杉山さんのパーティであるが、ご本人の朗読が素晴らしかった。あの朗読を聞けただけでも参加費8,000円は安い。茂木さんもいたく感動したようでえのきどいちろう氏と、「これからは出版記念パーティは著者の朗読つきで決定だな」と盛り上がっていたので、次回は三好春樹の自著朗読が聞けそうで楽しみだ。市川りんたろうの漫画朗読も聞きたかったな。
N舎のK藤氏より電話で某印刷の某氏が「リハ研ホームページは文字ばっかりで画像が少なくてつまらない」と言ったとの密告があった。

アホぬかせ

くだらない画像を薄ら笑い浮かべて口半開きにして見たいなら低俗テレビがすでに有るではないか。本音を言えば文字だけの『人が人でないような時代に清々しく凛とした』(「杉山とく子『老いるとはどういうことですか』出版記念パーティ」来賓祝辞より)ページにしたかったくらいなんだぞっ。ま、画像が欲しいと言うやつもいるだろうと思ったから、少しサービスしといたんだけど、まだこんなやつがいるとは。それがこのページを見る人の大方の批評だったら…三好さん、その時はホームページなんてやめようね。文字は宝物なんだから。
それからK藤よ。ぼくは君の別れた亭主と、今の亭主以外で君のことを可愛いやつだなと思っている数少ない男の一人なんだぜ。頼むからつまらない批評は君の胸の中にとどめてぼくの耳に入れないでくれ。たとえ、

王様の耳が象の耳

であってもな。

 


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